日韓併合

一進会 日本語の強要 創氏改名 渡部昇一 朴大統領 呉 善花 キムワンソプ 石原慎太郎 朴大統領(2) 二宮清純
柿谷勲夫 黄 文雄 黒田勝弘 富山 泰 司馬遼太郎 黒坂 真 伊藤博文暗殺事件 韓 昇助 勝岡寛次 崔 基鎬 原田武夫 西岡 力
 「谷沢永一氏(文学博士)」

 「日韓併合は、世界中の国々に賛成されたうえでのことだった。それに至るまでにはロシアのコリア占領を阻止するための日清日露戦争での日本の勝利というプロセスがある。
 日露戦争の勝利でコリアにおけるロシアの影響力を排除した日本はコリアを保護国にする。保護というのは、支配したのではないし併合でも占領でもない。清国や欧米列挙もこれに進んで同意した。
 日本も保護は一時的な措置であって、やがてコリアに主権の回復をさせるつもりであった。とくにコリア総統府の初代統監である明治政府の元勲・伊藤博文はその意向が強かった。
 ところがこの伊藤博文をテロリスト安重根が暗殺したことで多くの日本人が怒った。コリアの人々も日本の怒りに怯え、コリアの最大政党・一進会がみずから日韓併合を持ち出した。それでも日本は国際世論を尊重してアメリカイギリス同意を求めた。アメリカは”コリア半島は日本のものである(セオドオ・ルーズベルト)”と賛成、イギリスも外務大臣が歓迎声明で応えてくれた。日本はさらにフランスドイツ、タリアロシア清国などにも了承を得てからやっと日韓併合に踏み切った。
 国際的にも日韓併合は正当性があったということです
 併合後に日本は”日本語”を強要したとか、”創氏改名”で日本人名を名乗ることを強制してなどといった論もあるが、それらはいわれなき捏造である。
 日本語を押し付けたどころか、教育レベルを引き上げるために義務教育を導入し、ほとんど使われていなかったハングルを日本の総統府が普及させて識字率を一気に高めた
 創始改名にしても日本国籍を取得して、日本名を名乗ることの利点にコリアの人たちが気付いた。自由に日本へ行って仕事ができるし、移住もできるからである。
 日本による韓国併合を俯瞰的に見ると、これによって実際の利を得たのがコリア、つまり、韓国の側である。経済的には日本側の完全な持ち出し、つまり赤字で、これは当時の日本の植民地に共通して言えることだった。
 欧米列強が植民地を収奪と搾取の場にしていたのとは違って、その逆のことをしていたのが実態である。
 
 世界史始まって以来、強国は小国を植民地に必ずするもの。そんなことがありえなかった国はない。だからそれは世界史・人類史の流れだと言える。コリアにしても過去千回にも達する侵略を受けた。そもうち三回は日本からである。そのほかは全部、北から、つまりシナからである。
 そのなかで日本がどれだけ相対的に紳士的な対応をとってきたかを見るべきである。植民地を持った国が悪いと言うのであれば、歴史に残っているヨーロッパ諸国、アメリカ、シナ全部の国を抹殺しなければならない。
 だからといって占領国の人に横柄な態度をとることを好まない。が”卑屈になるなど”は言語同断、もっての外と言いたいのだ。
 「渡部 昇一氏(上智大学教授)」

 シナの皇帝から王の位をもらっていたころは朝鮮は奪われるだけだったけれど、日本に位をもらってからは、日本の膨大なインフラが投入されるようになった。アメリカの対ハワイ(※1)、イギリスのミャンマー(※2)とは本質的に違う。謝罪どころか感謝されてもいい政策がたくさんある

(※1)日本が日清戦争で以外に強かったのを知ったアメリカは、日本人移民が既に入っていたハワイを先に取ってしまえと、日清戦争の三年後いきなり軍事介入を行い、ハワイ王朝の女王を退位させて王朝を潰してしまった。フィリピンでも同じことをやっています。

(※2)イギリスは1886年(明治19年)ビルマを征服した。そのときにビルマの国王と王紀はセイロンに連れて行かれて、その後どうなったかわからない。一説によると王子たちは皆殺しにして、王女たちは兵隊にみんなくれてやったという。同じころマダカスカルでフランスも同様のことをやっている。こういうのを”言い逃れが一切できない侵略行為”という。
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 「渡部 昇一氏(上智大学教授)」

 当時のコリアの人々は日本人と一体となって戦い、特攻隊の兵士になった人々も大勢いた。日本人もコリアの人々もこうしたことを忘れてしまっては困る。

 昭和20年8月、日本がポツダム宣言を受諾し、連合国に降伏すると、当時の朝鮮総督・阿部信行大将と、朝鮮の司令官上月良夫中将の二人は、日本は降伏するのだから朝鮮総統府から日章旗を降ろさなければならない、代わりに太極旗をたてさせようじゃないかと相談した。それで韓国人の有志を呼んで、自治権を与え、”君達の旗を揚げるように”と挙げさせた。
 しばらくしてアメリカ軍がソウルに進駐してきたが、”コリアは戦争中に日本と一緒に闘っていたではないか。旗を降ろせ”となり、再び日章旗がソウルの空にひらめいた。約1ヶ月後にアメリカの軍政が布かれ、今度は星条旗が翻ることになる。
 韓国は日本から独立したのではない。アメリカの軍政から三年後に独立しているから韓国人が「日本の植民地支配から独立した」というのは事実ではない。

 昭和25年の3月5日、ワシントン・プレスセンターで国務長官のアチソンが、「アメリカの極東における防衛ラインは、アリューシャン列島から日本列島、沖縄、に至る線である」と言ってしまった。韓国はアメリカの防衛ラインに入っていない旨発言したわけである。これを聞いたソ連のスターリンが敏感に反応し、「アメリカはコリアを捨てた。日本もアメリカもいないのだから、これは日露戦争以来の絶好の機会である」と”金日成の南進”にゴーサインをだしたとされているが、おそらく的をえていると思われる。
 慌てたアメリカが”ソ連の南下を阻止するため”に朝鮮に出兵したのが昭和25年の”朝鮮戦争”。そこでアメリカはやっと日本が明治時代以降にこの朝鮮半島でやってきたことの真の意味に気付く。日本がロシアの南下侵攻を警戒し、清国と二国間で、朝鮮半島に兵を投入する際には相談しあおうと協定したのに、一方的に清国がそれを反古にして派兵してきて日清戦争になった。またロシアが朝鮮半島の北部に軍港を築き、さらに南への野心を剥き出しにしたことが日露戦争を誘発した。
 朝鮮戦争を通じてアメリカは、日本のやってきた戦争というものが、”侵略ではなく自衛のための生存をかけた戦い”であることを知った。これを契機に対日観が好転し、直ちに日本の占領を放棄し、独立させる方向に政策も転換していくのである。
 加藤三之輔(カネミ倉庫会長)

 さて韓国の金玉均はじめ、日本側に協力していた連中の流れが、まだあります。日本軍に対する尊敬心を、腹の中では非常にもっています。私の会社の職員の三男坊が、韓国の陸軍大学の教官をこの間までやっていた。38度戦や部隊の案内などしてもらった。彼が言うには、前線の優秀な連隊長や旅団長クラスになると、日本軍に対する敬意が非常に強い。彼らは「日本軍は不敗だ」と言う。そんなこと言ってもしょうがないじゃないか、日本軍は負けたのだと言うと、あれは政府が負けたので、日本軍が負けたのではない。日本軍は全部玉砕したが、降参して旗立てて負けた部隊は一つもない。わが韓国軍の根本は、朴大統領が正式な士官学校を創設して以来、今村閣下の精神をそのまま受け継いでおり、模範とすべきは旧日本軍だ。戦争になったらどんなになっても負けない。と言う。びっくりするようなことを聞きました。
 日韓問題を論じる場合、韓国は「政治的な次元の主張」が突出している。もう少し「知識的な側面」が欲しい所であるが、キム・ワンソプ氏とオ・ソンファ氏の「正論2002年12月号」における次の発言を参考にして欲しい。

