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在日韓国・朝鮮人

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在日韓国・朝鮮人(別称:在日コリアン)は、日本定住する朝鮮民族やその子孫のこと。一般に在日韓国・朝鮮人と言ったときは、おおむね1945年以前から日本に住む者(一世)と、それらの子孫で日本で生まれ育った者をさす。また、定住の意思をもって日本に生活の本拠を持つ韓国・朝鮮人を指す場合もある。しかし、厳密にどこまでを在日韓国・朝鮮人と呼ぶべきかについては、いくつかの議論がある[1]。なお国籍民族は重なり合う部分もあるが本来は別である。

本国での国籍によって在日朝鮮人または在日韓国人と区別されることもある。国籍を問わない呼称として在日コリアン、または単に在日[2]。とも呼ばれる。

在日韓国・朝鮮人という言葉は、日本が朝鮮半島を統治していた時代から継続的に日本に在住し、現在は朝鮮籍あるいは韓国籍を持ちながら、日本に永住する資格(特別永住者資格)を持つ人々に限定して用いられることが多い。以前は日本国籍を習得することが民族的にも日本人に同化することとみなされていたが朝鮮名で日本国籍を習得する場合は、コリアンジャパニーズ(朝鮮系日本人または韓国系日本人)となる。

在日韓国・朝鮮人の性格には、出身地、定住する地域、本国での国籍、来日・定住を始めた時期によって大きな違いがあるといわれている。

目次

在日韓国・朝鮮人の定義

本項では在日韓国・朝鮮人を最も狭く捉える用法を冒頭で紹介している。しかし、これをさらに広く捉えると、韓国との国交樹立後、特に近年来日した韓国人や日本国籍を取得した者も含む場合もある。

帰化して日本国籍を取得している場合は朝鮮系日本人と呼ぶことも可能だが、現実にはそのように名乗る人は少ない。これらの人々を「日本籍コリアン」[3]と呼ぶこともある。

「日本籍コリアン」は在日韓国・朝鮮人とは区別されるのみならず、単に「日本人」であるとみなされる場合がほとんどであった。帰化した韓国・朝鮮人も日本人と自認する場合がほとんどだった。また、そう自認する者しか帰化しない時期が長くつづいた。これには、日本在住が数世代を経ていっそう日本人からは区別がつかなくなっていること、帰化がかつて手続き的な国籍取得ではなく民族的同化を求めるものであったこと(現在はそうではないという主張と、現在もそうであるという主張もある[4])、日本国籍を取得しながら韓国・朝鮮人を自認し表明する者がほとんど見られなかったことなどが関係している。しかし、1980年代末から1990年代にかけて、日本国籍を取得しながら民族的出自を明らかにする者も増えつつある[5]。また、日本籍コリアンを同胞視する在日韓国・朝鮮人も増えている[6]

呼称

在日韓国・朝鮮人の呼称は、韓国・北朝鮮それぞれの正統国家としての立場と深く関係している。韓国を支持する在日朝鮮人組織・在日本大韓民国民団(通称:韓国民団ないし民団)は在日韓国人재일 한국인)であるべきだと主張していた。これに対して北朝鮮を支持する在日朝鮮人組織・在日本朝鮮人総聯合会(通称:朝鮮総連ないし総連)では、引きつづき日本人は在日朝鮮人재일 조선인)と呼ぶべきだと主張している。民団も総連も共に、日本に在住する朝鮮民族は全て自分達の団体および自分達が支持する国家に属するべきであり、呼称に関しても自分達が使用しているものを使用すべきであると主張しつづけている。これとは別に、国籍ではなく民族としてのアイデンティティから在日朝鮮人と呼ぶ場合もある。民族名(朝鮮民族)については、韓国では「韓族」「韓民族」などと呼ばれる。

これら名前に関する南北の争いを避ける場合には、在日韓国・朝鮮人という呼称が使われることが多い。また、在日コリアンという表現が使われることもある。在日とだけ表現する場合は在日外国人一般ではなく、在日韓国・朝鮮人を指すことが大半である。

韓国北朝鮮においては、在日韓国・朝鮮人は一般に、「在日僑胞」(チェイルキョッポ、재일 교포)または「在日同胞」(チェイルドンポ、재일 동포)と呼ばれ、略して「キョッポ、トンポ」と呼ばれることもある。ただ、「同胞」とはいえパンチョッパリ(半日本人)と呼ばれて本国人から差別されることもある。兵役など本国人に課せられている義務を免れていること、華夷秩序の観点から日本を植民地統治時代以前から軽蔑してきたことなど理由は様々である。

池東旭などによって、在日韓国・朝鮮人としてのアイデンティティを獲得しようとの呼掛け・主張の中で、日本に住む朝鮮半島由来の住民(日本国籍を持たない者も含む)の総称として、「コリアンジャパニーズ」などが提唱されている。また、在日韓国人である金城一紀や新井英一などが自称として用いている。

