コスプレ研究ページ
過去のコスプレについての研究ページ。
80年代のページです。
こういうページを書く理由って、要するに
今のアニメファンの楽しみ方より、もっと面白い楽しみ方が
以前にあったって事を、まとめる目的が大きいんですが
80年代も後半になると結構リアルな話題(問題点含む)になります。
文章の前後がまだ少しちゃんとしてませんが、
その内(文字色も含めて)順列どおりにする予定です。
基本的に僕的にあたりまえの事しか書かない予定です。
いわゆる個人研究用覚え書きなので、念のため。
70年代以前については
コチラ
1980〜89年
●その辺からアニメ映画公開などとあわせたイベントでコスプレの登場率が高くなってくる。
ヤマト以外には999、サイボーグ009、ガンダムのトミノコ族→イデオンのイデ祭りなどだが、これで有名になったハリボテガンダム自体は70年代項のアナライザーを作った人のもので初登場は某ロード創刊の前年末のアニメックフェス2(79年)。その他のことは某ロード(笑)の初期刊行物に詳しいです。
●大阪に転校した自分が同人誌を知ったのは、1980年(小6の3学期)の頃、既に同じクラスの女子が大阪系?の同人サークルに参加していたので、原稿依頼されてそれで。
自分が書いてた鉛筆漫画のキャラを使った「タマゴちゃんのアニメ紹介」みたいなページだったと思う。「このアニメを今僕は見たい」みたいな。でもさすがに小6だし大体「同人誌」が何かも知らないので、掲載されたかどうかすら判らない(笑)
(追: 正確には「超人ロック」と聖悠紀さんについて、祖父母宅の新聞(どこか忘れた)でほぼ1ページまるごとの記事が掲載され、それを読んだ時に元々「同人誌」の作品だった、という事を知ったのが同人誌という存在を知った最初だと思う。プロになった後の記事のはずだが、小6よりはかなり前。小6だと「くるくるパッX」にはまってたので。(※「超人ロックの世界・To You」によると同人誌じゃなくて「肉筆誌」「肉筆回覧誌」という表現が使われている。超人ロックを最初に掲載した同人会「作画グループ」の肉筆誌は、聖氏が持ち込みをした頃は大阪に本部があったそうである)
ていうか、小学時藤子不二雄さんの「まんが道」を(友達に借りて)読んでいたので、同人誌については既にマンガを通しても知っていた筈。僕が小学後半に住んでたのは藤子先生の郷里だし。
藤子さんや石森さんの描いていた同人誌は当然相当昔であり、「超人ロック」の第1作は67年に描かれている)
アニメ映画やイベントや大阪のアニメショップなどに行って、中学生の僕のことを「オタク」と呼んで来る第1次オタク世代とつきあって、しばらくその呼び方が移ってしまったのも丁度この頃(1980年〜81年くらい)だと思う。
ていうかその呼び方もすぐ飽きたけど。なんか嫌じゃん。
●「サイボーグ009超銀河伝説」のイベント宣伝では日本人4名の他、イタリア、ドイツ、フランス、イギリス、黒人とのハーフの15〜6歳の少女がコスプレ参加、1着ブーツ込みで13万円、9人で117万円の衣装で宣伝参加したりしていた(劇場パンフより)。これがアニメファン全ての目に見えた国際的コスプレの最初だったんじゃないかと思う。よくわからないが。
その辺が多分日本のコスプレの黎明期〜第1次ブーム期の初め頃ではあると思う。やっぱり視点が少し変わってるかもしれない。どこがファッション?・・・ふぁんろ〜ど(ひらがな)出てからの知識も、人と同じようでいて違うのかもしれない。
この辺は基礎なんだけど、変わった視点かもしれないので覚書き。のちのちまとめて同人にするかもしれないけど、これ以降を書くのは結構やっかい。ていうか「こんなのあたりまえだ!」という人の事は、逆にあまり信用しない方が。(2008_11/7)
● 70年代項で書いたように、ヤマトブームを生み出したのは確かに当時のO●T誌だったが、元々O●T誌は20代以上向けのカルトアングラをも含む文化を扱う雑誌であり(誌名も「アウトサイダー」から来ている感)、初期は放送禁止歌謡やアダルト論議も扱っていた。ヤマトやSF特集から段々アニメファン的読者が増えて、ランデヴー誌ともどもアニメコミック偏重のノリが始まるわけだが、元々のカルト傾向から来るアンビバレントさが若者に与える影響は○×を問わず、後の時代まで続く事になる。(O●Tがアニメ一本になるのは、ランデヴーが休刊された後)
また、80年の秋に刊行されたO●Tの某号、O●T政府官報にO●T読者である自衛隊員投稿の、自衛隊服+ヘルメット姿の仲間たちの写真が掲載された。それまでにも自衛隊員にアニメファンがいるという噂はあったのだが、この写真掲載をきっかけに自衛隊容認論や国防のための交戦容認論が、草の根でアニメファン内に起こり、否定派との間で論争。
自衛隊容認派=戦争容認とは必ずしもいえないし、僕は写真自体は投稿も掲載も仕方ないと思うが(自由主義の国のはずなので)、アニメファン側は過剰反応してしまった。(記憶で書いているので、念の為)
掲載された号が「ヤマトよ永遠に」を60P近く特集していたのもその理由のひとつかと思われる。ヤマトの映画は前作の「さらば〜」など、散華の美学であったり、愛とは守りたい人々のために命を捨てる事だ、的な表現も一部あったりするので、作品のテーマを飛び越えて、太平洋戦争的な思想・美学を持つ人々もファンになっていた。
