『神は沈黙せず』山本弘著 角川書店 P58−P64(順次抜粋)
当時、兵士たちのこうした目に余る暴走は、本国にも伝わっていた。外務省東亜局長であった石射猪太郎の一九三八年一月六日の日記にはこうある。
「上海から来信、南京に於ける我軍の暴状を詳報し来る。掠奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。鳴呼これが皇軍か。日本国民民心の頑廃であろう。大きな社会問題だ」
こうした記録が数多くある以上、「南京大虐殺は東京裁判で初めて出てきた」などという主張が誤りであるのは疑いがない。
議論の勝敗はあきらかだった。真田はろくな歴史知識を持たず、まともな資料を調べてみようという意欲もなく、その論理は穴だらけだった。それに対し、「あくはと」の知識量と資料検索にかける情熱には際限がないように見えた。
バトルが終わりに近づくと、とうとう真田は最後の悪あがきに走った。「あくはと」を「アカ」と罵り、「東京裁判史観に毒されている」とか「中国から金を貰っている」などと決めつけたのである。「あくはと」というハンドルネームは「赤旗」のもじりに違いないとも主張した(実際はカナアンの神話に出てくる美青年の名前である)。彼の文章はどんどん支離滅裂になり、まさに末期症状と呼ぶにふさわしかった。それに対し、「あくはと」は最後まで冷静だった。
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