歴史

日韓併合 (1910年8月), 土地調査事業 (1910年〜1918年), 「朝鮮人ノ旅行取締リニ関スル件」(朝鮮総督府、朝鮮から日本への渡航を制限, 1919年4月〜1922年), 関東大震災 (1923年), 釜山での日本渡航制限措置 (朝鮮総督府, 1925年10月), 東亜通航組合結成、済州島〜大阪間の朝鮮人による自主運航開始 (1930年4月〜1935年), 朴春琴、衆議院議員当選 (1932年2月), 「朝鮮人移住対策ノ件」日本への渡航抑制、日本在留朝鮮人の同化など方針策定 (日本政府, 1934年10月), 「朝鮮人労働者内地移住ニ関スル件」 (朝鮮における雇用制限の撤廃, 1939年9月), 「朝鮮人労務者活用ニ関スル方策」 (官斡旋, 1942年3月), 朝鮮半島からの徴用開始 (1944年9月), 第二次世界大戦終了と送還事業開始 (1945年), 済州島四・三事件 (1948年), 朝鮮戦争 (1950年), サンフランシスコ講和条約 (1952年), 北朝鮮への帰国運動 (1959年12月〜1984年), 日韓基本条約 (1965年), 北朝鮮による日本人拉致 (1977年〜1983年), 難民条約発効 (日本)、国民年金法の国籍条項撤廃、特例永住制度実施 (1982年), ソウル五輪 (1988年), アジア通貨危機 (1997年)
日韓併合 (1910年8月), 土地調査事業 (1910年〜1918年), 「朝鮮人ノ旅行取締リニ関スル件」(朝鮮総督府、朝鮮から日本への渡航を制限, 1919年4月〜1922年), 関東大震災 (1923年), 釜山での日本渡航制限措置 (朝鮮総督府, 1925年10月), 東亜通航組合結成、済州島〜大阪間の朝鮮人による自主運航開始 (1930年4月〜1935年), 朴春琴、衆議院議員当選 (1932年2月), 「朝鮮人移住対策ノ件」日本への渡航抑制、日本在留朝鮮人の同化など方針策定 (日本政府, 1934年10月), 「朝鮮人労働者内地移住ニ関スル件」 (朝鮮における雇用制限の撤廃, 1939年9月), 「朝鮮人労務者活用ニ関スル方策」 (官斡旋, 1942年3月), 朝鮮半島からの徴用開始 (1944年9月), 第二次世界大戦終了と送還事業開始 (1945年), 済州島四・三事件 (1948年), 朝鮮戦争 (1950年), サンフランシスコ講和条約 (1952年), 北朝鮮への帰国運動 (1959年12月〜1984年), 日韓基本条約 (1965年), 北朝鮮による日本人拉致 (1977年〜1983年), 難民条約発効 (日本)、国民年金法の国籍条項撤廃、特例永住制度実施 (1982年), ソウル五輪 (1988年), アジア通貨危機 (1997年)

在日韓国・朝鮮人移入の背景

注:ここで述べる背景・経緯は、朝鮮の植民地時代・日本の敗戦以前から日本に居住する在日韓国・朝鮮人に関するものである。

日韓併合以前から南部に住む朝鮮人は日本に流入しはじめており、留学生や季節労働者として働く朝鮮人が日本に在留していた[7]日韓併合以降はその数が急増した。内務省警保局統計は、1920年に約3万人、1930年には約30万人の朝鮮人が在留していたとしている[7]

朝鮮人が日本に移入した要因として、大きく分けて二つの社会的変化が挙げられる。第一に、朝鮮における農業生産体制の再編である。併合後の朝鮮では、農村を含めた経済システムが再編され、特に1910年から1918年にかけて行われた土地調査事業によって植民地地主制が確立し、日本人地主親日派朝鮮人地主へと土地所有権が移動した [8]。これによって多くの農民が土地を喪失、困窮し、離農・離村した。これが日本移住につながった[9]。また、産米増殖計画によるの増産と日本への過剰輸出が、朝鮮半島で一人当たりの米の供給量を激減させ、米価を高騰させて、小作農などの人々を困窮させた[10] [11]ことも日本移住に拍車をかけたとする論もある[12]

第二に、日本における資本主義の発展によって労働力需要が高まったこと、国際競争力の源泉である低賃金労働力として朝鮮人労働力を必要としたことが挙げられる。これが朝鮮人の日本移住を、いっそう促進した[13]

さらに日中戦争太平洋戦争の勃発により朝鮮人労働者の日本移住は増加の一途をたどった。併合当初に移入した朝鮮人は土建現場・鉱山・工場などで働く単身者が多くを占めていた。その後、次第に家族を呼び寄せる、または家庭を構えるなどして、日本に生活の拠点をおく者が増えた[7]

1945年8月終戦当時の在日朝鮮人の全人口は約210万人ほどとする報告もある[14]。その9割以上が朝鮮半島南部出身者であった[7]。このうちの多くが日本敗戦前の10年間に渡航したものと思われる。

  • 1939年9月 朝鮮総督府の事実上の公認のもと、民間業者による集団的な募集の開始
  • 1942年3月 朝鮮総督府朝鮮労務協会による官主導の労務者斡旋募集の開始(細かな地域ごとに人数を割り当て)
  • 1944年9月 日本政府が国民徴用令による徴用

1959年に外務省は、朝鮮への国民徴用令適用による朝鮮人徴用は1944年9月から下関-釜山間の運行が止まる1945年3月までの7ヶ月間であり、また、戦時中に徴用労務者として来た朝鮮人の内、そのまま日本に留まった者は1959年時点で245人に過ぎず、日本に在住している朝鮮人は、その大半が自由意志で来日・在留した者であるという調査結果を発表している[15]

