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新聞小説連載「徒然王子」を終えて 島田雅彦

2009年2月21日

 新聞小説は森や山を歩くように緩急自在に、深く呼吸し、草木に慰められ、自身と対話しながら書く。農作業と同じく、規則正しく、畑の隅々に気を配り、土に訊(たず)ね、空に問う。

 執筆に一年、準備に二年の計三年、私はずっとうわの空で暮らしていた。変転著しい現在に暮らしながら、心を歴史の彼方(かなた)に飛ばすのはいいものだ。しかし、緊張の糸は緩められなかった。集中が切れると、進行中の小説から振り落とされてしまう。『徒然王子』は連載を始めてから間もなく一人で勝手に走りだした。いつもは資料を机に積み上げ、創作ノートに解読不能文字で大量の書き込みをしながら、進む進路を微調整しながら書きすすめるのだが、今回は筆者が必死に王子の背中を追いかけていた。愛すべき従者コレミツのように。

 日々の出来事とともに発信される新聞小説は鮮度も売りで、読者からはその都度、愉快な反応があり、励みになった。一番びっくりしたのは、四国にお住まいの元英語の先生が連載を読み、この作品の英訳を思い立ったという便りだった。実際に第一部の全訳テキストも見せていただき、感激した。この場を借りて、感謝したい。

 物語の一つの楽しみは、自分がよく知る場所が出てきたり、自分や知人によく似た登場人物が現れたりするところにある。三十三間堂で自分と似た仏像を探すように、この物語にも自分にそっくりの登場人物を探しだすのはそれほど難しくないだろう。

 この物語が扱う時空は縄文末期から近未来に及ぶ。王子は日本人のDNAに刻みつけられた記憶を辿(たど)る旅に出たのである。折しも、時代は一つの転機を迎えている。世界の経済や政治のシステムが大きく様変わりする予感は、これを書き出す前からあった。これまでのシステムは耐用年数を過ぎ、世界の中心軸は東へ、アジアへと移動している。米英の覇権は揺らぎ、往年の帝国が復活する気配がする。インド、ロシア、中国、イラン、トルコ、が蘇(よみがえ)るだろう。日本を含む東アジアも前近代に回帰する。

 歴史の転換点では、人々は過去の原則に回帰する。自分たちが独自の文化を立ち上げ、権勢をふるった栄光の時代に。日本は中華文明とは別の文化的理念を打ち立てた時代に回帰すべきで、徒然王子も旅した戦国時代に一つのモデルがある。また江戸時代はほかのどこにも類例のない文化を生み出した直近の過去である。源氏と平家が争った時代もまた中国との貿易利権を独占した一族に対する狩人の末裔(まつえい)たちの反乱だった。そして、日本列島の人々が他民族と違う文化を初めて築いたのは、縄文時代だった。

 徒然王子は中国から大量の移民が押し寄せた縄文末期、源平合戦の時代、天下人たちの戦国時代、そして江戸末期と時代の転換期ばかり選んで、生まれ変わった。この国の未来に責任のある王子だからこそ、熾烈(しれつ)な時代を生き抜いた前世を思い出さなければならなかったのだ。生き残りに必死な時代にあっても、王子は争いを避け、滅びゆく者たちとの共生を望んだ。日本は本来、弱者に優しい、多様性の王国だったのである。近代以後、欧米の原理に過剰適応することで、文化多様性を失ってしまったが、今はまたそれを取り戻すべき時だ。

 現世を離れた王子の心境に少しでも近付こうと、私自身も日本を離れ、連載の後半はニューヨークで書き継いだ。二十年ぶりに暮らすアメリカでは私と同い年の黒人大統領が誕生し、金融危機が勃発(ぼっぱつ)した。アメリカの覇権主義の末路を見つめ、前任者が残した負債と、仕掛けた時限爆弾の処理を任された男の悲しみを勝手に想像したりしながら、最終章を書き上げた。大統領と自分を比較する気はさらさらないが、私にも希望の原理はある。それを雇用増大ではなく、ホープレスタウンをホープタウンに変える物語で示したかった。徒然王子はもう去ってしまったが、私はいましばらく現世にとどまり、次の物語を紡ぐ。

 (追記 参考資料等は単行本の巻末に記します)

   ◇

 テツヒト王子とコレミツの現世でのさすらいの旅を描いた連載前半は、『徒然王子 第一部』(朝日新聞出版)として刊行、発売中です。四つの前世をめぐる冒険を経て未来へと戻った王子の旅の『第二部』は5月刊行予定です。

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