日本は文化抹殺計画を行ったのか?「キムチ編」
一部の韓国人が主張することをまとめるとこのようになる。
日本人は、併合時代、文化抹殺計画を行った。
文化抹殺は、多岐に及ぶ。
食生活関連では、キムチや餅の庶民食、韓国茶道の作法などを全て奪おうとした。
そのため、韓国茶道は、伝統が消滅(全ての韓国人の頭の中からも知識が消滅したらしい)。
数千種類あった餅は、数十分の一に種類が減少。
キムチも、朝鮮の人々は迫害されながら隠れて作り続けて、伝統を現在に伝えている。
※上記の意見の中にも、矛盾点が沢山見られるが、、、今回はそのことには触れないでおこう。
しかし、本当にそうだろうか?
今回はキムチについて、焦点を当てて、検証してみよう。
日本は朝鮮で、キムチ抹殺計画を行ったのか!?
http://www.ksyc.jp/mukuge/204/sasaki.htm
参考資料「むくげ通信204号」
併合時代の、キムチと日本人の著書
★併合時代の日本人の朝鮮関連刊行物
現実には、日本で発行された本に限って(朝鮮で発行されたものを除く)チェックしてみても、その数は少ないとはいえない。
まず、朝鮮の地理や風俗について記した本には、必ずといっていいほど朝鮮料理についての言及がある。以下に、例をあげよう。
1911年 『朝鮮誌』(吉田英三郎)
1924年 『朝鮮の生活と文化』(村田懋磨)
1929年 『朝鮮読本』(池田秀雄、平井三男)
1930年 『日本地理風俗大系 16 朝鮮篇上』(新光社)
1930年 『日本地理大系 12 朝鮮篇』(改造社)
1930年 『新朝鮮風土記』(師尾源蔵)
また、朝鮮とは直接関係のない食物一般についての本にも登場する。
1928年 『食物辞典』(澤村眞)
1931年 『食』(大谷光瑞)
1940年 『続々 美味求真』(木下謙次郎)
特に、当時の料理書には、キムチの記述が多い。
料理書とは言っても朝鮮料理の本ではなく、日本で発行された漬物の本に、キムチについての記述が数多く見つかる。http://www.ksyc.jp/mukuge/204/sasakipdf.pdf(日本語表記・一覧)
当時も漬物の本が数多く出されているが、漬け物の一種として、キムチが登場する。
また、記述の分量も多いようだ。
★当時の朝鮮料理に対する、「日本人の評価」について
■評価の高い「キムチ」
個人によって好き嫌いの基準は異なる。
朝鮮料理のように辛い料理やニンニク臭のきつい料理は日本には少ない。
当時の日本人にもそのように感じた人も存在し「キムチは臭くて食べられない」と記した人もいる。
だが、それらは記録としてみると少数派だった。
多くはキムチに対して非常に高い評価を下している。
◎『珍味を求めて 舌が旅をする』(松川次郎、1924年)
「朝鮮の漬物は臭い。吾々が朝鮮@人から感ずる一種の臭気は、主としてこの漬物から来るものだそうである。『内地人は最初この臭気に怯えて、食はず嫌ひになつて了ふ人があるけれど、こいつを食付けると、到底内地の沢庵漬などは、まずくて食へない』とは、朝鮮漬党の殆ど異口同音に云ふところである。その時は、もはや可なりに旅馴れて、臭い臭ひなどにはなかなか辟易せず。『臭い物に美味いものあり』の原則を屡(しばし)ば体験してゐた私は、朝鮮漬のうまさを直に受入れることができた。
朝鮮漬の主な材料は(中略)相互に味を着け合ふて、こゝに筆にも舌にも表はし得ない、驚ろくべき風味をつくり上げるのである。」
(意味)
朝鮮の人々は朝鮮漬け(キムチの意味)の匂いがする。「日本人は、匂いに怯えて食べない人がいる。しかし、朝鮮漬けを食べると、日本の沢庵などまずくて食えない」と、朝鮮漬け愛好者は言う。
私は旅になれているので、「臭いものは美味い」という体験をしていたので、朝鮮漬けの美味さを受け入れることが出来た。朝鮮漬けの主な材料は(略)相互に味を付けあい、文章でも言葉でも表現できないような、風味を作り上げることである。