この時期は兵役により減少した日本での労働力を補うため、朝鮮半島からの民間雇用の自由化(1939年)、官斡旋による労務募集(1942年)により在日朝鮮人が急増したが、1944年9月から始まった朝鮮からの徴用による増加は第二次世界大戦の戦況の悪化もあってそれほど多くは無かった。1974年法務省・編「在留外国人統計」では、朝鮮人の日本上陸は1941年 - 1944年の間で1万4514人とされ、同統計上同時期までの朝鮮人63万8806人のうち来日時期不明が54万3174人であった。官斡旋等による朝鮮半島での労務募集の実態 がどのようなものであったか、日本国内での朝鮮人労働者の待遇・生活がどのようなものであったか、については、その人数や規模などを含めて、今なお議論が続いている[16][17][18]。また、日本国内での労働に従事した朝鮮人の中には、いわゆるタコ部屋労働のような、自由を奪われた状況に置かれた者も多数あった[18]

なお、2005年の日韓基本条約関係文書公開に伴う韓国政府に対する補償申請者は、2006年3月の時点で総受理数21万件のうち在日韓国人からは39人に留まっており、これは樺太(サハリン)からの5996件に比べても極端に低い数となっている[19]

1945年以降は、済州島四・三事件朝鮮戦争にともなう難民・密航者が日本に多数流入した。1945年に朝鮮半島に帰還したものの、その後に動乱を避けて再び日本に移入した者も多かった。彼らとその子孫も、オールドカマーのうちに入れられて考えられることが多い[20]

戦前の在日韓国・朝鮮人

本籍地別構成(2005年)[21]
本籍 人数  %
ソウル市 57,574 9.62
釜山市 25,213 4.21
光州市 2,148 0.36
大田市 1,878 0.31
京畿道 26,523 4.43
忠清南道 11,220 1.87
忠清北道 9,449 1.58
全羅南道 41,120 6.87
全羅北道 10,627 1.78
慶尚南道 172,343 28.79
慶尚北道 125,392 20.94
江原道 4,579 0.76
済州島 99,421 16.61
不詳 1,506 0.25
北朝鮮地域 3,001 0.50
その他 6,693 1.12
総数 598,687 100

日韓併合により、日本による朝鮮半島植民地化が進行していくのと並行して、朝鮮人は日本人による差別・蔑視の対象とされるようになった。要因は様々であるが、例えば、朝鮮語訛りの日本語を使う相手に対する偏見や、または彼らの順法意識や衛生知識の乏しさに起因する生活上のトラブルなどが原因とされる。朝鮮総督府は「『内地人(日本人)』による朝鮮人への差別的態度が朝鮮人の民族主義を育てている」と警告を発した。

朝鮮人に対する政策は、日本政府においても朝鮮総督府においても紆余曲折を経ている。戦時動員体制の強化にともない朝鮮人の動員を強める必要に迫られたころ、日本政府は一視同仁のプロパガンダのもと、日本人と朝鮮人を同じく扱う政策に傾いた。朝鮮人は旧来の日本国民内地人)とは別個の法的身分に編入された。しかし、日本国民としては不完全ながら公民権の一部(選挙権被選挙権、公務就任権など)を与えられた。「民族的出自によって差別的な不利益処分を受けることは原則としてありえない」という宣伝に、朝鮮の知識人が動員された(李光洙など)。朝鮮出身者の中にも、日本国民として官公庁に勤務した者がいた。

第二次世界大戦の敗戦以前に行われた選挙では朝鮮名のままで立候補した者も存在し、実際に衆議院議員に当選した者(朴春琴)もいる。

関東大震災の際には「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んでいる」との流言蜚語により、多数の朝鮮半島出身者が「不逞鮮人」とされ、自称「自警団」に虐殺される事件が起きた。虐殺された朝鮮人の実数は当局が把握しているものでさえ明らかにされなかった。自警団も検挙されたが、その主な罪状は警察に反抗したことなどであり、最高刑は4年であった。当時の司法省は関東大震災にともなっておきた「明確な殺人事件」の犠牲者は233人であるとした。これに対して朝鮮罹災同胞慰問班が震災直後、10月末日まで調査し、これに基づいて吉野作造がまとめた調査結果では2613人であった。上海の大韓民国臨時政府の機関紙「独立新聞」社長であった金承学は「金承学調査書」にて犠牲者数を6661人[22][23]とした[24]。 この流言蜚語飛語は朝日新聞が第一報を報じたものであった。以降、多数の新聞社が競って報じ広がっていった[25]布施辰治自由法曹団の弁護士らによって、朝鮮人虐殺事件の真相究明と責任追及に乗り出す動きも見られた。

戦後の在日韓国・朝鮮人

帰国と滞在

戦後の在日韓国・朝鮮人も差別にあった。戦前戦中から、在日韓国・朝鮮人の多くは日本の一般社会との交流に乏しく、港湾鉱山工場などでの労働によって生活してきた。そのため日本語を巧く話すことはできず、日本で生活していく基盤は脆弱であった。「大部分の人々は終戦後早々に故郷へ帰ってしまったとしても不思議はなかった」[要出典]が、約4分の1が敗戦後も日本に定住するに至ったのには、後に日本人からも在日韓国・朝鮮人からも「棄民政策」であったと批判される[26]

朝鮮人の引揚に関しては、GHQと日本政府は引揚希望者を全員帰国させる方針であり、船便による具体的な送出人数に関してもGHQが指示を出している[27] 。また、日本国内(内地)の輸送に関しても具体的な指示が出ている[28]

戦後の入国

戦後の大きな朝鮮人の日本移入の起因となった最初のものとして、1948年済州島四・三事件がある。同・事件で起きた済州島での虐殺は日本への難民/密航者を大量に生んだ[29][30]。また経済的理由から密航して出稼ぎに来るものも多くいた[31] 。戦後にまもなくして来日した彼らは戦後のどさくさに紛れ、本来は対象者ではなかったが特別永住資格を得た[32]。こうしたことから「朝鮮人には密航者が多い」との主張に結びつけられることもある。