ヤマト映画の特集で、そういう人々が多く読んだ号なので、尚更論争になった可能性はある。(影響の良し悪しはこの場合なんともいえない。ただ、自分の住む大阪H方は日教組の強い地域だったので、自衛隊を違憲とする教師も君が代を歌わない学校も多く存在し、生徒も戦争肯定者にはナーバスになっていた。大体当時の社会党だって90年代に政権を取るまでは自衛隊違憲論を普通に言っていた)
自衛隊容認論&戦争容認論からなし崩し的にミリタリーコスプレ派閥がイベントなどで出てくるようになり、戦争容認派と否定派のアニメファンたちの間で日常的に論争が起こっていく。彼らもその内この論争に疲弊していくのだが、軍装ジャンルは残ってしまった。
どちらにしても当時はまだミリタリー軍装にも警察コスプレにも、一切の制限はなく、ミリタリーコスプレがイベントで増殖。当時使用されている各制服をもイベントに着用してくる人々も、また増え出す事になっていく。現行制服の規制までにはかなりの時間がかかった。 (2009_2/7)
● 80年代ページのイントロを。
70年代までの仮装と、80年代以降のコスプレで最も大きく異なるのは、そのクオリティーと材質である。
70年代までの仮装では、使用されるものは主に要らない生地や、家庭用品の廃物など身の回りにあるものだったが、ファントーシュ→アウト誌のアニメ特集→各種アニメ雑誌乱立や同人イベント乱立にともない、仮装やコスプレの品質UPを各自が図るようになり、
要らない生地ではなく、コスプレの為に新しい生地を購入して、縫製などがなされるようになる。(学級会の演劇なんかでは服地屋さんのおうちから安く生地をわけてもらったりあったよね)
また、70年代に開店した東急ハンズなどで、手芸や工作材料などの入手が簡単になった。この辺はコスプレ史を語る上で重要。どっかの書籍にも書かれていたかもしれない。
例えばヒーローのコスプレで、マスク製作にハリボテからFRPを使うようになった経緯として、FRPを仕事場の工場で使っていたマニアの方がそれを使ってヒーローマスクなどを作った、という事が最初の頃あったのだが、ハンズなどの材料店が各地にできて、製法などが特撮誌などで特集されるに従って、特殊な仕事に従事する人でなくても比較的簡単にそれらのマスクを作れるようになった。
自分が住んでたのは大阪のH方市だけど、その近くに当時ボークスくずは店ができたのも83,4年頃で(自転車で通える距離だった。もう閉店したみたいだけど)
そこでは各種コミック(18禁等まで)の他、FRPやポリエステルパテやラテックスなども扱っていた。プラキャストもこの頃からガレージキット用に販売されるようになった。(※ 右の冊子は、当時同店に置いてあった冊子 「TEtoTE」の3号。井上雅夫氏のガイガンが出る直前でこの表紙。当時まだボークスは京都の4店舗とこのくずは店しかなかった)
また80年代前半に、ウルトラセブンのファンが実車を改造してポインターのレプリカを作った事がある。それらも当然専門職の人々によるものだが、それもまた当初は「コスプレ」と報じられた。(2009_1/25)
● 80年代初頭から、某ロードなどでコスプレアイドルの先駆的人々があらわれるようになる。アラレちゃん(アラレちゃんのコスプレ。ゴジラアラレなど)や、ラムちゃんのコスプレで大人気になった同人→漫画家の一本木蛮さんなど。(2009_2/1)
● アニメ会社主催のファンクラブなどでコスプレコンテストが増加してくる。
例として、81年の第4回ガッチャマンフェスティバル(81年8月東京都水道橋労音会館。フィルム上映、セル資料展示、各商品、シナリオ等販売)で、コスチュームコンテスト開催。このイベントは竜の子FC主催。GM(ガッチャマン)ギャルなら誰でもOK、とある。(2009_2/1)
※ ただ、ガッチャマンコスプレの筈なのに、なぜか「ギャル」オンリーだったため、この募集法はアニメファン少女たちには不評だった。(大阪の身近の女の子たちにも不評でした 9/10)
同81年8月21日には「TORU&HIROTAKA CONNECTION'81」という、アムロレイ役=古谷徹氏と、ブライトノア役=鈴置洋孝氏のイベントが開かれている(会場:岡山総合福祉会館)。ステージ&トークの他、アニメソングコンテスト、声優コンテスト、コスチュームコンテストなど。声優の方々とのかかわりによるイベントでもコスプレが盛り込まれてくる。こう考えると古谷徹さんたち声優の方々とコスプレイヤーとの関わりは、本当に長いものなんだなぁと思う。色々思う所あります。(2/3)
● コスプレの「合わせ」のようなものは、最初某ロード創刊号でトミノコ族記事が載った頃からある。合わせ目的に不特定から仲間を募るような行為も某ロードからはじまったと思われる。ネットで募るようなのは大体90年代から。
小説版ダーティペアのユリとケイのコスプレなども80年に既にいた。そういう場合パートナーがいなければ成立しない。(2/14)
