(4)捕虜ハセヌ方針(東中野説)


『神は沈黙せず』批判 総合メニュー
『神は沈黙せず』批判(まえがき)
(1)南京論争登場
(2)否定論を理解しているか?
(3)本当に処刑されたのか?
(4)捕虜ハセヌ方針(東中野説)
(5)捕虜ハセヌ方針(南京戦史)
(6)トンデモ国際法
(7)便衣兵摘発の状況
(8)形勢不利なのはどっち?
(9)石射史料に虐殺の記述なし
(10)なぜ数が問題になるのか
(11)虚構の上に論を重ねた虐殺説
「あとがき」のようなもの


中島日記に関して(そのニ)


 『神は沈黙せず』山本弘著 角川書店
 P58−P64(順次抜粋)

 真田はまったく動じず、せせら笑った。そんな下級兵士の証言など信用できない。どうせ左翼文化人のでっちあげに違いない。たとえば第一六師団長の中島今朝吾中将の日記には、虐殺行為などまったく記されていない。それどころか、「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ」とあって、当時の日本軍が中国兵を捕虜にせず、武装解除して解放していたことが分かる・・・・・・。

「あくはと」は即座に反証を挙げた。中島今朝吾中将の日記には、真田が引用した箇所のわずか数行後に、十二月十三日に捕虜にした中国兵の処分について、次のような記述があるのだ。

「此七八千人、之ヲ片付クルニハ相当大ナル壕ヲ要シ中々見当ラズ一案トシテハ百二百二分割シタル後適当ノケ[カ]処に誘キテ処理スル予定ナリ」

 この文章の意味が理解できない者はいないだろう。武装解除して解放するだけなのに、なぜ「大ナル壕」が必要なのか? つまり先の「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ」というのは、捕虜はすべて殺して埋めてしまう方針のことなのだ。結局、何万人も埋める「大ナル壕」が用意できなかったので、揚子江岸で殺害して死体を河に流すことにしたのだろう。
 真田はこうした事実を知らなかったらしい。どうやら中島中将の日記を実際に読んだわけではなく、「なかった」派の書いた本の歪曲された解説を鵜呑みにしていたようだ。


 

 論点の確認です。否定論(真田)は、日本軍全体の方針として、捕虜は解放する方針だったと説明しています。その一例として中島日記をあげていますから、論点は「中島中将の個人的な考え方」ではなく「日本軍全体の方針」ということになります。
 

 否定論(真田)の言い方もちょっとおかしな部分があるので、現実社会に存在する「なかった」派の主張を確認してみましょう。山本さんインチキと批判した『南京虐殺の徹底検証』東中野修道著から「捕虜ハセヌ方針」について引用してみます。
 

 

『南京虐殺の徹底検証』より
捕虜ハセヌ方針について
『南京虐殺の徹底検証』P115-119 東中野修道著 展転社

 今から十数年前に、第十六師団長中島今朝吾中将の陣中日記が公表された。『南京戦史資料集T』によれば、その陣中日記(十二月十三日)には次のように記されていた。

一、大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトヽナシタルモ千五千一万ノ群集トナレバ之ガ武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ唯彼等ガ全ク戦意ヲ失ヒゾロゾロツイテ来ルカラ安全ナルモノヽ之ガ一旦掻〔騒〕擾セバ始末ニ困ルノデ部隊ヲトラックニテ増派シテ監視ト誘導ニ任ジ
 十三日夕ハトラックノ大活動ヲ要シタリ乍併戦勝直後ノコトナレバ中〃実行ハ敏速ニハ出来ズ 斯ル処置ハ当初ヨリ予想ダニセザリシ処ナレバ謀部ハ大多忙ヲ極メタリ
一、後ニ至リテ知ル処ニ依リテ佐々木部隊丈ニテ処理セシモノ約一万五千、大〔太〕平門ニ於ケル守備ノ一中隊長ガ処理セシモノ約一三〇〇其仙鶴門附近ニ集結シタルモノ約七八千人アリ尚続々投降シ来ル(傍点筆者)

「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之をヲ片付クル」――これが師団長の日記の一節であった。そのため、これが読むものに衝撃を与えたのである。         

(中略)



文章の捩れ
 六つの疑問点を列挙したが、実はもう一つある。
 もし、即時銃殺が当初からの方針であったのであれば、中島師団長は、当初からの「投降兵即時銃殺」という方針に立って、その方針の貫徹に奮闘するのだが、千、五千、一万、の群集ともなると多すぎて、とても銃殺すらできない、と嘆いていたはずである。
 これを、先の日記に模して文章化すると次のようになる。

