日韓基本条約(日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約)

 

 

1951(昭和26)年の予備会談を経て1952(昭和27)年〜65年まで14年越しの日韓両政府による7回にわたる韓国交正常化交渉のすえ、1965(昭和40)年6月22日、東京で正式調印された、日韓(日本と大韓民国)両国間の国交開設のためその基本的条項を定め締結された、大韓民国を朝鮮における唯一の合法政府と認め、両国間の外交関係の開設、日韓併合条約の失効などを規定した条約で、この条約の締結で日韓関係は正常化された。基本条約で韓国は、日本の植民地支配による個人の未払い賃金を含む一切の対日請求権を放棄し、その代償として5億ドルの無償・有償協力資金(他に民間協力資金3億ドル)を受け取った。

 

全7条からなり両国間の外交関係の開設(第1条)、日韓併合条約など旧条約の失効(第2条)、韓国政府の管轄権(第3条)、国連憲章の遵守(第4条)、通商貿易回復(第5条)、民間航空の開設(第6条)、批准(第7条)を決めた。

 

韓国併合条約などの有効性については、韓国側は「不法に締結されたため当初から無効」、日本側は「サンフランシスコ平和(講和)条約の発効時から無効」とそれぞれ主張して日韓の立場が大きく分かれた結果、「もはや無効」()と条約に記し、双方の都合にあわせて解釈することになった。

 

これとともに、(1)日韓漁業、(2)日韓請求権経済協力関係、(3)、在日韓国人法的地位・待遇関係、(4)文化財関係を規定した4協定が調印されたが、日韓基本条約とこの4つの協定、及び25件の付帯文書をまとめて「日韓条約」と総称(そうしょう=いくつかの物を一つにまとめて呼ぶこと。「総名」ともいう)される

 

本交渉とは別に裏交渉も同時並行で進み、第6次会談中の1962(昭和37)年11月、日本が経済協力する代わりに、韓国が個人補償など8項目の対日請求を放棄する解決方針日韓基本協定が決まった。

 

この方針に基づき、請求権経済協力協定では、請求権問題が「完全かつ最終的に解決された」と明記されたが、これが韓国の請求権が消滅したとする日本政府の解釈の根拠となっている。

 

韓国政府は2004(平成16)年12月28日、日韓基本条約締結交渉に関する文書の一部(請求権に関する議事録など5件)を05(平成17)年1月17日から公開すると発表、日韓基本条約に関する交渉文書5件(約1200ページ)を初公開したのに続き、残りの156件(約3万6千ページ)を独立記念日の8月15日までに公開する方針である。

 

韓国では、外交文書は30年経過後に公開されるのが原則だが、日韓条約については、当時の朴正煕(パクチョンヒ/ぼくせいき。1917〜1979。日本の陸軍士官学校卒。61年5月に軍事クーデターを起こして政権を樹立、63年に大統領就任。アメリカの支援で軍備を強化、日韓基本条約調印・高度経済成長政策を進めたが、79年に暗殺された)政権が植民地支配の清算や国民への補償をないがしろにしたまま経済協力資金目当てに締結を急いだ、との批判があったことから、対日関係悪化や個人補償要求の高まりを恐れ、交渉文書の公開は見送ってきた。だが、04年、市民団体が起こした行政裁判で国が敗訴し、一部文書の公開を命じられたのを契機に、植民地時代に日本に協力した「親日派」や戦後の軍事政権による人権侵害の真相解明など「歴史見直し」を最優先課題とする盧武鉉(ノムヒョン)政権は、「非公開を続けるより、国民にさらけ出して歴史の判断を仰ぐ」として公開を決断したのである。

 

公開された文書から韓国政府が個人の対日請求権を自ら放棄していたことなどが判明し、新たな個人補償論議に火を付ける結果となっている。

 

なお、日本では日韓交渉に関する外交文書は情報公開請求により、ごく一部が公開されているが、大部分が非公開のままである。日朝交渉への影響を考慮してのものとみられる。

 

 

 日本国および大韓民国は、

 両国民間の関係の歴史的背景と、善隣関係および主権の相互尊重の原則に基づく両国間の関係の正常化に対する相互の希望とを考慮し、

 両国の相互の福祉および共通の利益の増進のためならびに国際の平和および安全の維持のために、両国が国際連合憲章の原則に適合して緊密に協力することが重要であることを認め、

