2009.01.27
新極真会師範代・強盗事件/組織の隠蔽体質を問う!(写真掲載)
松井章圭や盧山初雄らから「MUGENは格技界のCIA…」と冗談を言われる程、私とパートナーのツカモトの元には全国のみならず海外からrealtimeで格技に関するあらゆる情報が集まってくる。
特に国内における極真系空手団体の情報については、表も裏もほぼ100%近いcover率を誇る。mediaで報じられた事件などは新聞・雑誌以上に詳細を把握しているというのが我がofficeの自慢であり、また私とツカモトが物書きであり、格技jourmalistでもある以上、情報収集は必要不可欠なものでもある。
ニュースソースは多岐にわたる。media関連が最も多いが、次いで多いのが読者・ファンから寄せられる情報である。以前は単なる噂に過ぎないガセも少なくなかったが、最近は<資料>を添付してくれる方が多くなった。
私やツカモトの人脈から入る情報もあれば、後ろ楯となってくれている<裏>から入るものもある。この場合の情報は極めて危険である。時には契約している顧問のG探偵社に依頼する事もある。
だから、私が現在使用している携帯電話のsubadress.Bにmailすると、例え相手がsubadressを使用していてもmeinadressが即、判明するし、携帯電話の機種個体番号まで分かるシステムになっている。機種個体番号が分かれば所有者を特定するのも容易なのは言うまでもない。
この程度のsecurityと<裏>関係を保持しておかなければ格技・空手界で生きていく(離れようともがいているのだが…)は、憲法で保証された<言論の自由>を守る事など出来はしない。続きを読む
特に国内における極真系空手団体の情報については、表も裏もほぼ100%近いcover率を誇る。mediaで報じられた事件などは新聞・雑誌以上に詳細を把握しているというのが我がofficeの自慢であり、また私とツカモトが物書きであり、格技jourmalistでもある以上、情報収集は必要不可欠なものでもある。
ニュースソースは多岐にわたる。media関連が最も多いが、次いで多いのが読者・ファンから寄せられる情報である。以前は単なる噂に過ぎないガセも少なくなかったが、最近は<資料>を添付してくれる方が多くなった。
私やツカモトの人脈から入る情報もあれば、後ろ楯となってくれている<裏>から入るものもある。この場合の情報は極めて危険である。時には契約している顧問のG探偵社に依頼する事もある。
だから、私が現在使用している携帯電話のsubadress.Bにmailすると、例え相手がsubadressを使用していてもmeinadressが即、判明するし、携帯電話の機種個体番号まで分かるシステムになっている。機種個体番号が分かれば所有者を特定するのも容易なのは言うまでもない。
この程度のsecurityと<裏>関係を保持しておかなければ格技・空手界で生きていく(離れようともがいているのだが…)は、憲法で保証された<言論の自由>を守る事など出来はしない。続きを読む
2009.01.23
僕と青春とNSP (アンコール大改訂新版)
僕が入学したT高校は実家のあるI県ではない、T県T市にある。つまり僕は内申書を重視せず試験1本で合否を決定するT高校に<越境>で入った。当時、T高は県内1、2を争う進学校で、授業もかなり厳しかった。
それでも僕にとっては夢のような自由な学校だった。教師たちも、小・中学校の頃のような<馬鹿センコー>は皆無だった。
なにしろ僕の小・中学校時代は、そんな<センコー>たちへの反発の毎日だった。児童・生徒の前で偉そうな説教を垂れるクセに、職員室では達磨ストーブを囲みながら生徒たちの家庭問題を、まるでTVのワイドショーに群がる主婦のように猥雑な笑みを浮かべながら話に花を咲かせる。
「○○〜、オマエのお父さんは毎日何やってるの? お母さんはどこいったの?」(小学校時代、僕は姓が2度変わった。だから、あの頃の僕はコジマではなかった)
「梁川みたいな不良チョーセンと仲良くしちゃダメだ。オマエもチョーセンか? あれっ本当にそうだっけ? それともブラクか?」
戦後民主主義教育を唱える<日教組>が、こんなバカ教師を量産していったのだ…などと今になれば断言するしケンカも出来る。しかし、まだ小学生のガキには「何故なんだ!?」という漠然とした不条理感と怒りを心に溜め込む事しか術はなかった。
職員室に行く度、僕は<センコー>たちの好奇心の標的にされた。
殺してやる!!