大体捕虜にはしない方針なれば片端から之を片付くる(即ち銃殺する)こととなしたるも千五干一万の群集ともなると多過ぎて銃殺することすら出来

 つまり「捕虜ハセヌ方針」が捕虜処刑命令であったと仮定すると、「片端から銃殺しようとするのだが、多過ぎて、銃殺することすら出来ない」と書かれて当然であった。
 ところが、そうは書かれなかった。「片端から銃殺しようとするのだが、武装を解することすら出来ず」と書かれてあった。
 捕虜処刑命令であったと仮定する時、文章に、不自然な捩れが生じてくるのである。この捩れこそ、この誤った仮定から生み出されていた。
 捕虜即時処刑という命令など出ていなかったのではないか。そう仮定してみるのもよいであろう。
 そうすると、右の不可解な疑問は、全て、氷解してゆくのである。
 


  「捕虜ハセヌ方針」の真の意味
 この日記には、「武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ」とか、「当初ヨリ予定ダニセザリシ処ナレバ」というように、ダニとかスラといった強意の副助詞が用いられている。
『国語大辞典』を持ち出すまでもなく、だにすらも、「程度の甚だしい一事(軽量いずれの方向にも)を挙げて他を類推させる」働きをする。
 つまり、陣中日記の作者は「武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ」と書き記すことにより、「捕虜ハセヌ方針」の貫徹など、到底不可能、と匂わした。
 換言すれば、「捕虜ハセヌ方針」という最終目的を達成する手段が、支那兵の「武装ヲ解除スルコト」であった。
 では、問題の「捕虜ハセヌ方針」とは、何であったのか。三つのことが考えられる。
 まず、銃殺の方針であったという従来の通説である。しかし、銃殺が当初からの方針であったのであれば、すでに述べたように、中島師団長は「大体捕虜にはしない銃殺の方針であったから、投降兵が来るや、これを片端から銃殺しようとするのだが、千、五千、一万の群集ともなると多過ぎて、銃殺することすら出来ない」と記していたことであろう。
 ところが、陣中日記の作者は、「銃殺することすら出来ない」とは書かなかった。従って、即時処刑の方針ではなかったことになる。
 では、捕虜にする方針であったのか。しかし、これは、言うまでもなく、「捕虜ハセヌ方針」に反する。となると、残るは、投降兵の追放しかない。戦場の投降兵にたいしては、処刑するか、捕虜とする、追放するか、三つの方針しかないからである。従って、「捕虜ハセヌ方針」とは「投降兵は武装解除後に追放して捕虜にはしない方針」という意味になる。
 その「武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ」という表現から、当初の方針(即ち捕虜にはしないで武装解除してから追放することなど)など、とても遂行できないという悲鳴が聞こえてくるのである。


(注 原文の傍点部分は太字強調にしました)

 私がみたところ(解説に同意するかどうかは別として)この解説に「歪曲」に該当する部分は見当たりません。従来の解釈としては「殺害の方針」というのが通説だったことも説明されています。「百、二百分割して処理する予定」という意味の部分は引用されていませんが、該当部分があってもなくても「捕虜はせぬ方針」の意味は変わりませんから「歪曲」や「重大な瑕疵」とはなりません。該当部分を東中野説で解釈すると「百、二百分割して処理する予定」というのは、「捕虜はせぬ(武装解除の上釈放)という日本軍の方針が不可能なので、軍の方針ではないが小分けにして殺害しようか(予定)」という島師団長の個人的な意見ということになるからです。しかし殺害は実行されずに捕虜は収容された。これが史料から判明する事実です。




参考までに
中島日記(抜粋)

一、大体捕虜ハセヌ方針ナレバ片端ヨリ之ヲ片付クルコトヽナシタルモ千五千一万ノ群集トナレバ之ガ武装ヲ解除スルコトスラ出来ズ唯彼等ガ全ク戦意ヲ失ヒゾロゾロツイテ来ルカラ安全ナルモノヽ之ガ一旦掻〔騒〕擾セバ始末ニ困ルノデ
 部隊ヲトラックニテ増派シテ監視ト誘導ニ任ジ
 十三日夕ハトラックノ大活動ヲ要シタリ乍併戦勝直後ノコトナレバ中〃実行ハ敏速ニハ出来ズ 斯ル処置ハ当初ヨリ予想ダニセザリシ処ナレバ謀部ハ大多忙ヲ極メタリ
一、後ニ至リテ知ル処ニ依リテ佐々木部隊丈ニテ処理セシモノ約一万五千、大〔太〕平門ニ於ケル守備ノ一中隊長ガ処理セシモノ約一三〇〇其仙鶴門附近ニ集結シタルモノ約七八千人アリ尚続々投降シ来ル
一、此七八千人、之ヲ片付クルニハ相当大ナル壕ヲ要シ中々見当ラズ一案トシテハ百二百二分割シタル後適当ノケ[カ]処に誘キテ処理スル予定ナリ

『南京戦史資料集』P326

 日本軍が「捕虜は釈放する方針であった」という点について、『徹底検証』では他の史料も引用しながら解説しています。
 



『南京虐殺の徹底検証』より
捕虜は釈放する方針について
『南京虐殺の徹底検証』P93−94 東中野修道著 展転社


 上海派遣軍第十三師団司令部の通達
 捕虜取扱にかんする訓令にはさらにもう一つ、「戦闘二問スル教示」という訓令がある。これは昭和十二年十月九日、南京攻略ニケ月前に、上海派遣軍第十三師団司令部が発令していた。
                      