● 81年頃には「コスチュームプレイという呼び方もほぼ認知されているが、同時に「コスチュームファッション」という呼び方も共存していた。アニメファン内の派閥や地域差によるらしい。紹介雑誌間でも差があるのかもしれない。オリジナルビデオアニメをOAVと略するかOVAと略するか、の派閥差に似ているかもしれない。(2/3)
(※僕の住んでいた80年代前半の関西では、コスチュームファッションという呼び方の方が主流だったと思う。当時アニメファンの女の子と会話になった時に
女の子「関東ではコスチュームプレイっていうんだって」自分「そうなんだ」
女の子「プレイって・・・遊びでやってるみたい。うちら遊びでやってないし」
のような意見があってなるほどなぁと思った。プレイにはplay=act(演技)の意味もあるのだが、自分の身近からはそういう意見もあった事は一応書いておく 2/6)
(※ 全然無関係の話だけど、自分はコスプレよりはやっぱり描くのが好きで、ただ中3までピアノはやってたので、ピアノ教室単位での演奏会や中学の合唱会などで舞台に上がることはたまにあった。中学では中1の演奏は上手くいったが、中2の時はがたがたで大失敗で(理由はピアノの転調指令)、それから舞台に上がるのが怖くなった
演技自体は嫌いじゃなかったようで、中2の文化祭では「小さな恋のメロディ」のスライド上映で主役の男の子をやったり( 当 時 は 、細かったからだと思う。しかしなぜ学生服のままなのか?声は女子のアフレコ・・・男子だっけ?)、
中3の体育館劇ではすっごいバカな役で舞台演技したりした。冗談にしか思えないけど「神様」役。志村けんの真似から入って、でも話の終わりではちゃんと締める感じ。いきなりこの僕が「神」のコスプレって何。でも女の子たちの作ってきた衣装は結構凝っていた。いい感じでした。
ていうか日本民話の現代版みたいな楽しい話なのに、衣装はギリシャ風?で、上半身半裸なわけで。見たいからかよ狙ったな!みたいな。大阪の女子おそるべし。まぁ・・・あれも楽しかったんだろうか・・・(笑;) しかし演技よりも僕は背景作り等に必死になってた記憶がある。
● スライド上映ブームについては、70年代項にも書いたけれども、8mmで自主制作アニメなどを撮れないファンが、イラストを写真撮影しテープと一緒に上映することで、映像による自主制作をしようとしたのが一つと、NHK少年向けSFのような実写ドラマを作ろうとしたり、
その他コスプレ写真をスライド化し、各地方のサークルの集まりなどで上映しようとしたり、色々なケースがあった。(例えば大きなファンクラブだと北は北海道から南は沖縄なので、いつも会えるわけではない)
コスプレ撮影自体がブーム化したのは文句なく某ロードの写真記事がその始まりなのだが、例えば(今でいう)コスプレイヤーを撮ってあげてその写真を撮るというのは、別に仲間がいればできる事なわけで、最初は現在のように大々的だったわけではない(一般にコスプレ文化はそれほど知られていなかったし)。
きっかけとしては・・・・各地方研究会やサークル合同集会などでの上映用スライドを作るため、写真を撮らなければならない。しかし、所謂ポジフィルム(リバーサルフィルム)はラチチュードの幅(ちゃんときれいにフィルムが感光する露出の+−幅)が狭い。
結局自動露出機能つきのカメラ(まだ自動焦点ではない)では満足とは言えず、マニュアルで撮影するのが上手いアニメファンに写真撮影を頼んだことが、今でいうカメコの元々の原点行為だったと思われる。(ネガフィルムからポジフィルムを起こすにしても結局知ってる人に頼むのが好都合だった。)スライドフィルムを満足に撮れないイベントカメラマンは、普通にただ撮ってるだけで、普通の写真撮影をしてるに過ぎない。昔のリバーサルフィルムは低感度であり撮影は困難、しかし撮影が上手い人はとことん上手だった。だから、今のようにデジカメで撮ってるのにカメコが偉そうな顔をする、というのは一切なく、それができるかできないかが一線だったようである。
デジカメ自体が出てくるのも90年代の後半だし、それどころか自動焦点(AF)式一眼レフが発売されたのですら、85年のことである(世界初のAF一眼レフはミノルタのα7000。僕も2001年位まで使用していた。 2/9)
● この頃から高橋留美子作品「うる星やつら」の大ヒットに伴い、各キャラのコスプレが大ブームに。ラムの虎縞ビキニは作るのが簡単だし、あたるやしのぶの学生服にしても、あり物+インナーのみでコスプレできるので、その辺も含めてコスプレイヤーが増えた。
ラムの髪はアニメでは緑色、しかしコミックのカラーイラストでは虹色のため、どちらの髪色を選ぶかで原作派かアニメ派かが判ったりした(※初期はまだかつらが高価だったため、黒髪のままのラムが殆ど)。結局どちらの髪色も試すんだろうけど、作る難易度は明らかに虹色のかつらの方が高かったのではないかと思う(かつらに今は禁止されているカラースプレーを多色かける子もいたと思う)。
赤毛のアンが「この世で一番醜いのは緑色の髪の毛だと思う」と作品中に意見していたので、それを読んだ少女たちはそう思い込んでいたという逸話もあるが、当時流行ったゴッドマーズのオリジナルキャラ、マーグ(大人気だった)、ロゼも緑色の髪だし、ラムも緑色の髪だし。キャラクターによって髪色から受ける印象が変わっていく典型だと思う。
