西川 治郎 さん 明治42年(1909)生(今年98才)
戦中の権力に抗して検挙・投獄された98歳の人生と信念
私は今まで卒業証書を貰ったことがありません。旧制中学の4年で同志社大学の予科に入ったが、途中で放り出されるような形で関東学院に移り、そこでは退学させられましたからね。
その理由は、社会主義というよりキリスト教の日本YMCA同盟に属する学生運動中に、左翼運動に関係したため当時の特高(特別高等警察)に目を付けられたのです。京大に次いで同志社では学生運動が盛んでした。当時の親たちにしてみれば、進学はさせたいけれどマルクス主義にはならないように、という心配をしていたものですよ。
私の場合、同志社予科2年の時に学生キリスト教運動中にストライキの先頭に立ったりしましたからね。満州事変が起こる前年の昭和5年から、5.15事件のあった昭和7年頃のことです。
私は三重県の熊野灘に面した漁村に生まれ、8人兄姉の6番目に当たる3男でした。兄が5年前から勤めていた商店に、13歳の時、伊勢の宇治山田から5時間かかって信玄袋を担いで大阪西区の商店の丁稚小僧になったのです。
たまたま店主がクリスチャンで、キリスト教の影響を受け勉強もさせてもらいました。世の中をキリスト教という世界から眺める目を養うことができ、幅広い教養の土台になったのは幸せでした。20才の時、キリスト教の牧師になりたいと桃山中学に編入し、初めに話した通り同志社の予科に入ったのです。
当時、宗教に対しては特高よりも憲兵のほうが早く動きました。天皇を神と信じるかどうか、自分の信仰している神と天皇と、どっちが偉いのかと責められたのです。宗教は個人のもので政治には関係しないといいながら、やはり人間に関わることだから社会的福音という考えをもっていたのが、私が直接指導を受けた牧師でしたね。社会的というだけで憲兵につけ狙われたのです。日本政府は伊勢神宮を中心とする国家神道で統一しようとしていました。
一方、キリスト教界の幹部たちは満州へ布教するために日本軍に協力の姿勢を示し、大平洋戦争に突入する頃には宗教界全体がまさしく大政翼賛会と化し、日本軍による侵略戦争に加担していきました。私はクリスチャンとして軍の手先になることは間違っているとの信念がありました。
関東学院を退学させられた後、私は日本戦闘的無神論者同盟という組織に入って文化運動を続けることになった。東京でのことです。私は宗教的信念から参加したのですが、共産党の外郭団体として特高から目をつけられていたのです。東大宗教学科を出た佐木秋夫氏も一緒でした。昭和7年9月から昭和9年1月検挙される間のことです。
1933年には作家の小林多喜二が警察に検挙され拷問の果てに殺されました。先日亡くなられた宮本顕治も同年12月に検挙され、左翼運動は大打撃を受けました。
私の場合は昭和9年(1934年)1月、家内と一緒に思想犯として東京の警察に検挙された。外郭団体という関係でいくらでも理由はつけられますからね。(妻は私が東京で学生運動をしていた頃の同志の間柄で縁が結ばれ、前年の3月に結婚しました)妻は3ヵ月で釈放されましたが、私は同年12月まで1年近く警察の留置場に放置されて、非合法団体へ入る可能性があるという理由で起訴されました。判決は2年の刑で執行猶予3年でした。
昭和12年、廬溝橋事件を発端として中国へ侵攻した日本政府は、左翼運動への弾圧を強化しました。私は大阪で二度目の検挙されました。その頃、私は大阪で商売していたのですが、執行猶予中に左翼に協力して動いたということで、前歴もあるから目をつけられていました。その証拠に当時の「特高月報」には、末端のオルグとして私の名前があちこちに出ていることを後で知りました。
起訴理由がないので7ヵ月くらい警察に拘留されたままでした。4畳足らずのの留置場の真ん中に穴が掘ってあって、そこへ便をする。まさにブタ箱でしたね。留置される容疑者が多い時は体を斜めにしないと横になれないほど詰め込まれたものです。思想犯は決して2人一緒にはしないから、泥棒や軽犯罪者と一緒で、朝鮮人などは詰まらないことで巡査の手柄にするために逮捕したようでしたね。そういう賑やかな状態でした。
法律では拘留期限は29日に規定されているのに、当然のように延長するわけです。この時、起訴されて2年の実刑となり、堺刑務所に送られました。その間のことは、兄の配慮で親や家族には何も知らしていませんでした。(私は3男でしたから、9歳のときに独り者の養父の後を継ぐために養子に入っていたのです)
大平洋戦争の開戦は獄中で聞きました。その年に養父が亡くなったのです。養父は私が刑務所にいることを知らず、臨終には家内が4才の長男を連れて見守りました。
