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  少数の憲兵や警察官だけで、本当に武断統治が可能か?

韓国中学教科書・国史/憲兵警察統治の項で、
朝鮮総督府は、行政権はもちろん司法権と軍事権などすべての権限を持ち、わが民族を弾圧した。日帝の我が国に対する植民地支配は、憲兵警察を先頭にした弾圧的な武断統治であった。(中略)
こうした日帝の弾圧的な統治によって活動が難しくなった民族指導者は海外に逃亡し、その間つづけられた義兵運動もしだいに、その活動舞台を満州や沿海州に移すようになった。



朝鮮で1918年11月まで警察業務を行った憲兵につい言及しておきたい。

韓国併合時の憲兵の数は、すべてで僅か2019名であった。
しかも、そのうち憲兵補助員の1012名は朝鮮人であった。
すなわち、日本人の憲兵数は1007名しかいなかった(水田直昌「統監府時代の財政」友邦協会)。

これが22万平方キロメートルの朝鮮全土に散らばって配置されたのである。
文民警察官は5693名いたが、その半分以上の3428名は朝鮮人であった。
このような数字を見ると、韓国の歴史教科書が小説じみていることが解るだろう。



僅か2019名(その内、日本人は1007名)の「憲兵警察」で「弾圧的な武断統治」が果たして可能だろうか?

日本の「憲兵警察」は、当時の朝鮮人全体に受容され、強く支持されていた。
そうだから、このような僅かな数の憲兵が朝鮮全土にミニ小部隊ごとに別れて展開しても安全であった。

分遣・派出箇所が563とすれば、1箇所につき日本人憲兵は2名未満であった。
村の民衆が、ある程度の集団で襲撃すれば、これらの憲兵を全員殺害することが可能である。
しかし、このようなことは殆ど発生しなかった。
1919年の3・1事件のとき(2名の警官の他)6名の憲兵が殺害されただけだった。

圧倒的に多数の朝鮮民衆が綱紀の厳正な日本の「憲兵警察」の方を信頼し協力した。
保護国時代の「義兵」を継承する、独立運動家の「反日分子」の方を拒絶した。

この「憲兵警察」と普通警察「文民警察」とを合わせても、韓国併合年の、在朝鮮にある日本の警察力は7712名(その内、日本人は3259名)であった。
この極端に僅かな数の「警察官」で、朝鮮全土を担当したのである。
日本がいわゆる「独立を奪った」直後の1910年におけるこの数字「7712名」は、当時の朝鮮人全体が、日本統治を、面従腹背であれ、重病人のごとき朝鮮政府より遙かにましとして支持していた歴史事実を鮮明にしている。

併合から一年余りが経った1911年末には、文民警察官は6006名、憲兵は7749名と増え、合計13,755名となった。
それでも、現在の日本における2000平方キロメートルの東京都(面積は朝鮮の百分の一、人口は当時1910年頃の朝鮮とほぼ同じ)を所管する、警視庁の41,721名の警察官(=2000年4月現在)の三分の一である。

朝鮮半島における1911年末の憲兵数
憲兵 将校 下士官 上等兵 憲兵補助員
78 693 2525 4453 7749


朝鮮半島における1910年末の警察官数
役職 日本人 朝鮮人 朝鮮人の割合
警察部長 13 0 0.0%
警務官 2 1 33.3%
警視 30 14 31.8%
警部 167 101 37.7%
巡査 2,053 181 8.1%
巡査補 0 3,131 100.0%
2,265 3,428 60.2%


【出典】
水田直昌監修『総督府時代の財政』、友邦協会、122ページ

【分析】
・上位三階級のうちの25%は朝鮮人
・日本人警部167名のうち31.8%は朝鮮人警視の部下
・警察官全体の6割が朝鮮人

【結論】
・日本の朝鮮統治は、朝鮮人と共に行っていた。
・警務官、警視などの上位階級にも朝鮮人は登用されていた。
・朝鮮人が上司で、日本人が部下という場合もあった。
・直接朝鮮人を取り締まっていた警察官のほとんどは巡査補である朝鮮人だった。
・朝鮮人に対して拷問を行った警察官は巡査補である朝鮮人だった。



歴史を偽造する韓国 中川八洋 徳間書店 より

NAVER掲示板 ovovovo 氏の投稿
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2005年01月17日製作