ちなみに今各作品で流行っている白髪に赤い目というのは、多分遡ると萩尾望都作品「スターレッド」(78〜79)の主人公・星だと思うが、多分イメージベースはヨハネの黙示録に登場する・・・ってこの辺は後述。半分だけ白い髪に赤い目だと、手塚治虫氏のブラックジャック(のカラーイラスト)がそれ以前に存在する。(2009_1/25)
● スターレッドの星など、特殊な瞳の色のキャラクターは昔から少なくはないのだが(999のクレアやハーロックのミーメに到っては瞳がない)、
ジュリー=沢田研二氏主演の映画「魔界転生」で、金色のカラーコンタクトが使われて大ヒットしたとは言え、まだまだカラーコンタクトは一般が簡単に購入できるほど安価ではなかったので、コスプレする人も瞳の色まで似せるという事は80年代は殆んどなかった。
(※源流を辿れば、今「相棒」で大人気の水谷豊氏が実写+アニメの白黒TV番組「バンパイヤ」(68年)でカラーコンタクトをつけて狼への変身シーンを演じたのが、一般ファンの目にカラコンが触れた最初だと思う。が、白黒+合成ありなのでカラコンと認識しづらい)
従って「戦場のメリークリスマス」などで万人に知られるようになったデビットボウイのコスプレも、劇中服、舞台服を問わず、カラコンを入れた人は少数派だった。
カラコンがコスプレで普通に使われるようになったのは、90年代半ば以降。(2009_1/25)
● 81〜2年を過ぎると、アニメ・コミックを問わず、人気のある作品はコスプレされないなどありえない状態になる。従ってこのページでもあまり単一の作品をいちいち列挙はしない方針。とはいえなんだかんだ書いてしまうとは思いますが。
ただ、この頃だとまだファミコンブーム=テレビゲームブームになってないので、ゲームキャラのコスプレはまだあまり存在しない。むしろ「ゲームセンターあらし」のコスプレがいたりするような時期だったと思います。(2009_2/1)
● 同人イベントなどでのロリコン同人誌ブームなどについて。
ロリコン(ロリータ・コンプレックス)漫画ブームは、雑誌媒体では吾妻ひでお氏や内山亜紀氏らの漫画によって、最大規模同人誌イベントでは70年代末期の「シベール」や80年代から始まったサーカス・マッドカプセルによる「人形姫」(破裏拳竜氏・千乃ナイフ氏・藤崎鈴氏らがメインメンバー)などの同人誌によって流行が始まる。(※内山氏が少年チャンピオン誌の連載漫画に使っていた装飾文字のオリジナルは千乃氏が「人形姫」の同人誌内で使ったものである。この同人誌自体は恋月姫さんの人形写真集「人形姫」とは無関係)
ブーム初期は同人誌と雑誌媒体の人々の交流はなかったが、その内その垣根がじょじょになくなりはじめ、「人形姫」には平野俊貴、湖川友謙、内山亜紀、阿乱レイ氏らが合流し、後にメンバーから「レモンピープル」誌で商業デビューする人々も出てくる。
また、所謂エロ漫画家の間でアニパロを作品に取り入れる人が出てきたのも80年代前半頃(中島史雄氏がイデオンのカララに似たキャラを作品で描くなど)
「人形姫」自体は、今でいう純然たるロリコン漫画ではなく、人形・ロボット・アンドロイド少女などをモチーフとした「無機質エロティシズムの耽美」専門の同人サークルなのでいわゆる生身の少女向けのロリコンとは違う表現を模索していた。(しかしその後過激表現を追い求める参加者も増え始めてしまう。※この辺、蒼馬社のアンソロジー「人形姫ミレニアム」でも編集側や寄稿文を寄せた米●氏の文章が正確ではないという事で、サイン会時に千乃氏らからの「当時説明文&寄稿文内容についての訂正コピー」が本と一緒に配布された)
・・・しかし結局ブームの結果、最大規模同人イベントで同人誌を描くサークルや購買者が生身を描いたロリコン系に固執するようになるまで時間はかからず、その後所謂ロリータエロ系の同人誌サークルが増えていく事になる。
また、各マニア向け雑誌がアリス写真(少女写真)特集などを組んだり、ロリコンブームに乗った記事を多く作ったため、アニメファンや同人イベントファン内では「ロリコンにあらざれば人にあらず」的な風潮が多勢をしめた(真剣な話。ただし当時でいうロリコンは高校生少女までも含む) (2/14)
● 根本的に同人誌イベントでロリコンがブーム化したのは、コミック表現だけでなく、当時のイベントに既に中学生高校生の女子(コスプレ含む)がかなり出入りしていて、身近に少女たちが大勢いたというのがあげられる。
当時は今のような青少年健全育成条例などはなかったから、要するに13歳以下じゃなければHしたところで犯罪ではなく、実際純愛も多かった。そういうある意味幸せな状態は80年代半ばごろまで続いたが、少女を食い物にする悪質な大学生社会人、業界人、即売会スタッフなどが、イベントで急増していく。
しかし、当時バブル前期であり、結局イベントの少女たちが同年齢(中高生)よりお金を持っていて地位もある(頼りがいのある)年上の男に寄って行くのも事実で、(バブル期はモノカネ学歴が大事だと、両親が娘を教育していた時代だった。)