何故、あの時、ヤツラ3人を殺せなかったのか…。今でも悔やんでいる。
こんな文章、何度書いたか分からない。多分、僕は一生書き続けるだろう。すると、日教組教育の申し子たちは薄っぺらな正義感をひけらかして僕を非難する。
「作家、武道家を自称する人間がそう易々と人を殺したいなんて書く気持ちが知れない。恥ずかしくないのか?」
そんなメールを何度かもらったことがある。チャンチャラ可笑しい。アナタはまだ幼いガキが人を「殺してやりたい!」とまで思い詰めた経験があるのか? 平凡なサラリーマンの親に育てられてヌクヌクと成長してオタクだかフリーターだかやってるようなお坊ちゃまには言われたくない。
それに僕は単なる編集者であり名もないチンケな物書きです。空手なんか半人前の半人前、道場の末席を汚しただけの人間ですから…。自分を<武道家>とか<空手家>だなんて自惚れた事は1度もありません。
でも何か文句があるならいつでも相手しますよ。その代わりステゴロでは終わりません。最低、ヤッパくらいは懐に忍ばせてきて下さいな。僕は東京は池袋の事務所にいます。逃げも隠れもいたしません…なんて簡単に啖呵を切るから僕はヤクザとか呼ばれるのだ。ここは<改訂部分>ですが、もう半世紀も生きて、「そろそろバカは止めろ」と先日も<神様>に戒められたので、この部分は撤回いたします。申し訳ありません。
話が早々に脇道に逸れた。
閑話休題。
T高校の教師たちは生徒の<人権>を認め、とにかく規制というものが殆どなかった。<超>のつく程の進学校ではあったが、生徒にガリ勉タイプは殆どいない。男子校だから特に何でもあり、教室にエロ本を持ち込むヤツもいれば校舎の裏でタバコを吹かすヤツ、学校帰りに制服のままでパチンコ屋に入り浸るヤツもいた。
しかしお咎めは一切なし。今はわからないが、少なくとも僕が通っていた頃のT高校は名実ともに<自由の学府>だった。僕にとってT高校での学園生活は、まるで生まれ変わったかのように平和そのものだった。
そんな温和で平穏とした高校生活の象徴ともいえるのがフォークソング・グループのNSPだった。
アコースティックギター2人にエレキベース1人という3人編成だった。リーダーは天野滋。抜群にギターが巧かった。基本的にラブソングが中心だが、<かぐや姫>のような四畳半臭さがなく、また<アリス>のような関西演歌っぽいエグさもなかった。
NSPはサラリとした水のような歌を唄うグループだった。
ちなみにNSPとは「New Sadistic Pinc」の略だというが、何の事か今でも意味が分からない。
ところで、僕は父親がギターなどの楽器が得意だった関係で(今ではとっくに博徒から足を洗って? 民謡の先生を気取っている。<関東菊水会>がいつしかヤクザから民謡団体に代わってしまったようなものだ)、中学時代からギターを覚えていた。
最初にマスターしたのが「禁じられた遊び」だった。小学校高学年の頃から洋楽を聴き始めた僕だが、中学時代はトム・ジョーンズを卒業してエルトン・ジョンやキャロル・キング、はたまたTーREXやローリングストーンズなどにはまっていた。
ところがある日、後にT高校の先輩となる放送委員の人が井上陽水のデビューアルバム、「断絶」を僕に聴かせてくれた。それ以来、僕は洋楽とともに日本のフォークソングも積極的に聴くようになった。
吉田拓郎や泉谷しげる、岡林信康なども聴いていたが、何故か僕は井上陽水が一番好きだった。
吉田拓郎は当時、若者たちのカリスマ的存在で、誰も彼もが拓郎に狂っていた。生来、反骨心の強い僕は、意地でも<拓郎ファン>とは言いたくなかったのだ。実は陰でこっそりアルバムを集めていたのだが…。
しかしT高校に入ってからは、何故か無性にNSPに惹かれていった。NSPといえばヤマハが主催する1973年第5回ポプコン(ポピュラーソング・コンテスト)での入賞を契機にプロデビューした事で知られていた。
ポプコンの入賞作「あせ」もいいが、何といっても「さようなら」は傑作だった。悲しい別れの歌ではあるが、高校生の僕は「そんな悲恋をしてみたい…」なんて、むしろ詞の世界に憧れていた。
