Quemadmodum desiderat cervus ad fontes aquarum,
ita desiderat anima mea ad te, "Veritas".
Noli foras ire, in te redi,
in interiore homine habitat veritas.
前回つづくとしたが、しばし中断。知人と話をしていて、待ち組という言い換えで、事態が塗り替えられている中で、さる大臣がこの待ち組の生き方を批判して、働かねばならないことを指摘だか、あるいは働かなさを批判だかしたという話を聞いた。その「ねばならない」というのがよく分かりづらくて、いろいろと会話を進めていると、どうやら憲法の二十七条にある第一項「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ。」というところを根拠にしているようであった。この根拠付けは、さる大臣のしたところではなく、どうやらどこかの誰かがそのように敷衍したようであったが、その出所は教えてくれなかった。きっと世間ウケのする迎合的な弁舌家の誰かが、ご託宣してくれたものなのであろう。私の周囲にすら見出される、この誤解を正しておかねばならない、と思ったので、その話題で記してみようと思う。
とかく今の世の流れでは、これは少しおかしかろう、ということを言い出したら切りがないぐらいある。と、これでしばらく遠回りしそうだが、ままよ、例えば、ライブドア事件が、検察から流れてくる情報ばかりで、新聞紙上に報道されているのは、その異様さを指摘するものは既にあるが、私の違和感として、あまり他に語られないのは、将来実施されることになっている裁判員制度というものと、このような報道姿勢は調和しないのではないか、ということがある。単純に言うのもなんだが、裁判員制度を、陪審員制度に準えて理解すれば、(その違いがいろいろある、などとごちゃとしたことは、言わないでもらいたい。面倒くさいから。)検察側からの情報ばかりが、公判に先んじて、世間に流布してしまうことを許すのは、裁判員に予断を与えることしか意味しないのではないだろうか。
裁判員が、そういう報道で先行して事件に関するイメージを作り上げて裁判に臨んでしまったら、裁判の席で、いくら被告が弁明に努めたとしても、その期待される効果が著しく減少してしまうであろう。ライブドア事件が、世間の注目を浴びるものであるからとか、そういうマスコミ報道の氾濫は、陪審員制度のある彼の合衆国でも生じていて、それに対する対抗策も、それなりに用意出来るのだとか、あるいは、ここでとってつけたように、日本の一般市民の良識は、そんなことで流されることはないなどとか、そうした違和感を薄める説明を与えられもしようが、違和感は違和感として残る。どうするつもりなのだろう。
また、随分前に赤旗を読んでいたら、(読んでみると、現在、新聞らしい新聞は、これだけのような気がするぐらい、扱うべき社会問題の数々がきちんと取り上げられていた。)合衆国が日本政府に命令している、あの「年次改革要望書」の次のテーマは、医療機器市場である、と指摘していた。ああそうなるかと、ネットでそれを読めるところに行って確認してみたら、他の事項も併記されていて、どうして医療機器市場と特定出来るのだろう、と不思議であったが、先日来、朝日新聞夕刊に連載されていた、日本の医療機器の現状に関する記事を、毎日眺めながら、やっぱりそうなのか、と赤旗の指摘するところを実感した。
もし朝日新聞の古いのがまだ手許にあるようだったら、引き出して御覧になられると良い。合衆国の要求が、日本の新聞を通じて、このように姿を変えて、いわば「消費者の利益」の為に改革する必要のある問題であり、我々自身の要求する妥当性のあるものであると刷り込まれていく、その段取りの一端を実見出来るであろう。我々の社会で、マスコミというものが、いかに特定の受益者の利益の為にのみ、市民の意識形成の方向付けをするようになっているか、その現状を見ることが出来るであろう。今さらのことであるが、どうして誰もこのことを指摘しないのであろう。
