2008/06/08(日) 01:51:31 [歴史関連資料]

史実を識れば判る「韓国の虚構

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日韓歴史研究のテーマ決まる
 日韓両国の歴史学者で構成する「第2期日韓歴史共同研究委員会」は7日、都内で第3回全体会議を開き、研究テーマを決定した。教科書小グループでは「理念」「編さん」「記述ぶり」の3分野ごとに「編さん制度の変遷」「教科書に表れた戦争」などの個別テーマを設けた。竹島(韓国名・独島)問題や従軍慰安婦の取り扱いについては、終了後の記者会見で日本側は「まだ決まっていない」と説明。一方、韓国側は取り上げると主張し、認識の差も見られた。時事通信 6月7日付記事より参照のため引用/写真はhinomaru氏と有志制作の「朝鮮半島の本当の歴史(The True History of Korea Peninsula)」(youtube動画)の一画面。「日韓併合以前は、100校程度しか存在しなかった学校が、日本の貢献により、1944年(昭和19年)には5213校にまで増えた」(要旨)。参照のため引用。 動画 

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弱腰が生み出す「逆転構造」

 韓国の作為史観の喧伝に対し、日本の政官学の対応は「今ひとつ」である。細かく観てみると、「今ひとつ」どころではない。大まかな流れに観える傾向としては、良識の日本国民ほど、よく調べて史実を知っている。これが、残念なことではあるが、現今の日本に観られる「逆転構造」と謂えるのかもしれない。

 たとえば、筆者が敬愛するhinomaru氏(「日の丸君の日記」の著者)は、日頃は多忙な職務をこなしておられながらも、しかし、国思う心から有志と協力して、公正な歴史調査と研鑽により、表題に引用するような動画を制作・配信されている。それらの動画は、国思う歴史研究家の三島明氏が監修に加われ、内容は正確で、また、観る側にとって、簡潔で分かりやすい動画となっている。

 標題に紹介する動画は、朝鮮半島、とりわけ現在の韓国における「日韓併合」以前と以後を比較し、同国に対して日本がなした多大な貢献を示す内容となっている。

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動画「朝鮮半島の本当の歴史」より
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 これらの人々と協力し合い、将来に向けて、可能な限り、史実を証明し、事実の上から毅然と日本の名誉と尊厳を護る国思う活動を、今後、展開して行ければと願う次第である。hinomaru氏、三島明氏の益々のご健勝を願い、資料の1つとして、以上、上記の動画を小稿に紹介させていただく。短稿にて。
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■ 主な関連記事:

韓国の真実!
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【筆者記】

 李明博氏(韓国大統領)の談話を紹介した「日本は自ら過去謝罪を」(「産経新聞」6月4日付)記事をご覧になった方は少なくないことと思う。記事に云く、『韓国の李明博大統領は(6月)4日、4月の日本訪問に触れ「過去について執拗(しつよう)に言及しないと言った理由は、日本が加害者として自ら被害国に謝罪することを望む」からだとした上で、今後の日韓関係強化の必要性をあらためて訴えた』とあった。

 史実に触れ、事実を少しでも識る者にとっては、「正気か」と首をかしげざるを得ない発言であることが分る。韓国が並べる「虚構」にあえて謝罪し、「日韓」の関係を強化せよ、との論旨である。同大統領の発言は、いわば、説教泥棒に頭を下げ、なおも金品を差し出せ、と言うに等しい。一部の気が狂った政治家にはできる芸当かもしれないが、我々には、とても無理な話である。

 韓国が、少なくとも、このようなスタンスを根本的に改めない限り、同国に未来は無い。短稿にて。
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2007/11/28(水) 21:00:00 [歴史関連資料]


「水一杯」を英霊に捧ぐ

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火山も『いおうとう』島名と統一へ 気象庁検討
 国土地理院が六月に「いおうじま」から「いおうとう」へ呼称変更した小笠原諸島・硫黄島(東京都小笠原村)。一方で気象庁は火山名で「いおうじま」と呼び続け、ちぐはぐな状態になっているが、同庁も呼称変更の検討を始めた。近い将来、島名も火山名も「いおうとう」に統一されることになりそうだ。
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 戦前の旧島民は「いおうとう」と呼んでいた。太平洋戦争での激戦を経て戦後統治した米国は「Iwo Jima(いおうじま)」と称し、日本復帰後も「いおうじま」が一般的となった。だが、旧島民の「いおうとう」への強い思いから、小笠原村が地名修正を要望。国土地理院は海上保安庁と協議の末に六月十八日、呼称を「いおうとう」に変更した。東京新聞 8月27日付記事より参照のため引用。/写真は硫黄島(読者提供)

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ひと柱でも多くの遺骨の帰国を

 この硫黄島でも、今もなお同島に眠る多数の遺骨。ひと柱でも多く、故郷・日本に帰還できることを願う。
読者からご提案いただいた「コップの水一杯」を運動に紹介し、気持ちの上だけでもみなさまにお願いし、小稿を再掲する。敬礼。
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本土を1日でも長く守るために−すべての可能な努力を

 1944年夏、マリアナ諸島を攻略した米軍は、同年11月からB-29による日本本土に対する長距離爆撃を開始。航路の中間地点にある硫黄島(いおうじま)は、米軍にとって、本土への空襲を本格化するために、どうしても抑えたい重要な島であった。


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硫黄島の位置Wikipedia)
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 作戦開始を間近に控えた1945年2月16日。「硫黄島は攻略予定は5日間」。記者会見でスミス中将は説明している。3昼夜におよぶ激しい爆撃で、米軍が同島に投じた爆弾の量は700トン。砲弾は5000トンにもおよんだ。物量に圧倒した先制攻撃の後に、米軍は硫黄島への上陸を開始。

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3昼夜にわたる攻撃が加えられた(記録映画より)
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 しかし、そこから日本軍の反撃が始まった。同島の地下には、栗林忠道中将の発案により地下壕(全長18キロ)が網の目のように構築され、その中に、激しい砲撃を耐えた日本軍が待ち構えていたのである。米軍の目算では「5日間」で終わるはずだった同島の攻防は、実に36日間以上におよび、米軍は日本軍を上回る損害を被った。


 日本本土に対する米軍の無差別爆撃は、軍需施設を狙ったものではなく、明らかに非武装の民間人を標的としていた。戦前の渡米経験から米国をよく識り、空襲激化の状況を知悉(ちしつ)していた栗林中将は、この米軍の本土侵攻を1日でも遅らせたい。家族や子供たちの平安を1日でも長く、との思いを強くしていた。