その結果として同年齢の女の子を奪われた少年が、成長した後、年齢の低い少女と恋愛していく・・・というドミノ現象がイベント内で起こっていく。(同年齢で思いを寄せていた女の子が、そういうの目当てで大人の男に取られていく時の少年側の痛み苦しみというのは計り知れないと、経験者は語る(笑; 僕は少女には手出ししてないですが。むしろ僕自身が80年代前半だと中高生です。))
ただ、そのような時代でもいわゆるペド同人系は鬼畜呼ばわりされ、忌避されている。
少女を大事にするという意味でのロリータ系同人誌は、80年代後半のB級ホラーエロ、スプラッターエロ同人誌(アニメの少女キャラに対して内臓を露出させるなど残虐性行為を行なう同人誌。今異常系即売会で売られているようなもの)の、最大規模即売会等における大流行によって、どんどん衰亡していく。それらとともにコスプレイヤー周辺も不穏になってくるが、それはまた後述。(2009_2/14)
● アニメブームそのものは雑誌によく掲載される関東がメインであるようにも考えられているが、日本のマンガ専門店では「わんだーらんど」が大阪堺市に開店したのが80年の2月であり、多くのコミックファンが日参していた。当時は(人に聞く所によると)いつも店は混雑していて、日常的にごったがえしの状況だったようである。
アニメショップの老舗だった「アニメポリス・ペロ」が80年に開店したのも大阪北区の東映会館3階。東映直営であるがゆえのセル画台本設定資料などをファンが必死に買い求めたりした。
また、大阪地区だけかどうかはわからないが、関西の民放局(朝日放送?)で80年か81年ごろ(ゴメン)、新旧人気アニメをピックアップして放送する特別番組が夜7時台に連続放送され、OPとEDがスタジオ内のアニメファンたちと司会の方のトークだったりしたのだが、そのファンたちの中にほぼ毎回コスプレイヤーが混じっていたのが結構鮮烈に記憶に残っている。
(ハニーやガンダムなどが各回1時間放送された。ガンダムの場合は「マチルダ救出作戦」と「迫撃!トリプルドム」の特別版が放送された。※番組名など覚えてる人いたら教えて下さい。アニメ誌に載ってるだろうか?自分も調べてみるけど。関東でも放送されてたのだろうか?その割この特番についてはまず語られないが)
・・・以後、関西は関西で独自のアニメコミックファン文化を形成していく事になる。
例えば「読売新聞大阪本社広告企画グループMAD」製作の週1の若者向けコーナー「WONDER LAND」も、大手新聞にはあるまじきほど暴走が進んでいて、アニメ風イラストがかなり投稿されたり(結構Hなロリコン系イラストも掲載)下ネタまで載っていたけれど、漫才ブームと同期した時期だったからか、誰もあんまり突っ込み入れなかったようである。(これは結構切り抜き持ってる)
自分の住んでいたH方市もH方駅近くにアニメショップが何時の間にかでき、当時いつも行っていたくずはのモール街でも結構マニア的なコミックばかりを扱うコーナーが別分けされていたりした。近くにボークスもできたしね(前述)。
人気のアニメ声優さんがパーソナリティーを勤める全国区のラジオ番組「アニメトピア」(79_10月〜86_10)も、ラジオ大阪(OBC)製作の番組である。この番組も4代目までパーソナリティーが続くなど長寿番組となった。
また、浜村淳さんが司会を勤める同局製作のラジオ番組「サタディ・バチョン」も、浜村氏によるレベルの高い劇場アニメ批評やアニメソング紹介で、非常ーっに人気がありました。まじ懐かしいですが・・・♪ (wikiではサタデーバチョンとなっているが、アニメ誌のOBC広告ではサタディが正しい 右写真参照→ 2/9)
● 81年2/22の「アニメ新世紀宣言」でガンダムキャラクターのコスチュームショーがあり、後のFSS永野氏と川村万梨阿嬢がそれぞれシャアとララアのコスプレをしていた。元々二人ともコスプレしていて、当時はアリオンやレスフィーナのコスプレもしていたりしたそうだ。
(※ また、この直後81年4/3のCX系「小川宏ショー」に冨野由悠季氏、セイラ役井上さん、シャア役池田氏が出演して「何故今ガンダムか?」というコーナーに出演したそうなんだけど、同時にガンダムやザクの気ぐるみコスプレが出演していた。従ってコスプレ自体もテレビ紹介されたと思われる)
永野氏は後にイデオン劇場版のプレイベント「明るいイデオン」(82年5/5日) などでもベース演奏をしていた筈。ていうか自分はサンテレビ放送の特番でしかそれは見てないけど。
明るいイデオンのイベントは晴海で行なわれ、ディスコイベントまであった。コスプレイヤーも含まれていて、その種のダンパが全国規模でテレビで放送されたのが、あれが最初であった事は間違いない。
でもすいません。あまりの熱量に正直ちょっと引きましたあの放送w。イデさっさ(笑。ナレーションは銀河万丈氏だった)
ていうかイデオンって要はみんな死ぬ話だし、苦手です。
「イデオン」の場合、敵方のバッフクランのキャラクター群は多分に「スタートレック」のバルカン星人(スポックなど)の髪型や、「謎の円盤UFO」のSF作品のコスチュームを意識していると言える。70年代から続く海外SFブームを意識して作品を作るのは、SWのライトセーバーを意識したガンダムと変わらない。(1stガンダムでは、最初ガンダム以外ビームサーベルを使わないのが重要である。SWの騎士性をひきついでいるのは当初は全モビルスーツの内でガンダムだけ。後にジム出るが。ドムはヒート剣であり、ビームサーベルではない)
