2009.01.23
僕と青春とNSP (アンコール大改訂新版)
僕が入学したT高校は実家のあるI県ではない、T県T市にある。つまり僕は内申書を重視せず試験1本で合否を決定するT高校に<越境>で入った。当時、T高は県内1、2を争う進学校で、授業もかなり厳しかった。
それでも僕にとっては夢のような自由な学校だった。教師たちも、小・中学校の頃のような<馬鹿センコー>は皆無だった。
なにしろ僕の小・中学校時代は、そんな<センコー>たちへの反発の毎日だった。児童・生徒の前で偉そうな説教を垂れるクセに、職員室では達磨ストーブを囲みながら生徒たちの家庭問題を、まるでTVのワイドショーに群がる主婦のように猥雑な笑みを浮かべながら話に花を咲かせる。
「○○〜、オマエのお父さんは毎日何やってるの? お母さんはどこいったの?」(小学校時代、僕は姓が2度変わった。だから、あの頃の僕はコジマではなかった)
「梁川みたいな不良チョーセンと仲良くしちゃダメだ。オマエもチョーセンか? あれっ本当にそうだっけ? それともブラクか?」
戦後民主主義教育を唱える<日教組>が、こんなバカ教師を量産していったのだ…などと今になれば断言するしケンカも出来る。しかし、まだ小学生のガキには「何故なんだ!?」という漠然とした不条理感と怒りを心に溜め込む事しか術はなかった。
職員室に行く度、僕は<センコー>たちの好奇心の標的にされた。
殺してやる!!
何故、あの時、ヤツラ3人を殺せなかったのか…。今でも悔やんでいる。
こんな文章、何度書いたか分からない。多分、僕は一生書き続けるだろう。すると、日教組教育の申し子たちは薄っぺらな正義感をひけらかして僕を非難する。
「作家、武道家を自称する人間がそう易々と人を殺したいなんて書く気持ちが知れない。恥ずかしくないのか?」
そんなメールを何度かもらったことがある。チャンチャラ可笑しい。アナタはまだ幼いガキが人を「殺してやりたい!」とまで思い詰めた経験があるのか? 平凡なサラリーマンの親に育てられてヌクヌクと成長してオタクだかフリーターだかやってるようなお坊ちゃまには言われたくない。
それに僕は単なる編集者であり名もないチンケな物書きです。空手なんか半人前の半人前、道場の末席を汚しただけの人間ですから…。自分を<武道家>とか<空手家>だなんて自惚れた事は1度もありません。
でも何か文句があるならいつでも相手しますよ。その代わりステゴロでは終わりません。最低、ヤッパくらいは懐に忍ばせてきて下さいな。僕は東京は池袋の事務所にいます。逃げも隠れもいたしません…なんて簡単に啖呵を切るから僕はヤクザとか呼ばれるのだ。ここは<改訂部分>ですが、もう半世紀も生きて、「そろそろバカは止めろ」と先日も<神様>に戒められたので、この部分は撤回いたします。申し訳ありません。
話が早々に脇道に逸れた。
閑話休題。
T高校の教師たちは生徒の<人権>を認め、とにかく規制というものが殆どなかった。<超>のつく程の進学校ではあったが、生徒にガリ勉タイプは殆どいない。男子校だから特に何でもあり、教室にエロ本を持ち込むヤツもいれば校舎の裏でタバコを吹かすヤツ、学校帰りに制服のままでパチンコ屋に入り浸るヤツもいた。
しかしお咎めは一切なし。今はわからないが、少なくとも僕が通っていた頃のT高校は名実ともに<自由の学府>だった。僕にとってT高校での学園生活は、まるで生まれ変わったかのように平和そのものだった。
そんな温和で平穏とした高校生活の象徴ともいえるのがフォークソング・グループのNSPだった。
アコースティックギター2人にエレキベース1人という3人編成だった。リーダーは天野滋。抜群にギターが巧かった。基本的にラブソングが中心だが、<かぐや姫>のような四畳半臭さがなく、また<アリス>のような関西演歌っぽいエグさもなかった。