 この決戦の前年に、父島へ赴任した栗林中将は戦況を詳細に調査し、米軍は硫黄島へ進攻すると判断。当時は無防備に等しかった硫黄島へ司令部と第109師団を移動。すでに、圧倒的な戦力で制空権と制海権をほぼ手中に収めていた米軍に対し、硫黄島を防戦の拠点と決めたのであった。

 どうすれば米軍の侵攻を遅らせることができるか。それは米軍の思惑を覆(くつがえ)す「島の要塞化」であった。栗林中将の才智と、同中将のもとに士気上がる守備隊が可能な限りの努力を尽くし、短期間の内にその構想を実現し、持てる戦力のすべてを尽くし、徹底的な持久抗戦を貫いたのであった。

 この大規模な地下陣地の構築と戦力の合理的な配備によって、補給が途絶えた中で、物資、兵力で3倍以上に達する米軍に対して善戦。異例の大打撃を与え、本土進攻を遅らせたのであった。

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本部玉砕後も続いた戦闘

 地下壕の中は、折からの火山熱により、摂氏40度を超える暑さであったという。すでに補給がなく、ゆえに食料も水も底を尽き、この限界を超えた状況の中で、米軍の侵攻を1日でもより長く阻止するために、日本兵士は闘ったのである。

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栗林忠道中将(記録映画より)
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 そして、ついに同年3月17日、栗林中将は東京の大本営へ訣別電報を送信。


 『戦局遂に最期の関頭に直面せり、十七日夜半を期し小官自ら陣頭に立ち皇国の必勝と安泰を念願しつつ全員壮烈なる攻撃を敢行する。敵来攻以来想像に余る物量的優勢をもって陸海空より将兵の勇戦は真に鬼神をもなかしむるものがあり』(以下略)と打電。

 補給路を断たれた中で、また、砲弾も尽きる中での戦いであった。同26日、日本軍の最後の反攻が行われ、栗林大将、市丸少将以下、数百名の残存部隊がアメリカ軍陣地へ攻撃をかけ、日本軍の組織的な戦闘はここで終わった。しかし、島北部の残存兵力による散発的な戦闘はなおも続き、6月末まで戦いは続いた。まさに62年前のつい先日まで、硫黄島には、母国への攻撃阻止を最後まで願い、日本兵士の戦いが続いていたのである。

 完全終結までに、日本軍の戦死者は20,129名(島民から徴用された軍属82名)。生存者1,033名は米軍の人道的救護のもとに保護された。一方、米軍の戦死者は6,821名。負傷者は21,865名を出した壮絶な戦いであった。
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「一杯の水」運動の提案

 読者から次のコメントをいただいので紹介する。(以下、引用)

 関西テレビのナマでもズバリ!という番組の中で青山繁晴氏が「硫黄島は生きるヒントを語る」というテーマでお話をされていました。氏が特別許可を得て硫黄島に降り立ち取材をした中で、見たもの、感じたこと、その他の取材内容に関して、涙ながらにお話されています。(中略)

 遺骨収集によって帰国出来た兵士は八千人。残り、一万人の英霊たちはいまだ帰国出来ていません。

 硫黄島の兵士たちは、アメリカ軍による本土空襲が、日本の軍事施設や工場を爆撃するためのものではなく、実は日本の女性と子供たちを殺すことを目的としていたことを知り、栗林中将の下、地下壕を堀って立てこもり、少しでも長く戦おうと硫黄島を死守していたそうです。そうすればその分、本土の女性や子供たちが命をつなげることが出来るからでした。

 青山氏はまずは私たち国民一人一人が、私たちを守るためだけに死闘の限りを尽くして亡くなっていった英霊の方々のために、一杯の冷えたお水を供え、硫黄島に思いを抱いて欲しい。そして、それがゆくゆくは遺骨収集の国民運動になって欲しいと願っています。

(以上、引用)
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 ご投稿に感謝する。すべてが尽きた中で、なおも母国・日本を思い、家族と女性、子供たちを守らんと死力を尽くした兵士方々は、地獄のような暑さと飢え、渇(かわ)きととも闘っていたのである。時と場所を超えて「一杯の水」を捧げる。この心を大切にしたい。

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硫黄島の地下壕跡(記録映画より)
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 「冷えた一杯の水」。勇士はどれほど口にしたかったことか。その思いに敬礼を捧げ、小稿に感謝を捧げ、そして、一杯の水を捧げる。

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【筆者記】

 かけがえのない命と引き換えに、国を守り育てた先人英霊あればこそ、今の日本がある。日本人として生まれ、日本の「飯」で育ち、日本の「言葉」で学び、この国土に生きて来た。無数の先人が命と引き換えに守り育てて来たこの「日本」があればこそ、今の自分自身の存在がある。先人、父母に敬意と感謝を捧げる。そのごく自然な感謝が、日本人の尊厳と誇りの底流にあるべきである。
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 国民の手で日本を取り戻しましょう!
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2007/11/25(日) 13:49:53 [歴史関連資料]


パラオの桜と英霊

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紺碧の空と海に囲まれたパラオ
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南海の親日国家

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日本の国旗を模したパラオの国旗
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 恐縮だが、小稿について、時折再掲させていただく。良識によって日本が守られ、南海の島に眠る英霊の安らかなることを願う。

 パラオ共和国(Republic of Palau)(現地では「ベラウ」と呼称)は、南北およそ640Kmに渡って散在する200以上の島々を統括した国家である。このうち9島のみに人が居住し、残りの島々は無人島である。人口は 20,044人(2006年 太平洋共同体事務局)。人口の7割がパラオ人で、残り大半はフィリピン人で占められ、支那、米国、日本などからの移住民も含まれている。
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パラオが親日国家である事由

 国内の言語は、基本的にパラオ語と英語だが、現地の年配の人々には、戦時中に日本語による教育を受けていたために流暢な日本語を話す人が多い。日本語がそのままパラオ語として使われている言葉が非常に多い。たとえば「はい」「扇風機」「大丈夫」「浴衣」「どうぞ」「大統領」等々。

 パラオは、第一次世界大戦の戦後処理、そのためのパリ講和会議によって、日本(大日本帝国)の委任統治領になった。

 当時の様子は、「コロールには南洋庁の支庁を置かれ、パラオは周辺諸島における統治の中核的な島となり、多くの日本人が移住(最盛期には2万5千人ほどの日本人が居住)した。このため、学校や病院・道路など各種インフラの整備も重点的に行われ、1920年代頃になるとコロールは近代的な町並みへとその姿を変貌させていった。また日本統治の開始にともないドイツ語から日本語による学校教育が先住民に対しても行われるようになった」(
Wikpedia)とある。


