2009.02.11
新しいweight-trainning器具がやってきた!!(写真追加・加筆修正版)
新しいweight-trainningのsetを「導入」しました。
我が家のリビングルームにweight-trainning機器を設置したのが昨年の秋。それまではルーフバルコニーにベンチプレスのsetが置かれていました。
私は大学に入学し極真会館に入門した時からこの約30年間、weight-trainningを続けてきました。ただ1989年に現在の夢現舎を設立してから約7年間、仕事に追われprivateでもtroubleを抱え込み、殆どバーベルを持たない期間がありました。
倅は3歳の終わり頃、つまり1992年に極真会館へ入門しました。ですから92年以降は<親子稽古>を始めてはいたのですが、何せ幼稚園児・小学校低学年が相手です。指導はしても自分自身の稽古もtrainningをする余裕もありませんでした。せいぜい<親子稽古>の後に軽くシャドーをしたり柔術の真似事をするのが精一杯でした。
(倅との<親子稽古>。稽古とは名ばかり。私の体はブクブク)
それでも1990年代初期は、健在だった大山倍達総裁が直接指導する企業人相手の稽古に度々出席させられたりしていたので、半強制的に最低限の運動はしていました。しかし…、それも1993年の夏までの事です。
また、大志が世話になっていた極真会館城西国分寺道場でも、一時期、指導を任される事がありました。すぐに息が上がり、指導しながら体を動かす事など到底無理な状態でした。
こうして1994年から96年、私の肉体は<ブタ>のように崩れ果て、たった25mも泳げない程に体力が衰え(私は遠泳が得意で、学生時代は無限に泳ぎ続けられるのではないか…そんな幻想を抱く程でした)、体調も急激に悪化してきました。
当然です。格技を学んでいた時代、私のbestーweightは70kgでした。しかし当時の私は80kgを軽くオーバーしていたのです。衣服もだらしなくなり、privateの影響で生活も荒れ放題でした。
そんな自分がどういう因果か<恋>をしたのです。結婚生活に挫折し、既に35の歳も過ぎ、今でいう「around40」となっていた私は、もう2度と熱い恋などする事はないと思っていたのに…。
<恋のエネルギー>は人間を変えてしまう摩訶不思議な力を持っているものです。
それからです。私は改めて自身の肉体改造に取り組み始めました。まずサイクルマシンを購入し、心肺機能と基礎体力の回復を目指しました。毎日、ひたすら30分間、漕ぎ続けました。
恐ろしい事に腕立て伏せは10回も出来ず、腹筋運動は5回もやると腹筋が痙攣する有り様でした。どちらも50回出来るまで最低1カ月は優に要しました。
こうして最低限の体力を戻してから、私は満を持してルーフバルコニーに放置されていたweight-trainningのsetを綺麗に磨き、久し振りにベンチプレスに挑戦しました。驚いた事に40kgしか挙がりません…。かつて125kgまでクリアしていたのに、何と40kgの重い事か!
以来、週2回のペースでtrainningを続けました。ベンチプレスも順調に伸び、倅が中学生になる頃には100kgをクリアし、バーベルカールやスタンディングロウなど他のtrainningも約5種目行うのが定番になりました。
trainningの後、1時間弱ながらも、倅と一緒に空手のsparringや「受け返し」などが出来るようになったのもこの頃です。
倅にweight-trainningを教えたのは高校に入ってからです。ベンチプレスも30kg程度、軽い重量を数多くやらせる事を心掛けました。