 そのなかの「11、俘虜ノ取扱二就テ」という規定は次のように命じていた(適宜、読点と振り仮名を付している)。

 《多数ノ俘虜アリタルトキハ、之ラ射殺スルコトナク、武装解除ノ上、一地ニ集結監視シ、師団司令部二報告スルラ要ス。又、俘虜中、将校ハ、之ヲ射殺スルコトナク、武装解除ノ上、師団司令部二護送スルヲ要ス。此等ハ軍ニ於テ情報収集ノミナラズ宣伝二利用スルモノニ付、此ノ点、部下各隊ニ、徹底セシムルヲ要ス。但シ、少数人員ノ俘虜ハ、所要ノ尋問ヲ為シタル上、適宜処置スルモノトス。》


 この「戦闘ニ関スル教示」は、多数の捕虜がある場合「射殺スルコトナク」師団司令部にまで報告せよ、少数の捕虜の場合は「適宜処置」せよと訓令していた。つまり、一方では射殺しないで報告せよとあったから、他方では射殺せよと訓令されていたかのように、両者対立的に映る。
 たとえば秦郁彦『南京事件』は、右の規程を、「どうやら小人数のしかも下級兵士は、その場で処刑してもかまわない方針だった」と推定する。つまり「適宜処置」は「適宜処刑」であると両者対立的に解釈された。
 しかし、そうすることは、陸軍次官が「降ヲ乞ヘル敵ヲ殺傷スルコト」を禁じた戦時国際法の規定を「努メテ尊重」せよと通達したことに反する。昭和十二年八月の陸軍次官通牒(陸支密第一九八号)に反する指令を、上海派遣箪第十三師団司令部が昭和十二年十月に発令した!、とは考えられない。誤った推定が陸支密第一九八号に違反することになったのである。適宜処置とは、適宜処刑の意味ではなかったことになる。
 適宜処置が適宜処刑の意味ではなかったとすれば、ではどうすればよいのか。少数の捕虜を監視し続けるのか。しかし、それでは現状維持であって、処置したことにはならない。第一、戦闘中に、それでは自軍に危険が及ばないとも限らない。
 そうなると、採るべき道は(処刑でもなく監視でもないから)捕虜を適宜追放することしかない。第十三師団司令部の「戦闘ニ関スル教示」という通達は、投降兵は射殺しないで武装解除後に適宜追放せよ、と訓令していたことになる。
 しかもそうすることは、戦時国際法の規程を「尊重」せよという陸軍次官の通牒とも合致する。また、陸軍歩兵教範が指示する「捕虜ハ・・・・・・釈放シテ可ナリ」という原則とも矛盾しない。従って、この「俘虜ノ取扱ニ就テ」は、<捕虜は原則として現地にて釈放>という、従来の通達の線に立っていたのである。

 では、なぜ「適宜釈放」とは書かれず、「適宜処置」と書かれたのか。その理由も簡明であろう。適宜釈放と書けば、いかに悪質な投降兵でも、釈放が必至となる。それは絶対にできないことであった。命令に服さない捕虜は、処刑もありえるという含みを残した表現、それが適宜処置であったのである。

 同書では「歩兵教範」も「次官通牒」も引用され解説されていますが、だらだら引用してもしょうがないので、この辺りで一旦やめておきます。次官通牒については次のページで『南京戦史』から全体を引用しますので確認して下さい。

 以上のように現実世界に存在する「なかった派」の主張は、多くの資料を多角的に検討し解説しているのが特徴と言えます。日本国内においては、大虐殺説(東京裁判などの二十万以上説など)はすでに主張する人がいなくなっていますから、客観的にみて大虐殺説は崩壊したと評価してよいでしょう。

(虐殺派筆頭の笠原教授は虐殺範囲を近郊6県に拡大して「20万に近い数、あるいはそれ以上」としていますが、中国側主張である30万以上や東京裁判20万以上というのは南京城とその周辺を範囲としたもので、近郊6県をほとんど含んでいません。つまり、範囲を拡大した時点で大虐殺説は崩壊したとも言えるわけです)詳細は「(11)虚構の上に論を重ねた虐殺説」を参照。





 山本さんはどういうわけか現実世界に存在する(山本さんが読んでいるはずの)否定論を作品世界にフィードバックさせませんでした。山本さんの作品に登場する否定論は、現実世界には存在しないような低レベルの否定論のみです。

 いわば学術的な現実を放棄して、山本さんが脳内で作り上げた小学生レベルの議論を、さも学術的なものであるかのように記述しているということになります。





NEXT(5)捕虜ハセヌ方針(南京戦史)

トップへ
トップへ
戻る
戻る