阪神教育事件

詳細は阪神教育事件を参照

朝鮮人にとっては民族教育が必要であるとの主張があった。そのため戦後、日本各地に朝鮮人学級が設けられ、続いて朝鮮人学校が設置された。これに対して1948年に、GHQの意向により朝鮮学校閉鎖令が出され、阪神教育事件に発展した。

法的地位の変遷

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1945年11月3日、GHQは第三国人(在日朝鮮人、台湾人、など日本の旧領土の国民)はできるだけ解放国民として処遇すると声明を発した。その結果、自分たちは戦勝国民であるとして、一部の第三国人は敗戦後日本の法律が適用されないと考え、禁制品の販売を闇市で行う者が続出するなど、武装化する集団があらわれた[33]

1946年11月20日 GHQスポークスマンは、在日朝鮮人らの地位および取り扱いに関する誤解(在日朝鮮人の治外法権)を解くとして、声明を発表した。 1、1946年12月15日以降日本に留まる朝鮮人(ママ)は日本市民権を得なければならないという新聞報道は誤解である。2、日本に住む以上全ての地方法規に従わねばならない。3、占領軍当局は、解放国民として朝鮮人への、政治犯、奴隷的労働を強要されていた連中(ママ)の解放の為の処置は終えている。よって、占領軍当局は、市民権の保留、放棄、選択に一切干渉しない(日本に留まるか帰国するか第三国へ行くかは個人の自由である。また市民権を自由意思で保留する以上は日本の法律で日本の警察が取り締まることを占領軍当局は許可する)。

1952年日本国との平和条約が発効すると、在日韓国・朝鮮人は朝鮮半島に帰属する民族である事となり、結果的にこの時点で彼らは日本国籍を喪失した。

ここで国籍を喪失した者の範囲は、日本国との平和条約発効時(1952年4月28日午後10時30分)において、朝鮮戸籍令の適用を受けていた者である。したがって、現国籍法施行(1950年7月1日)より前に、朝鮮に地域籍をもつ者と婚姻した内地籍を有した妻や朝鮮籍を有した父に認知されるまで内地籍を有していた子も日本国籍をその時点で喪失したことになる。

詳細は朝鮮籍を参照

就業実態と経済活動

戦後の在日韓国・朝鮮人にとって、就職・就業が困難な時期もあり暴力団員になる者が多かった。指定暴力団会津小鉄会四代目会長・高山登久太郎本名・姜外秀/カン・ウェスは、朝日新聞社論座』(1996年9月号 11頁)でのインタビューの中で、「ヤクザの世界に占める在日韓国・朝鮮人は三割程度ではないか、しかし自分のところは約二割だ」という内容のことを答えている。

1970年には在日韓国人であることを理由に採用を取り消された日立就職差別事件が発生した。この事件では裁判で会社側の敗訴となっている。

帰国運動

在日朝鮮人の帰還事業を参照

戦後、在日韓国・朝鮮人の帰国運動が盛り上がったのは、1958年の日本・北朝鮮赤十字会談の開催からである。これには北朝鮮・日本・在日韓国・朝鮮人それぞれに三者三様の思惑があった。「千里馬運動」を掲げて、多数の労働者を必要とした北朝鮮政府と、当時に生活保護受給者の半数を占めていた在日問題を解決したい日本政府、さらには日本での貧困・差別から抜け出したい在日韓国・朝鮮人にとって、それぞれの思惑が一致した現象であると見ることができる。

このとき、帰国運動に参加した在日韓国・朝鮮人のほとんどは朝鮮半島南部、すなわち韓国政府が支配する地域の出身者であった。しかしこのころ韓国は、朝鮮戦争による荒廃からまだ完全には立ちなおっておらず、とてもではないが帰国者を受け入れる態勢はとれなかった。このこともまた、韓国政府による「棄民政策」でなかったのかとして、後に様々な方面から批判されている。

日本における在日韓国・朝鮮人団体である在日本朝鮮人総連合会は、北朝鮮政府の指示のもとで在日韓国・朝鮮人の『地上の楽園』北朝鮮への帰国を、強力に勧誘・説得する活動を展開した。日本の新聞各社、また民間の研究機関「現代コリア研究所」(旧・日本朝鮮研究所、代表・佐藤勝巳)も、これに同調した。在日韓国・朝鮮人の凶悪犯罪、生活保護費の予算捻出に苦慮していた日本政府は、このキャンペーンをむしろ歓迎したようである。当時の内閣総理大臣岸信介国会答弁で帰国運動の「人道性」を訴えて、北朝鮮への帰国事業を正当化した。韓国はこれを「北送」と呼んで非難し、韓国民団は「北送事業」への反対運動を展開した。

北朝鮮へ「帰国」した在日韓国・朝鮮人の生活は、惨めで過酷なものであった。帰国者は差別にさらされ、そのいくらかは強制労働に追いやられた。行方不明者が多く、処刑された者も多い。在日韓国・朝鮮人の子弟であるほど、スパイ容疑で強制収容所に送られるケースが多かった、との証言もある[34]。北朝鮮での待遇の実態が次第に在日韓国・朝鮮人社会へ伝わるにしたがって帰国者は急減し、1983年に帰国者が0人となったことで「帰国運動」は事実上終結した。帰国者らは北朝鮮における身分制度である出身成分の最下層に分類されている[35]