■キムチの甕
◎1930年刊の『新朝鮮風土記』 (師尾源蔵)
「朝鮮名物には有名なキミチがある。漬物のことだ。(以降、キムチの詳しい説明あり…省略)
朝鮮に移住した内地人も、忽ちその朝鮮生活になじんでしまつて、キミチ賛美党となるのは必然である。そして毎年朝鮮@人と同じくキミチの甕を並べて楽しむ(中略)。内地人が朝鮮生活中最も早くその半島生活様式を採用して嘆賞するものは、保温のための温突(おんどる)とこの漬物で、こればかりは内鮮融和の説明を聞かぬものでも、たち所に賛成することは請け合ひだと思う。」
(意味)
朝鮮名物には有名なキミチ(キムチ)がある。(略)朝鮮に移住した内地人(日本本土に住む日本人)も、朝鮮生活に慣れてキムチを賛美者となる。そして、毎年、朝鮮@人と同じくキムチの甕を並べて楽しむ。内地人が、朝鮮生活で一番早く採用して賞賛するのはオンドルと漬け物である。朝鮮と日本文化の融和の説明を聞かなくても、体験すればすぐに賛成することは、保証する。
★広島菜漬け(日本の漬け物)
キムチの次に美味いと評価した人物もいる。
◎食べ物などの解説を行った1931年刊の『食』 (大谷光瑞)
広島菜を最上の漬物と絶賛した後に、次のように述べる。
「唯朝鮮京城の白菜ツケモノを除く。是れはその美味広島の上に出づ。不肖是を好み、年々京城より購入せり。(中略)旧時両班と称せし家に作るものを最とす。この家と特約し、不肖は購入せり。これは京城に遊びし人は、恐らく知らざるものあらざるべしと雖も、一般邦人は知らず。」
(意味)
広島菜を最上の漬け物と絶賛した後に述べた言葉→ただし、朝鮮の白菜漬け物は、広島漬けより上である。私はこれを好み、年々、朝鮮で購入する(略)古い両班の家で作っているものを、最上とする。私はそれを購入している。これは、朝鮮に行く人は皆知っているが、内地の一般人は知らない事である。
以上のように、キムチは朝鮮料理の代表として認められていた。
当時の著名な食道楽の面々などから、絶大な賛辞を受けていた食物であったのである。
★日本の料理書に記載されているキムチ
キムチは非常に高い評価を得て、料理書にも頻繁に登場する。
戦前期に日本で発行された漬物の本の中から、キムチの作り方が載っている本の一覧。
http://www.ksyc.jp/mukuge/204/sasakipdf.pdf
漬け物の専用書の半分にはキムチは記載されていたようである。
キムチに対する関心が高かったことがわかる。この他、一般の料理書にもキムチの作り方が載っているものがある。
朝鮮が併合(1910年)されてしばらく経った1920年代末ころから、戦争が激しくなる前の1930年代までの期間に、盛んに紹介されたことが理解できる。
種類は、最も有名な白菜キムチ(丸漬け)だけでなく、大根、胡瓜、キャベツなどの各種の素材を使い、漬ける期間では、長期のものから漬けてすぐ食べる即席漬けまでが揃っている。
また、水キムチも紹介されている。
■水キムチ
キムチの普及状況、、、、朝鮮に在留する日本人の場合と、内地の日本人
★学校教育とキムチ
◎朝鮮で育った女子(日本人)
京城女子師範学校の料理実習用の教科書である『割烹研究』(京城女子師範学校家事研究会編、1937年)では、日本料理と朝鮮料理のそれぞれが記述されているが、朝鮮料理の漬物の項に、年中漬ける当座漬(???)と、冬に漬ける冬漬(???)の作り方が載っている。
師範学校で朝鮮料理を教えたということは、高等女学校(原則として日本人が学ぶ)や女子高等普通学校(朝鮮@人が学ぶ)でも朝鮮料理を、つまりキムチの漬け方を教えたと思われる。
その上級の学校である女子専門学校でも同様だったようで、淑明女子専門学校の教員をしたことのある黄慧性(ファンヘソン)は、日本人と朝鮮@人が半々いるこの学校で、朝鮮料理を教えていたと述べている(黄慧性、石毛直道『韓国の食』)。これは1943年以降頃の話であるが、それ以前も同様であったであろう。
