原爆のレトリック
「広島への原爆投下について間違いがたくさん書かれた本が何冊かあったからと言って、原爆投下がなかったと言えるだろうか?」by あくはと |
これは完璧な論理というよりはすり替えの論理ですね。これを原爆のレトリックと呼ぶことにして、後に解説することにします。
あくはと君の質問に対する回答
(1)原爆投下について間違いが書かれた本が多数あっても、 (2)信頼できる史料があれば、原爆投下の事実は覆りません。 (3)しかしながら、信頼できる史料がなければ歴史的事実と断定されるとは限りません。具体的な可能性としては「投下された爆弾が原爆ではなかった」という場合や、「爆撃の事実はなかった、別の事件(地震とか爆発事故とか)だった」という場合が考えられます。
原爆投下については、原爆投下が事実と考えうる史料が多数あるので、原爆投下はあったと言えます。
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事実と考えうる史料の存在が問題
真田の主張は、虐殺肯定論はデタラメなものが多いというもので、一つの例として『レイプオブ南京』を挙げています。
あくはと君の主張は、『レイプオブ南京』が記述に間違いが多い酷い本だったとしても、南京大虐殺に関する研究書はそれだけではない、という事を原爆のレトリックを利用して主張したかったのだと思われます。
すると議論の行方としては、信頼できる「虐殺肯定論」(歴史研究書)とはどういうものがあるのか?を、あくはと君が示さねばなりません。「アイリスチャンの『レイプオブ南京』は論外だが、○○○○という研究書は概ね信頼できる。」という風に反論が続かなければなりません。個々の史料提示だけでは南京大虐殺の全体像がわからないので、大虐殺があったという以上は全体像について論じた研究書なり論文の提示が必要になります。
作品中ではこういった形で議論がされずに、他に信頼できる研究書があるんだよ、ということを匂わす程度で終わっています。結果として消化不良な感じは否めませんね。
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