 呉 善花(オ・ソンファ)氏(評論家)の見解


・「日本の東アジア進出は、西洋帝国主義の侵略とはちがって搾取と収奪が目的ではなく、革命と近代精神を伝播しょうとの意図が前提になっている。日本帝国は朝鮮と台湾の民衆を搾取する旧体制を精算し、近代的な法の統治を実現させた。その結果、日本が統治する地域の住民は文明の洗礼を受け、より人間らしい暮らしを享受できたのである」
 これは戦後の韓国人が教えられてきた歴史認識を全面的に否定するものです。日本統治時代については、「すべて日本が悪かった日本のせいで韓国は塗炭の苦しみを味わわされた」というのが”韓国人の常識”です。それを金さんは、日本の植民地になっていなければ韓国の近代化はあり得なかったと、全面的に日本の植民地時代を評価している。韓国人特有の感情論をしりぞけて、非常に冷静に客観的に書かれていることに私はまず感心しました。
 日本統治時代を、知識的な側面政治的な側面で肯定的に評価したことは、韓国人の反日感情と日本人の自虐的歴史認識の双方を引っくり返すものだと思います。今までも「日本は韓国で悪いこともしたけれど、良いこともした」というような中間的な、折衷的な意見がなかったわけではありません。ところが金さんはそうしたバランスに”配慮”せず、ほぼ全面的に日本の統治時代を評価している。このことを改めて評価したいと思います。
・何故韓国は植民地支配を許してしまったのか、許してしまった自分たちの弱点は何だったのかと省みる姿勢はまったくない。
・朝鮮半島に住んでいた日韓の古老を尋ねて聞き書きしたのが「生活者の日本統治時代」です。彼らは自分たちの周囲の日本人は「みな良い人たちばかりで、ひどい日本人がいたことは戦後になって知った」というんです。これは統治時代の「生活者」として接した日本人の実像を、戦後反日教育を施されたことで、「公的には悪しき日本人として語らざるを得なくなったということだと私は推測しています。
・実際三・一独立運動を機に日本はその統治の方法をより韓国の庶民意識に合うものへと変えていきました。その意味で日本は賢明だったし、柔軟に統治を行ったと言える。逆に日本は武力に頼らなくても十分統治できるほど、韓国の庶民が日本の統治を事実上認めていて、生活が安定していた証拠だと思います。私達は日本統治時代の全般にわたって、日本人と韓国人の間に「良き関係」のあったことを知るべきです。金さんの「親日派のための弁明」はそのことについてよく掘り下げ、さらに日本の植民地時代がなければ韓国の近代化はなかったと断言している。こうした歴史に対するフェアな見方が私の後の世代に出てきたことに、少し大袈裟に聞こえるかも知れませんが、私は感動しているわけです。金さんもかっての私のように反日教育を受け、「反日」が自明の韓国人だったはずですが、なぜそれが変わったのでしょうか?
言論弾圧しているような国から、どんな創造的な発想や文化が生まれるというのでしょう。韓国の未来性をいうなら、歴史認識であれ何であれ、誰もが自由に自分の考えを主張できる開放性の獲得こそ、第一の問題だと思います。実際、歴史認識を披露した本のせいで、金さんも事実上の出国禁止処分を受けたりしたわけでしょう。
・私は金さんの書かれたことが言論の自由、学問の自由を超えているとは思いません。あらかじめ「反日」という答えが用意されている世界に自由な学問、自由な言論は成り立ちません。
・日本の問題を言うなら、戦前の日本を糾弾したくてたまらない日本の左翼活動家たちが韓国の反日感情国是に同調火に油を注いでさらなる反日を煽っている。残念ながら日本の政治指導者はその火消しをするのではなく、謝罪をすれば問題が解決すると思っているように見えます。それが逆効果でしかなく、問題の先送りにしかすぎないことになぜ気が付かないのか。
韓国を対等の存在と認めるのなら、問題を先送りするだけの謝罪ではなく、自らの主張をきちんと投げかけるべきです

 植民地統治下で祖国を防衛したのは庶民である。(呉 善花氏)

 韓国の教科書では、民衆はいかにひどい弾圧を受けたか、それにけっして屈することなくいかに勇敢に闘ったか、戦後の解放を勝ち取るまでの間、いかに徹底して植民地政策に対する自主救国運動を展開し続けたか、というように、激しい抵抗と闘争によって韓国人はがんばってきたと書かれている。もし、本当にそれだけ激しい闘争があったのならば、韓国全土には常時強力な軍事支配が布かれ、人々の生活のすみずみまでが監視状態におかれて行動の自由を奪われたはずである。
 そんな事実はまったくなかった。大多数の人々がとりたてた抵抗をすることなく、比較的よく統治の秩序に従ったのが事実である。そこで重要なことは、そうすることによってこそ、祖国は防衛されたということである。大多数の庶民たちがそのようにしてうまく統治され、またうまい統治を引き出すことによって、祖国は守られたのである。外国で反日独立運動を展開した一部の者たちが守ったものではまったくない
 韓国の知識人たちは、祖国を奪い返すために政治的に闘うというテーマがあることは知っていても、政治的国家の主権が奪われている状態いかに祖国を防衛するかというテーマがあるとは思っていない。しかし、韓国庶民たちはうまく統治されることをもって、立派に祖国を防衛したのである。祖国とは政治的国家の主権のことではなく、国土郷土習慣文化などと人々の日常生活の総体である。政治的国家の主権がない状態で、人々は自らの手で祖国を守るため、そのように身を処したのである。
 韓国の知識人たちは、植民地時代には全般的に平穏な日常生活がほぼ確保されていて、穏やかで平和な日本人生活者との親密な交流のあったことを率直かつ堂々とみとめなくてはならない。植民地統治下にあった韓国庶民は、平穏無事な普通の生活が基本的に阻害されない限り、あえて反日独立運動の旗を掲げて統治者と闘うことなく、統治秩序に整然と従って生きる道を選んだのである。そして日米開戦となり、朝鮮半島にも危機が訪れたことによって家族や郷土の生活を守るために日本人と同じように日本の戦時政策に協力していった。こうした韓国人庶民の生き方を、誇りを持って積極的に肯定しなくてはならない。
 韓国は、この圧倒的多数の庶民たちの祖国への思いを引き継ぐ意志をもって再出発し、植民地コンプレックスを断ち切っていかなくてはならない。いずれにしても、植民地コンプレックスを終らせない限り、日韓和解への道は開かれない。
 とくに教養もなく素朴な田舎人として生きてきた私の母たちが、なんのてらいもなく感じたまもの「日本および日本人へのよき印象」を語るのはなぜなのか。そこにはなんらの植民地コンプレックスはなく、ただ自分達の体験をとおしての率直な日本人観、日本観があるだけだからなのである
 キム・ワンソプ氏(作家・評論家)

・植民地時代に自分が接した日本人は良い人だったのにもかかわらず、戦後の韓国ではそうした「私的」な語りが「反日という国是”」のために自己抑制されてしまった。
・歴史的な事実関係を調べ、文献や資料を集めれば集めるほど、韓日の歴史に関してそれまで持っていた自分の知識はなんと浅はかだったのかという憤り、歴史教育の名のもとに人間をここまで騙していいのかという怒りを感じました
・2001(平成13)年の日本の歴史教科書をめぐっての騒動が一つのきっかけになったとは言えるでしょう。韓国側があまりにも自己中心的でショービニズム(国粋主義)であることに疑問を感じたのは事実です。
・今回の来日についても、韓国には日本の歴史教科書の歪曲を批判する教科書運動本部という団体があって、私が9月28日に東京で「新しい歴史教科書をつくる会」の主催するシンポジウムに出ることを知った彼らが、私の参加を阻止するために韓国の法務部に出国禁止要請をしてということを韓国の新聞で知りました。彼らがそういう行動をとったのが18日、私が出国したのが19日ですから、もしかしたら出国できなかったかも知れない。
・外国に通じ大韓民国に対し危害をおよぼすというのが「外患罪」ですから、呉さんのいわれるように、「親日派のための弁明」に書いた主張がそれに当るということなのでしょう。この罪は「外患誘致」の場合最高で死刑ということになっている。
・ちょうど私は、日朝首脳会談の行われた9月17日は韓国にいたのですが、新聞の論調などを見ると、「日朝平壌宣言」の内容から1965年の日韓基本条約は無効だという主張がありました。北が新たな謝罪と補償を得るなら、われわれも植民地時代のことをもう一度日本に謝罪させて、賠償をもらわなければならないというのです。日本の今までの偽善的対応では結局こういう意見が出てくるのを抑えられない。所詮一時しのぎにすぎず、問題は終らないということになるのです。