その頃、ベンチプレスを120kg近くまでクリアしていた私は突然、肩に激痛が走り、更には空手の後遺症である腰痛が激しく襲ってきました。整形外科、整体などでは、例外なく「いい歳をして100kgなんてバーベルを担ぐのはもっての他!」と戒められました。
それでも自分の体を騙しながらweight-trainningを続け、倅に基本的な技術を教えているうちに、いつの間にか倅はベンチプレスを100kg近く挙げるまでになりました。しかし、それ以上はなかなか記録が伸びません。
考えてみれば当然でした。ルーフバルコニーにベンチプレスなどのsetが置かれている為、雨が降ればtrainningは不可能、真冬の寒い日も真夏のギラギラする太陽の下でも思うように出来ません。春の花粉症の時期も出来ない…。結局、季節や天候に振り回されて規則正しいtrainningがままならなかったのです。
(昨年秋、weight-trainningのsetをリビングに入れました)
(140kgをベンチでクリアした倅)
我が家のリビングルームにweight-trainning機器を設置したのが昨年の秋。それまではルーフバルコニーにベンチプレスのsetが置かれていました。
私は大学に入学し極真会館に入門した時からこの約30年間、weight-trainningを続けてきました。ただ1989年に現在の夢現舎を設立してから約7年間、仕事に追われprivateでもtroubleを抱え込み、殆どバーベルを持たない期間がありました。
倅は3歳の終わり頃、つまり1992年に極真会館へ入門しました。ですから92年以降は<親子稽古>を始めてはいたのですが、何せ幼稚園児・小学校低学年が相手です。指導はしても自分自身の稽古もtrainningをする余裕もありませんでした。せいぜい<親子稽古>の後に軽くシャドーをしたり柔術の真似事をするのが精一杯でした。
(倅との<親子稽古>。稽古とは名ばかり。私の体はブクブク)
それでも1990年代初期は、健在だった大山倍達総裁が直接指導する企業人相手の稽古に度々出席させられたりしていたので、半強制的に最低限の運動はしていました。しかし…、それも1993年の夏までの事です。
また、大志が世話になっていた極真会館城西国分寺道場でも、一時期、指導を任される事がありました。すぐに息が上がり、指導しながら体を動かす事など到底無理な状態でした。
こうして1994年から96年、私の肉体は<ブタ>のように崩れ果て、たった25mも泳げない程に体力が衰え(私は遠泳が得意で、学生時代は無限に泳ぎ続けられるのではないか…そんな幻想を抱く程でした)、体調も急激に悪化してきました。
当然です。格技を学んでいた時代、私のbestーweightは70kgでした。しかし当時の私は80kgを軽くオーバーしていたのです。衣服もだらしなくなり、privateの影響で生活も荒れ放題でした。
そんな自分がどういう因果か<恋>をしたのです。結婚生活に挫折し、既に35の歳も過ぎ、今でいう「around40」となっていた私は、もう2度と熱い恋などする事はないと思っていたのに…。
<恋のエネルギー>は人間を変えてしまう摩訶不思議な力を持っているものです。
それからです。私は改めて自身の肉体改造に取り組み始めました。まずサイクルマシンを購入し、心肺機能と基礎体力の回復を目指しました。毎日、ひたすら30分間、漕ぎ続けました。
恐ろしい事に腕立て伏せは10回も出来ず、腹筋運動は5回もやると腹筋が痙攣する有り様でした。どちらも50回出来るまで最低1カ月は優に要しました。
こうして最低限の体力を戻してから、私は満を持してルーフバルコニーに放置されていたweight-trainningのsetを綺麗に磨き、久し振りにベンチプレスに挑戦しました。驚いた事に40kgしか挙がりません…。かつて125kgまでクリアしていたのに、何と40kgの重い事か!