NSPはサラリとした水のような歌を唄うグループだった。
ちなみにNSPとは「New Sadistic Pinc」の略だというが、何の事か今でも意味が分からない。
ところで、僕は父親がギターなどの楽器が得意だった関係で(今ではとっくに博徒から足を洗って? 民謡の先生を気取っている。<関東菊水会>がいつしかヤクザから民謡団体に代わってしまったようなものだ)、中学時代からギターを覚えていた。
最初にマスターしたのが「禁じられた遊び」だった。小学校高学年の頃から洋楽を聴き始めた僕だが、中学時代はトム・ジョーンズを卒業してエルトン・ジョンやキャロル・キング、はたまたTーREXやローリングストーンズなどにはまっていた。
ところがある日、後にT高校の先輩となる放送委員の人が井上陽水のデビューアルバム、「断絶」を僕に聴かせてくれた。それ以来、僕は洋楽とともに日本のフォークソングも積極的に聴くようになった。
吉田拓郎や泉谷しげる、岡林信康なども聴いていたが、何故か僕は井上陽水が一番好きだった。
吉田拓郎は当時、若者たちのカリスマ的存在で、誰も彼もが拓郎に狂っていた。生来、反骨心の強い僕は、意地でも<拓郎ファン>とは言いたくなかったのだ。実は陰でこっそりアルバムを集めていたのだが…。
しかしT高校に入ってからは、何故か無性にNSPに惹かれていった。NSPといえばヤマハが主催する1973年第5回ポプコン(ポピュラーソング・コンテスト)での入賞を契機にプロデビューした事で知られていた。
ポプコンの入賞作「あせ」もいいが、何といっても「さようなら」は傑作だった。悲しい別れの歌ではあるが、高校生の僕は「そんな悲恋をしてみたい…」なんて、むしろ詞の世界に憧れていた。
さっそくギターで「さようなら」をコピーした。毎日のようにギターを奏でながら唄った。そうして、気がついたらいつの間にかNSPの楽曲の殆どをコピーしてしまった。
そして僕は大久保という友人と一緒にフォークソンググループを結成し、名前を「COSMO」と名付けた。僕らは週に3回放課後を利用して演奏と歌の練習をした。大久保はかぐや姫の伊勢正三のファンで、「二十二歳の別れ」や「なごり雪」を唄わせたら学校で右に出る者はいなかった。さらに僕たちは井上陽水の楽曲とNSPが持ち歌となった。
勿論、オリジナル・ソングも作った。僕もヘタクソな詞を書いてコードをたどりながら作詞・作曲に精を出した。それでも、何故か僕たちの呼吸がぴったり合うのはNSPだった。
それでも僕にとっては夢のような自由な学校だった。教師たちも、小・中学校の頃のような<馬鹿センコー>は皆無だった。
なにしろ僕の小・中学校時代は、そんな<センコー>たちへの反発の毎日だった。児童・生徒の前で偉そうな説教を垂れるクセに、職員室では達磨ストーブを囲みながら生徒たちの家庭問題を、まるでTVのワイドショーに群がる主婦のように猥雑な笑みを浮かべながら話に花を咲かせる。
「○○〜、オマエのお父さんは毎日何やってるの? お母さんはどこいったの?」(小学校時代、僕は姓が2度変わった。だから、あの頃の僕はコジマではなかった)
「梁川みたいな不良チョーセンと仲良くしちゃダメだ。オマエもチョーセンか? あれっ本当にそうだっけ? それともブラクか?」
戦後民主主義教育を唱える<日教組>が、こんなバカ教師を量産していったのだ…などと今になれば断言するしケンカも出来る。しかし、まだ小学生のガキには「何故なんだ!?」という漠然とした不条理感と怒りを心に溜め込む事しか術はなかった。
職員室に行く度、僕は<センコー>たちの好奇心の標的にされた。
殺してやる!!