 日本統治の時代は、現地民に愛された時代であった。礼儀正しさと節度、道徳心。他を思いやる心。それらの悉(ことごと)くが、今日の民族性に引き継がれ、反映されている。現地を訪れた研究者によれば、パラオの国定教科書では8パーセント近くを日本統治時代に充てており、「日の丸の旗のもとに」との題名が付けられた章もあるそうだ。

 日本の統治時代は、パラオの歴史の中で最も輝かしく、現地の人々の心に残る時代であった。そして、パラオで今も語り継がれる「ペリリュー島の戦闘」があった。

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現地民間人に死者を出さなかった戦い

 パラオの南端部にペリリュー島がある。面積は、20平方キロメートルほどの珊瑚礁の島だが、フィリピン防衛のために重要な拠点であった。その島に、昭和19年(1944年)9月、米軍が攻撃を開始。米軍の戦力は圧倒的に勝っていた。日本軍は、守備隊が約1万2000名。だが、米軍が制海権を制空権を握り、15倍近くの兵力を投入。航空機、戦車、重火器のいずれの面でも、100倍、1000倍の軍事力をもって同島の攻撃に臨んだのである。

 米軍は「攻撃は2、3日で終了」と予測。退路を断たれた日本軍は、武器と弾薬、食料の補給路は無かった。いよいよ、9月12日に始まった米軍の攻撃。だが、日本軍はこれを持久戦に持ち込み、73日間にわたってペリリュー島を勇敢に守ったのである。10月30日には、攻撃に臨んだ「米軍海兵第1師団を全滅判定(損失60%)に追い込み、陸軍第81師団へ交代する場面も現れた」(Wikipedia)。米軍は日本軍に倍する犠牲者を出したのであった。

 しかし、戦闘が終局に達した11月24日。生き残った将兵はわずか60人足らずになっていたという。「ついに司令部陣地の兵力弾薬もほとんど底をついたため、司令部は玉砕を決定、地区隊長中川州男大佐と師団派遣参謀村井権治郎少将、飯田義栄中佐の割腹自決の後、玉砕を伝える「サクラサクラ」の電文が送られ、翌朝にかけて根本甲子郎大尉を中心とした55名の残存兵による「万歳突撃」が行われた」(Wikipedia)。

 壮絶で長い戦闘が繰り広げられたにもかかわらず、このペリリュー島の民間人には1人も犠牲者が出なかった。戦局を鑑(かんが)みた司令部の配慮により、すべての島民のパラオ本島他への移住をほぼ完了させていたからである。残った島民も疎開させるため、戦火をかいくぐるように本島へと送り出している。

 「毎日新聞」(記載年月日不肖)掲載と伝えられるが、この時の様子を記した「コラム」がネットで紹介されている。「毎日新聞」らしからぬ感動的な「コラム」だが、このような状況が実際に、随所にあったと感じ、小稿に紹介する。

遠い南の島に、日本の歌を歌う老人がいた。
「あそこでみんな死んでいったんだ・・・」 
沖に浮かぶ島を指差しながら、老人はつぶやいた。
太平洋戦争のとき、その島には日本軍が進駐し陣地が作られた。
老人は村の若者達と共にその作業に参加した。
日本兵とは仲良くなって、日本の歌を一緒に歌ったりしたという。


やがて戦況は日本に不利となり、
いつ米軍が上陸してもおかしくない状況になった。
仲間達と話し合った彼は代表数人と共に
日本の守備隊長のもとを訪れた。自分達も一緒に戦わせて欲しい、と。


それを聞くなり隊長は激高し叫んだという
「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるか!」  
日本人は仲間だと思っていたのに…みせかけだったのか
裏切られた想いで、みな悔し涙を流した…


船に乗って島を去る日 日本兵は誰一人見送りに来ない。
村の若者達は、悄然と船に乗り込んだ。


しかし船が島を離れた瞬間、日本兵全員が浜に走り出てきた。
そして一緒に歌った日本の歌を歌いながら、手を振って彼らを見送った。
先頭には笑顔で手を振るあの隊長が。その瞬間、彼は悟ったという。
あの言葉は、自分達を救うためのものだったのだと・・・。


(以上、引用)
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 戦闘が終わったペリリュー島は、米軍の激しい爆撃で変形していた。この珊瑚の島に戻った島民たちは、累々と散らばる日本兵の遺体に涙を流し、日本兵の墓地を作った。この墓地は島民の手によって今も整然と維持され、その英霊の遺徳が讃えられている。

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兵士の遺徳を讃える歌

 パラオに1981年に憲法が制定・発布された。この時に「日章旗」を模した国旗とともに、ペリリュー兵士の歌も作られた。ペリリュー兵士とは日本兵を意味している。題して「ペ島の桜を讃える歌」。国のために尊い命をささげ、死しても島民を守り抜いた日本兵士を桜に譬(たと)え、その遺徳への感謝をつづった歌である。

 作詞者はオキヤマ・トヨミ氏、ショージ・シゲオ氏。日本人ではなく、現地の人々である。日本を慕って止まない心。それが国民の8割以上が、姓名のいずれかに日本名を名乗る習慣となった。両氏の名前は、その事実を物語っている。

  一
  激しく弾雨(たま)が降り注ぎ
  オレンジ浜を血で染めた
  強兵(つわもの)たちはみな散って 
  ペ島(じま)は総て墓地(はか)となる


  ニ
  小さな異国のこの島を
  死んでも守ると誓いつつ
  山なす敵を迎え撃ち 
  弾(たま)射(う)ち尽くし食糧(しょく)もない


  三
  将兵(ヘいし)は桜を叫びつつ
  これが最期の伝えごと
  父母よ祖国よ妻や子よ
  別れの桜に意味深し


  四
  日本の桜は春いちど
  見事に咲いて明日(あす)は散る
  ペ島(じま)の桜は散り散りに
  玉砕(ち)れども勲功(いさお)は永久(とこしえ)に


  五
  今守備勇士(もののふ)の姿なく
  残りし洞窟(じんち)の夢の跡
  古いペ島(じま)の習慣で
  我等勇士の霊魂(たま)守る 

  六
  平和と自由の尊さを
  身を鴻(こな)にしてこの島に
  教えて散りし桜花
  今では平和が甦る

  七
  どうぞ再びペリリューヘ
  時なし桜花(さくら)の花びらは
  椰子の木陰で待ち佗(わび)し
  あつい涙がこみあげる    


  八
  戦友遺族の皆さまに
  永遠(いついつ)までもかわりなく
  必ず我等は待ち望む
  桜とともに皆さまを


(以上、詩文引用)
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 パラオには桜が無い。だが、現地の人々は、当時未だ見ぬ桜の美しさを日本人の美徳と尊敬し、憧れの念を桜に譬えて慕っている。

