我が国による朝鮮人の 強制連行なんて無かった


       当時「強制連行」など起こりようがない!!

 ひと頃、朝鮮人労働者「強制連行」の問題が頻りに取りざたされたが、この問題に対する一般の認識には多くの誤解が含まれている。
 その第一は、終戦時約二百万を超えた朝鮮人労働者の大部分は本人の自主的な意志によって渡航してきたもので、「強制的」に「連行」され たものではない、ということである。所謂「強制連行」は、大東亜戦争勃発伴う労働力不足を補完するため、戦争中の昭和十七年に、それまで 自由募集であった朝鮮人労働者を「官斡旋」即ち、朝鮮総督府が募集する ことにし、間に立った朝鮮人ブローカーが強引な徴用を行ったことを指して 言う場合が多いようだが、その実態は甚だ不明である。
 そもそも日韓併合以降、貧しい韓国から豊かな日本へ移住しようとする
朝鮮人は引きも切らぬ有り様だったのであり、朝鮮総督府や日本政府は法律 の網の目を潜ってでも日本で働こうとする朝鮮人の密航者には、終始、頭を 痛めていた。法律を犯してでも日本に入国しようとする朝鮮人が一杯いたと いうのに、何で「強制連行」の必要があるのだろうか。その必要はなかったしむしろ日本側は迷惑していた。

              「日韓2000年の真実」名越二荒之助編著


               

1974年の法務省編「在留外国人統計」によれば、在日韓国・朝鮮人の日本上陸は 日本政府が朝鮮人の来日を取締まっていた昭和10年までに渡来したものが全体の 53.7%と半分以上になる。

昭和11〜15年はまだ民間の自由募集の期間であり、次の16〜19年の中でも「国民 徴用令」による徴集は19年の9月以降の僅か4ヵ月間であるから、単純に計算しても、 この期間に徴用された者は16〜19年間の1万4514人の12分の1、つまり1210人ほど にすぎない。そこに次項「昭和20年9月1日以前」 の679名を加えた概算1889人ほど が、真に徴用の名に値する在日朝鮮人だという事になる。仮に「官あっせん」を徴用 の概念の中に入れ、官あっせんが行われていた昭和17年2月〜19年8月の来日者 の推計数を全部加えても約1万1300人ほどである。従って、昭和20年8月終戦当時の 在日朝鮮人の全人口が約210万人ほどであったから、何れにしても当時の在日全体 の僅か0.5%以下にしかすぎない事になる。(2002年現在の在日人口は約63万人)

当然これは正式な徴用としての徴集であるし、日本人も全く同じ条件であった訳で、 それが強制連行などではなかった事など説明するまでもない。この推定は、昭和16 〜19年間の月間来日数を均等として計算したものであるが、実際には、関釜連絡船 の運航は終戦が近くなるにつれ次第に困難になりつつあったから、19年後半からの 来日徴用者も減少しているはずであり、どんなに徴用の概念を広く解釈しても、終戦 当時の在日全体の0.5%を超えるような事など有り得ないし、その僅かな徴用者達
さえも実際には戦後まもなく帰国してしまった者がほとんどなのである。

更に、大正時代からの白丁などの被差別階級の大量の密航者や、朝鮮戦争時に 受け入れた大量の難民や密航者もこれに加えると、今残っているほぼ全ての在日 が徴用とは全く関係の無い、単に自主来日した人達ばかりであるという事が分かる。
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/6199/


強制連行者? 終戦直後にほぼ帰国 現代コリア編集長 西岡力氏 産経新聞9月26日
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Stock/6646/vol8.html
昭和十四年から開始された朝鮮人内地移送計画により渡日した者とその子孫は現在の 在日の中にほとんどいない。
それどころか、一般に強制連行とみなされている朝鮮人内地移送計画(「官斡旋」「徴用」)
の実態は、「強制連行」などというものではなかった。

在日コリアンの来歴 
http://www.geocities.co.jp/WallStreet-Bull/6199/zainiti_raireki.htm


http://www.korea-np.co.jp/sinboj/sinboj2001/1/0119/73.htm
解放直後、帰国した同胞のなかで、祖国の政情不安や生活の困窮から、日本へUターン してくる者が現れました。
朝鮮戦争が始まり南朝鮮からの避難民が日本へ流入すると、「不法入国者」の取り締まりと 強制追放の強化のため、「出入国管理庁」と「入国者収容所」が設置(次号で詳述)されます。

