朝鮮人の民族性

2005年11月28日

終戦時の朝鮮人の考え方

友邦シリーズ第21号

資料選集 東洋拓殖会社               

猪又正一「私の東拓回顧録」p98〜100

猪又氏は大正7年東洋拓殖会社入社、終戦時は京城支店長

 

昭和二十年八月十五日の正午、重大放送があるとのことで、私達は東拓事務所裏のクラブに集合し、生まれて始めて天皇陛下の放送を聞いた。雑音が多くて余り良く聞き取れなかったが、ポツダム宣言受託で無条件降伏ということだけははっきりした。
これにより朝鮮は独立ということになり、私達は居ながらにして、自分の国ではなく、外国に居ることになった。
それからというものは、私たちの周囲は毎日のように変化していった。

日本国旗は影を潜め、新しくできた朝鮮の国旗が各所に掲げられ、国旗は君が代に代って朝鮮の国歌ができ、新聞は京城日報が廃刊となり、また内地からの新聞が来なくなり、それに代わって朝鮮の諺文新聞が現れた。内地との通信は途絶したので、内地の状況は全然わからない。ラジオは日本語を廃して朝鮮語の放送となり、鮮人間の会話は日本語をやめて、すべて朝鮮語となり、私たちが鮮人の友人と話すのも日本語では気が引けるようになった。

朝鮮神宮ではご本尊の天照皇大神を廃し、朝鮮の檀君が祭られ、学校は日本人のものが廃されて、その施設は鮮人学校として利用されてた。巡査は内地人が罷免されて、鮮人巡査のみとなり、新たに鮮人巡査が増員されたが、これら新しい巡査の中には素質の思わしからぬものが多く、日本人の保護などは全然考えない。それで終戦まで世界一であった朝鮮の治安は日一日と悪化し、夜間には泥棒が横行する。殊に戦時中、防空関係で飼い犬をすべて撲殺したり、屋敷の塀を取り払ったりしたので用心の悪いこと夥しい。その上、終戦直後、刀剣類、銃器類が取り上げられたので、いよいよ以って泥棒が跋扈するのであった。

そのうちに官庁、銀行、会社等の幹部は全部、鮮人で占められ、日本人は自由な旅行もできなくなった。又形京城の電車は満員で、日本人はとても乗れないので、どこへ行くにも徒歩による外ない。かように私達は居ながらにして、外国人となり、しかも敗戦国民となってしまったのである。

(中略)

終戦直前まで、鮮人は日本国民として内地人と協力し、忠実に義務を果たして来たが、終戦と同時に朝鮮が独立することとなったので、鮮人は急に戦勝国民のような気分となり、日本人を敗戦国民として侮蔑するようになった。そこで朝鮮は三十五年前、日本に併呑されたが、今度は日本の敗戦になり、朝鮮人の朝鮮となるのだといって欣喜雀躍し、双手をあげて、米軍を歓迎したのであった。

当初内地人の考え方では、朝鮮における内地人の私有財産は確保され、又内地人の居住も許されるということであった。ところが鮮人は内地人の引き揚げによって、朝鮮内におけるすべての財産と、内地人の占めるすべての地位が朝鮮人に帰するというので、一刻も早く内地人を帰そうとしたので、これがため、朝鮮からの引揚げは他の地域よりも一番早かったわけである。
ところが米軍が進駐してきてからは、東拓の社長が米軍で占められたように、総督府の局長や道の知事も米軍中から任命され、又日本人の財産は米軍に接収され、鮮人には手を触れさせないという状態で、日本人に代わるに米人を以ってしたに過ぎず、当初鮮人の期待した朝鮮人の朝鮮とはならなかったので聊か失望し、彼らは米軍の歓迎会が終わらぬうちに、すでに一部では米軍の撤退を要求するという奇観を呈した。