 つぼみが膨らむ開花前の健気。咲き始める華麗さ。満開の美しさ。そして、いさぎよく散り行く誉れ。

 今も珊瑚の島に眠る英霊のご冥福を心よりお祈し、小稿を捧げる。
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【筆者記】

 パラオの国旗は、太平洋に浮かぶ月を象(かたちど)っている。なぜ「月」なのか。現地を訪れた研究者(筆者の知人)によれば、太陽(日本)があってこそ「月の輝きがある」との意味が込められているとのことだ。中心から微妙にズレている。これは「同じでは日本に失礼だから」とわざと中心をはずした、との有名なエピソードがある。

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パラオの国旗成立の理由(現地 Clickで拡大)
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 一部の他国が、捏造をもとにいかに非難しようとも、建国以来、幾多の先人、幾多の英霊がもたらした恩恵によって、日本の今日がある。先人、英霊が自らの命と引き換えに、守り育てた国土に我々は生まれ、生活している。

 そして、我々が今守るべきもの、後代に伝えるべきものは何か。その明確なる答えを、先人、英霊は教えている。

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2007/06/25(月) 20:41:26 [歴史関連資料]

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喧嘩でも反米でもなく、主権国家の主張!
日本は「真実」で攻勢に転じよ! 中

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スクープ!従軍慰安婦騒動どころではない
封印された占領下の米兵「日本人婦女子凌辱事件ファイル」

 いまだ数々の戦争犯罪に対して、一度も謝罪したことのない米国に、なぜ毅然とした態度で挑まぬのか。米国は、日本を非難する前に、ワシントン国立公文書館や米軍公文書館で調査してみよ。 慰安婦非難決議の第4頂にこうある。 「現在と未来の世代にわたり、このようなおぞましい犯罪があったことを教育せよ」 この言葉、そっくりそのまま米国にお返しする。
SAPIO(小学館)2007年4月11日号より記事を引用
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世界に真実を発信する重要性

 読者はご存知の通り、先の米ワシントン・ポスト紙における全面広告掲載(6月14日)の端緒を開いた椙山浩一氏は、昨年(2006年)の米大手2紙による同氏考案の広告掲載拒否を受けている。南京事件の虚構を証明する広告が拒絶に遭ったのである。しかし、椙山氏はこの春に活動の継続を宣言。海外に向けて「声を上げる」ことの重要性について、次のように述べられている。

 『欧米は中国のプロパガンダに完全に毒されています。それに対し、日本は国益なるものを発信していく意識が弱い。戦争を経験した私からすると、今の状況はお人好しな日本人が外国に嵌められて国際的に孤立。戦争に巻き込まれて行ったのとダブって見えます』と。

 むしろ、孤立を回避するために、多くを語らずを是とする美徳に終わらず、あえて国際社会に対して声を上げ、真実の証明を示す。その重要性について述べておられる。戦争を体験された椙山氏の言葉だけに、憂国の士が示す言葉には尊い重みがある。
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米国が直視すべき自国の「事実」

 筆者は反米主義者ではない。だが、筋違いな貶(おとし)めに遭っている日本国民の1人として、「米国こそ確認すべき史実」が数多く存在しているのではないか、と。こう問わずにはおれない。米国ともあろう科学的検証の大国が、特定国による反日策動に乗り、その内容の検証も乏しい法案に、中立の立場にあるべき外交委・委員長までが賛同し、可決せんとする下院議会の暴走を許せば、米国自身が自国の品位を貶め、自国民の尊厳と名誉を貶めることにもなりかねない。

 米下院議会では、この筋違いな法案提出の趣旨として、「日本は本当の意味でまだ謝罪していない。事実を直視して心から謝罪すべきだ」(要旨)と謳(うた)っている。同盟国に対し、60年以上も前の事柄について、しかも、さしたる客観的な事実検証もなく、特定国の言い分のみを受け入れて謝罪要求の骨子としている。「矛盾」と云わざるを得ない。


 「事実」に目を向けるならば、日本に存在する、幾多の記録と米軍兵士による爪痕(つめあと)に目を向けるべきである。戦時中の、いわゆる朝鮮の女性に対する“性奴隷”の証拠は存在していない。具体的にあるとすれば、慰安婦を名乗る女性たちの自己申告の「証言」のみであり、証拠ではない。

 その輪に輪をかけた証言活動のもとになっている「河野談話」が「証拠」かといえば、これも「論拠」とはなっても「証拠」足り得ない。また、世界中を一人歩きしている、性奴隷「20万人」説のもととなった吉見氏(中央大学教授)の説も、その客観的且つ具体的な実証はない。また「証拠」とは成り得ず、個人の「学説」の域を出ていない。事実ではないからだ。
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証拠の有無の検証を

 事実を直視せよ、と云うのであれば、先ず成すべきことは、「証拠」や「証言」の具体的な検証とそれを取り巻く状況の認識と分析、検証が不可欠である。まして、米国は、他国に「謝罪」を要求するのであれば、自国の「事実」を先ず直視してからでも遅くはない。

 たとえば、特定国が喧伝するように、日本軍が20万人もの性奴隷狩りをしたというのであれば、言葉は悪いが、当地には混血児が多数存在していても不思議ではない。だが、それらの記録も話も存在していない。

 だが、ベトナム戦争時に、米国の容認下で韓国軍がベトナムで展開した虐殺と婦女子狩りではどうか。非戦闘員である現地民間人になした大規模な虐殺と強姦により、多数の孤児と混血児をベトナムに残したのは、いったいどこの国々であったか。日本にも、ベトナムと共通する「爪痕」は確かに存在している。

 終戦直後の日本で、米軍兵士と、それを真似た朝鮮人がどのような暴虐をなしたか、その無数の爪痕と記録が残る事実にこそ、米議会はよく考え合わせ、熟慮すべきである。そして、かくなる決議案を以って、日本を質す筋合いにはないことに気づくべきである。あえて、謝罪要求の対象とすべきは米国自身であり、韓国であることに気づくべきだ。少々長くなるが、以下に、1つの資料として紹介する。
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SAPIO紙について

 購読されている読者もおられることと思う。ご存知の通り、北朝鮮による拉致事件をはじめ、中韓の反日運動や創価学会はじめカルト宗教の事態を衝く「SAPIO誌(小学館)」は、筆者が時折参照し、記事が指し示す事柄を資料として用いている。いうなれば、「雑誌」に終わらない貴重な隔週誌である。

 その誌面(4月11日号)に、現時局を指摘した記事があったので、既読の方は多くおられると思うが、表題の記事が指し示す資料を短稿に引用し、周知する。

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SAPIO (サピオ) 2007年4月11日号(表紙)
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日本は攻勢に転じよ!