・日本は明治維新以降、多くの偉業をなしとげ、日本だけではなく人類の歴史にも多大な貢献をした国だ。このような輝かしい歴史を持つ日本が一度、戦争に負けたため自分達の歴史に自負心が持てず、自らを虐げているのは悲しいことである。
 現在の日本の問題は謝罪と反省が足りないということにあるのではなく、過去に対する精算があまりにも行き過ぎたことにある。日本サイドの謝罪と反省の繰り返しが韓国側の歪曲を増幅させ固定化させている面もある。日本が堂々たる自主独立国家になるためには、何よりも歴史に対する自負心を回復することだ。
 石原慎太郎作家・東京都知事

 日本の韓国統治の問題。あれは合法的にやって、しかも世界が是として、べつに外国から文句が出たものではない。しかも、韓国朝鮮人が自分達で選んだ道である
 その判断を、ある意味で冷静に評価したのは韓国の朴大統領だった。私も何度かお目にかかった。ある時、向こうの閣僚とお酒を飲んでいて、みんな日本語が上手い連中で、日本への不満もあるからいろいろ言い出した。朴さんは雰囲気が険悪になりかけたとき「まあまあ」と座を制して、「しかしあのとき、われわれは自分たちで選択したんだ日本が侵略したんじゃない私達の先祖が選択したもし清国を選んでいたら清はすぐ滅びてもっと大きな混乱が朝鮮半島に起こったろうもしロシアを選んでいたらロシアはそのあと倒れて半島全体が共産主義国家になっていたそしたら北も南も完全に共産化された半島になっていた日本を選んだということはベストとは言わないけれど仕方なしに選ばざるを得なかったならばセコンドベストとして私は評価している
 朴さんは「石原さん、大事なのは教育だ。このことに限ってみても、日本人は非常に冷静に、本国でやってるのと同じ教育をこの朝鮮でもやった。これはとすべきだ。私がその言い例ですよ」と言う。
 「私は貧農の息子で、学校に行きたいなと思っても行けなかった。日本人がやってきて義務教育の制度を敷いて子供を学校に送らない親は処罰するといった。日本人にしかられるからというんで学校に行けた。その後、師範学校、軍官学校に進み、そこの日本人教官が、お前よく出来るな。日本の市谷の士官学校に推薦するから行けといって入学。主席で卒業し、言葉も完璧でなかったかもしれないが、生徒を代表して、答辞を読んだ。私はこのことを非常にとする。相対的に白人がやった植民地支配に比べて日本は教育ひとつとってみても、かなり公平な、水準の高い政策をやったと思う
 二宮清純(スポーツジャーナリスト)諸君2003年3月

・サッカーにおけるゴールを「奪う」、あるいは敵陣を「襲う」という行為において、農耕民族である日本人は狩猟民族である欧米の風上には立てない。体内に染み付いたDNAからして違う。しかし田を耕し、種を蒔き、作物を「育てる」という行為は不得手ではない。そこに活路があると思っている。→日本が台湾、朝鮮に進出した時もまさにこのやり方であった。侵略よりも同化政策である。
 柿谷 勲夫 軍事評論家・元防衛大学校教授 正論 平成15年5月号

・我国と朝鮮は、併合(明治43年8月)したのであって、我国が朝鮮を侵略したのではない。
・我国との併合を望んだ朝鮮人も少なからずおり、日韓併合条約は合法的に締結された。明治43年8月30日付大阪毎日新聞は、「人心平穏」との見出しを掲げて「29日併合条約発表せらるると同時に京城各警察署及び各分署15ヶ所に掲示板を新設して詔勅及び条約全文を掲示し成るべく速に一般人民に時局問題の解決を知悉せしむることとしたるが一般人心は平穏にして別に変調を見ず」と報じている。
・欧米諸国は、アジアやアフリカを支配して多くの資源を持ち去ったが、我国は朝鮮に膨大な資本を投入した。
・大東亜戦争は、朝鮮人は日本国民として、内地人と一緒に、米英蘭支などと戦った。
・戦前、職を求め、内地に来た朝鮮人は少なくない。戦時下、内地人も朝鮮人も日本国民として、国民徴用令に基づき徴用された。これを拉致や強制連行と称するのは、見当違いも甚だしく、為にする論議である。
・戦後、多くの朝鮮人が、朝鮮に帰った。北朝鮮に戻った人が、不幸にも地獄の苦しみを味わっているのである。
 黄 文雄 評論家 正論 平成15年6月号

 「日韓併合」と言われるものの本質は、日本の朝鮮植民地化ではなく、日韓の合邦だった。
 国家財政破綻に直面した李朝にとり、残された生存の道は、二つしかなかった。清国の属国から朝鮮省に昇格し、大清帝国に編入されるか、あるいは日本と合邦するかだ。結果的には日韓合邦は最良の選択だったといえる。当時の列国もすべて賛成しただけでなく、半島と利害関係の深かったロシアや清国でさえ異議を申し立てていない。強国志向だった当時の近代国民国家としての「国のかたち」としては、「同君合邦国家」が時代の主流だった。
 オーストリア・ハンガリー、スウェーデン・ノルウエー、さらにチェコ・スロバキアなどがそうである。後のユーゴスラビアにしてもそうだった。ヨーロッパや中近東、ラテンアメリカにおける合邦国家の離合集散の事例を挙げれば枚挙に暇がない。このような同君合邦国家をすべて「植民地理論」で片付けるのは、歴史捏造というほかない。
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「WILL 11月号 平成18年度」
 Q:「日韓併合条約は日本帝国主義の一方的な圧力によって締結された。大韓帝国皇帝の印璽がなかったから無効だ」
 A:たとえ「平等合邦」ではないなど双方に賛否両論あったとしても、万国が承認したことなのです。反対すべきだった清、ロシアでさえ承認しましたし、抗議声明もなかった。
 皇帝の印璽については、皇帝は名目的存在なので行政権限はありませんでした。当時の行政権は韓国の内閣首相にあったのですから、皇帝の印璽は必要のないものでした。

 Q:「皇民化教育は民族の伝統や文化を無視し、ときには破壊した民族浄化政策だ」
 A:皇民化はリンカーンの功績以上の階級・奴隷解放運動です。半島にはカースト制度があったといっても過言ではない。賎民の奴隷、芸人、巫医、巫女、白丁などの階級支配からの解放だったのです。
 皇民化政策は「国民化政策」と同義です。近代国民国家の国民化、近代化運動と見るべきです。
 黒田勝弘 産経新聞論説委員 「韓国人の歴史観」 文芸春秋

 ・この国書問題がこじれ、日本においてはいわゆる「征韓論」に発展する。その後の日韓関係の途中を省けば、韓国は1910年、日本によって併合されてしまう。つまり「皇」をめぐるこじれがきっかけとなり、ついには韓国は日本によって「征韓」されてしまうのである。
 富山 泰 国際ジャーナリスト 諸君 平成15年11月号

・1904〜1905年の日本による大韓帝国の保護国化、その発展型としての1910年の日韓併合は、弱肉強食の当時の世界では別に咎められる行為ではなかった。それより先、1868年の明治維新により国家の近代化を早急に進めた日本は、朝鮮を日本のように近代化させ、清に従属する『華夷秩序』から独立させなければ、朝鮮は欧米列強、とりわけ南下するロシアの支配下に入り、日本の安全が脅かされると信じていた。しかし、当時の王朝国家「朝鮮(李氏朝鮮)」と後身の大韓帝国は、自ら近代化を実行して民族の独立を確保する能力を欠いていた。そのため、いったん外国の保護下に入り、そこで近代化して力をつけ、独立へ向うしか現実的にはとりえる道はなかった(呉善花『韓国併合への道』)。日清戦争の勝利で李氏朝鮮を清への従属的立場から離脱させ、日露戦争でロシアの影響力を朝鮮半島から排除した日本は、近代化できない大韓帝国を当然のように支配下においた。

・日本による大韓帝国の保護国化と併合は、欧米列強の容認の下で行われた。英国を中心とする欧米列強は、ロシアの南下政策を警戒することで、日本と戦略的利害を共有していた。そのために、日本の朝鮮支配は、英国のインド支配、米国のフィリピン支配を相互に承認し合う形で容認された。そうした時代背景を無視して、日本による「殖民地支配」の正義、不正義を論じても、意味がない。ましてや、日韓併合条約の締結から百年近く経った今になっても、日本の朝鮮統治を非難するのは論外である。