この十年間、もうすでに何度も繰り返されてきたことだから、という理由であろうか。だが、現在進行の現象として格好の話題ではないか。そして、我々の現在の状況の深刻な傾向を確認させてくれるに格好の、それどころか、まさに着目すべき現象ではないか。マスコミについては、何かを言ってもももうしょうがない、という気分で鈍感になっているのであろうか。それは、私は間違いであると思う。マスコミは、民主的社会の健全な状態の為には、適切にその機能を果たしていかねばならないものであって、もしそれを放っておいてしまったら、その地位と役割、そしてその能力を、全く別のもののために使われてしまうのである。丁度現在そうであるように。
そして、この鈍感さからなのか、もう一つ、私を慄然とさせていることは、近く実施が画されている増税の根拠として、我々が何度も聞かされて、増税やむなしと思うまでになっている、あの根拠、すなわち、我々の国の財政赤字が八百兆だ、(財務省は二〇〇五年六月末の政府債務を七九五兆円と発表している。)やがて千兆だ、というこの数字が、真っ当な財政理論からすれば、扱いのおかしいものである、という事実を、新聞を始めとして、大手の報道機関では、どこもあまりふれずにある、ということである。ようやく、文芸春秋の最新号の論文で、そのことに触れたものが現れた。
このことに付き、より詳細な議論を教えてくれるのは、単行本で、ダイヤモンド社刊の、
「増税が日本を破壊する 本当は「財政危機ではない」これだけの理由」 菊池英博著
がある。それによれば、例の八百兆円が粗債務の額であって、そこから金融資産を引いた純債務の額ではなく、「一国の財政状況は「純債務」でみるのが国際的にも一般的だ。粗債務だけで危機を煽っているのは日本だけである。」(六頁)と記されている。(その粗債務、純債務に関して解説するのは、素人の私では、誤りのあるを恐れる。どうか、この著書を参照して下さい。)そして、この純債務で見る限り、日本の財政は危機ではないことが告げられる。(この主張についても、あらためて私の言葉で解説するには、いささか骨が折れるので、どうかこの著書をお読みください。)
(ELECTRONIC JOURNAL というページに、この本の内容が詳しく紹介されています。1761号から始まり、この著作で論じられる事柄に直接ふれるものが数号あります。また、二月十四日の最新号まで、そこに間接的に関連する話題として、参考になるものが続いています。どうぞご参照ください。三月一日追記)
私は、この本を読んで、非常に驚愕した。知識に貧しい私が、マスコミから散々聞かされる、財政赤字とその額の大きさの意味するところの解説に、いかに影響を受けてしまっていたかもさることながら、この著作に示されているような、真っ当な財政的解説を、通常のマスコミからは全然聞かされずにあることを気づいたからである。(このマスコミの意識誘導について、この著作は記述するところがある。どうか、この点でも、ご一読を薦めたい。)私は、とんでもない社会の中に自分がいることに、今さらながら、ぞっとした思いでいる。
少し書き足す。この著作の題にある「増税」が日本の破壊となることについては、この著作自身もよく教示してくれるものがあるが、それを補足するのに、斎藤貴男「大増税のカラクリ サラリーマン税制の真相」ちくま文庫を併せ読まれると宜しいでしょう。
さて、背筋が寒くなるのは、マスコミから評論家から、そして学者まで、我々の社会のあり方に就いて、言論を展開する人々が、その言論を広く流布させる能力も機会もある人々が、ある一定の優勢者の意図することを受容させて、それによってこの優勢者たちの利益になるようなことしか、我々に対しては告げずにあるという傾向が、こんなに各方面で確立されてあることである。これは我々の社会が、民主的社会から変貌させられていくことが、どれだけ進行しているかを意味するものである。お節介なことであるが、ヨーロッパの風刺画騒動も、その他のことも孰れ関心に値することではあろうが、ある方向づけられたものごとの理解と知識と価値観が、我々に対して、こんなにも圧倒的量で押し寄せて与えられる、現在の社会傾向を見据えてみられてみたらいかがあろうか。