 表題記事は、次のように締め括られている。 

(以下、記事より引用)


 自民党の戸井田とおる議員は、(平成19年)2月21日の衆院内閣委員会でこう質した。

 「(決議案を提出した)マイク・ホンダ議員に翻訳して差し上げてもらいたい資料がでてきました。(中略)これは、官報号外、昭和28年2月27日に載った第15回国会の社会党の藤原道子議員の質問の議事録です。(中略)そこにはこのように書かれてあります。『米軍の暴行事件は、昨年十二月まで独立後」独立後ですよ、「八ケ月間におきまして千八百七十八件を数え、なお泣き寝入りになっておりまする件数は膨大な数であろうと想像されております」」。

(以上、引用)
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記事の示す事実 (以下、長文引用)

 日本人は「言挙げ(言葉に出して、言いたてること)」するのが苦手な民族であるといわれる。米国で湧き起こった「従軍慰安婦非難決議」にたいして安倍首相や外務省の駐米大使が、正面切って反論しないのはその典型なのかも知れない。しかし、ここに提示される資料をもってしてもなおも立ち上がらずにいられるだろうか。怒りの発掘レポート、言挙げせよ、日本人!

 4月26、27日に予定の安倍首相初訪米の直後に米国下院議会で採決されようとしている「従軍慰安婦非難決議案」は、「日本帝国軍隊が第2次大戦期に若い女性たちを慰安婦として強制的に性奴隷化(セックス・スレイブ)したことに(略)謝罪する」ことを日本に求めるものだ。前文では「20世紀最大の人身売買」であり「集団暴行、強制中絶、殺害、手足切断など」の蛮行を犯したと断じている。 「従軍慰安婦」については、史料検証でその事実がなかったことが証明されているが、詳述は別稿に譲ろう。

 ここでは、「戦争と性」の問題を考える上でひとつの史料を提供したい。それは、GHQ占頷下の日本人女性にたいする米兵の「強姦事件」についてである。
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マッカーサーが厚木に降り立った直後に9件の強姦事件

 占領初期のGHQ 1945年9月「月例報告」では、「日本人は米兵に協力的であり、占領は秩序正しく、流血なしで行なわれた」などと記載されている。また、GHQ外交局長W・J・シーボルドは「(米軍)戦闘部隊兵士の行動は、特に感銘すべきものであった」、「米兵たちはジャップの女なんかには、手を出す気もしない」と記している(『マッカーサーの日本」1970年刊、新潮社より)。

 しかし、これら米国側の記録は、事実ではない。 この米軍の「嘘」を暴く鍵は、占頷下の1945年10月4日に解散させられた「特高(特別高等)警察」(約6000人)の記録の中にある。米軍進駐後、「特高」は「治安維持法」に基づく監視の必要もなくなり、もっぱら進駐軍の素行調査をしていた。前掲の『マッカーサーの日本』にこの記録のことが一部記されており、原本をこの目で確かめてみたいと思った筆者は、国立公文書館でこの資料を発見した。手書きの原本が白日の下に晒されるのは今回が初めてだろう。

 そのファイルが377ページに及ぶ「進駐軍ノ不法行為」(内務省警保局外事課)である。マッカーサーが厚木に降り立った8月30日から10月4日の解散命令までの米軍の不法行為を特高警察が取り調べたファイルを内務省警保局がまとめたものだ。

 ファイルによれば1945年8月30日〜9月10ロの12日間分だけでも強姦事件9、ワイセツ事件6、警官にたいする事件77一般人に対する強盗・略奪など424件(この中には、後述するような理由で強姦事件も含まれていると考えられる)。特別事件として「葉山御用邸侵入」「二重橋ニ侵入皇居撮影事件」「宮様御用列車ニ同乗未遂事件」などが発生している。

20070623009
「8月30日の記録と8月30日〜9月10日の統計」(SAPIOより)
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 「特高」は解散命令が出た10月4日の記録も残している。その日の記録には「公僕学校、倉庫等ニ侵入シ保管品等ヲ不法徴発 被害発生場所屋内10件 屋外10件」「両国ノ浴場ニテ女性暴行未遂事件」などとある。掠れたページもあり、正確な数字ではないが、全ファイル約1か月間で少なくとも強姦37件(未遂を含む)、その他の不法行為945件を数える。


 実際、「特高廃止」指令が出ると、全国の「特高」は、書類を焼却してしまった。しかしス特高」の元締「内務省警保局」の秘密報告書は焼却されず、この米軍の不名誉な記録は、没収され、米国に持ち去られたのだ。その後、実は1973年12月日本に返却され、翌年1月から、国立公文書館に所蔵されていた。
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妻36歳、長女17歳に対し拳銃で脅して……

 米軍の不法行為を明らかにする前に、敗戦後、日本政府が日本女性を米軍の「性の暴力」からいかに守るか、苦心惨憺した様子を少し述べてみたい。日本政府が「慰安所」設置に直接関与したのは、戦時中でなく占領下の米軍(進駐軍)のためにだったのだ。

 1945年8月21日の閣議で近衛文麿国務相が、米軍兵士用の慰安所の設置を主張し、池田勇人主税局長の裁断で5000万円の貸し付けが決定し、1945年8月28日「特殊慰安施設協会」(後に、国際親善協会RAAと改称)が設立された。

 その目的は、「関東地区駐屯軍将校並びに一般兵士の慰安施設」となっていた。GHQは、1945年9月28日、都内の占領軍人用売春街を指令している。

 しかしこれでも日本人婦女子の貞操が守れなかったのである。実際は主権回後後まで膨大な数の女性が「強姦」されていた。ファイルに記された調書をつぶさに見ていこう(公開された文書は被害者の氏名などが黒塗りにされており、その部分は省略して記す)。強姦事件は、米軍の進駐とほぼ同時に始まっている。8月30日は横須賀に海兵隊が上陸した日だが、いきなり事件が発生している。
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強姦事件

(一)八月三十日午後六時頃横須賀市OO方女中、34右一人ニテ留守居中、突然米兵二名侵入シ来リ、一名見張リ、一名ハ二階四畳半ニテ○○ヲ強姦セリ。手ロハ予メ検索ト称シ、家内ニ侵人シ、一度外ニ出テ再ビ入リ、女一人ト確認シテ前記犯行セリ

(二)八月三十日午後一時三十分頃横須賀市○○方。米兵二名裏ロヨリ侵入シ、留守居中ノ右同人妻当○○三十六年、長女○○当十七年二対シ、拳銃ヲ擬シ威嚇ノ上、○○ハ二階ニテ、○○ハ勝手口小室ニ於テ、夫々強姦セリ(以下略)》