・日本が朝鮮半島で、欧米列強のアジア・アフリカ支配以上に過酷な殖民地統治をしたという事実もない。欧米列強は、殖民地を原料の供給元及び工業製品の市場としか考えなかったため、殖民地の資源を収奪し住民を搾取して、自主的な産業が育たないようにした。そればかりか、アフリカ大陸から一千万人からの黒人をはるか太平洋を隔ててアメリカ大陸に奴隷として送った。このうち三百万人は英国の船で送られた。

・日本は朝鮮を単なる殖民地でなく、拡大された日本の一部と考えていたので、朝鮮への莫大な投資を惜しまなかった。投入された資金は、農業の生産性を上げ、教育制度を充実させ、工業施設を建設し、道路・鉄道・港湾・電力などインフラを整備するために使われた。朝鮮は日本の統治によって、初めて文明開化と産業革命が可能となった側面が強いのは否定できない事実だろう(キムワンソプ『親日派のための弁明』)。だからこそ、収奪と搾取が殖民地支配の不可欠の要素であるとすれば、日本の朝鮮統治を殖民地支配と呼べるのかどうかすら疑問である。
 司馬遼太郎 作家 司馬遼太郎対話選集 5

 <二つの国>
司馬:韓国は独立国だったのを支配してしまった。これは恨みになる。
梅棹:日本の台湾統治は非常に合理的で近代的植民地政策でしたが、朝鮮の場合は軍事支配です。なぜ朝鮮が軍事支配になったかというと、背後にロシアがいたからですね。⇒本当に軍事支配といえるのかどうか?師団数は?兵隊の数は?二〜3万人くらいの軍人で軍事支配とはいえない
 黒坂 真 大阪経済大学助教授 正論8月号 平成16年

 ・現実には、朝鮮半島では植民地期に人口が急増し、人々の生活は確実に向上していた。日本に協力した人々は朝鮮半島の経済発展のために尽力した人々である。金日成は中国共産党の一員として満州で山賊行為をやっただけで、「朝鮮革命」などとは無縁であった。金日成がやったことはせいぜい、「中国革命」への貢献でしかない。
 伊藤博文暗殺事件 正論2月号 平成17年度

 『暗殺 伊藤博文』(上垣外憲一著 ちくま新書)によれば、伊藤博文に随行して自身も被弾した貴族院議員の室田義文がいる。室田は伊藤が撃たれたとき、儀仗兵の間から小さな男が大きなロシア兵の股の間をくぐるような格好をしながらピストルを突き出しているのを見た。それが安重根であるが、つまり下から伊藤を狙ったのである。処が伊藤は三発の銃弾を受けていたが、第一弾は肩から胸部乳下にとどまり第二弾は右腕関節を突き抜けてへその側を通って臍下に止まっており、この二つが致命傷となったのである。室田は裁判のために、その見取図を提出しており、遺体処置を実見している。伊藤を狙撃した者は右上から狙ったことになる。室田は二階の食堂から狙撃した者が真犯人と考えている(室田義文譚)

 室田によると安重根が狙撃に使ったのはブローニングの七発の拳銃であったが、伊藤に命中した銃弾はフランス騎馬銃のものだったというのである。

 裁判記録は銃弾の問題に一切触れない。遺体の処置をした小山医師は、体内に残したと新聞で語っている。これは奇妙ではないか?室田は、小山によって行なわれた長春での遺体の処置に立ち会ったのであり、そこで銃弾の問題を知ったと、上垣外憲一は考える。

 室田によれば、ロシア側の責任者になるココーフツォフは、事件の発生に驚愕したが、前の晩に騎馬銃を持った怪しげな朝鮮人が徘徊しているという情報を得て、厳重な警戒をしていたところだという。室田は、安重根のほかに真犯人がいることを訴えようとしたが、海軍大臣の山本権兵衛にことを荒たてるとロシアとの外交問題になると言われ断念したという。
 
 今日安重根以外の犯人説を立証することは極めて難しい。頭書の本を読んで判断されることを切望してやみません(林三夫氏 元教員 名古屋市)。
 韓昇助 高麗大学名誉教授 正論4月号 平成17年度

 「日韓併合を再評価せよ」
 ≪親日派断罪の背景に政治的背景
 親日派問題に対する四つの見方と立場とはどのようなものか。一つ目は、親日協力行為を磐民族行為として厳しく断罪しょうとする共産主義者の立場。二つ目は、基本的な見方は同じだが親日行為や処罰対象者の範囲を多少狭め緩和しょうという立場である。この二つの立場は親日派問題に対する積極的な左派の見方である。
 三つ目は、親日協力行為を反民族行為としつつも、それが日本の強圧的な雰囲気の中での不可避は行為であったため、仕方なくとられた親日行為に対する処罰は道理にかなっていないとし、更に日帝の植民統治が終息して長い年月が過ぎたため真相究明も事後処理も困難であり、そのような法案は破棄せねばならないという立場だ。
 最後の四つ目の立場は、日帝統治下の親日協力行為はそのときの状況から必ずしも反民族行為ではなく、韓国人あるいは国民に悪いことをしたということだけでなく有益な面も少なくない。従って今頃になって精算云々する必要はない、という考えだ。

 「ト鉅一氏(作家)月刊朝鮮2004年10月号より
 「親日行為と親日派を処罰しょうという主張は、少なくとも次の四つの仮定の上に成り立つのだが、それが正しい判断による仮定といえるのだろうか?
 @親日行為ははっきりと定義できるのか?
 A親日行為を一人一人確認できるのか?
 B現在生きている者が親日行為と親日派に対して罪過を問い判決を下せるだけの道徳的な権威をもっているとみるのか?
 Cそのような判決はわれわれの社会の改善と発展のために必須であり少しでもためになると見ているのか?

 日本の植民統治時期にどのような行為が親日行為であり、何がそうでないのかの判断は難しく、そのうえ断罪することは実際に考えるほど簡単なことではない。

 断罪派は、親日派を断罪しなかったため民族の精気が奮い立たなかった。▽民族精気が立たなかったためわが社会は混濁し全く発展しなかった▽従って今でも断罪してこそ民族精気が奮い立ち、われわれの社会はより明るく発展するだろう!と主張する。しかし親日行為と親日派への断罪がわれわれの社会の発展に不可欠なのか?少しでも助けになると見るのか?そうではない。その反対だ。」

 親日派を断罪し、民族精気が奮い立つ社会は北朝鮮であり、そうできずに混濁し発展できない社会が韓国である、と共産主義者や左派は日常的に主張してきた。だが、そうならば北朝鮮が結果的に韓国よりも大きく成長、発展しているはずではないか。しかし結果が正反対なのだから、彼らの主張がどれほどいい加減で、でたらめな基本前提に基づいているのかを証明しているということだ。
 結論的に「親日派精算」の主張は重大な歴史歪曲であり、無理な主張だということになる。あるいは、韓国社会が親日派問題にろくに対処しなかったと彼らは主張するが、わが社会は半世紀に公式的に事を処理し、あるいは適切に問題に対処したとト氏は次のように主張する。

 「1948年に制定された憲法第101条で国会は1945年8月15日以前の悪質な反民族行為を処罰する特別法を制定できると規定した。この規定に従って1948年9月22日に反民族行為法が公布され、わが社会は正式な裁判手続を通して処理した。したがって今回の法律を成立させた国会は半世紀前に自らが行なったことの正当性を部分的に否定したものだ」

 ≪心の中でしか親日を弁明できない常識派
 日帝統治下での親日協力行為は必ずしも反民族行為であったとはいえないとする見方だ。こうした見方は常識ある数多くの人々の心の中に秘められていることであり、解放後の韓国社会の雰囲気のせいで公に出せなかった。(中略)
 多くの人々が心の中でそう思いつつも表立って言えない理由は、おそらく悪意と憎悪に満ちた共産主義者とその追従者らの直接的な攻撃に自らを曝け出すのは嫌だという心理のためであろう。

 親日行為者を無条件に全て反民族行為者だとする左派の論理は当時の歴史的、時代的、国際政治的な状況を全く考慮しない一方的な歴史認識だ。このような無理な主張は彼ら特有の政治的な邪心からでたものであり、警戒せねばならない。