何故、あの時、ヤツラ3人を殺せなかったのか…。今でも悔やんでいる。
こんな文章、何度書いたか分からない。多分、僕は一生書き続けるだろう。すると、日教組教育の申し子たちは薄っぺらな正義感をひけらかして僕を非難する。
「作家、武道家を自称する人間がそう易々と人を殺したいなんて書く気持ちが知れない。恥ずかしくないのか?」
そんなメールを何度かもらったことがある。チャンチャラ可笑しい。アナタはまだ幼いガキが人を「殺してやりたい!」とまで思い詰めた経験があるのか? 平凡なサラリーマンの親に育てられてヌクヌクと成長してオタクだかフリーターだかやってるようなお坊ちゃまには言われたくない。
それに僕は単なる編集者であり名もないチンケな物書きです。空手なんか半人前の半人前、道場の末席を汚しただけの人間ですから…。自分を<武道家>とか<空手家>だなんて自惚れた事は1度もありません。
でも何か文句があるならいつでも相手しますよ。その代わりステゴロでは終わりません。最低、ヤッパくらいは懐に忍ばせてきて下さいな。僕は東京は池袋の事務所にいます。逃げも隠れもいたしません…なんて簡単に啖呵を切るから僕はヤクザとか呼ばれるのだ。ここは<改訂部分>ですが、もう半世紀も生きて、「そろそろバカは止めろ」と先日も<神様>に戒められたので、この部分は撤回いたします。申し訳ありません。
話が早々に脇道に逸れた。
閑話休題。
T高校の教師たちは生徒の<人権>を認め、とにかく規制というものが殆どなかった。<超>のつく程の進学校ではあったが、生徒にガリ勉タイプは殆どいない。男子校だから特に何でもあり、教室にエロ本を持ち込むヤツもいれば校舎の裏でタバコを吹かすヤツ、学校帰りに制服のままでパチンコ屋に入り浸るヤツもいた。
しかしお咎めは一切なし。今はわからないが、少なくとも僕が通っていた頃のT高校は名実ともに<自由の学府>だった。僕にとってT高校での学園生活は、まるで生まれ変わったかのように平和そのものだった。
そんな温和で平穏とした高校生活の象徴ともいえるのがフォークソング・グループのNSPだった。
アコースティックギター2人にエレキベース1人という3人編成だった。リーダーは天野滋。抜群にギターが巧かった。基本的にラブソングが中心だが、<かぐや姫>のような四畳半臭さがなく、また<アリス>のような関西演歌っぽいエグさもなかった。
NSPはサラリとした水のような歌を唄うグループだった。
ちなみにNSPとは「New Sadistic Pinc」の略だというが、何の事か今でも意味が分からない。
ところで、僕は父親がギターなどの楽器が得意だった関係で(今ではとっくに博徒から足を洗って? 民謡の先生を気取っている。<関東菊水会>がいつしかヤクザから民謡団体に代わってしまったようなものだ)、中学時代からギターを覚えていた。
最初にマスターしたのが「禁じられた遊び」だった。小学校高学年の頃から洋楽を聴き始めた僕だが、中学時代はトム・ジョーンズを卒業してエルトン・ジョンやキャロル・キング、はたまたTーREXやローリングストーンズなどにはまっていた。
ところがある日、後にT高校の先輩となる放送委員の人が井上陽水のデビューアルバム、「断絶」を僕に聴かせてくれた。それ以来、僕は洋楽とともに日本のフォークソングも積極的に聴くようになった。
吉田拓郎や泉谷しげる、岡林信康なども聴いていたが、何故か僕は井上陽水が一番好きだった。