 同9月1日、房総牛島に米軍上陸。ここでも事件発生。 《○○方ニ侵入セル米兵三人ニ留守番中ノ妻(ニハ)(中略)奥座敷ニ連行、脅迫ノ上ご三人ニテ輪姦セリ》

 《九月一日午後六時頃トラックニ乗リタル米兵二名(中略)市内○○ニ来り女中一名(24)連レ去リ(中略)野毛山公園内米兵宿舎内二於テ米兵二十七名(ニ)輪姦サレ仮死状態ニ陥リタルモ(中略)三日米兵ニヨリ自宅迄送り届ケラレタリ》

 このような記載が「特高」解散の10月4日まで続く。

 《九月十九日夜十一時頃、(横浜市)保土谷区、出征中○○妻(27)、(中略)ニ侵入シ「ジャックナイフ」デ情交ヲ迫リ、被害者之ヲ拒否シテ戸外二逃避セルヲ(中略)畠(畑)ニ連行、三名ニテ輪姦シタル。更二連中ノ三名ノ黒人兵ガ同所二於テ輪姦逃走セリ》

 調書を総覧すると、米兵の蛮行が眼前に浮かんでくる。

 警察官はいたるところで暴力を振るわれ、拳銃を取り上げられている。一般人は、「乗用車」「ラジオ」「現金」「腕時計」「背広」や「ゲタ」まで、手当たり次第に強奪されていた。

《九月二日午前十一時三十分頃武装米兵六名ハトラックニテ横浜市中区山手町二ー二番地共立女学校内、校長神保勝也二侵入各室ヲ物色シタル後現金二千七百十圓及ウオルサム腕時計一個ヲ強奪逃走セリ》とこのような「強奪逃走せり」が続くのだ。

 その中に、首を傾げたくなる記述がある。それは、「民家に米兵が押し入り、若い女性から腕時計だけ強奪して逃走せり」との記述が散見することである。

 貞操は取り返すことができずとも、せめて当時、貴重だった「腕時計」だけでも、取り返したいとの思いから被害届を出していたのではと思われる。先述した945件の強盗・略奪に強姦(あるいは強姦未遂)も入っているのではないかと考えるのはこのためである。

 このような状況は、神奈川県民を震撼せしめたであろう。当時の朝日新聞(1945年9月5日付)は三股見出しで「神奈川県の女生徒は休校 教職員が家族を巡回指導」と記している。

 しかし、9月19日、GHQ「プレスコード」が発令されて以後は米兵を批判する記事は、新聞紙面からすべて消えている。これで米国は、「強姦」など人道上の米軍の犯罪を封印できたと考えたであろう。しかし記述のように「特高」の調書は、言論統制されてからも継続して綴られていたのだ。
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青少年性犯罪者が
「米兵の真似して何か悪い」と開き直る


 当時の憤りを取材して『黒い春《米軍・パンパン・女たちの戦後》』を1953年に五島勉氏が出版している。その内容は、調書よりも残酷さがひしひしと伝わってくる。五島勉氏は1948年から調査を開始し、本人やその家族・友人・事件の目撃者など1000人にも及ぶ面接にもとづいて占頷下の空白時期をまとめた。

20070623010
「進駐軍向けの慰安施設の一環として
利用された銀座のキャバレー(1945年)」

(SAPIOより)
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 その中の二九外務省外局・終戦連絡委員会横浜事務局の北林余志子氏の作成した米軍の横浜市内と県下の一部を含む、不法行動リストによると、10月末日までで強姦29件となっている。しかも、届け出ない件数は数十倍になると証言しているのだ。


 五島氏は「印刷ミスではない」と断わってこう記す。 「T子(十一歳・武蔵野市小学五年生)R子(同)A子(同)の三人は、十月(中略)武蔵野の林のなかを仲よく手をつないで歩いていた」 《キャンプ・トコロザワの近くで夢中でスケッチをしていると、まずR子がおそわれ、次々に米軍の餌食になってしまったのだ。彼女達のスカートは切られ、何か起こったのか全然わからなかった。子とA子は気絶し、T子はまた泣き叫ぶと、アメリカ兵は彼女の顔を蹴り、ジープで去った》(要旨、以下同)

 このような事件が全国で続発している中で、1946年4月東京・大森で恐ろしい事件が勃発した。 《N病院(=中村病院。その後廃業し、跡はビルと道路になった)は三白のトラックに分乗した米兵によって、およそ一時間ちかくも病院じゅうを荒らされた。彼等の総数は二百人とか三百人とかという説もある。婦人患者のうち重症者をのぞく四十故人と看護婦十七人、ほかに十五ないし二十人の付添婦・雑役婦などが凌辱された》

 「彼等は大病室に乱入し、妊婦・産婦・病気の婦人たちのふとんを剥ぎとり、その上にのりかかった」「二日前に生まれたばかりの赤ちゃんフミ子ちゃんは、一人の兵隊にユカに蹴落とされて死んだ」「M子などは続けさまに七人の兵隊に犯され、気絶した」

 そして、「裸でころがっているあいだを通って、侵入してきたときと同様、彼等は表玄関と裏口から引き揚げていった」−−慄然とする内容である。

 安倍首相や駐米大使がひたすら日本は既に「謝罪している」として、逆に「従軍慰安婦」を既成事実化するかのような姿勢であるのにたいして、自民党の戸井田とおる議員は2月21日の衆院内閣委員会でこう質した。

 「(決議案を提出した)マイク・ホンダ議員に翻訳して差し上げてもらいたい資料がでてきました。(中略)これは、官報号外、昭和28年2月27日に載った第15回国会の社会党の藤原道子議員の質問の議事録です。(中略)そこにはこのように書かれてあります。『米軍の暴行事件は、昨年十二月まで独立後」独立後ですよ、「八ケ月間におきまして千八百七十八件を数え、なお泣き寝入りになっておりまする件数は膨大な数であろうと想像されております」」

 戸井田議員は、この資料で米国に攻めに転じよと言っているわけだ。同官報にはこう続けられている。 「各地における青少年の特に性犯罪、学童の桃色遊戯等の取調の際、彼らは係官に対して、アメリカ兵の真似をしたことがなぜ悪いかと反問し、大人の世界に精一杯の抗議をいたしておるのであります」

 いまだ数々の戦争犯罪に対して、一度も謝罪したことのない米国に、なぜ毅然とした態度で挑まぬのか。米国は、日本を非難する前に、ワシントン国立公文書館や米軍公文書館で調査してみよ。