◎日本在住の日本人(内地人)の場合
在留日本人や、朝鮮を訪れたことのある日本人に知られるようになったキムチは、日本の好事家にも見出される。そして、先の1930年刊の『新朝鮮風土記』や1931年刊の『食』 (大谷光瑞)にあるように、朝鮮の両班家から毎年キムチを送ってもらう人も現れるようになり、その著書で絶賛されるまでになった。
しかしこの当時はまだ、キムチのうまさは「京城に遊びし人は、恐らく知らざるものあらざるべしと雖も、一般邦人は知らず」(『食』)といった程度のものであったようだ。
だが、こうした紹介によってキムチも次第に知名度が上がり、1930年前後から、先の表に示したように料理書にもしばしば登場するようになる。それは、キムチがそれなりに普及したことを示す証拠ともいえよう。
しかし、普及したとは言っても日本の漬物の種類は、塩漬け、糠漬け(沢庵漬け)、糠味噌漬け、粕漬け、コウジ漬け、味噌漬け、醤油漬、酢漬け、カラシ漬けと種類が豊富である。したがってキムチは、これら漬物の一角に顔をのぞかせた程度であったと思われる。これは、日本ではそれだけ漬物の伝統が根深いことを意味し、したがって、外来のキムチが大きく普及するのは簡単ではなかった。
「キムチ」が普及した理由
それでもキムチが料理書に比較的よく取り上げられたのは、キムチの食品としての優秀さに加えて、政府の朝鮮政策とも関係していたようだ。
在朝の日本人女子に対する学校教育では、前述のようにキムチ作りを教えたが、これは「内鮮一体」が目的と考えられる。「内鮮一体」は、日本人と朝鮮@人の融和を目的に唱えられた標語である。
朝鮮@人の同化政策の一環として唱えられたものであったが、それと同時に、日本人が朝鮮文化になじむようにする試みも行われた。
例えば、全国高等女学校長協会編輯部編の『全日本郷土料理』(1940年)では、朝鮮漬物という項を別扱い的に設け、慶北公立高等女学校のキムチを9種類も紹介しているのもその一例である。
先の表の『四季 漬物読本』で、48ページもの大部を割いたのも、国策の宣伝機関とも言える日本放送協会の出版物であるためであったと考えられる。(同協会の出版物である『放送料理一千集(肉類篇)』〈1935年〉には肉や魚などを使った朝鮮料理が11種類収録されており、他の料理本と比べて突出して多いのもこのためと思われる)。
つまり、「キムチを日本人も食べよう=日本と朝鮮の融和を推進しよう」という国策として推進された一面がある。
その影響が料理書に及んだとも考えられる。
裏を返せば、料理書への多くの記載は、必ずしも読者の希望に沿うものではなかったと見ることもできる。
キムチの日本での普及は、書籍などに残るものから推定できる程度より、割り引いて考えるべきかも知れない。
しかし、料理書への頻繁な登場によって、多くの人々に知られるようになったことは、まぎれのない事実である。
日本は文化抹殺計画を行ったのか?「キムチ編」
【まとめ】
キムチは朝鮮料理として、当時の日本人から大変評価が高かった。
朝鮮の人々と同様、キムチを作って庭に置いて、味を楽しんだり、遠く離れた土地から、両班の家に製造依頼して購入する日本人がいる状況であった。
また、日本の料理書に登場する「キムチ」は、日本と朝鮮の融和政策を進めるための架け橋でもあったのである。
そこには、現代の韓国人が主張しているような、「朝鮮@人への食文化規制、弾圧、文化抹殺」の姿は皆無なのだ。
少なくとも、キムチを作っているからお前は犯罪者だ!!!
罰金を払え、鞭打ちだ!投獄だ!!とは非難されない訳ですね。
逆に、日本人も学校で朝鮮@人教師に、レシピを教えて貰ってます(-_-)
なお、この日本が積極的に行っていた「日本人(内地人)もキムチを食べよう!日本・朝鮮文化、融和政策」。
逆に主張すれば、「融和の努力も【文化抹殺計画】の一部である」と解釈することも可能であることは追記しておこう(-_-)
■1970年代、韓国風景