少し、昔話をしましょうか。
何回の日記にわたるか分かりませんが、
お時間のある方は、どうぞお付き合い下さいませ。
大学時代、私は普通の女子大生でした。
中学~高校の時は、成長期ということもあってか、
結構なデブでもあり、身長もあったので、全体的にデカイ感じでした。
高校の中盤に、一度ダイエットを試み、
2週間で-10キロというダイエットをしました。
それは、
痩せる、というよりは、殆どやつれるに近い状態で、
2週間後に両親と医者からドクターストップがかかり、
結果、2週間でダイエットは終わってしまいました。
因みに体重は 64→54 になっていました。
食べていなかったのが項を相したのか、
胃がかなり小さくなっていたみたいで、
幸いにもリバウンドもせずに済みました。
そして、大学に入ると同時に、何より遊びが優先されて、
家でご飯を食べる、という事が殆どなくなり、
外で、お茶だけで友達と話し続けて終電帰宅でそのまま寝たり、
飲みに言っても、殆ど食べる事なく、飲んでばかりで、
これまた、帰ったら即寝。
そんな遊び中心の生活ばかりしていたら、
体重は勝手に落ちていきました。(当時46キロ)
そんな中、バイトとは別にやっていたのが、
雑誌の読者モデルや、映画のエキストラ、ブライダルモデルでした。
確かに、目立つ事は好きです(正確には、好きになりました)。
でも、目立つだけでやっている訳ではなく、
心の奥にいた、ある一人の女性の影響でもありました。
その女性とは、私の祖母です。
レベル4の乳がんから始まり、
6年半に及ぶ闘病生活を経て、
彼女は、自らの意思で死期を決め、この世を去っていきました。
ウチ自身、自分が超の付くくらいのおばあちゃんっ子だったと気付くまで、
祖母が病に倒れてからも暫くかかりました。
祖父は私が5歳の時にくも膜下出血で倒れ、意識がもどらないままあっけなく1週間で天に召されました。
それ以来、一人になった祖母は家の近かったこともあり、毎日我が家に来ていました。
妹と共に、母が夕食準備をしている間に、祖母と3人でお風呂に入るのが、毎日の日課でした。
最初の乳がん摘出手術。
退院してきて、初めてその祖母の術後の体を見たとき、
吐き気がしたのを鮮明に覚えています。
今まで、五体満足の体しか見たことがなかったから。。。
傷跡は決してキレイに切除した、という感じではなく、
えぐれた左胸の上に、痛々しいケロイド状の縫合痕。
放射線治療で、更にその傷の上から焼けた皮膚。
手術で傷ついた左脇リンパのせいで、
像の足のようにパンパンに浮腫んだ左手。
当時中学生だった私には、
目を背けるのには
十分の気持ち悪さでした。
そして、3年後、再発、入院。
抗がん剤投与と放射線治療が始まりました。
おばあちゃんとはいっても、やはり女です。
乳房切除に、痛々しい傷跡、
そして再び始まった放射線治療による皮膚がこげたような火傷、
全て抜け落ちた髪の毛。
でも、私は祖母が泣き言を言ってる姿は亡くなる直前まで見ることはありませんでした。
気付けば、学校が終わり、自転車で5分の自宅に帰らず、
自然と毎日祖母の病院に向かっている私がいました。
『ウチって凄いおばあちゃんっ子だったんだ』
自分の気持ちに初めて気付きました。
自分の気持ちに気付いてからは、絶対に祖母から目を背けない、
自分が後悔したくない、しないように、
毎日毎日祖母の元へ行きました。
目を背けていた、生々しい傷も、
髪が抜け落ちてしまった頭も、
浮腫んでとても人の手とは思えない左手も、
体がどんな風になっても、必死で生きる為に戦っている祖母の姿を、
私は毎日、頭に、心に、焼き付けました。
そんな時、
ネットでとあるモデル募集のサイトを見つけました。
本職は宝塚などの写真を撮るカメラマンさんの趣味で、
作品作りの為にヌードモデルを募集しているとのこと。
撮影された写真は、真っ黒な中に浮かび上がる芸術的なヌード。
全身もあれば、足だけもある。
『女の人の体ってこんなにキレイだったんだ・・・』
気付けば、応募フォームに入力していました。
女性の乳がん発症率は年々増加し、また若い方からの乳がんも増えてきています。
そして、乳がんは、覚醒遺伝があるとも言います。
誰にでもいずれ死期はくるけれど、
頭では知っていても、他人事だった。
生と死の狭間で、どんな姿になろうとも、
1分1秒でも長く生きる為に、戦う祖母の姿を見るまでは。。。。
決して、細くもスタイルもよくない私の体でしたが、
五体満足に産んでくれた親への感謝、五体満足に生きてこれている有り難味。
そして、私はここに生きてるという存在意義を残したく、
ヌードモデルをやりました。
次へ続く