 慰安婦非難決議の第4頂にこうある。

 「現在と未来の世代にわたり、このようなおぞましい犯罪があったことを教育せよ」 この言葉、そっくりそのまま米国にお返しする。

*加藤良三・駐米大使は決議案か提出されている米国下院議会に、日本政府は慰
安婦問題の責任を認めて謝罪を済ませている、元慰安婦への補償としてアジア女
性基金に4000万ドルを拠出している、などの書簡を送った。


(以上、長文引用)
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【筆者記】

 決議案が本会議で可決されれば、それをもとに1兆ドルにおよぶ賠償を日本に求める目論見あり、との指摘がある。訴訟社会・米国に溢れる弁護士たちを特定国の“被害者救出”に当たらせ、訴訟における成功報酬を供与せんとする意図が同議案の背景にある、との指摘もある。あくまで「指摘」の次元だが、これらがまったくのフェイクとは思えない。

 ある意味で、「利益行動」と「反日」は一部の連邦議会議員の仕事なのかもしれない。動議によって提出された対日「謝罪要求決議案」なる筋違いな案件を採決し、万一、7月の本会議で可決するようなことがあれば、かの「河野談話」のケースと同じように、特定国が次の「踏み台」にし、やはり、日本に対する国辱行動と膨大な賠償請求を吹っかけてくるであろうことは明白だ。そして、次なる新たな対日「決議案」にエスカレートする可能性も生まれる。


 ゆえに「法的拘束力はない」、たかが「他国の決議」とたかを括る。そのような政治姿勢が国内に徘徊しているとすれば、それは誤認識である。対象は「日本」なのだ。かかる反日策動は「国辱」そのものであって、もし、かくなる事態に至れば、主権国家である日本の国民として、米軍から日本社会が受けてきた「事実」を提示し、米国にはその資格がないことを問い質し、日本の尊厳と名誉を守る行動に出るべきではないのか。

 それが日米間の溝を深める。また、それが特定国の狙いである、とする分析は確かにある。筆者もそう考えていた1人である。だが、現実はどうだろうか。米国に対して「YES MAN」になることが「良好な日米関係」ならば、主権国家の意義はない。また、1つ、2つの反駁を加える程度で溝が出来、日米関係が悪くなるのであれば、もしも、将来、有事が勃発した時に真に「頼りになる」関係なのか、疑問符を付けなければならない。
 

 事の次第によっては、我が国こそは「原爆」と「空襲」による日本民間人の大量虐殺の「事実」。この「事実に」にもとずづいたに対米「謝罪要求決議法案」をそれぞれ起草し、併せて、上記にその一部を記事を通じて紹介する、戦後における我が国の婦女子を対象とした陵辱行為に対する「謝罪要求決議法案」を併せて起草してもよい。実は、こうした日本の反駁を恐れる考えが多数であったために、過去の対日「謝罪要求決議案」を可決しなかったのではないか、とそう分析する識者の目もある。

 以上、重ねて申し述べておきたい。

 「虚構」による国辱が起これば、それに対しては「真実」をもって反駁する。この政治行動は、いかなる主権国家においても、外務上で実行すべき「当然」の権利であり、且つ国家が自国民に対して果たすべき当然の「義務」であることは先稿に述べた通りである。
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2007/06/23(土) 04:55:57 [歴史関連資料]

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韓国軍は何をして来たか

20070422002
女性たちを強姦した後、殺害
  韓国軍は残酷な大量虐殺を行ったため、南ベトナム民族解放戦線(NLF)さえ、できるだけ直接的な交戦は避けようとした程だったと伝えられる。前線もなく、敵が誰なのかもわからないベトナム戦でベトコンの根拠地を捜索、 破壊するという作戦上の名分が老若男女を区別しない虐殺行為を正当化させた。筆者が持っている記録は、その内容が非常におぞましく、詳細に明らかにするもので、負担がなくはなかったが、 その一部をここに紹介する。「ハンギョレ21 1999年 05月 06日 第256号」/写真は同記事より
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韓国軍のベトナム戦争参戦

 有志ブログの多くがあつかわれて来た事柄と思う。真実に取り組み、英邁な論及を尽くす諸氏に敬意を捧げ、小ブログからも小稿を呈する。読者からお知らせいただいたこともあり、小稿では、ベトナム戦争における韓国軍の行為について触れる。

 好き嫌いの感情次元の問題ではなく。特定国の侵蝕を許せば許すほど、日本社会は秩序と国益を喪失し、国民生活も危うくなる。その教訓の一端を、ベトナム戦争、およびその戦後の事例に観ることができる。

 韓国軍のベトナム戦争参戦は昭和39年(1964年)に始まっていた。当初は、医療支援団や教官等、約270名をサイゴンの南のプンタウに派遣。翌1965年2月に、米軍が北爆を開始、次いで米海兵隊が3月にダナンに上陸。それに続き、10月から、韓国軍は1万数千名を派兵して本格的に参戦した。

 以後、19
65年から73年までの間、韓国軍の戦闘部隊約30万名がベトナム戦争に参戦。この過程で、韓国軍は戦死者4960余名、負傷者10余万名を記録。一方、韓国軍が殺傷したベトナム人は4万1450名(公式統計のみ)に上る、と表題記事は伝えている。

 韓国軍の派兵は、米軍に次いで多かった。その理由は、「派兵規模」に応じた「補助金と対米移民枠」を得られたからであった。いわば、韓国にとっては、あからさまな国益を兼ねた参戦であり、しかし、その残虐ぶりは、後に自国のジャーナリズムが報じるようになり、「住民虐殺」と「韓越混血児(ライタイハン)」が問題として問われることになった。
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残虐を極めた韓国軍

 同記事には、『韓国軍は残酷な大量虐殺を行ったため、南ベトナム民族解放戦線(NLF)さえ、できるだけ直接的な交戦は避けようとした程だったと伝えられる』と、特に、掃討作戦における非道の様子を記している。

 同記事は、韓国軍の残虐行為を次のように概略している。

(以下、引用)


 このような捜索掃討作戦は、一次的にじゅうたん爆撃等で作戦地域を公開して、 韓国軍等の地上軍が現場に投入されて村に残っている住民たちを即決処分した後、家を燃やしてブルドーザー等で村全体を押し潰す方式で展開した。生存者の韓国軍に関する証言で共通な点は、 無差別機関銃乱射、 大量殺戮、 妊産婦、 女性に対する強姦殺害、 家屋への放火などだ。生存者の証言を土台に韓国軍の良民虐殺方式を整理してみると、いくつかの共通した類型が現れる。

-住民たち(大部分が女性と老人、 子供たち)を一ケ所に集めた後、あるいはいくつのグループにまとめて、機関銃を乱射して抹殺する。

-住民たちを一戸に追い詰めて銃を乱射した後、家と一緒に死亡者も生存者も全部燃やす。

-子供の頭を割ったり首をはね、 脚を切ったり四肢を切断して火にほうり込む。

-女性を強姦した後、殺害して、 妊産婦の腹を胎児が破れ出るまで軍靴で踏み潰す。

-住民たちを村のトンネルに追い詰めて毒ガスを浴びせて窒息死させる。

 韓国軍の大量虐殺が強行された所では、子供たちの口にキャンディやケーキが含まされていた。老人たちの口にはタバコが咥えられていた場合が多かった。恐らく、村人を安心させながら一ケ所に集めるための手段だったようだ.