以来、週2回のペースでtrainningを続けました。ベンチプレスも順調に伸び、倅が中学生になる頃には100kgをクリアし、バーベルカールやスタンディングロウなど他のtrainningも約5種目行うのが定番になりました。
trainningの後、1時間弱ながらも、倅と一緒に空手のsparringや「受け返し」などが出来るようになったのもこの頃です。
倅にweight-trainningを教えたのは高校に入ってからです。ベンチプレスも30kg程度、軽い重量を数多くやらせる事を心掛けました。
その頃、ベンチプレスを120kg近くまでクリアしていた私は突然、肩に激痛が走り、更には空手の後遺症である腰痛が激しく襲ってきました。整形外科、整体などでは、例外なく「いい歳をして100kgなんてバーベルを担ぐのはもっての他!」と戒められました。
それでも自分の体を騙しながらweight-trainningを続け、倅に基本的な技術を教えているうちに、いつの間にか倅はベンチプレスを100kg近く挙げるまでになりました。しかし、それ以上はなかなか記録が伸びません。
考えてみれば当然でした。ルーフバルコニーにベンチプレスなどのsetが置かれている為、雨が降ればtrainningは不可能、真冬の寒い日も真夏のギラギラする太陽の下でも思うように出来ません。春の花粉症の時期も出来ない…。結局、季節や天候に振り回されて規則正しいtrainningがままならなかったのです。
(昨年秋、weight-trainningのsetをリビングに入れました)
(140kgをベンチでクリアした倅)
倅は大学に入学とほぼ同時に極真会館に復帰しました。それから1年が経過した今、いよいよ本格的にweight-trainningに取り組まなくてはならない事態になりました。そこで思いきってtrainningーsetを一新し、リビングルームの一画に設置する事にしたのです。
思えば調布のアパートに住んでいた20代の頃、私は狭い6畳間にベンチプレスのsetを置いていました。ベンチ台をテーブル替わりに使ったりする事で、特に不便を感じた事はありませんでした。
だから、たまに「weight-trainningやりたいけど部屋が狭いからバーベルを置けない」なんていう言葉を聞くと、内心で「本気でやる気ねえんだろ!」と罵っています。
(狭いアパートの中にベンチプレスなどのsetを置いてtrainningしていた20代半ばの頃)
室内にweight-trainningの設備を置く事で、季節や天候に左右されず、また時間も関係なくtrainningが出来るようになりました。最近は、私が夜型人間で、仕事も夜にする理由から、倅との<親子稽古>もweight-trainningも午後9時から始めるのが習慣になってしまいました。練習が終わるのは毎回深夜12時過ぎです。
空手の稽古に関する話は脇に置いておきますが、倅のweight-trainningの記録は半年で急激に伸びました。昨年の秋にはベンチプレスで120kgを成功させ、今年に入って140kgをクリアしました(勿論、カール、ロウイングなど多種目を行います。特に倅にはハイクリーンとジャークをメインにさせています。ベンチプレスはあくまで1つの指針に過ぎません)。
こうなるとweight-trainningの器具もより安定した強度の高いものに替える必要が出てきました。そこで、つい先日、約15万円を投資して器具をグレードアップしました。ベンチプレスもバーベルスクワットも可能な頑強なゲージ(ラック)式に替えました。
(BODYーMAKER製で統一)
(リビングはジム兼道場になってしまいました)
(weight-trainning機器は皆、組立式なので、完成させるのに倅と2人で貫徹を余儀なくされました。殆どtrainningと同じ重労働。完成後、朝日を浴びながらクタクタになって2人でカップラーメンを食べました)
メーカーは全て「BODYーMAKER」製です。私は過去、幾つかのメーカーの商品を購入してきました。ベンチプレスのsetも今回で6つ目です。しかし「BODYーMAKER」の製品が安価なだけでなく最もよく出来ていると実感しています。宣伝するつもりはないのですが、weight-trainningの器具は今後、全て「BODYーMAKER」で統一するつもりです。
ちなみに私は「BODYーMAKER」さんに訊きたいのですが、「BODYーMAKER」という名称の由来は何なのでしょう?
BODYーMAKERは明らかに和製英語です。
私は福昌堂時代、1987年に私の発案と企画で「BODYーMAKER」というタイトルのムックを制作しました。勿論、タイトルも私のアイデアです。ムックの「BODYーMAKER」はボディビルとは異なるシェイプアップマガジンを目指しました。売れ行きも好評で雑誌化が検討されましたが、そんな最中に私は退社・独立し、有り金を叩いて「BODYーMAKER」の商標登録をしました。ある版元Gで「BODYーMAKER」の創刊がほぼ決定しましたが…不況の煽りを受けたG社は突然、担当のレジャースポーツ編集局を閉鎖するという措置を取り、「BODYーMAKER」が再び世に出る事はありませんでした。
勿論、商標権は既に切れていますが…、「BODYーMAKER」とは不思議な縁を感じています。