 ≪韓国にとって幸いだった日韓併合
 この世は、よいことだけでも悪いことだけでもない。不幸中の幸いがあり、幸運の中に不幸がついてくることもある。だから、韓国の国権喪失による日韓併合は民族的な不幸ではあっても不幸中の幸いであったのか。それとも不幸そのものであったのかをよく見極めねばならない。
 当時の国際情勢と列国との関係がよく理解できれば、韓国が当時のロシアに占拠・併呑されなかったことはむしろ幸いであったことが分る。万一、ロシアに呑みこまれていたなら、いかなる結果が待ち受け、どうなっていたかを考えてみるがよい。1917年にロシア革命によって韓国が共産化を免れることは難しかったであろう。スターリンが政権の座に就き、1930年代に大規模な民族移動政策を強行し、韓国民をシベリアや中央アジアの奥地に移住させ、むりやり分散収容しただろう。

 これに先んじてスターリンは、ロシアで農業集団化を強行し、数千万人のロシア農民を虐殺した。こうした統治形態で見えてくるのは、韓国民の抵抗を踏み潰すためにはいくらでも多くの人々(ともすれば一千万人以上?)を虐殺することが可能だったということだ。
 三・一独立運動(1919年)の際に多くの人が死んだという記録がある。しかし、その数は千万単位ではなく、千人を大きく上回らなかったようだ。警察や憲兵に逮捕され、獄中での苦しみを味わった人々は少なくなかったが、それでもそんなに多く死ななかったことは幸いであると理解すべきである。また、韓国の農民を満州に移住するよう奨励したといっても、ソ連のような強制性はなかった。こうした歴史的な事実を見れば、朝鮮半島がロシアによって占領されず日本に併合されたことがどれほど幸いだったことか。むしろ近代化が促進され、失ったものに劣らず得たものがより多いことを認めねばならないようだ。

 筆者が日本の植民地統治を受け入れたのは不幸中の幸いだと考える理由のひとつに、韓日両国の人種的、もしくは文化的なルーツが同じであることがある。これにより、韓国の民族文化が日帝植民統治の期間を通してより成長、発展、強化された。韓国の歴史や語学、文学など韓国学研究の基礎を打ち立ててくれたのは、むしろ日本人学者と彼らの弟子である韓国人だったのではないか。こうした意見に対してはまた興奮する人々もいようが、事実は事実をして受け入れる客観性を重視することが学問の正しい姿勢である。
 日帝が学校でハングル教育を廃止し、朝鮮語の研究と使用を禁止したといっても、それは1937年からであり、1945年に太平洋戦争が終わった後、韓国語文学が大きな損失を被ることはなかった。もし、朝鮮半島が日本ではなくロシアや米英などの西方国家に支配されていたならば、その文化的ルーツがあまりにも異なっているため民族文化の成長や深化には別に寄与しなかっただろう。
 それだけではなく、英語にSibling Rivalry (幼い姉妹の間の競争意識)ということばがあるように、韓国人は日本人に対しては無条件に負けまいとする競争意識を持っている。このため日本の植民地支配が韓国人の成長・発展の意欲を大きく刺激し、韓国人の文明化に大きく貢献したのである。日本支配は結果的に韓国という国の早期成長と発展を促進させる刺激剤の役割を果たしたことを認めねばならない。
 以上のような点を考えた場合、日本の韓国に対する植民地支配はむしろ非常に幸いであり、恨むよりもむしろ祝福すべきことであり、日本人に感謝しなければならないだろう。日本統治35年の間、日本に抵抗せず協力するなど親日行為をしたといって叱ったり糾弾したり、罪人扱いをせねばならない理由はない。過去の歴史の究明努力もこうしたマクロな客観的な次元で、より明るい未来のために肯定的な見方で真相を究明すべきではないだろうか。
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 韓 昇助 高麗大学名誉教授 正論4月号 平成17年度

 ≪立派な国民≫
 立派な人はうまくいかないことの責任を他人に転嫁しない。立派な人は何かうまくいかなくても、その主な原因が自分にあるとし、反省して再発を防止する。しかし、ダメな人はその原因と責任が自分ではなくて他人にあるとし、その責任を転嫁しょうと頑張る。ダメな人は厳しくなじり、その原因や責任の所在の9割が他人にあって自分には1割しかないというが、立派な国民は自らの足りない点や過ちを、はるかにより深刻に受け止め、その原因を取り除くのに力を注ぐ。共産主義者や左派勢力の人々の特徴は、常習的に責任を他人や制度のせいにすることだ。

 立派な人はよいことであれ悪いことであれ、過去に執着しない。ひたすら今日やらねばならぬこと、片付けねばならぬ宿題、そして将来のことを考え準備するのに全力投球する。

 賢く高尚な人々や「立派な国民」は良いことについても悪いことについても、過去にはあまり執着しない。

 立派な国民、国の特徴は際立った開放性と包容力、そして世界性にある。

 ≪ダメな国民
 ダメな人々は9割以上が自分の責任であったとしても、自らの足りない点や過ちを隠したり知らないふりをしたりし、他人の責任をしつこく追及する。その過程で相手の弱点や短所を最大限に膨らまし、過大に言いふらして敵討ちや補償請求に力を注ぐようになる。左派思想が人間の不幸と苦痛の原因を統治階級や社会制度のような外部のせいにするイデオロギーであることは周知の通りである。

 左派勢力は恩恵的な点は全く認めず、害を受けたことや怨みに関する部分だけを探し出す。言い分はこうだ。「朝鮮王朝が滅亡したのは日本の侵略主義が原因であり、韓国の支配階級が彼等を手助けしてきた」「韓国人の不幸の全ては日本の侵略のせいであり、日本がすべての責任を負わなければならない」「日本が与えた恩恵的なことは親日協力者だけに限られたものだ」

 ダメな人は過ぎたことに未練や悔いがあるため、過去のことを処理するのに時間と精力を浪費する。そのため今日の問題をなおざりにしたり、おろそかにしたりするようになり、韓国はいまだに自立した自主国家になれずにいる。

 過去に執着すると、個人や国の未来の問題に十分な準備ができず、国の重要な問題を誤って悪い結果に導く。そして結局、また他国の援助や保護に依存する世の中になるだろう。これではどうして自主独立国家を口にできるのか。

 過去のことに夢中になり、世の中がどのようになっていくのかをわかっていない韓国民は、日帝時代や解放後の思想対立問題を持ち出しどれだけ日本からまきあげられるかを思っているようだ。

 「ダメは国民」性は歴史歪曲だけでなく、排他的な民族主義を焚きつけてきた。これは韓国国民がすべての国の人に対し閉鎖的で悪意に満ち、狭量な民主主義感情にとらわれたダメな国民、程度が低い国民であるということだ。韓国人の中には中国から来た朝鮮族を無視して見下し、日本人に敵対的で、米国人に対しては傲慢不遜な傾向がみられる。いずれも的外れな排他的民族主義の所産だ。このように外国人を憎み排斥する人々を日常的に目のあたりにし、どうして「偉大な朝鮮民族」を語ることができようか。

 米国と日本を敵対視することが漢民族の偉大さを示す唯一の手段だと考える若者たちがいる。彼らは先進資本主義国家の国民たちさえたいしたものであるとは考えない。さらには社会主義、共産主義が外部世界では滅びても、韓国で進む社会主義革命が未来世界の規範になり鏡になるという自負心さえ持つ若者たちもいる。彼らの錯覚と無知識な意気込みには驚く。こうした症状は無知で「ダメな国民」の局地であり、私は、このような文化が北朝鮮の主体思想の影響で生まれたことを嘆いてやまない。
 勝岡寛次 明星大学戦後教育史研究センター (産経新聞平成16年9月29日)

 韓国の教科書を読んでいると、日本は明治維新の当初から、朝鮮「侵略」の腹黒い意図をもっていたように書かれていて、こちらの方がびっくりしてしまう。韓国併合という最終目的に向って、日本は着々とその「侵略」政策を実行に移していったというのだ。
 いや、韓国の教科書だけではない。日本の教科書や歴史辞典などにも、同様な事例は散見される。例えば、次のような記述がそうである。
 「明治政府は早くから<征韓>すなわち朝鮮の植民地支配を対外政策の重要課題としたが、それが実現されていく過程は侵略と戦争が拡大していく歴史にほかならなかった。明治政府が最初に目論んだことは、朝鮮が独立国として強力になることを阻むことであった」(『朝鮮を知る辞典』平凡社)
 これはひどい。実際の歴史とは、全く逆のことが書かれている。韓国併合という“結果”から、日本の一貫した「侵略」政策にすべての“原因”を求めようというのだが、残念ながら歴史はさほどに単純ではない。