日韓条約批准書交換に関する朴正煕韓国大統領談話
http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JPKR/19651218.S1J.html
在日僑胞のその苦労の原因をたどってみると,ひとえにそれは本国政府の責任となる他 ありません。したがって,これまでに在日僑胞の一部が共産主義者の使嗾に駆り立てられ その系列に加担するようになったのも,実は大部分本国政府が在日同胞をより暖く,より 徹底して保護できなかった責任であるといえます。
 
これとともに私は,これまで分別なく故国をすてて日本に密入国しようとして抑留され,祖国 のあるべき国民になれなかった同胞に対しても,この機会に新しい韓国民として前非を問わ ないことをあわせて明らかにしておこうと思います。

【在日自身による強制連行説否定】
http://web.archive.org/web/20001012030143/www.han.org/hanboard4/msg/4175.html

 こうして、憲兵・警察の数からみても、「日帝三十六年」の義兵や民族運動は 誇大宣伝であり、朝鮮人(韓国人)はかなり順民であったのである。ましてや 民族主義者が言うような全民族的な抗日運動などあるはずもない。たとえあった としたら、駐留している(日本軍の)二個師団だけでは全民蜂起に勝てるはずも なかろう。/
 日本人は誠の民族で、追い詰められたときは嘘をつくより謝ることのほうが多い。
 しかし、韓国人、ことに戦後の韓国人学者は、よく嘘をつき歴史を捏造する。国家 を指導する国家元首たるものまでが、平気で嘘をつく。ここが日韓の最大の違いで はないだろうか。
              
              韓国は日本人がつくった 黄文雄(台湾人) 徳間書店


「これでは困る韓国」呉善花、崔吉城 1997

呉「在日の人たちにしても、植民地時代に自分の意志で積極的にきた人のほうが ずっと多いんじゃないですか。強制連行で連れてこられた人たちはほとんど帰っ てしまったわけですから。」
崔「そこはいいポイントです。事実はまさしくその通りなんです。ところが、 そうであるにもかかわらず、意識としてはそうじゃなくなっているんです。
自分も植民地のときに強制的につれてこられたのだと、これはアイデンティティ としてそうなってしまっているんです。」
呉「なるほど、意識と実際は違うということですね。」
崔「実際は強制されてきたのではなくても、我々は強制されてきたんだという、 そういう物語をつくってそれを自分の意識としてもつんです。
ここが在日韓国・朝鮮人を考える場合のかなり大きなポイントです。
(中略)それで一世たちはそういう物語を二世、三世に懸命に教えるんです。」
呉「なんのために教えるんですか」
崔「民族意識を守り、それを子孫に伝えるためです。」
呉「不思議なことには、アメリカへ行った韓国人は積極的にアメリカ国籍を とろうとしますし、多くの人たちが国籍をほしがります。
そういうことで言うと、日本で国籍をとらない者が多いということは、
それは日本という国へのこだわりがあるからだと思います。」
崔「そうですね。日本もまた単一民族的な国家ですから、国籍の移動が
民族の移動みたいに感じられてしまうんでしょうね。
とにかく、国籍を帰ると民族も変わるみたいな意識にとらわれるところが、 在日韓国・朝鮮人を考える際のポイントの一つです。
それでもう一つのポイントは、先にも言いましたが、在日は差別されている といいながら、日本人と結婚する率が非常に高いということです。
差別があれば、だいたい結婚しないのが普通です。社会的、民族的な差別が 強ければ、必ず結婚差別にも強いものがあって、結婚率が低くなるはずです から。」