なお、終戦当時鮮人の考え方には飛躍的なものがあり、今まで日本人が朝鮮へ来て知事や局長をしたのだから、今後は鮮人が日本に行き知事や局長をするのだという勢いであった。又彼らは日本人はもと裸で朝鮮に来たのだから、裸で帰るのが当然だというので、私はすべてが元通りになるものなら結構だが、私たちの歳を三十年前に戻せるかといって笑ったことがある。又日本人は朝鮮人に相談しないで戦争を始めて、鮮人をひどい目に遭わせたというから、私はわれわれ日本人も別に東条さんから相談を受けなかったといって笑ったのである。
終戦直前まで、鮮人も日本国民であり、私たちも朝鮮の土となる覚悟で、互いに協力して朝鮮の繁栄と幸福のため努力してきたものが、終戦と同時に異国民となり、すべてものの考え方が違ってきたわけで、民族の違いがかくも根強いものかと、今更ながら痛感したしだいである。


 

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2005年11月13日

平壌事件

「わが生涯を朝鮮に」 
穂積真六郎(旧朝鮮総督府殖産局長)
財団法人友邦協会

(穂積真六郎氏は事件当時、総督府外事課長だった。)

p69〜p73

そのうち、満州で、「万宝山事件」が起こった。これは、中国の排日から来る朝鮮人排斥とも関係があるが、万宝山で鮮農達が、自分らの田に水を引くため、満州人の所有地に水路を引かなければならないので交渉したが、地主が土地使用を許可しないため、背に腹は代えられず集まって実力行使の挙に出たところ、満人側は官憲も協力して朝鮮人を追っ払い、ぜんぶ追い出してしまった。
日中間の情勢が極端に悪化しているときであるので、平素あまり重要視していない朝鮮人の圧迫も、これが日本全国の問題となり出した。
朝鮮も李朝時代までは、中国の属国だったことも多く、中国人を大国人(テコクサラム)と敬ったものだが、中国が、日清戦争に負けたり、韓国に勢力が及ばなくなるにつれて、その尊敬心も薄らいでいった。
中国人は、その時分個人としてはもっとも勤勉な民族であり、国の背景を持たないまでも、団結力の強い性格を持っていたから、とくに経済上のことについては、その時分の怠惰な朝鮮人など遠く及ばなかった。
京城でみていても、漢江の洪水ののち、水はひいて泥をかぶったままの岸辺の野菜に河から水を汲み上げて、一々葉を洗い清めている農夫の姿を見ると、何れも中国の移民たちである。中国人は労働を何とも思わない。従って物価に含まれる労賃は安いもので我慢する。この勤勉な性格が、労働を苦にする日本人や、特に、朝鮮の人とは違う。それで、同じ商売をするにしても、呉服屋は店の品の出し入れを苦にせず、少しの買い物にもたくさんの品物を出して、客の選びよいようにする。御用聞きに行っても、何か家のことを手伝ってくれる。理髪店でも何でも親切だ。その結果は、朝鮮の治安が整ってくれば来るほど、商売は繁盛する。
その裏には、朝鮮人の商圏は、次第に圧迫されるという事態が、だんだんはげしくなる。したがって朝鮮人の中国人に対する恨みは、年ごとに激しくなってきた。
万宝山事件が起こると朝鮮人同胞が虐待された恨みと、平素の経済的な憤懣が一緒になって、鮮内の中国人に対する感情を刺激し、そのうえ日本全体が、はじめて本気に朝鮮人の味方をしてくれるという世情に浮かれた点も手伝って、はじめ仁川で中国人街を襲撃して店舗をこわし、死傷者まで出すという事件が起こった。