さっそくギターで「さようなら」をコピーした。毎日のようにギターを奏でながら唄った。そうして、気がついたらいつの間にかNSPの楽曲の殆どをコピーしてしまった。
そして僕は大久保という友人と一緒にフォークソンググループを結成し、名前を「COSMO」と名付けた。僕らは週に3回放課後を利用して演奏と歌の練習をした。大久保はかぐや姫の伊勢正三のファンで、「二十二歳の別れ」や「なごり雪」を唄わせたら学校で右に出る者はいなかった。さらに僕たちは井上陽水の楽曲とNSPが持ち歌となった。
勿論、オリジナル・ソングも作った。僕もヘタクソな詞を書いてコードをたどりながら作詞・作曲に精を出した。それでも、何故か僕たちの呼吸がぴったり合うのはNSPだった。
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それでも僕にとっては夢のような自由な学校だった。教師たちも、小・中学校の頃のような<馬鹿センコー>は皆無だった。
なにしろ僕の小・中学校時代は、そんな<センコー>たちへの反発の毎日だった。児童・生徒の前で偉そうな説教を垂れるクセに、職員室では達磨ストーブを囲みながら生徒たちの家庭問題を、まるでTVのワイドショーに群がる主婦のように猥雑な笑みを浮かべながら話に花を咲かせる。
「○○〜、オマエのお父さんは毎日何やってるの? お母さんはどこいったの?」(小学校時代、僕は姓が2度変わった。だから、あの頃の僕はコジマではなかった)
「梁川みたいな不良チョーセンと仲良くしちゃダメだ。オマエもチョーセンか? あれっ本当にそうだっけ? それともブラクか?」
戦後民主主義教育を唱える<日教組>が、こんなバカ教師を量産していったのだ…などと今になれば断言するしケンカも出来る。しかし、まだ小学生のガキには「何故なんだ!?」という漠然とした不条理感と怒りを心に溜め込む事しか術はなかった。
職員室に行く度、僕は<センコー>たちの好奇心の標的にされた。
殺してやる!!
何故、あの時、ヤツラ3人を殺せなかったのか…。今でも悔やんでいる。
こんな文章、何度書いたか分からない。多分、僕は一生書き続けるだろう。すると、日教組教育の申し子たちは薄っぺらな正義感をひけらかして僕を非難する。
「作家、武道家を自称する人間がそう易々と人を殺したいなんて書く気持ちが知れない。恥ずかしくないのか?」
そんなメールを何度かもらったことがある。チャンチャラ可笑しい。アナタはまだ幼いガキが人を「殺してやりたい!」とまで思い詰めた経験があるのか? 平凡なサラリーマンの親に育てられてヌクヌクと成長してオタクだかフリーターだかやってるようなお坊ちゃまには言われたくない。
それに僕は単なる編集者であり名もないチンケな物書きです。空手なんか半人前の半人前、道場の末席を汚しただけの人間ですから…。自分を<武道家>とか<空手家>だなんて自惚れた事は1度もありません。
でも何か文句があるならいつでも相手しますよ。その代わりステゴロでは終わりません。最低、ヤッパくらいは懐に忍ばせてきて下さいな。僕は東京は池袋の事務所にいます。逃げも隠れもいたしません…なんて簡単に啖呵を切るから僕はヤクザとか呼ばれるのだ。ここは<改訂部分>ですが、もう半世紀も生きて、「そろそろバカは止めろ」と先日も<神様>に戒められたので、この部分は撤回いたします。申し訳ありません。
話が早々に脇道に逸れた。
閑話休題。
T高校の教師たちは生徒の<人権>を認め、とにかく規制というものが殆どなかった。<超>のつく程の進学校ではあったが、生徒にガリ勉タイプは殆どいない。男子校だから特に何でもあり、教室にエロ本を持ち込むヤツもいれば校舎の裏でタバコを吹かすヤツ、学校帰りに制服のままでパチンコ屋に入り浸るヤツもいた。
しかしお咎めは一切なし。今はわからないが、少なくとも僕が通っていた頃のT高校は名実ともに<自由の学府>だった。僕にとってT高校での学園生活は、まるで生まれ変わったかのように平和そのものだった。
