桜井淳所長の最近の講演内容-日本の原子力開発の中枢機関はどこか 3-
テーマ:ブログ【講演要旨】1970-1990年頃の主要な比較要因((1)社会的影響力、(2)予算規模、(3)施設規模(総合性)、(4)人員数、(5)独創的成果、(6)学位取得者、(7)各種褒章受賞数、(8)社会的貢献度等)を客観的に比較した場合、原研と動燃のどちらが原子力研究の中枢機関であっただろうか、特に、その総合性(物理、化学、材料、燃料、計算科学、コンピュータ技術、核融合研究、研究炉・試験炉、各種加速器、軽水炉安全性研究、RI製造・配布、放射線照射利用等)からして、原研であることは間違いありませんが、それでも、原子力界ではないものの、社会科学を研究している大学の先生の中には、動燃と位置付けている者もおり(たとえば、『原子力の社会史-その日本的展開-』(朝日選書、1999)の著者である九大大学院比較社会文化研究院の吉岡斉先生)、その判断根拠は、推察するに、原子力研究イコール核燃料サイクル技術(主に、ウラン濃縮遠心分離器、核燃料再処理施設、国産動力炉等の技術)と位置付けており、特に、国産動力炉開発の予算と開発組織の存在に高い評価点を与えているように解釈できますが、核燃料再処理施設は、仏サンゴバン社の技術であり、国産動力炉開発は、新型転換炉原型炉「ふげん」や高速増殖炉原型炉「もんじゅ」に見るように、決して成功例と位置付けることはできず、むしろ、どちらかと言えば、失敗例であるため(吉岡先生は失敗例の組織の存在をどのように正当化しているのでしょうか、不思議でなりません)、業務内容と組織力に疑問が残り、社会的な信用や影響力は、決して高いと言えず、むしろ、逆であったために、1997年に発生した核燃料再処理施設附属施設火災・爆発事故を契機に、自民党と科学技術庁により、それ以上の継続は、認められないと判断され、解体され、改組されて、核燃料サイクル開発機構に衣替えされたという経緯があり、それらの真実から、動燃が中枢機関であったとの評価と位置付けは、虚構に過ぎず、商業技術に結び付けられる技術開発が実施できなかった最大の組織的欠陥は、"業務委託"を重視する"参謀本部"方式(原産会議『原子力は、いま(上)』(原産会議、1986)のp.191)にあったと言われていますが、その方式は、一言で言えば、動燃が窓口になって、原子炉メーカーを中心とした原子力界、特に、原子力産業に開発予算を分配する"トンネル機関"です(続き、次回)。