今はまだ、それを違和感を持って感じられるが、この時期を迂闊に過ごすことになると、何がおかしいのか、全く感じなくなるであろう。それほどに周到で圧倒的に、我々の意識形成が、現在進行している。今、これにおかしい、おかしい、と口にしないでいると、我々の社会の変化は、すぐに完成してしまうであろう。これを止めることが出来るか否かは、しかとは分からない。しかし、おかしさを指摘することで、その進行はもう少し遅くなるであろうし、そうなれば、それを押し止める気運も見出される可能性はあるであろう。
さてようやく、最初の話題。なんでもあのドラえもん大臣の批判は、待ち組か、負け組か、フリーターか、ニートか、引きこもりか、あるいは若年失業者か、とにかく何と呼んだら良いのか、最近ますます分かりにくくなった人たちに対して、ちょっと破格の挿入、どうせ身の程を知れという言葉のウケがよい御時世であるから、ここも古い差別的表現を使って、穀潰し、と呼べば、ある一部の人にはしっくりするであろうか、特に、あの大臣の批判に同感し、それを憲法を持ち出して擁護する意見の持ち主との、根底にある感情にはしっくりするだろうか、で、この人たちに対して、とにかく働け、というものであるらしい。
そして、勤労の義務を持ち出して、親元に居たり、財産があるので勤労をしていない人を批判するのは、憲法に則ったものなのだそうである。ところで、この理解は誤りである。私の言葉で示しても権威がないから、(もしこの意見の出元が、どこか有名人であるならば、私による、誤解だ、という指摘などはハハンと読み捨てられかねない。)ここは面倒だが、注釈書(佐藤功「憲法」有斐閣)から引用してみよう。
「「勤労の義務」は、社会主義の経済体制の下における労働義務の性質を持つものではなく、この規定は、資本主義の経済体制を前提として、およそ国民はみずからの勤労によって生活を維持すべきものであるという意味を示すに止まる。(これにつづいて、ワイマール憲法等に言及して、「道徳的な義務の規定」であることが述べられる。引用者)」
そしてこれに続いて、
「財産権・経済活動の自由・職業選択の自由が保障されている以上、勤労せずして生活する自由(いわば不労所得生活)は認められているのであり、勤労を強制することは出来ない。勤労の強制は「その意に反する苦役」(十八条)に服せしめることとなり、許されない。」
とある。ここに明瞭なように、憲法に則って、我々は、人に対して「働け」などと言うことは、そもそも許されないのである。もし言うとすれば、それはその主張者の個人的信念たる道徳的価値観に従っての発言であって、それ以外のものではない。
私がこの話題を取り上げたのは、もしかしたら、あの大臣とその擁護者、そしてそれへの同調者たちが、彼らの道徳観からこの発言をしたのを、憲法によるとする誤った正当化をしただけのことではなくて、第一に、経済的観点から未就労者を労働力へ転換するをもたらすこと、第二に、人権の内容は、統治者の政治的観点(ここには経済的観点も含まれているであろう)から規定されると、人権宣言を読み替えること、このことを相応に意識して行っているのではないか、と懸念したからである。
議論を控えて、正当であると信ずるところを述べることにするが、人権宣言は、民主的社会に於ける国民主権の観点から、内容理解をするべきものであり、その限りでの政治的観点を許すであろうが、しかし決して、民主的社会の要請以外のものを踏まえて、そこから人権の内容規定をしてはいけない、と私は主張しておきたい。社会全体の言論の中に、議会及び行政府に於ける言論は部分として属する、あるいは、社会全体の諸価値観、諸信念、諸信条などによって、ある社会的規範が確認されるならば、その範囲の中でのみ、議会及び行政府での法規範が妥当性を有する。この逆のあり方をすれば、それは民主的社会のあり方ではない。
特に付記したいが、政治的要請の形で、実態は経済的要請であるものが、我々の生活形態を規範的に規定するようなことは、間違っても許してはならない。