吉田拓郎は当時、若者たちのカリスマ的存在で、誰も彼もが拓郎に狂っていた。生来、反骨心の強い僕は、意地でも<拓郎ファン>とは言いたくなかったのだ。実は陰でこっそりアルバムを集めていたのだが…。
しかしT高校に入ってからは、何故か無性にNSPに惹かれていった。NSPといえばヤマハが主催する1973年第5回ポプコン(ポピュラーソング・コンテスト)での入賞を契機にプロデビューした事で知られていた。
ポプコンの入賞作「あせ」もいいが、何といっても「さようなら」は傑作だった。悲しい別れの歌ではあるが、高校生の僕は「そんな悲恋をしてみたい…」なんて、むしろ詞の世界に憧れていた。
さっそくギターで「さようなら」をコピーした。毎日のようにギターを奏でながら唄った。そうして、気がついたらいつの間にかNSPの楽曲の殆どをコピーしてしまった。
そして僕は大久保という友人と一緒にフォークソンググループを結成し、名前を「COSMO」と名付けた。僕らは週に3回放課後を利用して演奏と歌の練習をした。大久保はかぐや姫の伊勢正三のファンで、「二十二歳の別れ」や「なごり雪」を唄わせたら学校で右に出る者はいなかった。さらに僕たちは井上陽水の楽曲とNSPが持ち歌となった。
勿論、オリジナル・ソングも作った。僕もヘタクソな詞を書いてコードをたどりながら作詞・作曲に精を出した。それでも、何故か僕たちの呼吸がぴったり合うのはNSPだった。
高校2年の文化祭。
僕たちはフォークソング・コンサートにエントリーして体育館のステージと音楽ホールの舞台に立った。僕たちのアイドルはT高校の姉妹校ともいえるT女子高校の生徒たちだった。
T高校の文化祭はT女子高校の子たちで溢れ返った。20程度のグループやバンドのなかで僕たちの出番はたしか14番目だった。
ガチガチに緊張して僕たちはステージに上がった。最初の曲は井上陽水の「紙飛行機」だった。大久保が唄う。次も陽水の「いつのまにか少女は」で大久保が唄った。僕はリードギターを担当した。そして3曲目の泉谷しげるの「春夏秋冬」は僕が唄い、中盤は大久保得意の「二十二歳の別れ」と「なごり雪」。
やっと呼吸が掴めてきた。2人のギターも合ってきた。T女子高校の女の子たちの拍手の隙間から、僕は中学時代から片想いだったNさんの姿を探した。
続いて僕はNSPの「あせ」を唄い、エンディングが「さようなら」である。他のグループの仲間が参加してリードギターを取ったりサイドを取ったり、コーラスまでしてくれた。
あの時、僕らは確実に輝いていた。
それは、まさにかけがえのない高校生活の<象徴>のようなものだった。
(音楽ホールでの「COSMO」のステージ。向かって右が大久保君)
T高校を卒業し、遠回りをしながら早稲田大学に入学した僕は、極真空手と出会い、音楽関係に関しても再び洋楽三昧に浸っていった。
1980年代に入ると、もうフォークソングという言葉自体が音楽産業によって死語に追い込まれ、世の中は<ニューミュージック>の最盛期へと向かっていった。僕は<ニューミュージック>という言葉に徹底的な拒否感を覚え(Jーpopよりはマシかもしれないが…)、次第に邦楽から離れていった。
僕もいつしかNSPを忘れていた。
時代は下って2002年。
とっくの昔に解散していたはずのNSPが再結成するという噂を聞いた。そして、その噂は本当だった。それも一時的な再結成ではなく、今後も継続してNSPとして活動していくという。
彼らは全国ツアーを敢行し、ライブアルバムを発売した。僕はその2枚組のCDを購入して聴いた。何度も何度も聴いた。自然と涙が溢れてきた。
何故だろう?
