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H先生
キリスト教の信者には、あえて分類すれば、正統派のカトリック派、それからそれとは異なった考え方を持つプロテスタント派(その中でも数多くの派に分かれています)が存在しており、世界のキリスト教の信者のうち約10億名が前者に属し、約5億名が後者に属していると推定されています。日本でもおそらく同じくらいの割合でしょう。日本は、神道・仏教の国であり、キリスト教の信者は、ほんの一握りに過ぎませんが、信者の数は、全体で約200万名で、前者に属するものは、約120-150万名、後者に属する者は、約50-80万名でしょう。私は、最近の様子はよく知りませんが、傾向からしたら、どちらが伸びているのでしょうか。神に対する考え方において、根源的に、一体何が異なっているのでしょうか。
桜井淳
H先生
文学や映画にはさまざまな形で神や預言者が描かれてきました。これまで観た映画で特に強く印象に残っているのは「十戒」(モーセ役は米俳優チャールトン・ヘストン)と「ベンハー-キリスト誕生の物語-」(ベンハー役は米俳優チャールトン・ヘストン)です。前者は、20歳台後半に弟と一緒に有楽町で、後者は16歳の高校1年生の時に友人数人と観ました。ただし、その時に一度だけしか観なかったわけではなく、前者については、気になったので、3年前に2回目を、後者については、時々観ており、すでに、十数回も観ています。特に、後者は、アンケート調査に拠れば、男性が、歴史的に、ナンバーワンに挙げる映画であり、まったくそのとおりで、大変重要なテーマ、すなわち、一般的なテーマとして、愛や信頼、スペクタクル、イエスの描き方等がすばらしく、イエスの描き方では、右に出るものがないくらいすばらしい出来栄えです。なお、後者の監督は、「ローマの休日」の監督のウィリアム・ワイラーです。
前者の内容は旧約聖書の内容に忠実に描かれています。すなわち、エジプトで奴隷として働いていたヘブライ人(ユダヤも人)の人口が増え過ぎたため、エジプト王ファラオは、ヘブライ人に子供が生まれたら、躊躇することなく、殺すように命じました。あるヘブライ人の家に子供(名前はモーセ)が生まれ、両親は、殺さずに、パピルスで編んだかごに入れ、出生の経緯を記した手紙を添えて、ナイル河に流しました。偶然にも、そのかごは、王家のひとりに拾われ、その赤ん坊は、手厚く育てられましたが、自身の出生の秘密を知り、ある争いに巻き込まれ、その過程でヘブライ人を助けるために、エジプト人を殺してしまい、ファラオの追っ手から逃れるため、多くのヘブライ人を連れて、シナイ半島のミディアンで羊飼いをしながら生き、やがてその土地で知り合ったツイポラという女性と結婚し、生活していました。ある日、激しい紫色の閃光に包まれ、神ヤハウェから「十戒」」(①あなたには私をおいて他に神があってはならない、②あなたはいかなる像も造ってはならない、③あなたの神の名をみだりに唱えてはならない、④安息日を心にと留めこれを聖別せよ、⑤あなたの父母を敬え、⑥殺してはならない、⑦姦淫してはならない、⑧盗んではならない、⑨隣人に関して偽証してはならない、⑩隣人の家を欲してはならない)を授かり(「モーセの十戒」とも呼ぶ)、預言者となり、40年間もシナイ半島をさまよい、パレスチナ近くの約束の地カナンを目指します。途中、ファラオの追っ手に追い詰められましたが、海がふたつに割れ、陸路が現れ、そこからすべてのヘブライ人を逃しました。モーセはカナンにたどり着く前に亡くなりました。
後者は、4時間の放映時間うち、イエスに触れた映像は、約30分しかなく、あまり語らないことによる神秘さと効果がみごとに引き出されており、すばらしい表現法です(イエスは、みすぼらしく、弱々しく、目立たず、決して顔が分かるようにせず、後ろからか、横からか、前の場合には遠景にして、絶対に顔の顔立ちや表情が分からないように表現しています)。新約聖書に実に忠実にていねいに描かれています。なお、主人公のベンハーは、ユダヤの豪商の息子という設定です。エルサレムに現れたナザレの大工ヨゼフ(いまの大工ではなく、家具職人)と妊婦マリアが検問に合うところから始まり、イエスの誕生へ。ベンハーは、宿敵の陰謀に遭い、囚われの身になり、囚人として歩いている時、ひとりの痩せたヒゲの弱々しい人物が水を差し出し(実はこの人物がイエスだったのです)、その時、ベンハーはその人物の顔を見て、「もしやあなたは・・・・・・」と、見張りの兵士は、その水を足で蹴り、こぼしてしまいます。時は過ぎ、ベンハーは、らい病で死の谷に隔離されていた母と妹を助け出し、街に出ると、見張りの兵士にせかされ、犯罪者として、十字架を背負った多くの人たちの中に、やはり十字架(本当は、十字架でなく、T字架でした)を背負って処刑場に向かおうとしている痩せて弱々しいヒゲの人物に出会い(実はこの人物がイエスだったのです)、いつか手にした器と同じもので水をやろうと近づき、「あの時の・・・・・・」と、しかし、この時も、見張りの兵士は、水を蹴飛ばし、水はこぼれ、一滴も飲めませんでした。ベンハーは、回りのひとたちに、「あの方が一体何をしたというのだ」と、しかし、誰もが、「何もしていない」と。イエスは、ひとびとに向かい、「あのひとたちは何も知らない、どのような罪を犯したかさえ、私は、すべての罪を背負い死ぬ、死ぬために生まれたのだ」と。そして、イエスは処刑されました。稲妻・落雷・豪雨が続き、天地が清められ、すると、ベンハーの母と妹の病気も直り、感動的な最後の場面へと進みます。その時にはイエスは34歳か36歳でした(本当は、紀元前の4年か6年に生まれたとされていますが、いまでも、断定されていません)。この映画では、イエスは、弱々しい何の神秘性もないひとりの人間のように描かれています。見事な描き方です。イエスからキリストへの物語です。イエスは、神であり、預言者です。イエス誕生の物語ではなく、キリスト誕生の物語です。昔は、その違いが分かりませんでしたが、いまではよく分かるようになりました。
先生 ! 神学も仏教も人間救済の学問でしょう ! 少なくとも私自身は、確実に、救済されていますから・・・・・・。
桜井淳