 明治の初期に「征韓論」が沸騰したことは人も知る通りだが、当時の明治政府は「朝鮮の植民地支配」を「対外政策の重要課題」になんてしていない。そんな証拠があったら見せてほしいものだ。「明治政府が最初に目論んだことは、朝鮮が独立国として強力になることを阻むことであった」というに至っては、全く話があべこべで、開いた口が塞がらない。
 「朝鮮が独立国として強力になること」、これこそ明治の日本が朝鮮に対して終始切望してやまなかった、“見果てぬ夢”だったのである。朝鮮が毅然たる独立国でさえあってくれたなら、日本は日清・日露の二度の対外戦争までして、多くの犠牲を払う必要は少しもなかった。そうではなかったところにこそ、明治日本の苦悩も葛藤もあったのだ。隣国を近代独立国家たらしめるべく、日本はほとんどあらゆる手を尽したと言っていい。

 日本はまず、朝鮮国内の開花派(独立党)に肩入れし、朝鮮の自主独立運動に期待したが、清国は朝鮮との宗属関係をますます強化し、この運動は失敗に終わった。そこで日本は、朝鮮独立の最大の障害となっていた、清国との宗属関係を断ち切ろうとした。清の方では当然それを阻もうとする。両者の対立は避け難い。こうして起こったのが日清戦争である。いわば日清戦争とは、日本から見れば朝鮮独立支援戦争に他ならなかった。
 その証拠に、下関講和条約冒頭の第一条には、「清国は朝鮮国の完全無欠なる独立自主の国たることを確認す。依って右独立自主を損害すべき朝鮮国より清国に対する貢献典礼等は将来全く之を廃すべし」と明記されている。
 これによって、千年以上もの間、宗主国たる中国歴代王朝の属国たる地位に甘んじていた朝鮮にも、初めて民族独立の燭光は射したのである。日清戦争なくんば、朝鮮が清国から独立できた可能性はゼロだった。決して恩を着せるつもりでいうのではないが、こういう歴史的事実を、韓国の教科書も日本の教科書も教えなさ過ぎる。
 しかし、朝鮮は、この千載一遇のチャンスをみすみすふいにした。三国干渉で日本の実力を見くびった朝鮮は、今度はロシアの保護を求め、ロシアの属国のようになってしまう。国王高宗がロシア大使館に逃げ込んだのもこのころのこと(1896年)である。ここにおいて朝鮮は、すでに亡国一歩手前の状態にあった。
 「凡そ国家は自ら独立するの要素なくして単に他国にのみ椅りて立ち得るものに非ず」「今日の如くにして進捗せば韓国は最早自滅の外なし」とは、日露戦争後に初代韓国統監として赴任した伊藤博文が、韓国政府閣僚に与えた警告である(朝鮮総督府編『朝鮮の保護及び併合』)。
 伊藤は明治天皇の意を体し、韓国を将来独立させるべく粉骨砕身したが、その伊藤も最後は安重根の凶弾に倒れた。韓国を亡国へと追いやったのは、誰あろう韓国自身だったのである。

 韓国併合は、国際法から見て、果たして「合法」なのか「違法」なのか。この問題に関し、極めて興味深い国際会議が2001年(平成13)年11月16・17日に開催されている。
 米ハーバード大学の協力により、マサチューセッツ州ケンブリッジ市で開催された、この「韓国併合再検討国際会議」は、報道によれば、「韓国政府傘下の国際交流財団が財政的に支援し、韓国の学者の主導で準備され」たもので、「これまでハワイと東京で二回討論会を開き、今回は韓日米のほか英独の学者も加えいわば結論を出す総合学術会議だった」が、「第三者の英国の学者などから合法論が強く出され、国際舞台で不法論を確定させようとした韓国側のもくろみは失敗に終わった」という(平成13年11月27日付け産経新聞)。
 会議に実際に参加した研究者の報告によれば、この会議の背景にあったのは、「日本と朝鮮民主主義人民共和国との間の国交正常化交渉の場を利用して、事実上、韓国学者が北朝鮮をサポートする形で、自らが曖昧にしか処理できなかった『過去』の問題に対して、日本にその責任を認めさせようとする韓国側の思惑であり、その意味で本会議は当初から強い政治的意図を帯びたものであった」という(木村幹「第三回韓国併合再検討国際会議ー『合法・違法』を越えて」、『日本植民地研究』第14号、2002年6月)。

 外務省ならびに小泉純一郎首相が現在“ご執心”の日朝国交正常化交渉に違法・無効説の立場から影響を与えるための「政治的意図を帯びた」国際会議だったというのだから、驚かざるを得ないが、韓国側の主張は、「欧米の研究者、就中、国際法を専門とする欧米の研究者によって、全く受け入れられなかった」(同左)のは、何はともあれ幸いであった。
 会議で強く合法論を主張したのは、英ケンブリッジ大のJ・クロフォード教授である。同教授は、「自分で生きていけない国について周辺の国が国際的秩序の観点からその国を取り込むということは当時よくあったことで、日韓併合条約は国際法上は不法なものではなかった」「強制されたから不法という議論は第一次世界大戦以降のもので当時としては問題になるものではない」と述べたという(前掲、産経新聞)。
 また、同じく国際法を専攻する坂元茂樹・関西大学教授(本国際会議には欠席)によれば、「第二次日韓条約が締結された1905年に、慣習国際法上、条約の無効原因として承認されていたのは国の代表者に対する強制のみ」で、「強国が弱国に対して行なう武力による威嚇叉は武力の行使による条約の強制は必ずしも条約の無効原因とはみなされていなかった」(『世界』1998年9月号)。
 従って韓国併合が「合法」か「違法」かという問題の論点は、「国の代表者」即ち高宗皇帝「個人」に対する「強制」があったかないかという点に絞られる。

 しかし、李泰鎮教授をはじめとする韓国側は、「実際に皇帝に対する強制が存在したことは直接的に証明することはできなかった」(木村、前掲報告)ばかりか、朝鮮近代史が専門の原田環・広島女子大学教授の発表ならびに最新の論文によれば、高宗皇帝は、「第二次日韓協約の締結に際しては、日本の協約案を修正して調印する方向に韓国政府の大臣達を動かして」いたのである。御前会議で大臣全員が協約案拒否を奉上したにも拘らず、高宗はそれを却下して条約締結に持ち込んでいた事実も判明している(原田環「第二次日韓協約調印と大韓帝国皇帝高宗」、『青丘学術論集』第24集、2004年4月)。
 高宗皇帝自身は、条約締結を日本側に「強制」されるどころか、「締結推進のリーダーシップを発揮」(同左)していたのである。また、韓国の教科書は高宗が「最終的に署名を拒否したので非合法」とするが、条約正本に国家元首の署名がないのは普通のことで、「非合法」とすることはできない(海野福寿『韓国併合』岩波新書)。
 韓国併合は、合法以外の何物でもないのである。
 産経新聞 平成16年10月2日(土曜日)

 今日の日本では、韓国併合・朝鮮統合を、「韓国の植民地化」「植民地支配」と意図的に“混同”する議論が横行している。
 韓国併合を専門とする研究者も、「日韓併合は日本による朝鮮の植民地化であり、日本の侵略の帰結である」、「日本の朝鮮支配は国際的に承認された植民地である」と、併合を「植民地化」と同一視することに何のためらいも見せていない。
 現行教科書も同様で、まず例外なく「韓国併合」と「韓国の植民地化」を併記し、両者を同じ意味に用いている。
 だが、おかしいではないか。日本は韓国を併合(Annex)して一つの国とはしたが、欧米流の「植民地(Colony)にしたのではない。両者には天と地ほどの差がある。
 朝鮮総督府司計課長・財務局長を歴任した水田直昌は、「併合は・・・・いわゆる植民地視する意向の下に行なわれたものでないのみならず、積極的には・・・新旧同胞を同一レベルに到達させることを究極の目的とした」(『総督府時代の財政』)、「少なくとも私達総督府官吏としてその統治に関与してきたものは・・・『朝鮮は日本に従属する殖民地』であったなどとは全く考えていなかった」(『統監府時代の財政』)と証言しているし、戦前の日韓関係史研究の第一人者であった田保橋潔も、「朝鮮は日本の植民地ではありません」(『朝鮮統治史論原稿)と断言している。