作家の小林多喜二などは国賊扱いにされて、裁判や聴聞をする前に警察で殴り殺されたのですからね。天皇陛下の賊だから殺してもいいんだというのが特高などの言い分でしたからね。
私も警察に留置されている間に拷問を受けました。正坐させられて太股を内出血するくらい棒で殴りつけるのです。それから鼻先をロウソクの火で焼いたりされました。あまり人目につかないが、何年も色が変わっていたし、未だに鼻は普通の状態じゃないんです。
一回目に東京で検挙された時、妻は3ヵ月で釈放されましたものの、ひどい扱いを受けたようで、ずいぶん苦労させましたね。若い頃、私より先に日本戦闘的無神論者同盟へ兄や姉と一緒に参加したほどで、そういう家庭環境の育ちでした。じつは今年の1月、92歳で昇天しました。
話は戦時中に戻りますが、私は昭和17年の10月に出獄して、翌18年に召集を受けました。その時、双子の胎児が妻のお腹に宿っていました。外見では私は背丈もあるし丈夫に見えたのですが、獄中の苛酷な仕打ちで健康を害したのか、医者から心臓弁膜症の診断を受けていたので、駆け足したらいかんと医師から注意されていると軍医に言うと、横へはねられてそのまま即日帰郷となったのです。
家内を伊勢の田舎へ疎開させて自分は大阪で実兄の下で仕事を続けました。それから徴用もありましたが、それも仕事や町の都合で三池炭坑へ石炭掘りに行くことも免れました。
昭和20年3月の大阪大空襲では留守番していた事務所・工場・倉庫が全部焼夷弾でやられたんです。その時は周囲から被災した住民が集まってきたので場所を開放していたのですが、そのうち焼夷弾が落ちて、倉庫に貯蔵していた商品のデンプンが全部燃えてしまいました。
8月15日、あのような形で戦争が終結したのは当然のことだと受け止めたものです。
最近、自衛隊が情報保全隊という名目で政府の政策に反対する言動をした国民を調べ上げていたことが表面化しましたが、あの事件を聞いて私はまず昔の特高や憲兵隊を思い出しました。
今の天皇は憲法を守っていこうとしている点では民主的ですね。憲法の中では天皇制は安泰ですからね。ところが、今の憲法改革派はもう一度天皇を政治に組み入れたいと思っていますからね。軍隊というものは、命を捧げる絶対的な存在がないと成り立たないところがあるからでしょうね。
小泉首相までは、とにかく憲法はそのまま棚上げしておいて政権をわがものにしていこうとしたのが、安倍首相は憲法を変えようとしています。ナチスのヒットラーは、ワイマール憲法を棚上げして権力を独占したとたんに暴走を始めたのです。歴史を繰り返すような政治をさせてはならないですね。
どこの国でも軍隊は平和のためにあると言いますが、日本の憲法の特異な点は、9条に規定されている通り武器を持たないことですね。これは世界唯一、歴史始まって以来のことですね。何故そんな憲法ができたかといえば、世界中が戦争はもうイヤだと思っていた時に、日本で初めて軍隊を持たないこと、武力行使しないことを憲法に掲げることが出来たのです。その認識が安倍首相にはない。自衛隊を自衛軍として軍隊に変えれば、あとは政権を握った者は何でも出来ると思っている。
今の自衛隊は海外派兵をしてもアメリカ軍の後方支援をするだけに限られている。小泉内閣は9条2項をそのままにして日米同盟は大事だから後方支援だけはすることにした。
ところがそれを合法化するためには憲法を変えることが必要になる。今年の8月6日、広島の平和式典に出席した安倍首相の面前で朗読した秋葉市長の平和宣言では、日本政府に明白に文句をつけていますよね。そのあと安倍さんが何と挨拶したかというと、「今まで通り憲法の規定を遵守し・・・非核三原則と核廃絶に向かって、これまでより一層平和憲法を遵守していきます」と誓いを立てている。今まで憲法改正するのが私の最高の政策だと言っていたんでしょう。そのくせ平気で逆のことをヌケヌケと言える無神経さは怖いですね。
(取材記者のひとこと)
真夏の強い日射しのなかを、今年98歳になる西川さんを大阪府の某市にある閑静なお宅に訪ねました。98歳とは思えないしっかりした口調で語られる80年以上前の昭和5年前後からの追想を拝聴しました。
戦後は兄とともに製粉会社を設立し、今も相談役という立場にあり、地元の商工会議所の役員にも推されて現役でつとめておられます。
憲法改定はじめ戦争を正当化しようとする傾向に対して、言論・思想の自由を封殺した戦前の軍部権力に検挙・投獄された苛酷な体験を通して、同じ臭いを感じ取って警戒されるのも当然のことでしょう。
これから100歳を超えても平和を守る運動の先頭に立ってリードして下さることを願ってやみません。と同時に、1回りも2回りも年下の私どもとしては、信念を貫いて一歩も退かない西川さんから元気を頂いて、なお一層頑張る覚悟を決めたいと思います。(2007.8.12)