現在では、帰国運動の際に在日韓国・朝鮮人と結婚して、帰国運動の際に北朝鮮へ渡った「日本人妻」(一部「日本人夫」)の日本帰国も、日朝間で解決が必要な課題のひとつとなっている。ただし詳細は不明ながら、一時日本へ帰国したものの、再び北朝鮮へ渡る例もある。

近年では、テッサ・モリス=スズキがジュネーブの赤十字社資料から北朝鮮帰国運動の背景を明らかにしており、日本による棄民・追放政策としての側面を強調している[36]

2000年代に入ると、北朝鮮から脱北した元帰還者らは次々と朝鮮総連に対して訴訟を起こしている。2008年に訴訟を起こした日本在住の脱北者の原告女性によると、「北朝鮮は地上の楽園」などという朝鮮総連の嘘の宣伝により北朝鮮へ帰還したが、実際は過酷な労働を強いられ、拷問され、差別され、囚人や奴隷と変わらない生活を強いられ、「(朝鮮総連は)人をだまし、組織的に誘拐した。人権と自由を無差別に奪った悪魔みたいな団体だ」「私1人の問題ではない。今も強制収容所の中で必死で生き延びようとしている人がいる」と訴えた。[37]

現在

今日、在日韓国・朝鮮人は、日本に民族的アイデンティティーを重視した独自のコミュニティーを形成する者、新たに形成することを志す者、帰化する者、日本人配偶者を得て同化する者、それらの中間的立場や混合的立場をとる者、と多様な生き方を見出している。

在日韓国・朝鮮人の諸組織・知識人・朝鮮学校からは、民族教育の必要性が主張されてきた。実際に、本名を名乗り自らのアイデンティティーを明確にすることで、行政側の対応にも変化が起こりつつある。朝鮮学校の卒業生は、各種学校卒のため、と日本の学制から除外される。しかし近年では、国公立大学でも2004年前後から朝鮮学校の卒業を大学入学資格として認定する場合もある。

近年では在日韓国・朝鮮人であること明らかにして、本名で活躍する者もいる。芸能人・スポーツ選手など日本人に触れやすい分野でも、在日韓国・朝鮮人の本名を見かけるケースが増えている

北朝鮮との関係だが、2003年ごろから拉致問題核兵器保有問題を受け、再び関係が悪化している。

在日韓国・朝鮮人を取り巻く諸論点

徴用/強制連行と渡航

在日韓国・朝鮮人が日本に移入してきたのは、「戦時下の日本政府による強制連行によるものと語られることが比較的多かったが、現在では、これは戦時下の朝鮮を含め、原則としてすべての日本人に適用された国家総動員法に基づいた合法的な徴用であるという認識が広まっている。朝鮮半島から日本本土に渡航してきた大半が自由意志によるものであり、徴用で日本本土に来た朝鮮人も、戦後そのほとんどが帰国していることが判明している。従って、現在、在日韓国・朝鮮人のうち、その来歴が徴用とする者は極めて少数と考えられている。これは朝鮮人移住者の各種データを検証をした『在日朝鮮人処遇の推移と現状』(昭和30年7月 法務研究報告書第43集第3号)に詳しい。在日韓国・朝鮮人団体である在日本大韓民国民団の子団体、在日本大韓民国青年会の中央本部が、在日1世世代に対する聞き取り調査の結果をまとめ1988年に刊行した『アボジ聞かせて あの日のことを -- 我々の歴史を取り戻す運動報告書 -- 』にも、渡日理由のアンケート結果として、「徴兵・徴用13.3%」と明記されており、「その他20.2%」、「不明0.2%」を除いたとしても「経済的理由39.6%」「結婚・親族との同居17.3%」「留学9.5%」と65%以上が自らの意思で渡航してきたことがわかる。尚、このアンケートは渡航時12歳未満だったものは含まれておらず、これを含めるとさらに徴兵・徴用による渡航者の割合は減ることになる。なお、2005年の日韓基本条約関係文書公開に伴う韓国政府に対する補償申請者は、2006年3月の時点で在日韓国人からは39人に留まっている[19]

通名

日本式の姓名、いわゆる通名(通称名)を名乗って朝鮮半島系であることを隠す在日韓国・朝鮮人が多く存在し、また犯罪の報道において本名・国籍を隠蔽、日本人の犯罪であるかのよう伝えるメディアが多く、これに対する批判が出ている。

社会保障問題

在日韓国・朝鮮人に対する社会保障についても、議論が多くある。

1946年の旧法の時期を除き改定後しばらく、在日韓国・朝鮮人は生活保護を受けることができなかった。しかし、在日韓国・朝鮮人から最低保障としての生活保護を要求する声が高まったことを受けて、在日韓国・朝鮮人が行政実務において本国から切り離されていることを考慮し、1954年に通知が出され行政措置として、生活保護を外国人に準用するという行政運用が行なわれたという経緯をたどっている。これは、外国人の生活保護受給者に、生活保護にかかる行政行為等の行政処分についての異議申立権(審査請求及び再審査請求権)を認めなかったとしても、当該外国人の法的利益が侵害されたとはいえないことになる。

ある観点では、生活保護の受給対象者とすることへの異議、また認定の方法・基準への異議が出されている。例えば、在日韓国・朝鮮人の生活保護受給率が日本人より多いことから、これを不当であると考え、日本国による生活保護負担を強調する論調がある。実際に、日本の裁判所は「憲法の要請する社会権の保障は、国家による国民の保護の義務を本来の形態とするため、外国人である在日韓国・朝鮮人を保護する義務はその国籍国にある」とする立場をとっており、日本国籍者に適用を限定して外国人を排除する意図から1950年以降の生活保護法には第一条において「国民」との用語が加えられた。