『四百廿余名の密航鮮人/内地へ続々と侵入』 福岡日日 1938/1/30
『福岡沿岸に密航鮮人頻々/ブローカーと連絡/本年に入つて五百名』 福岡日日 1938/3/3
『また密航鮮人/西戸崎で六十五名逮捕』 福岡日日 1938/3/3
『密航鮮人四十名西戸崎に上陸(粕屋郡志賀島村)』 福岡日日 1938/3/29
『密航鮮人団上陸/トラック運転手の気転で大半は逮捕される(遠賀郡水巻村)』 福岡日日 1938/5/2
『鮮人の内地密航あの手この手/驚くべき大胆な玄海突破や九ヶ月苦心の方法』 神戸新聞 1938/5/21
『鮮人十五名が小倉へ密航(小倉市)』 福岡日日 1938/7/24
『密航鮮人団四十二名 悉く逮捕さる(宗像郡津屋崎町)』 福岡日日 1938/8/26
『・こ奴怪しい・六感的中/果して密航半島人!/海田市署の槍玉へ』 中国 1938/9/1
『密航鮮人丗一名一網打尽に(宗像郡神湊町)』 福岡日日 1938/12/17
『津屋崎沖に不敵な密航船/鮮人十八名を逮捕す(宗像郡津屋崎町)』 福岡日日 1938/12/20
『又も密航鮮人/怪船行方を晦ます』 福岡日日 1938/12/21
『九十余名の鮮人が密航/五十余名を検挙す(宗像郡岬村)』 福岡日日 1939/2/3
『密航半島人二名/倉橋島村で検挙す/発動機船で二十五名潜入/一味検挙に着手』 呉日日 1939/2/12
『半島人密航団か/怪機船倉橋島に出没/呉、江田島署が厳重捜査中』 中国日報 1939/2/13
『密航者丗八名八幡で捕はる(八幡市)』 福岡日日 1939/5/18
『密航半島人遠賀へ十九名(遠賀郡岡垣村)』 福岡日日 1939/6/5
『密航はしたけれど/途方に暮れる気の毒な鮮人/今度は逆戻り失敗(兵庫)』 神戸又新日報 1939/6/20 夕
『密航青年を半島へ送還(兵庫協和会)』 大阪毎日 1939/6/20 神版
『全面的検挙は困難/県の密航鮮人狩り/今後は取締りを厳重に』 中国 1939/11/30
『手荷物の箱詰め人間/密航?の半島人、小倉で発見さる』 大阪毎日 1940/1/14
1946  「首相官邸デモ事件」朝鮮人2千人が首相官邸にデモ行進、
     官邸に進入しようとし警官隊と大乱闘。検挙者15名
1946  密入国者・強制送還者。21420名・15925名 (警察庁調)
1947  GHQの命令で「外国人登録令」が在日韓国・朝鮮人等に施行。
     密入国・米の不正受給防止が目的。
1947  密入国者・強制送還者。6888名・6296名
1948  密入国者・強制送還者。8500名・6207名
1948  米軍政部が山口で「朝鮮学校閉鎖命令」以降、兵庫・大阪・
     東京も。文部省・朝連間で私立学校として認可する事で妥結
1948  「4.24阪神教育事件」大阪市・神戸市、朝鮮人学校問題で在日
    朝鮮人2500名が府県庁を包囲、知事等を軟禁。
    進駐軍が非常事態宣言。首謀者は軍事裁判に、一部は国外追放。検挙者1800名
1949  密入国者・強制送還者。1641名・7663名
1950  密入国者・強制送還者。3612名・2319名
1950<朝鮮戦争勃発>  実は朝鮮戦争の時に密入国した在日が一番多いという話もある
1951 「王子事件」十条の朝鮮人学校が捜索され、これに反対する無届
    集会の解散を命じられるが抵抗。検挙者8名
1951 「日野事件」滋賀県で朝鮮人50名が強制送還反対を叫び警察と
    衝突。警察側の重軽傷者25名、検挙者35名
1951  密入国者・強制送還者。4847名・1172名
1952  「吹田事件」在日朝鮮統一戦線系学生1100名が警官隊と衝突。拳銃2丁奪い交番2ヶ所・工場襲撃。検挙者113名
1953  「外国人登録法」制定。反対運動の為施行は1955。指紋押捺制度は韓国からの密入国者が多かった為と、
     日本経由の北の工作員対策で韓国政府が強く要請した為に始まる
1952  密入国者・強制送還者。3263名・2320名
1953  密入国者・強制送還者。1404名・2685名
1953<朝鮮戦争休戦>
1954  「第二神戸事件」旧朝連系900名が警官隊と衝突。長田区役所、税務署の窓ガラス等を破壊。検挙者188名
1959  「北朝鮮帰国事業」10万人弱の朝鮮人が帰国するが、北の実状が伝わるとともに誰も帰国しなくなる
1965<日韓基本条約調印>

1974年の法務省編「在留外国人統計」によれば、在日韓国・朝鮮人の日本上陸は 日本政府が朝鮮人の来日を取締まっていた昭和10年までに渡来したものが全体の 53.7%と半分以上になるって

◆毎年1万人も韓国人が大量帰化しているというのに、在日の数が
ほとんど減っていない。

        1998年   1999年  2000年
在日韓国人  638,828   636,548  635,269 人


一方、不法滞在の韓国人は56000人で外国人の中で最も多い!

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20020403-00002092-mai-pol

ほとんどが、密入国者とその子孫だろうに、朝鮮人よウソつくんじゃねえよ!!

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