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随想 ニートと勤労の義務




― ニートと勤労の義務 ―

 郵政解散の後の総選挙で自民党が圧勝した。2005年の暮れには与党は公明党を併せて326議席であり、衆議院の定数480に対して3分の2の320を超えている。憲法改正に必要な数が3分の2だから衆議院だけなら何でも決められるといっても良い状態になった。

 圧倒的な力を持つ与党ができたから困るということはない。議会制民主主義だから、国民の選択で決まった国会は国民そのものである。

 そこで自民党は念願の憲法改正の検討を始めた。もともと太平洋戦争で敗れて占領されていた時代にできた憲法だから、日本国民が「これでよい」という形にはなっていない。アメリカが日本を従属国にするための構造をしている。だから憲法改正の検討が始まるのは結構なことだろう。

 社民党(旧社会党)は憲法擁護の立場だが、この党の言うことは信用できない。なにしろ、自分たちが政権をとるためには平気でもっとも基本的な政策、選挙民に約束した政策を放棄するのだから。それはこのホームページの「村上首相の観艦式」に書いた。

 憲法改正での論点はもっぱら第9条、つまり軍隊を持つかどうかというところに絞られているが、このページでは憲法に定められた「国民の義務」について考えたい。その目的は、憲法9条となると、いかにも厳しく解釈するが、もともと日本国憲法というのが如何にいい加減なものか、国会も法律家もまた国民の日本社会も曖昧のまま長い間、放置しているかが理解できるからである。

 憲法第27条には、納税、子供に普通教育を受けさせる義務と並んで日本国民の3大義務の一つとして、勤労の義務が定められている。曰く、
「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。・・・」

 法律の専門家から見ると複雑な議論があるのだろうが、裁判にも陪審制度が導入されようとしており、法律が国民にわかりやすくという点では、私たち法律の専門家ではない人が常識的に考えても良いと思う。

 この憲法27条の条文を素直に受け取ると、国民は等しく「労働」につく権利を有し、同時にかならず労働をしなければならないということになる。

 まず「権利」という点では「私は働きたい」という意志を示せば、国家は必ず就職口を世話しないといけないことになる。このことは「義務教育」を考えると判る。憲法が保障する義務教育というのは子供が教育を受ける義務があるのではなく、およそ親権者は子供が義務教育の年齢にある時には、たとえお金がいるからと言って子供を学校に行かせずに働かせてはいけないことを言っており、国家は子供の数だけ「義務教育」をする学校を揃えなければならない。

  「公共職業安定所」というのがあって、失業すると失業保険が支払われ、次に仕事を斡旋する。一応、形式上は勤労の権利が認められている。

 それでは「勤労の義務」の方はどうだろうか?「義務」というのは「イヤだから仕事をしない」というのが認められないことである。「納税の義務」があるのに納税しなかったら脱税で逮捕される。それなら「働けるのに働かない」場合、勤労の義務に違反しているから逮捕される。だからいわゆる{ニート}は「働けるのに働かない人」だから、当然、憲法の規定によって監獄行きである。

 憲法で定めた勤労の義務に則して「勤労法」が制定されていて、教育を終わったすべての国民は労働をしなければならない、もし労働につかなければ強制労働させる・・・という法律があってしかるべきである。

 納税の義務との対比でもう少し考えてみよう。

 憲法が納税の義務を定めているのは
「国家を保持し、運営するために必要なお金は国民が等しく分担しよう」
ということだ。だから国民はすべて勤労し、所得を得てその一部を国家に差し出すことになる。

 国民なら誰もが泥棒を防ぐための警察、火事を消すための消防、歩くための道路は必要で、それには税金が要る。自分は収入が少ないからそんなものは要らないという理屈は通りにくい。身体健全である程度の教育を受けた人は積極的に納税の意欲を持たなければならない。

 それと同じで「勤労の義務」は納税の根拠になるばかりではなく、
「国家を保持し、運営するために必要は生産活動は国民が等しく分担しよう」
ということである。「遺産があるので働く必要がない」と公言し、何も働かない人は日本国家を構成する一員としてはふさわしくない、と憲法は決めている。

 憲法第9条と同じく、議論はあるだろうが、勤労の義務の規定は一つの立派な見識である。日本に住む人の内、ある人が労働を強いられ、ある人が遊んでいるという状態はあまり感心しない。食料にしろ工業製品にしろ、みんなが使うのだからみんなで作るのを分担しなければならない。

 ちょうど、環境問題が起こったときに「環境を守るのは国民の義務だから、みんなで分別しよう」というのと同じである。(ただし、分別は環境を守ることにはならないという難しい問題もあるが、論理としてはそうなる。)

 ところが実際には働かない人たちがいる。その代表例は、
1) 遺産がたっぷりあって、働く必要がない人。
2) 「ニート」と呼ばれる人で、教育が終わっても親などが扶養していてブラブラしている人。
3) 教育前の赤ちゃんと教育中の若者。
4) 仕事をリタイアした老人
5) お金持ちの奥さんや旦那さんで、仕事は他の人がやり、自分は毎日遊んでいる人
などだろう。

 このうち、3)と4)は「体が弱くて働けない人」と同じで、憲法の勤労の義務の範囲外であると考えられる。問題は、1)、2)、5)だ。

 先日、テレビでニートのことを議論していた。議論の方向は「ニートがなぜ悪い」ということを前提にしていた。憲法に勤労の義務があることなど、スタジオではまったく発言がなかった。でも、国民が食べる食料や使う工業製品を分担して作った方が良いのだから、ニートはもちろん憲法違反であると言った方がよい。

 電車に乗る。学生やニートの人、たまにはリタイヤしたお年寄りが大きな顔をして座っている。その前に疲れ切ったサラリーマンが吊革に掴まってウトウトとしている。ニートの若者はジロッと目の前に立っているサラリーマンを睨み、「うっとうしい奴だな」という顔をする。

 社会は方向を間違い、法律違反が平気で行われるようになると、こうなる。

 かつて、日本国にとって勤労は大切だった。生産は常に不足気味であり、国民が一致して労働を分かち合わないといけなかった。その頃は、「働いている人は大切」という気持ちがあり、学生や老人、まして働く年齢に達しているのにブラブラしている人は、肩身が狭かったものだ。

 「働く人を大切にする」という考えを「古い」という人がいる。でも現代でも「生産」は国民の基盤であり、それを税金と同じように国民みんなでできるだけ平等に負担するのが良いのではないか?私はそれが人間の集団というものであり、みんなが分担することによって多くの歪んだ問題が解決すると考えている。

 「働かざる者、食うべからず」という言葉は正しく、せめて「働かざる者、小さくなるべし」はもっと正しい。もう一度、憲法に「勤労の義務」というのがあることを再認識し、まずは憲法の規定を守り、それから議論したらどうだろうか?

おわり


武田邦彦



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