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読むことについて

 


「良い読み手ほど、良い書き手となる」
                                                    ――井上ひさし


 世の中には同じ体験をしても大きく成長する人とそうでない人がいて、 真理を見いだせる人間には、共通する観点があるように思う。
 真理を見いだせない人間の感動は一時的なものだ。
 彼らはインスタントの感情を消費するために生きる。
 真理を見いだせるならば全ての事柄は輝いて見え、 人生は光に満ちていると実感するだろう。

 僕が常々考えている、天才と凡人を分けるのは、 才能ではなく考え方だという持論を、ここに披瀝したいと思う。

 僕は常にこの「良い読み手」を意識して、生活している。
 本を読むのももちろんそうだし、ホラー映画を見るのも、 バレーを観るのも、恋愛マンガを読むのも、チャットや会話をする時でさえ、 「良い読み手」であろう、と意識している。

 冒頭の言葉を紹介していた愛読書の「国語表現辞典/和泉書院」では、
「良い読み手=たくさんの文章を読む人」と解釈していた。
 これは、ある意味に於いては正解だろうが、誤読の類であろうと思う。 あるいは、本の構成に無理矢理当てはめるために曲解したともとれる。

 僕はたくさんの文章を読むから良い読み手、だとは思わない。
 「読書百遍、義自ずから見る」と言うように、 表現を学んだり、語彙(ごい)を広げると言う意味では、 たくさんの文章を読むことは必要だろう。 しかし単に文字を追い、ストーリーにのめり込み、読破することと、 「良い読み手」の読み方をすることとは別である。
 良い読み手であれば、感動を血肉に出来る。
 ただの読み手では、感動を持続させることは出来ない。よって、時間を消費するだけである。
 天才と凡人を分ける、生産するものと消費するものを分ける、 「良い読み手」とは一体なんだろうか。


 一つ、実体験から話をさせて頂こう。
 親友のSが速読をやりたいと言いだした。
 それも一般的な斜め読みや漢字を読んで意味が分かりづらい部分を戻る方法ではなく、50万を超える様な高い機材を買って、ページ単位で暗記し一ページ2,3秒で読めてしまうというものだ。
 彼がその機材を購入する前に僕が相談を受けていたなら、その瞬間にやめろと言ってやるが、もうそれを支払ってしまった後なのでそれもおぼつかない。
 それでも僕は、意味がない、と彼に言った。
 もちろん何か行った後の人間に「それは失敗だった」と言うことは後の祭りであり、ただ単に彼の感情を逆撫でするだけだ。普段なら言わないし、付き合いの深い人間でもよほどのことがない場合は放っておくのだが、今回はそれでも言わせて貰った。彼は「天才」の定義を知らなすぎる。
 速読とか、速聴とか、記憶力とか、そんなものは全てオマケである。副次的な要素に過ぎない。いくら足が速いからといって、いくら体力があるからといって、山の上り方を知らない人間がポンとエベレストに投げ出されて、制覇することが出来るか? それと同じで、いくら記憶力があるからと言って、いくら本を早く読めるからと言って、社会という相手を前にして立ち回れるとは思えない。人生という山を登る時に必要なのは、一つは取捨選択であり、一つは本物を見つける目であり、一つは人の心を掴むことである。速読や速聴はそのどれにも関係がない。
 しかし、僕が彼の提案を購入前に聞いていたとして、それを説得することが出来ただろうか。色々と誘惑的な言葉を刷り込まれている人間を前にして、それを明確に断ち切る言葉を僕は持っていただろうか。
 普通に考えると、「幸運を呼ぶピラミッドストーン」などのいかがわしいアイテムと同じ形式で雑誌に見開き紹介されているそんなものを信じるほうがどうかしているし、機材に50万という時点で違和感を感じない人間が世間を知らなすぎると言うことなのだが、そういった無形の「常識」を盾にしても、「得」というビジョンを体感してしまった人間の心には響かない。
 彼の言うには、どこぞの大学教授もこれを使って天才になった、という。
 それは嘘である。
 だから、あなたもこれを使えば天才になれる、その可能性がある、と続くのだが、専門の教育を受ける予定のない人間が詰め込み学習を上手にこなしたって、それを使う当てがないではないか。速読、速聴というのはつまり数をこなすことであり、本を開けば書いてあることを記憶することに他ならない。
 それに、天才になれたのは、そいつが他の人間を出し抜けたからであり、それは勉強効率が良かったからに違いないのだ。つまり、専門書から真理を拾うことが出来るから天才なのであり、専門書を早く読めたからと言って天才になれるわけではない。