私はすぐ警務局に行って、田中保安課長に取締りと警戒を頼んだ。田中君は泰然として「警務局を信頼なさい。このくらいのことにびくともすることではなし、少しくらい騒いだほうがよいくらいだ。ちょうど良い時期に、ピタリと鎮めてみせますよ」とえらい自信だった。
私は辞任された児玉統監ご夫妻を東京までお送りして、新しい総監をお迎えに出張した。私も、事態を少し甘く見ていたような傾きがあったようだ。
今井田新総監のお供をして帰る途中の汽車に電報で、「平壌で中国人の虐殺事件が起こった」と知らせてきた。
私は田中君の真似をしてはじめのうちは、総監に、「朝鮮の警察はしっかりしているから大事には至らないでしょう。」といっていたが、電報の重なるごとに事件は大きくなって、死者百人を超すに至っては、私は車室の隅に小さくなっているより外なかった。帰ってみると平壌の事件は、実に惨憺たるものであった。
平壌の知事は、温厚にして秀才なる園田寛さんであったが、警察的な経験はない方だったし、警察部長は内地から来たての人で朝鮮の事情を知らない方だった。それに、警察に関する自信と、今度のことは少しぐらい騒がした上、止めて見せようという心のゆるみから、さすが田中君も、全鮮への注意に十分でなかった点もあったろう。他の地方は、騒動はあっても小さくすんだが、平壌ではえらいことになってしまった。
楊事務官が平壌に行ったが、死人の多いことや、子供まで天井にぶっつけて惨殺したという惨状に興奮してしまって、困った園田知事から「うるさくて仕事ができないから呼び返してくれ」と電話で依頼してくる始末だ。
翌朝私は中国総領事の来訪を受けた。
さぞ激しい抗議があることだろうと思ったので、対座したとき一度お詫びの言葉を述べた後は、相手の興奮が鎮まるまで、三十分くらいは、当方は口を開かないことに決めた。
総領事は、南方の人で、朝鮮に多い北方の人々とは通訳なしにには、同じ中国の人でありながら十分話ができないときいたが、私とはじめから仲の良い鄭領事を連れてきた。
私は謹んで遺憾の意を述べ、死傷者を多く出したことを陳謝し、事後の対策には万全を期すべきことを述べて、下を向いて頭を上げなかった。
総領事は激越に朝鮮人の暴状をなじり、警察の不手際を責めた。
しかし人間が最高潮に興奮して、1人でしゃべっても三十分とは続かないものだ。総領事はいうだけ言ってしまっても、私が謹んできいているだけで、一言も返事をしないものだから、だんだん言うことが脱線していた。そして「日本の警察は世界一整備したものと承っておりますが、その警察がこんな事件を予知できないはずはない。それにこんな事件のおこったのは最初から警察の陰謀であるとしか認められません。」と遂にまったく脱線してしまった。
私ははじめて顔を上げて「まことに申し訳ないことをいたしました。華僑の保護及び生活の安定には、極力努力いたします。ただ今のお言葉の中に、事件は警察の陰謀によるものだとありましたが、決してそんなことはございません。今のお言葉は総領事のご意見として伺ってよろしいでしょうか」ときいた。
総領事はびっくりして、「私は決して苦情を申しに上がったわけではありません。ただ、わが国人の保護について、この上ともよろしくお願いするために参上したのですから誤解のないようお願いいたします」と繰り返して蒼惶として帰っていった。

「なんだあれは」と同席した小田通訳官を見返ると、小田さんはあきれて「課長、あなたは図太い方ですね」と言っていた。

こんなことで忙しくしているうちに、満州の情勢はいよいよ緊迫して相次いで起こった中村大尉・井杉曹長殺害事件、万宝山事件をめぐって満州駐剳軍と満州軍との対立はますます悪化し、遂に九月十八日北大営で戦闘の火蓋が切られ、満州事変が勃発してしまった。
その日京城では、中国の駐日大使が平壌で中国人虐殺の現場を視察して、いよいよ京城に乗り込んで抗議を申し込む日になっていたのだが、その朝、北大営事件が一般に伝わったので、大使は平壌事件どころではなく、宇垣総督に会っても平壌事件などそっちのけで、繰り返し「あなたは日本陸軍の元老だから、満州の事件ができるだけ早く、そして最小限の範囲で収まるようご努力願いたい」と頼んで、大急ぎで東京に帰っていった。宇垣さんも人を食った方で、大使が土産に吉林の立派な長い人参を持ってきたのに「ホウ、人参は朝鮮の特産かと思ったら貴国にもできるのですか。」と空トボけておられた。大使が帰ると、私を見てニヤリとして、「とうとう何も言わなかった(平壌事件のこと)ね」と言われた。

 

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tkknrak at 14:12|この記事のURLComments(1)TrackBack(3)
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