話が脱線しました。
「BODYーMAKER」製のweight-trainning器具を使い、先日私の倅はベンチプレスで150kgの大台をクリアしました。とっくに私は倅に追い抜かれてしまいました。
しかし、私もまだまだ格技とweight-trainningから離れられそうにありません。腰痛や肩、背中の痛みに耐える毎日ですが、かといってtrainningをせずにいると体中の筋肉が凝ってしまいます。trainningをしたらしたで年齢的肉体の衰えから筋肉痛が数日間続きます…いずれにせよ、もはやtrainningや格技から縁を切れない「宿命」を私は背負ってしまったようです。こうなったら、いつまでベンチプレスで100kgをクリアし続けられるか、自分自身との戦いだと思っている今日この頃です。
(150kgを成功した倅)
(了)
思えば調布のアパートに住んでいた20代の頃、私は狭い6畳間にベンチプレスのsetを置いていました。ベンチ台をテーブル替わりに使ったりする事で、特に不便を感じた事はありませんでした。
だから、たまに「weight-trainningやりたいけど部屋が狭いからバーベルを置けない」なんていう言葉を聞くと、内心で「本気でやる気ねえんだろ!」と罵っています。
(狭いアパートの中にベンチプレスなどのsetを置いてtrainningしていた20代半ばの頃)
室内にweight-trainningの設備を置く事で、季節や天候に左右されず、また時間も関係なくtrainningが出来るようになりました。最近は、私が夜型人間で、仕事も夜にする理由から、倅との<親子稽古>もweight-trainningも午後9時から始めるのが習慣になってしまいました。練習が終わるのは毎回深夜12時過ぎです。
空手の稽古に関する話は脇に置いておきますが、倅のweight-trainningの記録は半年で急激に伸びました。昨年の秋にはベンチプレスで120kgを成功させ、今年に入って140kgをクリアしました(勿論、カール、ロウイングなど多種目を行います。特に倅にはハイクリーンとジャークをメインにさせています。ベンチプレスはあくまで1つの指針に過ぎません)。
こうなるとweight-trainningの器具もより安定した強度の高いものに替える必要が出てきました。そこで、つい先日、約15万円を投資して器具をグレードアップしました。ベンチプレスもバーベルスクワットも可能な頑強なゲージ(ラック)式に替えました。
(BODYーMAKER製で統一)
(リビングはジム兼道場になってしまいました)
(weight-trainning機器は皆、組立式なので、完成させるのに倅と2人で貫徹を余儀なくされました。殆どtrainningと同じ重労働。完成後、朝日を浴びながらクタクタになって2人でカップラーメンを食べました)
メーカーは全て「BODYーMAKER」製です。私は過去、幾つかのメーカーの商品を購入してきました。ベンチプレスのsetも今回で6つ目です。しかし「BODYーMAKER」の製品が安価なだけでなく最もよく出来ていると実感しています。宣伝するつもりはないのですが、weight-trainningの器具は今後、全て「BODYーMAKER」で統一するつもりです。
ちなみに私は「BODYーMAKER」さんに訊きたいのですが、「BODYーMAKER」という名称の由来は何なのでしょう?
BODYーMAKERは明らかに和製英語です。
私は福昌堂時代、1987年に私の発案と企画で「BODYーMAKER」というタイトルのムックを制作しました。勿論、タイトルも私のアイデアです。ムックの「BODYーMAKER」はボディビルとは異なるシェイプアップマガジンを目指しました。売れ行きも好評で雑誌化が検討されましたが、そんな最中に私は退社・独立し、有り金を叩いて「BODYーMAKER」の商標登録をしました。ある版元Gで「BODYーMAKER」の創刊がほぼ決定しましたが…不況の煽りを受けたG社は突然、担当のレジャースポーツ編集局を閉鎖するという措置を取り、「BODYーMAKER」が再び世に出る事はありませんでした。
勿論、商標権は既に切れていますが…、「BODYーMAKER」とは不思議な縁を感じています。
話が脱線しました。
「BODYーMAKER」製のweight-trainning器具を使い、先日私の倅はベンチプレスで150kgの大台をクリアしました。とっくに私は倅に追い抜かれてしまいました。
しかし、私もまだまだ格技とweight-trainningから離れられそうにありません。腰痛や肩、背中の痛みに耐える毎日ですが、かといってtrainningをせずにいると体中の筋肉が凝ってしまいます。trainningをしたらしたで年齢的肉体の衰えから筋肉痛が数日間続きます…いずれにせよ、もはやtrainningや格技から縁を切れない「宿命」を私は背負ってしまったようです。こうなったら、いつまでベンチプレスで100kgをクリアし続けられるか、自分自身との戦いだと思っている今日この頃です。
(150kgを成功した倅)
(了)
samurai_mugen at 06:19
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