 なぜ今時の研究者や教科書執筆者たちは、「併合」を「殖民地化」と、わざわざ言い換えなければ気がすまないのか。「支配」と「搾取」を連想させる「植民地」という言葉を使うことで、朝鮮統合をマイナスに評価しょうとする底意gだそこには明確にあるように、筆者には思われてならないのである。
 ロシアの新聞ジュルナル・ド・サン・ぺテルスブール紙は、韓国併合調印直後の1910年8月26日付で、次のような論評を掲げている。

 「フランスがアルザス=ロレーヌを失って以来、またとりわけボスニアとヘルツェゴビナがパプスブルグ王国に組み込まれて以来、『併合』という言葉はおぞましい意味を持ち、国家間の強盗と同義語になった。だが、朝鮮を日本が掌握することにはこのような意味あいを持たせることはできず、むしろアルジェリアのフランスへの併合やイギリスによるエジプトの占領、カフカスあるいはヒヴァ汗国のロシアへの主権移行などがもたらした恩恵の記憶を喚起するものだ」
 「朝鮮は日本の保護統治下に入って以来、夢のような変化の道を歩んでいる。見る見るうちに、広大は鉄道網や電信電話網が敷かれた。公共建築物や工場が立ち並び、日増しに増え続けている子供達は学校に通っている。農業も盛んになっている。輸出は5年で三倍になった。財政は、輝かんばかりの状態にある。港は活気にみちている。司法制度が改革され、裁判の手続もヨーロッパの裁判所に決して引けを取らない。・・・この観点に立てば、朝鮮の日本への併合は極東の繁栄を発展の新たな要素となるであろう」(國際ニュース事典『外国新聞に見る日本』第四巻)。
 他国を「取る」ことが“善”とされた時代もある、と筆者は先に論じたが、右の論評は、他国の「併合」が「恩恵の記録」(善のイメージ)から「国家間の強盗」(悪のイメージ)へと、次第にうつろいつつあった時代の雰囲気をうまくとらえていると思う。
 韓国併合は、そうした行為がなをお“善”とみなされていた恐らく最後の時代に、韓国の主権者であった高宗皇帝をも含む、全世界の承認の下になされたものである。
 「併合」という過酷な現実に、当初は抵抗もあり弾圧もあったが、その根底に流れていた「日韓合邦」の理想は、“一視同仁”と謳われた日本の統治を、「侵略」や「植民地」といった今風の概念では決して包摂し得ぬものにした。
 やがてはそれが韓国近代化の地ならしをし、韓国民の幸福にも繋がっていくのだが、そういう事実を現代人は忘れてしまっている。
 崔基鎬著(元ソウル中央大学教授 歴史学者)『日韓併合の真実』より

 《日本は李氏朝鮮に似かよってきていないか?
 「わが国の人々の多くは、日本統治が犯罪行為であったごとく力説するが、それは事実を知らぬ妄説にすぎないと私は信ずる。あの時代を理性的に振り返ってみれば、いかに日本統治がわが国にとってプラスになったか、いかに日本が真摯に朝鮮半島の近代化に努力したかを、読み取ることができるだろう。(中略)中国の腐りきった文化こそ、朝鮮民族を救い難いまで毒してきたのだった。李氏朝鮮はそのような中国を宗主国として崇めてきたのだった。(小略)私にとって、今日の日本の政界や経済界や知識層の中に“親中派”が多くいるのは不思議なことだ。(小略)李氏朝鮮は五世紀にもわたって、中国文化という汚濁しきって腐臭を発するカメの中に漬けられていた。アジアでは中国が闇であり、日本が光であってきた。いずれにせよ、国が尚武の心独立の精神を失うと、人々が公益を忘れて私利だけを追求するようになり、社会が乱れて国が亡びることになる。私は、今日の日本が、李氏朝鮮に急速に似るようになっていることを憂いている。日本では、アメリカあるいは中国という大国に対する事大主義が蔓延るようになっている。自らの手で自国の歴史を改竄して恥じないかたわら、これらの大国に阿っている。(中略)日本はかって明治以後、アジアの光であったのに、すっかり曇るようになった。国家の消長は結局のところ、国民精神によるものである」。
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 《志願や勧奨だった創氏改名
 日韓併合時代の真っ真中、1923年に生まれた私は、当時から現在にいたるまで、韓国の国民が必ずしも「反日」ではないことを知っている。むしろ韓国人は、根本的には日本に好ましい感情を抱いていると言っていいだろう。盧政権やメディアが世論や国民感情を反日に焚きつけているだけだ。

 実際、日韓併合時代は、私の生まれ故郷でも、韓国人と日本人が対立することなく、仲良く暮らしていた。終戦時はお互いに別れを惜しんで、涙を流しながら手を取り合っていたほどだ。

 また、現在の韓国の歴史教科書には「日帝は内鮮一体・日鮮同祖論・皇国臣民化などを掲げて・・・・姓氏と名前まで日本式に改めて使うことを強要した」などと書かれているが、これは事実ではない。いわゆる「創氏改名」は強制ではなく、志願勧奨によるものだった。
 それが事実であることは、日本の陸軍士官学校を出て将校となり、日中戦争の勲功によって朝鮮出身者として初めて金鵄勲章を受賞された金錫源将軍が創氏改名をしていなかったという一例を挙げれば明らかだろう。強制ならば、それを拒んだ者に勲章が与えられるわけがない。ちなみに私たち大正生まれの世代も約二割は創氏改名をしなかったし、そのまま官庁や銀行などの要職に就いても差別を感じることはなかった。にも拘らず、多くの者が日本式の氏名を名乗ったのは、日本や日本文化に対する好意を持っていたことの表れである。

 そして、この傾向は今日でも変わっていない。したがって、もし現在の韓国で政府が親日的な政策を取れば、国民のあいだに、文学や音楽からライフスタイルに至る迄、日本の文化が深く浸透することだろう。しかし為政者は、それが韓国の自主独立を脅かし、国家に亀裂を生じさせると考える。つまり政策としては、国民が反日感情を抱いているからではなく、むしろ親日的であるからこそ、逆に反日的な政策を取らざるを得ないわけだ。韓国の日本大使館が分析したように、政権維持のための反日なのである。

 《李氏朝鮮は中国の属国だった
 14世紀に前王朝の高麗を倒して成立した李氏朝鮮は、当初から「小中華」を自称する中国の属国だったのであり、その末期にあっても、近代国家としての自治能力をまったく持ち合わせていなかった。そういう強いものに寄り従う事大主義が根底にあるからこそ、日露戦争当時の国王・高宗は、頼みの中国が日清戦争に敗れて力を失うと、次はロシアの保護下に入ろうと考え、一時はロシア公使館に逃げ込んで執務するという常軌を逸した行動を取ったのである。

 頼る相手が日本ではなくロシアだったのは、国王が恣意的に振る舞える絶対的な権力を手放したくなかったからだ。当時のロシアは朝鮮を被保護国とし、その利権を漁ることしか考えていなかった。日本と違い、朝鮮の内政改革を求めていなかったので、ロシアの保護下に入れば、それまでと同じように国を私物化し、先制体制の甘い汁を吸い続けることができるーと高宗は考えたのである。

 したがって、ロシアがアジアに勢力を伸ばすことを警戒していたイギリスやアメリカが、李氏朝鮮の独立維持を望まなかったのは当然だった。だからこそイギリスは日露戦争の二年前に日英同盟を結んだわけで、もしあのとき日本が戦わなければ、朝鮮半島はロシアの支配下に置かれていただろう。そうなれば内政の改革は行われず、近代化も始まらなかったに違いない。そして国王はー李朝五百年間が常にそうだったようにー贅を尽くした美食と遊興で国費を浪費し、その一方で、国民の大多数を占める農民は支配階級の搾取によって更に窮乏し、塗炭の苦しみを味わい続けたはずだ。その意味で、アジアの国家として初めて西洋との戦争に勝利し、ロシアのアジア進出を阻んだ日本は、それと同時に李朝の専横から朝鮮の民衆を救ったともいえるのである。