在日韓国・朝鮮人無年金訴訟

現在、日本政府は「年金など社会保障の責任は国籍の属する本国が行うべき」という立場から、年金を払い込んでいなかった在日韓国・朝鮮人に対して年金支給を行っていない。この日本政府の見解に対して「海外在住の日本人に日本政府は年金を支払っていない」とし、在日韓国・朝鮮人に対しても年金を支給するように要求している。(「日本国籍を有する者で海外に居住する20歳以上65歳未満の者」は日本の国民年金に任意加入することができる。)

北朝鮮問題との関連

北朝鮮問題への注目(拉致事件、核保有問題など)にともなって、在日韓国・朝鮮人、とりわけ朝鮮籍の者への圧力が高まったことに対し、在日韓国・朝鮮人の立場を『親族を北朝鮮政府に人質同然にされ、不本意ながら北朝鮮政府の意のままに操られている人たち』として同情視する向きもある。

一方で「在日朝鮮人の何名かは北朝鮮の国会議員に選ばれており、日本からの送金もかなりの額にのぼるため、在日朝鮮人側の責任が皆無とは言い難い」との批判もある。また、朝鮮総連は本国の見解に則り、拉致問題を「解決済み」、「日本側にこそ問題がある」との立場を固守している。

チマチョゴリ事件

詳細は チマチョゴリ切り裂き事件を参照

在日韓国・朝鮮人の参政権

在日韓国人・朝鮮人には二つの参政権論争が存在する。韓国および北朝鮮における本国参政権と、日本における地方参政権である。韓国においては、兵役納税義務などが免除される在外国民に住民登録要件不備を理由に参政権を与えないことの違憲性についての議論が行われてきた[38] 。本国参政権のみの獲得を目指す在日以外の在外韓国人社会と違い、在日韓国・朝鮮人社会は日本での地方参政権の獲得も目指している。日本国内においては地方参政権獲得の議論が盛んであることに対して、本国参政権についての議論はあまり活発ではなく、欧米の在外韓国人の一部は、本国参政権獲得議論に消極的な在日社会を指して「在日韓国人はどうしてアクションを起こさないのか。民団の消極的姿勢は、参政権付与反対と言っているに等しい」と、非難する声もある[39]。日本における国政参政権については、最高裁判所が「参政権は国民主権に由来し認められるものであるから、その享有主体は憲法上日本国籍を有する国民に限られる」との判断を示している。すでに帰化をした元在日韓国人の韓昌祐(マルハン会長)は在日に対し、民族と国籍は別問題であり、その国の国籍をとって政治に参加することはどの国も当然のことで、いつまでも帰化も帰国もせずにいる在日は世界で最も立ち遅れた民族であると在日を批判している[32]

在日韓国人の本国参政権

韓国における在外投票権の対象は、短期滞留者だけに限るか、永住権保有者までを含むようにすべきかで論争があった[39]。これは韓国民短期滞留者はたまたま海外に在住している自国民であり、国民の権利として不在者投票権を要求することに国民的合意が得られやすいことに対し、永住権保有者は、兵役納税義務などが免除されており、住民登録要件不備を理由に参政権を付与することには慎重だった(在日永住権者は35歳まで徴兵が延期され、36歳になると兵役の義務はなくなる。1962年10月、「在外国民の兵役免除」の項目が兵役法に法律第1163として追加された)。 一方、大韓民国憲法#第二章 国民の権利および義務第24条は「すべての国民は選挙権を持つ」としており、これに準拠して永住権保有者にも参政権を保証するべきとの議論が続いていた。

これに対し、韓国憲法裁判所は2007年5月、海外の駐在員や留学生はもちろん、外国での永住権者も韓国の国籍を持ってさえいれば、韓国国内に住民登録がなくても選挙権と国民投票権を与えるべきという決定を下し、1999年3月の決定を覆した[40]。また、憲法裁判所は2008年12月31日までに国会で必要な法改正を行うよう命じた。この決定の理由として「情報通信技術の発達」や「経済力の伸張」など10項目を挙げた。また、納税や国防の義務が免除されていることを問題とする考えについても、大韓民国憲法は参政権や平等権などの国民の基本権行使を、納税と国防の義務に対する反対給付として想定していない上、在外国民であっても兵役の義務を果たすことができ、また兵役が義務付けられていない女性も投票権を有しているとする原告の訴えを認めこれを退けた。

これらの動きを受けて、海外短期滞留者をモデルとした不在者投票の準備作業が行われた[41]。2006年12月には外交通商部と共同で50以上の海外公館で模擬投票を実施し、参加者の80%は「投票権を行使する」と回答した。この場合、実際の日本地域の短期滞留者は82000人になり、そのうち21000人が投票すると推算された。

与野党とも在外韓国人に参政権を付与する方向では一致しており、2007年2月末までに中央選挙管理委員会や与野党から5つの選挙法改正案が韓国国会に上程された。しかし、在外投票の導入方法をめぐって紛糾し、当初目指していた2007年の大統領選挙からの在外投票導入をは困難となった。海外永住者は一般的に保守傾向が強いとされており、これを取り込みたい保守派であるハンナラ党と、若年層にも支持基盤を持ち留学生や、外交官などの一時滞留者たちを取り込みたいウリ党の党争によるものと指摘された[42][43]

