韓国では成宗実録に出てくる「三峯島」を竹島に捏造解釈している。成宗実録には、三峯島の状況に関する記述がある。そこで、その記述に基づき写真で検証してみる。
【成宗実録72巻 世宗7年10月丁酉】
兵曹啓 永興人金自周供云 李道觀察使 以三峰島尋覓事 遣自周及宋永老 與前日往還 金興 金漢京
李吾乙亡等 十二人 給麻尚船五隻入送 去九月一六日 於鏡城地瓮仇味 發船向島 同日到宿富寧地青巌 一七日 到宿會寧地加麟串
一八日到宿慶源地末應大 二五日 西距島七八里許到泊 望見則 於島北 有三石列立 次小島 次巌石列立 次中島 中島之西又有小島 皆海水通流
亦海島之間 有如人形 別立者三〇 因疑惧 不得直到 畫島形而來 臣等 謂往年朴宗元 由江原道 發船遭風 不得直到 今漢京等 發船於鏡城瓮仇味
再由此路出入 至畫島形而來 今若更往 可以尋覓 請於明年四月風和時選有文武才者一人入送 從之
25日に島まで西に距離7〜8里に到着し停泊して、島を望み見た。島の北には三つの石が列立し、次に小さな島がある。次に岩石が列立し、次に中くらいの島がある。中くらいの島の西にまた小さな島があり。それらの全ての間には、海水が通じて流れている。
この記述を写真で検証してみよう。
1.島の北の三石列立
三仙岩(下の地図の北東端にある景勝地)
2.次に小島
観音島(右の島)
3.次に巌石が列立
観音島のすぐ下に小さな島(写真は未発見)
4.次に中島
chukdo
5.「中島の西の小島」
手前のchukdoと鬱陵島間に小島が見える。
以上より、
成宗実録の記述は、鬱陵島の東面の島や岩について、北から南へと描写したもの
である。
参考に高麗大学の申教授が「三石列立」に比定した竹島の独立門岩の写真を示す。
北からのアングル。左(東)の突端にある風穴です。竹島の東島の東端にあり、北には面してない。海水も1カ所しか通じてませんね。また、それ以降の成宗実
録の記述に合致する島もありません。
また、高麗大学の申教授は丁酉条の「有如人形 別立者三〇(人のようなものがあり、30人が別々に立っていた)」を
アシカを人と間違えたと解釈しました。竹島に人は住めませんから、見た
のが人では、都合が悪いのです。
しかし、これはあまりにも杜撰でした。
同じ10月の壬辰条に、更に三峯島の
記録が掲載されているのです。そこには、はっきりと
「30人
が立っており、白衣を着ている。遠くて、容貌ははっきりしないが、朝鮮人のようだ」と書かれています。「朝鮮人のようだ」と判断できる状態
で、アシカを人と見間違うことはありません。
韓国人お得意の資料のトリミングと、
歪曲解釈がここでも明らかになりました。(こんなのばっかり)
【成宗実録72巻 成宗7年10月壬辰条】
永安道観察使李克均馳啓 永興人金自周言往見三峯島 且図其形送自周以進 命問之自周対曰、於鏡城海浜 乗舟行四昼三夜 見島屹然而有人三十余列立 島口
有烟気 其人衣白形貌遠不能詳 然其大?乃朝鮮人也 惧見執不能進也 賜襦衣二領