そんな温和で平穏とした高校生活の象徴ともいえるのがフォークソング・グループのNSPだった。
アコースティックギター2人にエレキベース1人という3人編成だった。リーダーは天野滋。抜群にギターが巧かった。基本的にラブソングが中心だが、<かぐや姫>のような四畳半臭さがなく、また<アリス>のような関西演歌っぽいエグさもなかった。
NSPはサラリとした水のような歌を唄うグループだった。
ちなみにNSPとは「New Sadistic Pinc」の略だというが、何の事か今でも意味が分からない。
ところで、僕は父親がギターなどの楽器が得意だった関係で(今ではとっくに博徒から足を洗って? 民謡の先生を気取っている。<関東菊水会>がいつしかヤクザから民謡団体に代わってしまったようなものだ)、中学時代からギターを覚えていた。
最初にマスターしたのが「禁じられた遊び」だった。小学校高学年の頃から洋楽を聴き始めた僕だが、中学時代はトム・ジョーンズを卒業してエルトン・ジョンやキャロル・キング、はたまたTーREXやローリングストーンズなどにはまっていた。
ところがある日、後にT高校の先輩となる放送委員の人が井上陽水のデビューアルバム、「断絶」を僕に聴かせてくれた。それ以来、僕は洋楽とともに日本のフォークソングも積極的に聴くようになった。
吉田拓郎や泉谷しげる、岡林信康なども聴いていたが、何故か僕は井上陽水が一番好きだった。
吉田拓郎は当時、若者たちのカリスマ的存在で、誰も彼もが拓郎に狂っていた。生来、反骨心の強い僕は、意地でも<拓郎ファン>とは言いたくなかったのだ。実は陰でこっそりアルバムを集めていたのだが…。
しかしT高校に入ってからは、何故か無性にNSPに惹かれていった。NSPといえばヤマハが主催する1973年第5回ポプコン(ポピュラーソング・コンテスト)での入賞を契機にプロデビューした事で知られていた。
ポプコンの入賞作「あせ」もいいが、何といっても「さようなら」は傑作だった。悲しい別れの歌ではあるが、高校生の僕は「そんな悲恋をしてみたい…」なんて、むしろ詞の世界に憧れていた。
さっそくギターで「さようなら」をコピーした。毎日のようにギターを奏でながら唄った。そうして、気がついたらいつの間にかNSPの楽曲の殆どをコピーしてしまった。
そして僕は大久保という友人と一緒にフォークソンググループを結成し、名前を「COSMO」と名付けた。僕らは週に3回放課後を利用して演奏と歌の練習をした。大久保はかぐや姫の伊勢正三のファンで、「二十二歳の別れ」や「なごり雪」を唄わせたら学校で右に出る者はいなかった。さらに僕たちは井上陽水の楽曲とNSPが持ち歌となった。
勿論、オリジナル・ソングも作った。僕もヘタクソな詞を書いてコードをたどりながら作詞・作曲に精を出した。それでも、何故か僕たちの呼吸がぴったり合うのはNSPだった。
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2009.01.20
風化させてはならない新極真会支部長の連続強盗・強姦事件(大改訂版)
松井章圭をして、「コジマさんの会社は空手・格技界のCIAですね…」といわれる我が社には、全国または海外からも常にスクープ的な情報が寄せられています。それは<表>だけではなく、本来ならば表に出る事のない<裏>の事情・背景・情報もしかりです。
実は昨年、再び新極真会内部の人間がスキャンダル的刑事事件を起こしています。その詳細は十分な確証と取材を経た上で公開します。
また、以前から元・新極真会指導員が渋谷界隈で違法風俗店を複数経営しては警察の摘発を受けるというイタチゴッコを繰り返しています。その違法風俗店に新極真会関係者が出入りしているという情報もあります。暴力団絡みという事で私も慎重に見ていましたが、某超大物関係者を通して上部団体との調整がついたので、この問題についても近く追及するつもりです。
それはそうと、以下の事件を覚えているでしょうか!?