永野護氏は84年「重戦機エルガイム」でキャラクターとメカニックの両デザインを担当するが、「キャラクターのコスチュームデザインをする際にコスプレする人を念頭に置いている」という事はマイアニメ誌の最初のインタビュー記事から書かれている。「エルガイム」のコスチュームデザインは立体裁断でしか作れないようにされているそうで、当時のコスプレイヤーは大変だったかもしれない(FSSはさらに大変なのか;)。
この記事で永野氏はアズディンアライアという女性デザイナー(ボディコンブームの始祖)を意識していると語っているが、FSSの最近のデザイン画集[DESIGNS]のコメントでもそのリスペクトは一貫して変わらない。(2/9)
● 80年代前半には、同時期アニメコミックファンや業界人がたむろする町として下北沢周辺が有名になっている。とり・みき氏がマンガの中でタキタカンセイ氏をモデルにしたキャラクターを出したりもしたからで、とり・みき氏の仲間のクリエイターの方々(出渕裕氏やゆうきまさみ氏たちなど)もその周辺で活動していたらしい(でもこの方々は詳しい人たち他にいると思いますが・・・)
また、王女キメラや女将軍ゼノビア(ダイナマン)、女王アハメス(チェンジマン)、レー・ネフェル(フラッシュマン)など、出渕裕氏デザインの戦隊シリーズ敵女性幹部に、女性コスプレイヤーの人気が集中する。過去女の子が戦隊シリーズの悪役にここまで反応する事はなかっただろうというくらいだった。彼女らのデザインは自分も好きでした!!♪(チェンジマンのOP、みんな迷彩服なのでかなりびびったけどね^^; カラオケで歌うのは好きですよ笑 2/9)
● 80年代初頭以降、自主制作アニメや自主制作特撮も多く作られるようになり、オリジナルヒーローものやオリジナルSFものも誕生するようになった。初期はまだビデオカメラが普及しておらず、8mmフィルムによる撮影が多い。
そのムーブメントはプロにもインパクトを与えたらしく、石ノ森章太郎作品「グリングラス」(週刊少年サンデー1983年21号〜。「009」につづいて連載開始)では、城東大学シネ研のメンバーが作った自主制作ヒーロー「グリングラス」のスーツがなぜかひとりでに動き出し、数々の難事件を解決していく、という物語構成で人気を博していた。つまりそのようなムーブメントはその時点で存在した。(但し作中の時代は1995年となっているのでリアルタイムの時代を映しているわけではない。しかしそれはグリングラスのSF設定上必要な時代のずらしだったと思われる)
(また、桂正和原作で大ヒットした「ウイングマン」も作中ではコスプレオリジナルヒーロー始まり。こちらはグリングラスより開始が若干早い。ジャンプ83年5.6合併号。原作者の桂氏が自身で着るためのコスプレスーツまで作った事でも有名)
結構好きでどちらもよく読んでました。グリングラスの正体は物語がかなり進まないとわかりませんが、全4巻でオチが楽しいファン向け作品です(^^);; ちなみに今日は石ノ森先生の誕生日です。(2009_1/25 ディケイド第1話放送日)
● 「Romanticが止まらない」などの曲で有名になったロックバンドがC.C.B.で、髪をショッキングピンクやブルーに染めていた。つっぱりバンドブームの中、ビジュアル志向のファンに絶大な影響を残した。もちろん音楽も軽快で魅力的だった。
YMOの後ろ刈り上げはテクノカットとして有名になったんだけど(ちなみに僕も親に刈り上げ以外許されなかったので中学時「テクノ」と呼ばれていた。最近ずっと後頭部にしっぽが付いているのはその反動)、このようにバンドの髪型が流行になるのは、ビートルズのマッシュルームカット以来かもしれない。
「君に胸キュン」などのアイドル風曲の他、YMOは各メンバーが独自の展開を見せてきていた。坂本龍一氏は忌野清志郎氏と「い・け・な・い・ルージュマジック」を歌ったりしていたり、「戦場のメリークリスマス(戦メリ)」も同人界では流行して、ジュリー以降のビジュアル系の流れはまだまだ続く。 同人女性の間でや・お・い(やまなしおちなし意味なし)が始まったのもこの時期。(※ やおいネタとして初期に有名になったのは「エロイカより愛をこめて」など)
83年のYMO散開コンサートでは彼らがナチスの親衛隊風の服を着ていた事で、彼らはナチスファンだったか、のような発言もあったりし、YMOコスプレイヤーも影響を受けたりしたが、厳密にはあれはナチスの親衛隊風の服であって、親衛隊服そのものではなく、ステージ衣装である。またインナーも赤だったりするので、YMO初期衣装の赤い人民服のイメージもついでいるのだと思う。それにしてもあの演奏台が3本上がったり下がったりすると、009のブラックゴーストだよなと(←笑;)
