「何故ここまで真似るのか?バレないように、もう少しうまく真似すれば良いのに」
これは、造船_人のいわゆるパクリ、おなじみの日本製品の意匠や文化の模倣を見て、日本人のみならず文明人ならば誰もが思うことであろう。
過剰に真似しすぎるあまり、日本人や、稀に存在する理性を持つ同胞から嘲笑を浴び、または批難され、結果として自らの、また国家の利益やイメージを毀損する事が明らかであっても、彼らはひたすら「日本車のデザインからエンブレムまでをそのまま模倣した車」を、「まったく同じ企画のテレビ番組」を、音楽を、菓子を、その他もろもろの物を嬉々として生産し続ける。果ては茶道や剣道などの伝統に至るまで。我々日本人には到底理解出来ない事である。彼らが鈍感すぎるせいか?それとも、頭が悪すぎて未来が予測出来ないのか?いくらなんでも、もう少しやりようが有るだろうに・・・
今まで私は、こうした行為は、日本人に無視されることを防止する為の「無意識のいやがらせ」ではないかと、漠然と考えていた。しかし先日、未開人の行動に関する或る一文を読んで、目から鱗が落ちる思いであったので、ここに紹介させていただきたい。
(ここから、読んだものの要約)
首狩り族は、人間の首を狩る。首を狩る理由を彼らに聞くと、「部族の繁栄のためである」と答える。
我々文明人は、これを見てこう考える。「人間の首を狩る行為は、人間の持つパワーである『生命物質』(life substance) を取り入れる為の行為だろう。それ自体は未開人の迷信ではあるが、こう解釈すれば『首を狩る』ことと『部族を繁栄させる』ことの関係に、一応の説明が出来るではないか」。
しかし、首狩り族当人の言葉や、彼らに関する直接的な資料を見る限りにおいて「生命物質」(life substance) などという概念は、どこにも見当たらない。つまり、彼らにとっての本来の因果論は、「首狩り」→イコール「村の繁栄」なのである。
にもかかわらず西洋人は「首狩り」→「村の繁栄」という本来の因果論を理解できないが故に、「生命物質」という概念を勝手にその中に挿入し、彼らにとって理解可能な「首狩り」→「生命物質の獲得」→「村の繁栄」という形にしてしまったのだ。
これと同じ図式が、他の未開人の行動にも成り立つ。
カーゴ・カルトの一種において、彼らは豊かになる為「白人の真似」をする。しかし、その「真似」は、白人の勤勉さを真似て働くとか、あるいは行動様式を真似るとかいった行為ではなく、たとえば儀式として「ネクタイをして踊る」といった、文明人には因果関係が理解出来ない類の事である。
これは、見るものにとっては実に滑稽ことではあるが、彼らの因果論からすれば、決して間違っているものでは無いのである。
(ここまで受け売り)
さて・・・これを造船_人の行動に当てはめてみると、どうなるか。
我々文明人は、どうしても「日本人の真似をする」のは、「経済的な効果」や「自分達の文化が有るような錯覚」を得るための手段であり、彼らはその結果「幸せになる(豊かになる)」ことを目的としている・・と考える。従って、「過剰な物真似は目的の達成にとって有益では無いから、止めたほうが効率的ではないか」という結論が導かれるのだ。
しかし、前述の首狩り族のごとく「日本人を真似る」→イコール「幸せになる(豊かになる)」という因果論が彼らの脳内に成立しているのならば、この方式は彼らにとって明白に正しいのである。
未開の李氏_造船_人にとって、半島にやって来た日本人は、強くて豊かで何でも知っているスーパーパワーを持つ超人、いや神にも思えたであろう。去ってしまった神を呼び戻し、再び日帝時代の栄光を呼び戻す儀式こそが、無意識とはいえ彼らのしている「日本人の真似」の正体なのだ。
こう考えると、韓国人による過剰なまでの「日本人の真似」は、少しでも日本人に外形的に近づくための、彼らなりの必死の努力であることが解る。つまり何でも日本人の真似をするという行為は、(正当とは言い難いとはいえ)合理性を持った「豊かになる為の手段」などでは無く、日本人を完全に真似することが出来たその時、幸せが日本海の彼方からやってくるという、一種の「カーゴカルト」の儀式であると考えられるのだ。
日本人の皆さん!彼らの必死の努力が、いかに滑稽にみえても、決して笑ったりしてはいけませんよ!! プププププ・・・