なんとなく分かった気がした。僕にとって高校生活の思い出のすべてがNSPに込められているからだ。
殺伐とした小・中学生時代を経て、何もかも生まれ変わるつもりで越境入学したT高校…。
NSPは高校時代の代名詞だったのだ。もう絶対に戻ってこない瑞々しい青春時代。<問題児><少年犯罪者>のレッテルから解き放たれた夢のような自由な時代。NSPの楽曲には高校生活の<青春>のひとこまひとこまが刻み込まれているのだ。
(CDアルバム「NSP/復活コンサート2002」東京青年館大ホール)
2005年。
NSPのリーダー・天野滋が逝った。まだ50代前半というあまりに早すぎる死だった。後で聞いたことだが、NSPが再結成された時点で、天野はすでに不治の病に冒されていたという。それを知った元メンバーの中村貴之と平賀和人が、天野に「もう1度やろう」と話を持ちかけたのだという。
あまりに切なく、美しい友情だと思った。
僕はまたNSPのアルバムを聴きながら独り泣いた…。
(了)
(2005年/MugenHP掲載エッセイを元に大幅に加筆修正)
僕たちはフォークソング・コンサートにエントリーして体育館のステージと音楽ホールの舞台に立った。僕たちのアイドルはT高校の姉妹校ともいえるT女子高校の生徒たちだった。
T高校の文化祭はT女子高校の子たちで溢れ返った。20程度のグループやバンドのなかで僕たちの出番はたしか14番目だった。
ガチガチに緊張して僕たちはステージに上がった。最初の曲は井上陽水の「紙飛行機」だった。大久保が唄う。次も陽水の「いつのまにか少女は」で大久保が唄った。僕はリードギターを担当した。そして3曲目の泉谷しげるの「春夏秋冬」は僕が唄い、中盤は大久保得意の「二十二歳の別れ」と「なごり雪」。
やっと呼吸が掴めてきた。2人のギターも合ってきた。T女子高校の女の子たちの拍手の隙間から、僕は中学時代から片想いだったNさんの姿を探した。
続いて僕はNSPの「あせ」を唄い、エンディングが「さようなら」である。他のグループの仲間が参加してリードギターを取ったりサイドを取ったり、コーラスまでしてくれた。
あの時、僕らは確実に輝いていた。
それは、まさにかけがえのない高校生活の<象徴>のようなものだった。
(音楽ホールでの「COSMO」のステージ。向かって右が大久保君)
T高校を卒業し、遠回りをしながら早稲田大学に入学した僕は、極真空手と出会い、音楽関係に関しても再び洋楽三昧に浸っていった。
1980年代に入ると、もうフォークソングという言葉自体が音楽産業によって死語に追い込まれ、世の中は<ニューミュージック>の最盛期へと向かっていった。僕は<ニューミュージック>という言葉に徹底的な拒否感を覚え(Jーpopよりはマシかもしれないが…)、次第に邦楽から離れていった。
僕もいつしかNSPを忘れていた。
時代は下って2002年。
とっくの昔に解散していたはずのNSPが再結成するという噂を聞いた。そして、その噂は本当だった。それも一時的な再結成ではなく、今後も継続してNSPとして活動していくという。
彼らは全国ツアーを敢行し、ライブアルバムを発売した。僕はその2枚組のCDを購入して聴いた。何度も何度も聴いた。自然と涙が溢れてきた。
何故だろう?