 1951年9月8日にサン・フランシスコ市で署名された日本国との平和条約の関係規定および1948年12月12日に国際連合総会で採択された決議第195号(III)を想起し、

 この基本関係に関する条約を締結することに決定し、よって、その全権委員として次のとおり任命した。

 

   日本国

       日本国外務大臣     椎 名 悦三郎

                      高 杉 晋 一

 

   大韓民国

       大韓民国外務部長官    李 東  元

       大韓民国特命全権大使   金 東  祚

 

 これらの全権委員は、互いにその全権委任状を示し、それが良好妥当であると認められた後、次の諸条を協定した。

 

  第1条

 両締約国間に外交および領事関係が開設される。両締約国は、大使の資格を有する外交使節を遅滞なく交換するものとする。また、両締約国は、両国政府により合意される場所に領事館を設置する。

 

  第2条

 1910年8月22日以前に大日本帝国と大韓帝国との間で締結されたすべての条約および協定は、もはや無効であることが確認される。

 

  第3条

大韓民国政府は、国際連合総会決議第195号(IIIに明らかに示されているとおりの朝鮮にある唯一の合法的な政府であることが確認される。

 

  第4条

 

(a) 両締約国は、相互の関係において、国際連合憲章の原則を指針とするものとする。

(b) 両締約国は、その相互の福祉および共通の利益を増進するに当たって、国際連合憲章の原則に適合して協力するものとする。

 

  第5条

 両締約国は、その貿易、海運その他の通商の関係を安定した、かつ友好的な基礎の上に置くために、条約または協定を締結するための交渉を実行可能な限りすみやかに開始するものとする。

 

  第6条

 両締約国は、民間航空運送に関する協定を締結するための交渉を実行可能な限りすみやかに開始するものとする。

 

  第7条

 この条約は、批准されなければならない。批准書は、できる限りすみやかにソウルで交換されるものとする。この条約は、批准書の交換の日に効力を生ずる。

 

 以上の証拠として、それぞれの全権委員は、この条約に署名調印した。

 

 1965年6月22日に東京で、ひとしく正文である日本語、韓国語および英語により本書2通を作成した。解釈に相違がある場合には、英語の本文による。

 日本国のために

                      椎 名 悦三郎

                      高 杉 晋 一

 大韓民国のために

                      李  東  元

                      金  東  祚

 

国連決議第195号(V)==国連は、1948(昭和23)年2月1日、同年5月10日に南朝鮮で単独選挙を行うと決定するが、単独選挙反対運動が朝鮮半島の全国的規模で展開され、そのための検挙者・死者・負傷者は各数万を数えた。5月10日、国連朝鮮委員会の監視のもとで、制憲議会議員の単独選挙が強行され、5月31日制憲議会を開催、互選により李承晩(当時73歳。りしょうばん/イ=スンマン=1875〜19654。日本の韓国併合後、アメリカなどで独立運動を行い、大韓民国の初代大統領となる。大統領ポストを永続的に確保しようと、再三にわたり憲法改正【悪】を強行し、1960年316日の大統領選挙では極端な不正選挙を実施して4選をかちとった。だが同年4月、その独裁的政治手法と大統領選挙の不正に憤慨した学生・市民を中心に糾弾運動が起こり、大統領に就任できずにアメリカ・ハワイに亡命【4月革命】、5年後の1965年ハワイで客死【かくし=異国で死ぬこと】する【91歳】。1952年、国防上及び資源保護の為、国際法に違反して一方的に広範な公海上に設置した海域線、いわゆる「李承晩ライン」を宣言、日本領の竹島【韓国名は独島】の占拠や、教育機関における反日教育の実施等、多分に日本を敵視した政策が採られたことは有名である)が議長に選出される。

同年7月10日には、制憲議会が国号を「大韓民国」と決定(宣言は8月15日)、李承晩が大統領に就任、国連は、大韓民国政府を朝鮮半島の唯一の合法的政府と認定した、それが第195号(V)決議である。宣言の1月後の9月9日、金日成(キムイルソン。36歳)が、朝鮮民主主義共和国を宣言する。そして、2年後の1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発する。

しかし、その後、韓国と北朝鮮が同時に国連加盟を許され、北朝鮮も国家として承認されたため、この決議は事実上失効したことなる。それゆえ、日韓基本条約第3条もまた有名無実化している。

 

 

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