 《竹島問題解決のための一つの提案
 日本で言えば室町時代から明治時代の初めまで続いた李氏朝鮮は、国としての体をなしていなかった。現在の北朝鮮は李氏朝鮮のクローンのようなものだと言えば、それがどんな社会だったかは想像がつくだろう。
 支配階級である「両班」(文官と武官からなる官僚層)の身分は実質的に世襲化していたため、階層の流動性が乏しく、そのため社会は活性化しない。やがて官職の売買が公然と行われるようになり、賄賂も横行した。
 両班は体を動かして汗を流すことを忌み嫌うから、自らの生活のために、ひたすら民衆からの収奪に専念する。つまり李氏朝鮮は、国王と両班のためにだけに存在する国だったのだ。

 しかも驚くべきことに、十九世紀末の朝鮮は、人口の半分以上を両班が占めるという異常な状態になっていた。勤労を蔑むものが半分を占め、残りの半分がその収奪を受けるような社会が、まともな国として成り立つわけがない。
 当然、経済は疲弊する一方だったが、支配階級はそれを一顧だにせず権力闘争に明け暮れ、浪費に耽る。たにしろ国家予算の半分が官邸費用だったくらいだから、産業に必要なインフラ整備も行われない。李朝下の五百年間、朝鮮には人間が通れる安全な道路はまったくなかった。ほとんどの河川にはがなく、鎖国政策を取っていたため港湾施設も皆無に等しい。

 盧大統領は秀吉の壬辰倭乱が産業基盤を破壊し、韓国の近代化を遅らせたと言うが、そもそも李氏朝鮮は近代産業国家に必要な準備を一切行っていなかったのだ。
 同じように鎖国をしていたとはいえ、日本の徳川幕府とはそこが違う。日本は三百年に及ぶ鎖国中も国内のインフラを整え、長崎の出島を通じて西欧の情報を取り入れていた。だからこそ明治維新後に短期間で近代化を成し遂げることができたのである。
 それに対して李氏朝鮮は外国からの情報を遮断し、近代化の必要を感じて行動を起こした開花派は守旧派に抹殺された。このような国が自らの手で近代化を達成できたとは思えない。日本がロシアに勝利し、朝鮮の内政改革に乗り出したからこそ、近代国家としてのスタートを切ることができたのだ

 こうした歴史に目をつぶり、過去に蓋をしているのは、盧大統領だけではない。韓国の歴史教科書もまた、貪官汚吏が蔓延った李朝の実態を教えず、日韓併合がなければ立派な国家として独り立ちできたかのような書き方をしている。だが、日韓併合によって全国民に教育が徹底され、近代的医療制度が確立し、インフラ整備によって工業国家としての基礎が築かれたことは、明白な事実だ。

 当時の国民も、日本に併合されていることに屈辱感を抱いていたわけではない。無謀な戦争を行い、それに敗れることがなければ、日韓両国は現在でも互いに協力しながらアジアのお手本のような存在として発展していただろう。
 こうして歴史を正しく検証してみれば、日韓が敵対しても何ら益のないことは明らかである。竹島問題にしても、双方が譲歩することは考えにくいから、互いに領有権を主張しているだけでは永遠に決着しない。むしろ日韓の共同開発によって観光地化するといった解決策を模索するほうが現実的かつ建設的だろう。

 誤解を恐れずに言えば、現代版「日韓併合」が今こそ必要なのではないか。それが日韓を一つにまとめ、ひいてはアジア全体を発展させる契機になるのではないかとさえ私は思う。争っていては、何も発展しない。( SAPIO  6/14)
 原田 武夫 国際戦略情報研究所代表 諸君 平成18年4月号

 ・ウイーン条約法条約の第51条には、条約締結交渉にあたって国家の代表個人に脅迫を加えて締結した条約は、当然に無効であるとある。また第52条には、国際法上違法な武力の行使と威嚇を用いて締結された条約については無効とするともある。これらのルールに照らして、韓国側は「李王朝とその臣下に日本軍が銃剣を突きつけながら締結されたのが日韓併合条約なのであるから、当然に無効だ」と主張する。

 しかし、そもそもこの「ウイーン条約法条約」が成立したのは1969年であり、日韓併合条約が締結された1910年はその遥か昔である。問題となる条約が依然として効力を有しているならまだしも、第二次世界大戦後における韓国の成立、そして日韓基本条約の締結などの事情に鑑みれば、日韓併合条約は当然に失効していると見るのが妥当である。したがって、問題は現代における効力云々ではなく、1910年当時の事情だけということになるが、その段階で「ウイーン条約法条約」は成立していない以上、その締結の合法性を巡る議論にこのルールを当てまめることはできない。

 それでは当時のルールはどうだったのかというと、国際法の大家たちが等しく認めるとおり、「脅迫による条約は一般に有効なものとして、扱われてきた」(山本草二「国際法」有斐閣)という事実がある。実際、日本以外の当時の「帝国主義列強」は世界各地で、現代でいえば、「脅迫」にあたる行為を伴いながら条約締結交渉を繰返しており、そのこと自体について「そもそも無効であった」とすると、それこそ大砲を積んだ黒船の来襲に怯えながら締結した幕末の日本と列強との不平等条約も全て「無効」だったということになる。しかし、そうした主張が、主張するものの主観を満足させるものではあっても、客観的には史実を何ら変えるものではないことは明らかであろう。

 ・重要なのは、あくまでも韓国側における唯一正統な交渉当事者であった李朝とその臣下に対して「脅迫」が加えられていたかどうかである。

 日韓併合条約の締結交渉を日本側で仕切ったのは寺内正毅朝鮮統監(兼陸相)であり、寺内統監は1910年7月23日にソウルに到着した。しかし、到着より一気呵成に李朝側に条約締結を迫ったわけではない。保養地から戻った内閣総理大臣・李完用が寺内統監と初めて会見したのが同30日であったが、その際、この条約について議論がなされたわけではない。8月1日には、寺内統監の号令によって初めて李朝側との「内閣会議」が行われたが、そこでも儀礼的なやり取りに終始したことが知られている。

 このようにいくら軍人寺内だからといって、就任早々、無理やり李朝側に併合条約の受諾を迫ったわけではないが、他方において寺内統監の着任直前より、韓国における治安について日本側が実態として仕切る立場を獲得していたことは事実である。6月24日、日韓両国は警察事務委託に関する覚書を交わし、同30日には憲兵制度が開始された。また、韓国軍隊はこれらに先立つ1907年8月1日に、第三次日韓協約の秘密取極に基づきつつも、表面上は李朝からの勅令により解散させられていた。

 そうした中、李総理は8月16日、初めて正式に寺内統監を官邸に訪問し、日韓併合の交渉が開始されたのである。その際、寺内統監は条約案を李総理に示した上で、「韓皇帝陛下は時運の趨勢に鑑み自ら進んでその統治権を我が天皇陛下に譲与せられ、その位を去って将来万全の位地に就かる」べきことを進言した。これに対し、李総理からは「併合」後の国号と韓国皇帝の称号について異論が唱えられただけで、本質的な反論はなかった。

 李総理は日本側提案を持ち帰り、内閣に諮ったが、その際、異論を唱えたのは朱子学上の「対面論」を主張して譲らない李容植学部大臣だけであった。そこで李総理は、李学部相を外して閣議を纏めるために、韓国皇帝の許可をえて、「日本における洪水見舞いのため」、李学部相を日本に派遣した。その結果、李朝及びその内閣には反論を唱えるものはいないこととなり、李総理は同20日、寺内統監に条約案への同意を内報した。これを受けた寺内統監は、調印当日の即日公布を東京に要請し、その許可を得た後、同22日午後4時、李総理と共に日韓併合条約に調印したのである。
 西岡 力 東京基督教大学教授 正論6月号 平成18年度

 1.日本の統治は、当時、有効に締結された日韓併合条約に基づくものである。言い換えると「合法的」なもので、賠償責任はないという、当時の国際法から見た評価だ。この評価にたつから、日本政府は韓国との国交交渉で、統治期間に実施された戦時動員(官斡旋、徴用、徴兵)もすべて違法行為ではなく、賠償責任はないとい立場を堅持した。日韓基本条約、諸協定に過去の謝罪、補償は一切盛り込まれていない。

 2.当時は「法的に有効」、「合法的」な統治だったが、韓国が独立し日韓が国交を持つ現時点から過去を振り返ると「遺憾であって反省する」という道義的評価である。

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