イランは10日、イスラム革命30周年を迎える。親米の王制を打倒して反米国家に転じた79年のイスラム革命。30年を経た今、保守強硬派のアフマディネジャド政権内でも反米主義は空洞化し、対米関係の修復を望む声が強まっている。核開発問題をめぐり、国際的な孤立を深めてきたイラン。オバマ米政権との間で、関係修復への道は開けるのか。【テヘラン春日孝之、ワシントン草野和彦】
「『チェンジ』は実行を伴う必要がある」。オバマ政権に対して、イランの体制指導部はそう繰り返す。改革派系ジャーナリストのザイディアバディ氏は「イランの望みは、核開発を容認するほどの米外交の転換だ」と、解説する。
イラン核問題は02年に発覚して以来、両国の対立の核心だ。ブッシュ前政権は「核兵器保有の野望」を疑い、イランは「核エネルギー開発だ」と反論してきた。双方の直接対話が実現しても、問題解決へのハードルは高い。
米国との対立を決定づけたのは、革命後に起きた米大使館占拠人質事件だ。革命を率いたホメイニ師は、占拠事件を「最初の革命より栄光に満ちた第2の革命だ」と追認。「『反米』は国民的イデオロギー」(カルバスチ元テヘラン市長)で、ホメイニ師は米国への集団憎悪を体制基盤の強化と国民統合に利用、米国を「大悪魔」と呼んだ。
だが、この数年で状況は一変した。アフマディネジャド大統領の上級顧問、サマレハシェミ氏は「大悪魔であっても、行いを正せば大悪魔ではない」と公言。昨年1月には、最高指導者ハメネイ師が「将来、米国との関係が国民に有益となるなら、私はそれを承認する最初の人物となる」と踏み込んだ。
変化の背景に「米国との対立に伴う経済的、政治的孤立が、国益を損ねている」との認識が、保守派にも浸透してきたことがある。
革命の熱狂が冷めた今、国民の多数派も米国との関係修復を望んでおり、政権は世論の支持をつなぐためにも、関係修復を志向せざるを得ない状況だ。
イラン指導部内に根強い「米政界を牛耳るのはユダヤ人のロビーであり、米外交は簡単に変わらない」との悲観論も、「ユダヤ人の影響力を乗り越えてほしい」というオバマ政権に対する願望の裏返しでもある。
関係修復への最大の障害は「イランの交渉スタイルにある」との指摘もある。アフマディネジャド大統領が「変革を約束するなら、まず米国が謝罪すべきだ」と強調するように、先に相手の譲歩を求める点だ。
保守系紙レサラトは社説で「イランも現実的な外交を進めるべきだ」と主張。国内の「チェンジ」の必要を訴えている。
イランとの関係改善は、オバマ米政権にとっても重要課題だ。核拡散防止や中東和平の促進、アフガニスタンの治安安定化など、外交・安全保障分野の重点目標を実現するには、対イラン政策を避けて通れないとの認識があるからだ。
バイデン副大統領が7日、ミュンヘン安保政策会議で「米国はイランとの対話の用意がある」とオバマ大統領の方針を改めて強調したのも、この認識を反映したものといえる。
関係改善は、歴代米政権も模索してきた。強硬姿勢が目立ったブッシュ前政権も例外ではない。ライス前国務長官によると、テヘランに米国の利益代表部を正式に開設し、米国人外交官を派遣する構想もあった。
オバマ政権は現在、対話再開に向け水面下で準備を進めているとみられる。イラン特使候補のデニス・ロス氏は昨年、米メディアに「最高指導者ハメネイ師との接触がカギ」と語っており、最重要政策の決定権を握るハメネイ師が強く意識されているようだ。
一方で8日、改革派のハタミ前大統領が、6月の大統領選への出馬を正式に表明した。ハタミ氏は06年の訪米の際、両国関係の問題は対話を通じて解決されるべきだと発言している。オバマ政権は、大統領選の行方も注視している。
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■イラン革命30年の主な出来事■
79年 2月 親米王制が崩壊しホメイニ師帰国、革命成就
4月 イラン・イスラム共和国樹立
11月 米国大使館占拠人質事件(~81年1月)
80年 4月 イランと米国が断交
9月 イラン・イラク戦争(~88年8月停戦)
84年 1月 米国がイランを「テロ支援国家」に指定
89年 6月 ホメイニ師死去、ハメネイ師が最高指導者に就任
97年 8月 改革派のハタミ政権発足、言論を規制緩和
99年 7月 改革派学生の暴動。以後、保守派が巻き返し
02年 1月 ブッシュ米大統領がイランを「悪の枢軸」と非難
8月 反政府組織がイラン核開発を暴露
05年 8月 非聖職者で保守強硬派のアフマディネジャド政権発足
06年12月 核問題で国連安保理が初の対イラン制裁決議採択
07年 5月 イラク情勢で米国とイランが断交後初の公式対話
09年 1月 オバマ米大統領がイランに対話呼び掛け
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■ことば
イランにとって対米不信の原点は、米CIA(中央情報局)が1953年に主導したイラン政権転覆事件。当時、英国がイランで握っていた石油利権を取り戻そうとしたモサデク首相を失脚させ、米国は英国の利権維持に加担した。「国民的英雄」の失脚で、国王、首相、国会の勢力均衡は崩壊。米国が後押しする国王の独裁を招き、79年のイスラム革命の伏線となった。
一方、革命の9カ月後、革命を主導したホメイニ師を支持する学生たちが米大使館占拠人質事件を起こし、国民の支持を受けた。両国は国交を断絶(80年)。解決までに444日を要し、これが米国の反イラン感情のトラウマとなっている。
毎日新聞 2009年2月10日 東京朝刊