2012年の国政選挙から投票できる見通しとなったが、祖国での参政権に対する在日社会の関心は低く、そのメリットを知ってもらおうと、兵庫と大阪の在日韓国人で「在日韓国人本国参政権連絡準備会」を設立しPR活動を行っている[44][45]

朝鮮籍および、北朝鮮籍朝鮮人の本国参政権

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朝鮮籍は北朝鮮籍を意味せず、また北朝鮮と日本は国交が無く日本は北朝鮮を国家承認をしていないため、日本国内における北朝鮮籍保持者の動向はあまり明らかではないが、2006年現在、徐萬述朝鮮総聯中央本部議長をはじめ6名の幹部が、北朝鮮最高人民会議の代議員となっている。このため、北朝鮮政府は在日の自国民に対して少なくとも被選挙権を認めている。

地方参政権問題

詳細は外国人参政権を参照

遊技業界

日本全国1万7000店のパチンコオーナーの国籍[46][47]
本籍  %
韓国籍 50%
朝鮮籍 30-40%
日本籍 5%
華僑 5%

詳細はパチンコパチスロをそれぞれ参照

自営業が占めるパチンコ産業に携わっている就業者の在日韓国・朝鮮人比率は他産業より高いとみられ、2007年12月27日の中央日報の記事によると業界の90%ほどを在日韓国人と朝鮮総連系が掌握しているとされる[48]。そのため「パチンコはその実体が賭博であるにもかかわらず、賭博として規律されておらず、そのことで生まれた収益が北朝鮮への送金を支えている」という論評がある。近年は、日本人の経営者や従業員も増加している[要出典]。とはいえ、パチンコ・パチスロ機器メーカーやそのパチンコ周辺産業の代表者に、在日韓国・朝鮮人と目される人名が目に付くのも、また事実である。

2007年10月からの5号機 (パチスロ)への完全移行に伴い、在日韓国人商工業の基盤ともいえる遊技業界の苦戦が懸念されている[49]

韓国では賭博メダルチギ海物語」の大流行とその弊害[50]、およびそれに関わる関連公職者の告発[51]が社会問題となった。

外国人犯罪と在日韓国・朝鮮人

日本国内に流通する覚醒剤の過半は北朝鮮産が占めていると言われており[要出典]、問題の解決を困難なものにしている。 根拠はないが第二次世界大戦後に朝鮮人による犯罪が増加したという噂があり、長く語り継がれている。これを事実と捉えたうえで、それが後々の日本人との間のわだかまりや先入観(「朝鮮人は恐い」などとして)を作り出し、日本人による差別忌避・嫌悪感情の温床になったと主張する層が戦後一貫して存在している。外国人全般の犯罪率および在日韓国・朝鮮人の犯罪率と、それらの解釈・解釈方法については現在に至るまで、しばしば議論の対象になっている(詳細は、外国人犯罪参照)。

暴力団と在日韓国・朝鮮人

カプランとデュブロによると、日本最大の広域暴力団である山口組の構成員のうち、約10%の者が在日朝鮮人であるという。[52] 四代目会津小鉄の会長だった高山登久太郎(姜外秀)は講演で、「ウチの組は同和が3割、在日が3割だった」と発言したことがある(会津小鉄の場合、会長自身が在日韓国・朝鮮人だったため、割合が高かったと見られる)。

公安調査庁調査第二部長の菅沼光弘は2006年(平成18年)10月19日に東京・外国特派員協会で行った講演で、六代目山口組のナンバー2である若頭の髙山清司から聞いた話として、暴力団の出自の内訳は6割が同和(被差別部落)、3割が在日韓国・朝鮮人、残りの1割が同和ではない日本人という見解を示した。

警察庁発表による平成18年度末の暴力団の人数は、構成員が約41,500人・準構成員が約43,200人・計約84,700人である。

在日韓国・朝鮮人の起こした反社会的暴動事件

在日韓国・朝鮮人が起こした暴動事件の一例を挙げる。

在日韓国・朝鮮人に関連した著名な刑事事件

在日韓国・朝鮮人という出自が事件の原因に深くかかわった刑事事件の一例を挙げる。

匿名口座と在日韓国・朝鮮人

在日韓国・朝鮮人には通名が認められているため、一部の銀行では通名での口座開設が可能である。そのため通名を変更後は事実上の匿名口座になるため、これが脱税等犯罪の温床であるとの指摘が多いが、在日外国人ならば誰でも通名を取得することができるので、在日韓国・朝鮮人だけに限られた問題ではない。

2006年、最高裁判所は、朝銀に架空名義で口座を開設し脱税資金を預金していたパチンコ店経営の在日韓国・朝鮮人の男性に対し、脱税した資金41億8千万円を公的資金で穴埋めする判決を下した。これは、脱税資金の匿名口座の金を公的資金で補填するという異常な判決であり、外国人の犯罪者(ただし脱税行為については時効が成立)に対し、公的資金で補填することに日本国民からの反発は極めて強い。遅延損害金6億7千万円も加算して支払っており、匿名口座で犯罪行為を行った者へ利子までつけて返金するという、極めて異常な判決は海外でも報道され、日本の司法制度の軟弱さが改めて世界中から注目されることとなった。