 もう一つ、実体験から例を挙げよう。
 友人に誘われて、映画に行った。
 その映画館から出てきた僕は、「有意義だった」と言った。
 同じ映画を見た友人Kは、「無意味だった」と言った。
 どこが違ったのだろうか。
 答えは簡単で、その映画は原作付きの映画であり、僕はその原作を読んでおらず、Kは読んでいた。
 つまり、彼は原作との違いにばかり着目してしまい、優れている部分を楽しめなかった。僕はその映画をなんの思い入れもなく見ることができたので、優れている部分に感動し、大いに盛り上がることが出来たのだ。
 ならば、もしも僕が原作を読んでいる「あずみ」を映画館に見に行ったとして、映画の出来が多少アレだった場合には、その2時間を有意義に過ごせないのか?
 いいや、そんなことはない。
 映画監督が着目して欲しいと思っている部分を探り当てることが出来れば、それは十分に可能である。チャンバラ活劇が見せたくてそれに重点を置いているのならばそこに素直に感動すればいいし、あずみは残酷で人間の暗い部分を描いていると僕は知っているから、それをこの監督がどう表現したかを楽しむことも出来るだろう。そうすれば、その映画が本当に優れているか、やはりちょっとアレなのかも自ずと分かってくる。
 しかし、「どうせあの大作を2時間に収めること自体に無理がある」と高をくくって、端から悪いところ探しを決行してしまっているならば、それはあなたに何の感動も残さない。つまり、良い読み手では無かった、と言うことになる。


 良い読み手ならば、子供の遊びだって楽しめる。
 良い読み手ならば、小学生との会話にも真理を見いだせる。
 良い読み手ならば、未成熟な大器を発見出来る。
 良い読み手ならば、未完成な才能が輝いて見える。
 つまり良い読み手ならば、自分の適性や才能が発見できる。

 良い読み方の答えは、言葉に直せば簡単である。
 それは「考えながら、読むこと」だからだ。
 いやいや、この表現ではいささか単純すぎて 「小学生でも知っている」と一蹴されそうだ。
 言い換えよう。
 こと文学に於いては、良い読み手とは以下のようなものだと思う。
「ストーリーや書き手の意識の向かう方向を常に意識し、用いられた表現から得られる印象を吟味してその意味を考え、その表現が適切なのか、優れているのかを探り当てる」こと。
 言い換えれば「作者の伝えたいことが作中でどう表現されているかを考える」こと、でもある。

 良い読み手が何をしているか、お分かりだろうか。
 哲学的に言うと、「無意識的なものを意識化している」
 文学的に言うと、「全体を想像しながら、行間を埋めている」

 一般の読み手は「ストーリーを楽しむ」
 良い読み手は「そのストーリーが何故楽しいか考える」
 大事なのは、ストーリーにどっぷりとのめり込みながら、 自然に「何故優れているか」考え、真理に辿り着くことだ。
 感動をなおざりにするのは、本末転倒である。

 色々書いてきたが、結局大事なワードは一つだ。
 「それが何故優れているのかを常に考える」と言うこと。
 そうすれば、手探りだったものの実体を捕らえることが出来、 偽物と本物の区別も付くようになるぞ。




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