なんとなく分かった気がした。僕にとって高校生活の思い出のすべてがNSPに込められているからだ。
殺伐とした小・中学生時代を経て、何もかも生まれ変わるつもりで越境入学したT高校…。
NSPは高校時代の代名詞だったのだ。もう絶対に戻ってこない瑞々しい青春時代。<問題児><少年犯罪者>のレッテルから解き放たれた夢のような自由な時代。NSPの楽曲には高校生活の<青春>のひとこまひとこまが刻み込まれているのだ。
(CDアルバム「NSP/復活コンサート2002」東京青年館大ホール)
2005年。
NSPのリーダー・天野滋が逝った。まだ50代前半というあまりに早すぎる死だった。後で聞いたことだが、NSPが再結成された時点で、天野はすでに不治の病に冒されていたという。それを知った元メンバーの中村貴之と平賀和人が、天野に「もう1度やろう」と話を持ちかけたのだという。
あまりに切なく、美しい友情だと思った。
僕はまたNSPのアルバムを聴きながら独り泣いた…。
(了)
(2005年/MugenHP掲載エッセイを元に大幅に加筆修正)
samurai_mugen at 19:11
│Comments(10)
│clip!
この記事へのコメント
1. Posted by なまはげ
2009.01.23 22:56
NSPはまさしく青春そのものだったのですね。教師にロクな奴がいないというのはあの人のおかげで身に染みて理解できました。
2. Posted by 求道者
2009.01.23 23:19
小島さんは格技だけでなく、音楽まで精通してるのですね。
楽譜も読めず、楽器は弾けない私にはうらまやしい…いや、羨ましいです。
楽譜も読めず、楽器は弾けない私にはうらまやしい…いや、羨ましいです。
3. Posted by 遥
2009.01.24 19:38
このコラムの前のものも読みました
小島さんのこのブログをまとめて本にしてほしいです
今度は文藝春秋あたりで出してください
ほんまに何度読んでも NSPを知らんでも感動します
小島さんのこのブログをまとめて本にしてほしいです
今度は文藝春秋あたりで出してください
ほんまに何度読んでも NSPを知らんでも感動します
4. Posted by N.H
2009.01.24 22:28
小島さんは、物事をとことん追求して、結果を出して来られた方ですね。NSPの友情秘話を知った上で思ったことではありますが、そんな人達が作った曲だからこそ、他のアーティストの曲より、きっと高校時代の小島さんの心に響いたのではないでしょうか。
5. Posted by 北海熊
2009.01.24 23:16
最高に面白かったです。だけど関東菊水会が気になる。
6. Posted by 郵便局
2009.01.25 10:03
わたしは小島先生には小説家としての才能のほうがあると感じます。このコラムを読んで特にそう感じました。これからはノンフィクションは塚本先生にまかせて小島先生は小説家の道を進んだらいいとわたしは思います。
7. Posted by 富士
2009.01.25 10:36
関係ないことですが、なんか小島さんのブログのコメントが盛り上がってるのを見てcommunicationboxの頃がとても懐かしく思います。コラムにコメントする機会をもらい、また実戦会とは別のまえのようなcommunicationboxが復活すればいいし、どうかそうなるよう望みます。
私も小島さんと同世代なのでNSPはよくききました。個人的には「昨日からの逃げ道」が好きでした。「夕暮れ時はさみしそう」もよくききました。天野滋さんが亡くなったのは知らなかったからショックでした。
私も小島さんと同世代なのでNSPはよくききました。個人的には「昨日からの逃げ道」が好きでした。「夕暮れ時はさみしそう」もよくききました。天野滋さんが亡くなったのは知らなかったからショックでした。
8. Posted by ゆりパパ
2009.01.25 15:13
しみじみとした良い話ですね。
富士さん、お互いに盛り上げて行きましょう!
富士さん、お互いに盛り上げて行きましょう!
9. Posted by 日の丸
2009.01.26 20:50
わたしにもNSPはすご〜く懐かしい青春です
10. Posted by 海賊
2009.01.28 23:59
もうわからんわー小島先生。
ケンカ上等なヤクザ作家かと思えばこんな純な青春小説書いちゃって。恐くてかわいいおっちゃんやな。好きなヨーシコちゃん大切にしてーな。
ケンカ上等なヤクザ作家かと思えばこんな純な青春小説書いちゃって。恐くてかわいいおっちゃんやな。好きなヨーシコちゃん大切にしてーな。