丙子胡乱
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
BIGLOBE百科事典に関するご利用上の注意
丙子胡乱(へいしこらん)とは、1636年 - 1637年に清が李氏朝鮮に侵入し、李氏朝鮮を制圧した戦いの朝鮮での呼び名である。
目次 |
概要
1630年代、中国全土を支配していた明が衰えを見せ、それに変わり後金が台頭してきた。1636年、後金の皇太極(太宗)が皇帝に即位し、国号を清と改める。しかし周辺国の中で朝鮮のみが皇太極の皇帝即位を認めず、あくまで明朝皇帝を推戴する姿勢を見せた。これを不快に思った皇太極は自ら10万の兵力を率いて李氏朝鮮に侵攻した。
仁祖は南漢山城に篭城をしたが、翌1637年降伏をし、三田渡で皇太極に対し三跪九叩頭の礼 による清皇帝を公認する誓いをさせられるという降伏の儀式が行われた。三田渡の地には後にこれを記念した石碑(大清皇帝功徳碑)が建てられた。
戦後
この戦いの和議では、明との断交、清の冊封を受け、王子を人質として清へ差し出すことなどが取り決められた。これにより、李氏朝鮮は清の冊封国[1]となり、清の冊封体制に組み込まれた。朝鮮は清からの勅使派遣を迎え入れるために迎恩門を建て、清からの勅使は1637年から1881年までの244年間に161回におよび、そのたびごとに朝鮮国王は迎恩門に至り、「三跪九叩頭の礼」により迎えた後、慕華館での接待を余儀なくされた。逆に朝鮮から清への朝貢使は500回以上にも及んでおり(当初は毎年4回、1644年以降は年1回)、これは当時の清の冊封を受けていた琉球(2年に1回)、タイ(3年に1回)、ベトナム(4年に1回)などと比べても突出して多いものであった。このような清と朝鮮の宗属関係は、日本と清による日清戦争で日本が勝利し、下関条約で日本が清に李氏朝鮮の独立を認めさせる1895年まで、約250年間続いた。[2]
李氏朝鮮は、この和議により初年度に黄金100両、白銀1000両の他、牛3000頭、馬3000頭など20項目余りの物品を献上したが毎年朝貢品目は減った[3][4]。
『仁祖実録』によれば和議の10ヵ月後には8歳から12歳の6人の女を送ったり[5]、その翌年には10人の侍女を送った記録がある [6]。
朝鮮がこの戦いに敗れるまで、歴代の朝鮮王が明朝皇帝に対する臣節を全うしたことを清側も高く評価し、後の康熙帝がこれを賞賛する勅諭を出している[7]。