(以上、引用)

 以上、ごく一端ではあるが、韓国の雑誌「ハンギョレ21」誌の記者が「自ら取材し、掲載した」とされるの和訳記事から一部を紹介した。
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韓国の謝罪も補償も無し!

 ベトナム戦争の「混血児問題」として知られている事実の中に、上述の「韓越混血児」がある。ベトナム戦争に参戦時に、韓国軍兵士や軍属の韓国民間人が「強姦」「非管理売春」「現地妻の保有」などにより、多くの混血児が生まれ、戦後に放置された問題である。

 『現地妻との間に生まれた混血児の数は、2004年9月18日付の釜山日報の記事によれば、5千〜3万人と推定されている』(Wikipedia) 。また。『現時点では、韓国政府から被害者や混血児に対する謝罪や補償は行われていないが、最近、韓国人(父親)が認知しない場合でも、写真など客観的に関係を立証する資料があれば国籍を付与する法案を積極的に検討する事にした』と()ある。実施ではなく「検討」である。

 「謝罪と補償」。その見方にもよるが、速やかにそれらを実行する日本政府の対応とは雲泥の差がある。また、金大中氏(当時・大統領)が訪越(1998年)した折に、戦争当時に、ベトナム人に苦痛を与えたことに対して謝罪した、と伝えられ、その折に、『ベトナムのチャン・ドク・ルオン大統領は、両国は未来志向的に関係を構築していかなければならない」と述べ過去には関心を示さなかった』(同)とあるが、韓国は、直後に謝罪を撤回している。

 韓国にとっては、日本に対する“加害責任”を問い続ける立場から、金大中氏の「謝罪」は外交カード維持のためのポーズではないか、と認識されている。ゆえに、混血児を産んたベトナム女性は、韓国からは補償をまったく受けていない。自国民が犯した罪の謝罪と補償を果たさない韓国。このような国家が、日本に対して“従軍”慰安婦の難題を、しかも捏造をもとに延々と突きつけ、補償せよという資格はないのである。
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韓国軍の従軍慰安婦

 韓国軍には従軍慰安婦が存在していた。その多くの資料を読者からご指摘いただいているので、紹介する。

 先ず、韓国語で書かれた「韓国軍の特殊慰安婦は事実上の公娼 」(仮訳)と題する記事は、論旨が混沌としているが、韓国独自の従軍慰安婦が存在していたことを記している。。朝鮮戦争当時(1951〜54年)、云く、『韓国軍が 1951年頃から 1954年まで 「特殊慰安婦」という名前で、固定式あるいは移動式の慰安婦制度を取り入れて運用したのは、否認することができない歴史的事実である』と。

 また云く、『特殊慰安婦実績統計表は、 1952年度に 4ヶ所で編成された慰安婦 89人が年間 20万4560人の兵士を 慰安したと記録している。 慰安婦 1人が一日平均 6〜7人の将兵を慰安した。 またチェ名臣・チァギュホン・ギムフィオなど予備役将軍たちも朝鮮戦争期間に経験した慰安婦制度に対して 「言いたくない軍部の恥部だが事実だと証言している』とある。

 何故、事細かに記録が残っているかといえば、韓国が「公娼」と認めていたからである。この点が、「日本軍を真似た」と記述しているが、実質的に、日本軍兵士が相手にした「私娼」とは異なる。つまり、韓国の「特殊慰安婦」こそが真の「従軍慰安婦」であった。同記事の写真をご覧いただきたい。

20070326002
捕らえられた北朝鮮の看護婦2名(OhMyNews 2002年2月26日)

 写真のキャプチャには、「朝鮮戦争期間に韓国軍と米軍が逮捕した人民軍看護婦 2人。当時逮捕した北朝鮮女性の一部はレイプされるなど、強制で 慰安婦になった」と。なるほど、お得意とする「強制性」「性奴隷」は韓国の行為であった。
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自国の「恥」を日本に転嫁する韓国!

 同記事には、さらに、『1950年当時医科大学生だった李何某(73) さん(2002年の記事当時の年齢)は、拉致、または強要によって軍隊慰安婦になる所だった。また、他の事で、6月25日当時、ソウルに残り、(北朝鮮の)人民軍に協力したかどで、(韓)国軍に逮捕されたこの李さんは他の女医大生 3人と一緒に引き渡され、部隊の将校 4人の「割当」になった。 この李さんは幸い、自分を可愛想に思ってくれた一将校の助けで釈放されたが、他の 3人はあの時以後二度と(姿が)見られなかった』と。

 北朝鮮(人民軍)の中から捕らえた女性のみならず、自国民の中からも女性を強制的に拉致、逮捕して娼婦にしていたのである。確かに「言いたくない軍部の恥部」であろう。言いたくない代わりに、自国の「行為」と「恥」を日本に転嫁し、「罪」の言い逃れを図っているのである。

 恥知らずな国家である。筆者は学者の端くれであるから、「真実」か「虚構」かで物事を判別する。その判別の目からすれば、韓国という国は「嘘」また「嘘」でグチャグチャに腐り切っている。中共と侮日策動のクラスタを形成して編み出した「虚構」は、たとえ一時的には隆盛を見せても、「真実」をもとにした日本の良識の反撃に遭えば崩壊する運命にある。

 先人英霊に汚名を着せたまま、子々孫々にこの日本国を渡すわけにはいかない。

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【筆者記】

 以上、短稿ながら、韓国軍の暴虐と従軍慰安婦の一端について、先稿をもとに紹介する。日頃、読者のみなさまからいただく真摯なコメント、有意義な情報を有り難く思う。「ご苦労様」とお声をかけていただく時、小稿ながらアップして良かったと思う。感謝する。
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 読者のみなさまにはお忙しい中、ご訪問をいただき感謝しています。現在、ブログが平常通りに稼動し、新たに記事をアップさせていただけたことを有難く思います。 拙い記事に対し、有志のみなさまより、内容を的確にフォローいただくコメント、身を案じてくださるコメントに感謝します。

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 国民の手で日本を取り戻しましょう!
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