在日韓国・朝鮮人への住民税減額措置

三重県上野市(現伊賀市)、桑名市四日市市に合併前の旧楠町では条例などを制定しないまま一部の在日韓国・朝鮮人の住民税を半額程度に減額する特例措置を長年続けていた[54]。伊賀市は市民税と合わせて徴収する県民税も半額にしていた。遅くとも1960年代後半には始まっていたとみられ、伊賀市は税の公平性に反するとして2006年度でこの措置をやめた。桑名市も2008年度から是正する方針が示された。在日本大韓民国民団在日本朝鮮人総聯合会に所属する在日韓国・朝鮮人のうち、税を窓口などで納付する普通徴収の人たちが対象になっていた。市が該当者分の納付書を民団と総連にまとめて送付し、それぞれの団体が取りまとめて納税していた。2006年度の対象者は伊賀市で約400人の在住者のうち個人事業主を中心に在日韓国人35人と在日朝鮮人18人[54]、桑名市では減額率は民団が6割、朝鮮総連が5割で、約990人の在住者のうち約250人を対象とし年間数千万円であったとされる[55][56]

伊賀市の減額措置は、昭和30年代から40年代にかけ、市と地元の民団や朝鮮総聯との交渉で開始[57]、1980年代以前は、両団体支部を通じた在日韓国人らが窓口に来た際、一般職員ではなく係長級職員が直接受け付け、減額を行っていた。当時は納付しない人も多く、半額でも徴収したいとの上野市側の思惑もあったとされる[54]。桑名市では民団と朝鮮総連の桑名支部代表者らと話し合い、昭和45年ごろから市県民税を減税していた[55]。桑名市税務課では「減額の経緯は資料がなくわからないが、昭和四十年代に全国的に減税の動きがあったのでは」とコメントしている[55]

伊賀市内の元在日韓国人が日本に帰化するのに伴い住民税が本来の額に上がるため相談を持ち掛け、これに応じた伊賀市の元総務部長がこれを利用して半分のままでいいから自分に渡すよう促し、2002年以降計約1800万円を受け取ったまま納付せずに着服していた疑いも発覚した。受け渡しの際、元総務部長は自作の預かり証を渡し、帰化した元在日韓国人は滞納状態だったが、数年間にわたり「督促しなくてよい」と職員に指示していた。

この事件に対し、「他国籍の在住外国人も大勢いるなか、不適切な優遇」といった批判が市民の間から出ている。伊賀市側は在日韓国・朝鮮人に対する戦争補償の一環や戦後期の所得格差の解消などを理由に容認していたと述べた[58]。また他町村との合併協議の中で減免措置に対する疑問が提示され、民団、総聯との協議の結果、2005年11月に翌2006年度で全廃することで合意した。民団三重県伊賀支部支団長によると、この減額措置を2004年に支団長になって知り、参政権などを求めるうえで日本人と違うのは不公平であると改善に応じ、一方、総聯伊賀支部委員長は、過去の経緯は話せないとコメントを避けた。三重県市町行財政室は「地方税上、条例の定めのない減免はできず、条例がないなら問題」、総務省市町村税課は「減免は各市町村が判断し条例で定めるが、このような例は初耳」[54]、桑名市税務課では「条例の裏付けもなく続けてきたことは遺憾」[55]とそれぞれ述べた。伊賀市では過去の資料が無いため詳細については定かではないが、減免措置は地方税法第323条に基づいて旧上野市が制定した市税条例第51条第1項第5号の「特別の理由があるもの」との規定により市長が必要であると認めたものについて、市が歴史的経過、社会的背景、経済的状況などを総合的に考慮し、減免することが妥当と判断したものであろうと思われる、とした[59]。一方、この減免措置は本来、副市長(旧助役)の決裁が必要だが、税務課内部の判断で長年続いていたことも明らかになっている[60][61]

在日韓国・朝鮮人の処遇と未来像に関する議論

帰化と日本国籍取得

ながらく、在日韓国・朝鮮人を日本社会の構成員として取り扱おうという主張があった。この場合「日本社会の構成員」という語は、立場によって様々に意味を変える。「社会の構成員」と言うかぎりならば、これには単なる実態の反映でしかないという見方もある。しかしこれが、地方参政権の付与に至ると、議論が分かれる。(外国人参政権を参照)

2007年時点で民族名による帰化は保証されておらず、届出による日本国籍取得と民族名使用の保障などを盛り込んだ国籍取得特例法を求める運動が続いていた[62]自民党法務部会の「国籍問題に関するプロジェクトチーム」は2008年1月24日の会合で、在日韓国・朝鮮人などの特別永住者が日本国籍を簡単に得られるようにする特別永住者等の国籍取得の特例に関する法律案(特別永住者国籍取得特例法案)を議員立法で2008年の第169回通常国会に提出する方針を決めた[63]

在日韓国・朝鮮人から日本に帰化する者の数は、95年に一万人を超えたのを皮切りに年間で毎年9000-11000人に上っている。帰化を許可された者は国籍法第10条に基づき、『官報』に帰化前の名前・住所・生年月日が公示される。

また1990年代までに比べれば、「日本籍コリアン」にも朝鮮系であることを周囲に言明する者が増えるなどし、帰化した後の生活スタイルも多様化しつつある。

日本人との婚姻

2006年、韓国・朝鮮籍所有者と日本国籍者の婚姻件数は8376件で。1961年の1971に比べおよそ4倍、日本国内全体の婚姻件数73万971件のうち、約1%を占めている[64]。在日韓国・朝鮮人女性と日本人男性間の婚姻件数は1990年の8490件を最高に2006年には6041件、一方、韓国・朝鮮人男性と日本人女性間の婚姻件数は2006年末現在で2335件で1984年に2000件を超えて以来、ほぼ横ばいとなっている。

脚注

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参考文献

関連項目

ウィキメディア・コモンズ
ウィクショナリー
ウィクショナリー在日コリアンの項目があります。

外部リンク




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