私はこれまで、誇らしい5000年の文化を誇る韓国の友人達に、何度も何度も造船文化の「歴史」の証拠提出を求めてきました。その方法は簡単です、「100年以上続く老舗(歴史有る商店)の紹介」・・・真の文明国ならば、そんなに無理なお願いでは無いと思います。
さまざまな文化が栄え、そして庶民がそれを求める文明国ならば、それらは当然商品として市中に流通するはずです。そしてさらに、店舗こそが文化のバロメーターである理由は、需要と供給の関係で説明できます。文化的な各種の品物、又はサービスに対する「需要」があれば、そこには「供給」が必ず発生します。これには(共産国家以外)例外はありません。需要が供給を決定する、このことを「有効需要の法則」と言います。
話を戻しますと・・・しかし、その結果は衝撃的なものでした。
なんと、あれほどまでに「優れた文化」「歴史有る文化」を誇っていたはずの造船の友人達の誰一人として、一軒も・・・そう、韓服、菓子、工芸品、お茶、楽器といった品々の老舗を、一軒すら紹介出来ないのです。
まず、私の立てたスレッドにおける韓国の友人達の反応を大別したうえに、文明国の住民らしく冷静に反論してみましょう。
《反応1》自作しているから系
「朝鮮時代貴族集の場合手腕前がすぐれたハンボックジッヌン技術者を各各家で下人に置いていたし, 平民たちの間では腕前のすぐれた奥さんが家ごとに手数費を受けて服を作ってくれました. 一部文化的な特徴が違うので比べたことはならないと思います.」
※各家庭で蚕を飼い、糸を紡ぎ、布を作り、裁断し、仕立てる。その全員が各工程において名人で、その結果出来た韓服が、プロの職人が分業して大規模に生産し市場に流通していた和服より素晴らしいものになる・・・訳がありません。
極少数のオーダーメイドでのみ可能性が有ると言えましょう、論外。
《反応2》商業は汚いから店は無い!系
「私たち大韓民国は, 列島のように汚い商業に身を売らなかったから ww しかし着物と比べた時の優越性は確実に.. w」
※上と同じ理由で有り得ません。さらに付け加えるならば、商業を汚いものと考えるのは勝手ですが、商業の発展無しに王族や極一部の貴族以外の庶民が、広く工芸品や美術品を手に入れ愛好するなど有り得ませんね。
彼の意見を採用するなら、「汚い商業に身を売らなかったから」店舗が無いのでは無く、「文化に対する需要が皆無だったから」店舗が無いのです。
《反応3》意味不明系
「ハングックインヨロブンイノムエゲダブグルダルジマセヨゴ?ルタングモックヨボブシダウリネマルアルアドルミョンゾルラヨングタイスィブセだと」
※いいから氏んでください。
さて、何か重要な反応が抜けていますね・・・
はい、そうです。もう一つ、便利な万能の答えがありますね・・・
《反応4》「日帝のせいニダ!!」これです。これが無いと、正常な造船思考とは言えませんねw
「知らせたいのがある. 日本人たちが韓服を着ることができなくした悲しい歳月を過ごしたからまだ我が国では韓服を着ることがぎこちない. もちろん韓服店反物屋は日帝時代弾圧によって消えた. だから日本人たちが韓服店を無くしたのだ. 」(以下、キモい造船パトスが炸裂するが省略)
「日本は植民地化政策を使いながら朝鮮の言語衣服そして髪形まで全部洋画ないし日本画を成して朝鮮と言う(のは)国のアイデンティティ自体を無くそうとした. このような君逹の絶え間なくて必死的な努力で私たちに100年になった衣服店はない.」(以下、恨み言が続くが省略)
《他、このパターン多数有り》
しかし、少し待ってください・・・
真に栄えた文化(この場合は店舗そのもの)を、たかだか数十年で痕跡も残さず消去することが可能でしょうか。本当に誇らしい店舗があったならば・・・そこには、「建造物としての店」以外に、さまざまな痕跡が残るはずです。
それではここで、日本の「三井越後屋」(MitsuiEchigoya)を例に、一商店の残す「足跡」を見てみましょう。これらは全て200-300年以上古いものです。
《資料1》絵画
延宝元年(1673)に開店した呉服商、同時に流行の発信地でもあった越後屋画の数々
何と、絵の両側の建物とも全てが越後屋です。間口(入り口)は片方が三十五間(約35メートル)、片方が二十間(約20メートル)と、現在の店と比してもかなりの大型店舗。
当時描かれた越後屋呉服店の店内
《資料2》宣伝用印刷物
引札(ひきふだ=チラシ広告)
これは1683年「呉服物現金安売り掛値なし」の有名なコピーを入れ、江戸市中の各戸くまなく配布したもの。
上掲資料の文面(これは複製です。)
《資料3》経営史料
『三井家記録文書目録』
大量の経営記録。この他にも、三井家の営業全体の決算簿である『大元方勘定目録』が宝永七年(1710)より残る。さらに、越後屋呉服店、三井両替店、京都糸絹問屋等の勘定目録や補助的帳簿などの決算書類。これらも全て現存している。
ことほどさように、真の歴史とはさまざまな「足跡」を残すものです。
「日帝36年のせいで文化が根こそぎ破壊された?」甘えてもらっては困りますね。東京はアメリカの爆撃で焦土となりましたが、たった一つの商店ですら、何百年も実在していれば これだけの資料が残るのです。
さらに、仮に、(あくまでも仮にですよ)日帝や造船戦争の影響があったにせよ・・・伝統韓文化の店、工場をすべて破壊したうえで職人及び家族を皆殺しにして、その目撃者の口も塞いだ上、さらに市中に散逸している文献や資料まで全て探し出して焼き尽くし、影も形も残さないように根絶することは絶対に不可能です。(そもそも造船戦争は君達が好んで殺しあったのですから、「造船戦争のせい」と言う事はすなわち「自ら破壊した」という意味となりますがw)
つまり、こうした資料すら全く無いのであれば・・・元々造船にまともな商店など、「日本人が来るまで一つも無かった」という事です。
反論する方は、いつものように泣き喚くだけでなく、私が上で紹介したような資料の数々を提示すること。いいですね。
韓国に誇らしい李氏造船文化を証明するものが、再現した「模型」「CG」「安っぽい絵」ばかりなのは何故でしょう。
豊かだったはずの文化に関連した、さまざまな商品を介在する商店が資料や文献を含め一切紹介されないのは何故でしょう。
その答えは自分達で考えてください。(まぁ君達には無理だろうけどねw)