新極真会支部長・小木剣太が2006ー2007年にかけて起こした逮捕監禁・強盗強姦事件です。
2008年6月23日。
大阪地裁は、彼が通算5名にも及ぶ女性を車で拉致し、強姦した上に金品を強奪したという罪状で「情状酌量の余地なし」と言い放ち、懲役15年の実刑判決を申し渡しました。
また犯人の小木と、俗に<ペッパーランチ事件>といわれる事件の主犯との関連性・交遊関係が未だに疑われてもいます。それは事件の酷似性のみならず、彼らの居住地域や事件現場が近隣であり、また犯行時期が近く、犯行手口なども極めて似ているという事実。更に言えば彼らに共通する<特殊性>が主な憶測の理由とされています。かつて小木と親しかったというある人物は、私の取材に対し、小木と<ペッパーランチ事件>の主犯が顔馴染みだったと、証拠を示しながら証言しています。
<ペッパーランチ事件>自体が既に実行犯らへの判決が出ているにせよ、多くの謎を秘めている事は疑いのない事実です。この事件に対する警察側の異常な及び腰…。私にも幾つか確証めいた情報が入ってますが、これについては触れません。ただ、<ペッパーランチ事件>と小木の関係は明らかに<黒>であると私は確信しています。
人の噂は75日…などといわれますが、この、あまりに卑劣で非道な事件を私たちは決して忘れてはならないでしょう。単なる暴行・傷害事件ならばケンカ両成敗とも言えます。恥ずかしながら、私自身も街のチンピラや不良相手のケンカなどで幾度か警察の事情聴取を受け起訴寸前になった事もあります。
しかし、空手の師範・支部長が、5回(あくまで起訴された数字であり、まだ余罪があると警察関係は見ているようです)にもわたって起こした性的犯罪は、「武道家」云々のモラル的問題と言うより、空手が本質的に有する暴力性を利用して腕力に劣る女性の尊厳を踏みにじった点に於いて、単なる刑事犯罪として見過ごせるほど軽いものでは到底ありません。
勿論、犯人である支部長の除名措置のみで終わるものではなく、一般社会における組織ならばトップの辞任や幹部会の解散など、犯人が長年所属していた新極真会自体が責任を取るべき事件であった事は否定できないでしょう。
裁判の報告などの経緯を一切外部へは勿論、内部の会員にも秘密裏にし、単に「除名処分にした」「関係各位に謝罪した」という告知だけで頬被りを決め込んだ新極真会の卑劣かつ卑怯な姿勢に対しても、大いに疑問があります。そんな新極真会の消極的態度について、我々メディアが追及する権利を有している事は明らかです。
もっとも新極真会は<新極真空手>の団体であり、その他極真系団体のように<極真空手>とは別物の空手という点のみが、多少強引ながらも極真空手全体の汚名から免れたというのが微かな救いではありますが…。
これは私の私見であり皮肉です。すみません。
いずれにせよ、この小木事件が<極真>のみならず空手界全体の信用とイメージを落とした最低最悪の事件である事は論を待ちません。
私は現在抱えている仕事が落ち着き次第、小木事件の詳細について、小木自身にも接見し、事件経過の論証は勿論、小木と新極真会の関わり、小木を支部長に推薦したという三瓶啓二と事件の関わり、新極真会自体が孕む問題性などについても、積極的に取材を行うつもりです。そして、ひとつの「作品」にまとめようと思っています。その際、新極真会側が取材拒否を貫くならば、組織への世間による不信感は飽和状態に陥るに違いないでしょう。
(この支部長が事件の犯人です)
(この犯人は選手でもあったのですね。三瓶啓二に随分、可愛がられていたと聞いています。個人情報保護法に抵触すると言うなかれ! か弱き女性を狙った性的犯罪者に人権などありません)
読者・ファンの皆さま、以上の事件のみならず、空手特に極真系団体に関する情報をお待ちしています。
(了)
実は昨年、再び新極真会内部の人間がスキャンダル的刑事事件を起こしています。その詳細は十分な確証と取材を経た上で公開します。
また、以前から元・新極真会指導員が渋谷界隈で違法風俗店を複数経営しては警察の摘発を受けるというイタチゴッコを繰り返しています。その違法風俗店に新極真会関係者が出入りしているという情報もあります。暴力団絡みという事で私も慎重に見ていましたが、某超大物関係者を通して上部団体との調整がついたので、この問題についても近く追及するつもりです。
それはそうと、以下の事件を覚えているでしょうか!?