YMOの衣装で80年に腕にまきついていたのは赤いスカーフ。そこから来た温泉マークをいじったYMOマークの腕章(※ごめん「BGM」後)は、後のツアー頃のステージ衣装から使われている。解散ではなく散開という考え方は解散前から強調されていた。戦争の道具として生まれたコンピューターを使った専制的テクノバンドの最後(から散って開く)、という意味もあるようにどこかで読んだと思う。赤い人民服で登場したYMOがあのような形で解散していくという、ステージ衣装的文脈を考えないといけないと思う。(再結成時のアルバムタイトルの「テクノドン」はテクノの恐竜とかテクノの首領(ドン)という意味もあったらしい)
黒と赤はインパクトのある色なので、衣装デザイン的にそういう制服だったり赤い腕章だとすぐナチスを想起される。で、千乃ナイフ氏が徳間書店「メディウム」誌などに連載していた「少年X」も学生服にx(ギリシャ文字のカイ?ギリシャ文字でカイはキリストを意味すんだけど)の腕章なのでそのように見る人も多いのだが、実際には「少年X」に登場する敵の魔族はモロにナチス親衛隊服を着ているので、少年X自体がナチスの謂いではない、という事は一応書いておく。
ウイングマン(元作品ツバサだとアンドロイド)は黒と青だが、実はデザイン的にアクマイザー3のザビタンに似ている部分があり、黒と赤のザビタンは多少ナチス将校のイメージをついでいるので、黒と青になったのかなぁと思ったりもする。
80年代半ばには既に例の同人イベントではナチス軍装は定着してしまっている。(1/28)
● 83年頃には「コスチュームプレイヤーズパーティ」というコスプレ専門のイベントが浅草の某会場で開催された。当時コスプレを連載ページで広めていた「マイアニメ」誌に会場レポートが掲載されている。第2回の83年11/20の場合グローバル艦長のコスプレをしたリーダーによる演説、誕生日を迎えた出席者への統合軍チタニウム章授与式、自主制作アニメ、かくし芸大会(替え歌など)、マクロスかるたなど。「ま組」(ま+○に組と書く)なのでマクロスコスプレメインなのだが、他作品のコスプレ参加者もいたようだ。
84年の年頭に参加メンバーによりマイアニメ誌上でのコスプレ座談会が掲載される(史上初と一応書かれている。事実か不明ですが、そう書いてあるので一応 ^^;) (2/3)
● この頃既にコスプレの露出度とそれに伴う各トラブルなどが起こってきている。
80年前後と思うが(詳しいことは不明。85年位?)初期の某所のイベントで、原始少年リュウだかクムクムだかの原始人キャラをしていた女の子が、おっぱい丸出しでコスプレしていた事があったらしい。
70年代にはストリーキングといって、男女(主に女性)が全裸で街中を歩いてそれを警察が逮捕する、のようなパフォーマンス(兼、政府への反抗運動)が流行っていたのだが、これは抵抗云々ではなくて、単にその子の「男キャラのコスプレをするんだから恥ずかしくない」感性によるところのような気もする。
ただ、大体80年代前半くらいまで、都心の京浜東北線でも山の手線でも中央線でも、母親が車内で赤ちゃんに授乳するのは普通の光景だった。ベビーブームでもあったし、母親のおっぱいというのは赤の他人が欲情する対象ではないというのが当然だったので、この子を殊更問題視する傾向は今よりは薄かったと思う。
が、アニメブームは元々若者のカウンターカルチャーとして扱われていたし、トミノコ族がタケノコ族パフォーマンスをトレスして有名になったという事もあり(80年代前半は、パフォーマンスそのものがブームだった)、タケノコやアングラ舞台や各種パフォーマンス的表現とは切っても切れず、さらにそれがアトラクブームにも繋がって、例の最大規模イベントで暴走をする人もでてくる(これは85年以降の項で書きます)
また、82年ごろを過ぎると、某ロードのうる星コスで有名な人ですら自作のブラがずれて見えてしまうという事が、コスプレ間で頻発し、アマチュアの縫製によるコスプレには甘さもあるという事で、ずれ防止にみんながガムテープ使った、それでかぶれた・・・などのような事も起こってくる。コスプレする女の子が、スカートの中が見えても構わないようにテニスのアンダースカートやブルマで自衛するようになってきたのもこの頃から。
また名古屋の「コミックカーニバル」(略称コミカ・名古屋公会堂)というイベントでは82年の第9回を最後に、コスプレが禁止に。一度解禁されたコスプレを中止するイベントも増えてくる。(コミカの記事の場合、裸足のトリトンも来ているけど、なりきり目的とは言え、足を切ると確かに危険かもしれない)
上のま組さんたちのコスプレ座談会記事(84年頭)によると、アク●ョンカメラ系雑誌で紹介された事によりコスプレの性的盗撮をする人が出てきたのもこの頃からとある(ただ上記の対応によって一時的に沈静化する。どちらにしても近年ほどではない)。「コミックスクウェア」では、「スカートの中を狙うカメラマンがいるので注意してください」と、盗撮警告の場内アナウンスが流れたりした。また例の最大規模イベントで「花いちもんめ」を警官が集会とみなし解散させるようになったり、モデルガン刀剣(主にナイフ類)の所持が禁止されたのもこの時期。「持ち込み禁止物は没収し返却せず」の項がカタログに加わる(この件も85年以降で)。
ただし当時問題とされているのはあくまでパンチラなどの性的盗撮であって、場内風景の撮影やスナップ撮影ではない事に注意。