新極真会支部長・小木剣太が2006ー2007年にかけて起こした逮捕監禁・強盗強姦事件です。
2008年6月23日。
大阪地裁は、彼が通算5名にも及ぶ女性を車で拉致し、強姦した上に金品を強奪したという罪状で「情状酌量の余地なし」と言い放ち、懲役15年の実刑判決を申し渡しました。
また犯人の小木と、俗に<ペッパーランチ事件>といわれる事件の主犯との関連性・交遊関係が未だに疑われてもいます。それは事件の酷似性のみならず、彼らの居住地域や事件現場が近隣であり、また犯行時期が近く、犯行手口なども極めて似ているという事実。更に言えば彼らに共通する<特殊性>が主な憶測の理由とされています。かつて小木と親しかったというある人物は、私の取材に対し、小木と<ペッパーランチ事件>の主犯が顔馴染みだったと、証拠を示しながら証言しています。
<ペッパーランチ事件>自体が既に実行犯らへの判決が出ているにせよ、多くの謎を秘めている事は疑いのない事実です。この事件に対する警察側の異常な及び腰…。私にも幾つか確証めいた情報が入ってますが、これについては触れません。ただ、<ペッパーランチ事件>と小木の関係は明らかに<黒>であると私は確信しています。
人の噂は75日…などといわれますが、この、あまりに卑劣で非道な事件を私たちは決して忘れてはならないでしょう。単なる暴行・傷害事件ならばケンカ両成敗とも言えます。恥ずかしながら、私自身も街のチンピラや不良相手のケンカなどで幾度か警察の事情聴取を受け起訴寸前になった事もあります。
しかし、空手の師範・支部長が、5回(あくまで起訴された数字であり、まだ余罪があると警察関係は見ているようです)にもわたって起こした性的犯罪は、「武道家」云々のモラル的問題と言うより、空手が本質的に有する暴力性を利用して腕力に劣る女性の尊厳を踏みにじった点に於いて、単なる刑事犯罪として見過ごせるほど軽いものでは到底ありません。
勿論、犯人である支部長の除名措置のみで終わるものではなく、一般社会における組織ならばトップの辞任や幹部会の解散など、犯人が長年所属していた新極真会自体が責任を取るべき事件であった事は否定できないでしょう。
裁判の報告などの経緯を一切外部へは勿論、内部の会員にも秘密裏にし、単に「除名処分にした」「関係各位に謝罪した」という告知だけで頬被りを決め込んだ新極真会の卑劣かつ卑怯な姿勢に対しても、大いに疑問があります。そんな新極真会の消極的態度について、我々メディアが追及する権利を有している事は明らかです。
もっとも新極真会は<新極真空手>の団体であり、その他極真系団体のように<極真空手>とは別物の空手という点のみが、多少強引ながらも極真空手全体の汚名から免れたというのが微かな救いではありますが…。
これは私の私見であり皮肉です。すみません。
いずれにせよ、この小木事件が<極真>のみならず空手界全体の信用とイメージを落とした最低最悪の事件である事は論を待ちません。
私は現在抱えている仕事が落ち着き次第、小木事件の詳細について、小木自身にも接見し、事件経過の論証は勿論、小木と新極真会の関わり、小木を支部長に推薦したという三瓶啓二と事件の関わり、新極真会自体が孕む問題性などについても、積極的に取材を行うつもりです。そして、ひとつの「作品」にまとめようと思っています。その際、新極真会側が取材拒否を貫くならば、組織への世間による不信感は飽和状態に陥るに違いないでしょう。
(この支部長が事件の犯人です)
(この犯人は選手でもあったのですね。三瓶啓二に随分、可愛がられていたと聞いています。個人情報保護法に抵触すると言うなかれ! か弱き女性を狙った性的犯罪者に人権などありません)
読者・ファンの皆さま、以上の事件のみならず、空手特に極真系団体に関する情報をお待ちしています。
(了)
2009年 極真空手の行方を考える(改訂新版) #comment開放
大山倍達が逝った1994年、自らの師匠や父親・夫の亡骸にまるで砂をかけるように始まった極真会館の分裂騒動。高木薫を中心に手塚が参謀格となって旗揚げした遺族派、そして三瓶啓二が首謀者となり緑健児が煽動役を務め、もうひとつの<反松井派>の首領・西田幸夫が呼応する事で、用意周到に行われた松井館長解任事件…。