また、男のラムちゃんコスプレなどが現れ始める。 (2/10)
● ・・・つまり、有名な晴海当時の最大規模即売会の徹夜連中が、近隣でエアガンを使ったサバイバルゲームを行なったのも(これがエアガン禁止に結びついている)、83年頃だったという事になる。
この頃のエアガンについて一応書くと、70年代に子供の間で流行ったエアガンは所謂手動のポンプアクションで空気を圧搾してバトミントンの羽型をした玉を打ち出す、比較的のんびりしたものだったのだが、80年代初頭にBB弾使用のボンベやコンプレッサーで空気を圧搾するライフルやマシンガンタイプのものが流行りだしてから、その攻撃性と迷惑性があがる。つまり、乱射行為が可能になってしまった。結果サバゲーが増え、イベントでも迷彩服コスプレが増えてものものしくなる。
70年代に流行ったモデルガンには、火薬による弾の発射には耐えられない程度の金属を使った、構造的に実物と変わらない、プラグファイヤー式のモデルガン(かんしゃく玉が鳴るだけのもの)も多かったのだが、BB弾型エアガンが流行するとその種のプラグファイヤー式モデルガンは廃れていった。
しかし、禁止になっても最大規模即売会会場にモデルガンやエアガンやナイフを持ち込んでくるものは後をたたなかった。もともと例の即売会は18禁同人誌(90年冬まで局部無修正)を販売していたし、社会に対するカウンターカルチャー人種やアウトサイダー系が来てもいたので、ルールがあっても守ろうとする人は少なかった。
しかしそれだけが理由ではなく、当時はまだカタログが日本全国の書店に行き渡っているというわけではなかったので(都内でもマンガ専門店や専門フロアはまだ少なかった)、カタログを現地調達するつもりだった人々は、ルール変更を知らされる事なくエアガンを会場に持ち込んでしまって、それをことごとく没収されていたからだ(パソコン通信も普及していない時期。この辺は当時は問答無用だった)。当時の没収側イベントスタッフは既に軍装コスプレの集団だった。
エアガンの持込禁止に最大規模即売会が踏み切ったのはあくまでも晴海会場近隣での乱射がきっかけなので、当時の各同人イベントの総意ではなく、まだローカルルールである。従って、雑誌掲載の軍装コスプレ写真を見た経験上、エアガンを持ってきた者も相当に多かった。
当時のオタクが悪ふざけの好きな人種揃いだったというのもあるだろう。悪ふざけの好きなオタクがそろうとエアガン乱射をする、という意味では、2008年春のアキハバラエアガン路上乱射騒ぎは完全に当時の晴海サバイバルゲーム連中のリフレインである。
僕もそれら没収エアガンが晴海のガメラ館向かいの館(入場待機館に使われていた)にうず高く積まれている所を見ているし(85年夏)、その現場での即売会没収スタッフ(迷彩服)の会話も聞いている(没収したエアガンの山分けの相談など。「担当リーダーの●●さんが、このエアガンを欲しいと言っていた」「なら俺はこれをもらおうかな」等)。これも85年以降の項で詳述するが、90年代半ば以降になっても没収ナイフの行き先についての話は何度でも聞いた事がある。
エアガンによるサバイバルゲームが社会問題になり始めたのも80年代半ばからである。 (2/12)
● 思い出話。自分がいた大阪のM高の漫研は、聞くところによると、大阪の私立高校の漫画研究部で、一番最初に漫画研究「会」ではなく「部」として認められた漫画研究部だったらしい。同校は禁煙運動を非常に奨励していて、漫研OBの描いた「ノーモアスモーキング」という漫画が本(ぶっちゃけ同人誌)になって全生徒に配られていて、僕らのいた頃は私服高であるにも関わらず、校内からタバコのすいがらは一本も出ないという状態だった。M高漫研が部として扱われていたのはその先輩らの功績による所が大きい。
後に自分が東京に引っ越してきたのは、84年の7月(高2)頃。その時のいきさつは何度も過去書いたのでここでははしょるとして、
引っ越してきた僕の住む東京多摩地区は、アニメ絵やコミック絵の上手い人たちがかなり多い地域だった。
理由は、東映アニメーションや日本アニメーションの各多摩スタジオがあって、多摩地区に住む子供たちがよく小(中?)学校の社会科見学でそれらのスタジオをおとづれていた事があげられる(そういう進路を夢に見た子供が多かったという事)。僕が引っ越したのは高校になってからなので、それらの社会科見学話を聞いてうらやましく思った事もある。ただ80年代半ばといえば受験戦争まっただなかだったので、それらの進路に進みたいと口にするのは、誰にとってもおそろしく困難ではありました・・・都心に住んでる子たちの方がまだ楽だったのかな。判りませんが。 (2/3)
一応11月7日分はここまで。次に書く時はこの下に書きます。
● このカラーは11月8日追記。
● このカラーは11月9日追記。
11月10日、各説明用画像更新
● このカラーは11月12日追記。
● このカラーは1月12日追記。
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by Kohji_molimoto(れくと)
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