あれから既に15年という歳月が過ぎました。この間、松井の極真会館に対抗するように、新極真会、極真連合会、極真館、その他幾つもの中小団体が生まれました。しかし、昨今の<格技不況>と相まって、極真系団体も再び整理・統合の動きが出てきたように思われます。
勿論、それは極真系団体が大山倍達の生前の状態にまとまるという意味ではありません。残念ながら、そんな事態は永遠にこないでしょう。つまり、乱立する極真系団体が潰れ、または他団体に吸収されていくという意味です。
(極真の父・大山倍達)
大山倍達の正統な後継者・松井章圭率いる極真会館は常に国内だけで6万名を下らない会員数を誇ります。
ちなみに以前、私は格技研究家である宮田玲欧氏と共に、大山の生前(1990年前後)における<極真空手人口>(会費を払い定期的に道場に通っている会員数)を調査した事があります。結果を言うならば意外に少なく、15万名弱という数字が出てきました。松井章圭は館長就任直後、「活動している会員は10万人を超える程度」と語っていますので、決して的外れな数字ではないと思います。
生前、大山倍達は「極真空手人口は国内で百万、海外を含めて1千万」と豪語していました。しかし、これもまた、あながち法螺ではない事も判明しました。大山の語った数字は、過去の極真会館入門者の累計として理解すればよいのです。
極真会館ほど会員の出入りが激しい格技スポーツはないでしょう。特に1970年代後半から1980年前後、1日に100名が入門したとするならば、その日に10名が辞め、3日後には30名、1カ月後には最初の100名のうち90名が退会するというのが日常でした。経営的には極めて効率がよかったと言えますが、そんな具合に「極真会館は入門者のうち1年持つのは1%」という言葉が一般化していきました。この数値は、昔よりは随分稽古が楽になった…と言われる現在でもあまり変化はないようです。
ですから、1964年以降の極真会館累計入門者の数が軽く1千万名を超えているのはほぼ間違いありません。大山の生前、総本部事務局には5cm近い厚さの会員名簿が20冊以上並んでいたものです。
閑話休題。
いずれにせよ、現・極真系空手人口の過半数が<本家>である極真会館に集まっているのは会員カード登録者数からも明らかです。
一方、新極真会の存在感が急減に薄くなりつつある事は否めないでしょう。極真会館の<対抗団体>としての存在力がなくなったという事が最大の理由と考えられます。この15年間で多くの実力者が組織を離れていきました。
独立からほどなく、三瓶と並びリーダー格だった西田幸夫が組織を離脱しました。この事実が大きな衝撃を組織に与えた事は想像に難くありません。そして西田を追うように、続々と古参も若手も関係なく多くの支部長が組織を見限っていきました。彼らは、その殆どの理由が三瓶の独裁と、三瓶が起こした破廉恥なスキャンダルにあると語っています。現在の会員数も公称2万名とはいいながら、実質的には1万名前後と予想されます。
新極真会の最大の弱点は、自らの空手を<極真空手>と呼称してはいけないという法的な縛りを受けている点です。2002年当時、松井との商標権を巡る裁判に敗訴した新極真会は、松井との和解案のひとつ、「今後、極真空手とは名乗らず、新極真空手と名乗る事」という条件を受け入れました。
それでも最近まで、そんな事実さえ知らされない支部長が多く、単なる無知さ故に<極真空手>の看板を出し、何の疑問も抱かずに<極真空手>を名乗ってきた道場も少なくありませんでした。しかし、今後はそういう訳にはいかない事態になるでしょう。法を盾にした極真会館の締め付けが強くなると予想されるからです。新極真会が<新極真空手>を名乗る法的義務を負っている事を忘れてはなりません。
2007年の世界選手権では極真会館に見劣りしない盛況さを見せ付けた新極真会ですが、その運営の実態は酷いものでした。全国の少年部の保護者に対し、<入場料無料・弁当付き>というサービスを条件に観戦を半強制的に要請するという、なりふり構わない動員計画は関係者から大きな顰蹙を買ったものです。
大会後にも、一般会員やファンが知らない大騒動がありました。これも中心人物は三瓶でした。国内の幹部支部長たちには内密に、三瓶は海外支部長たちとコンタクトを図り、当時空席状態にあった(便宜上、緑が兼任となっていた)、IKO会長つまり新極真会世界組織のトップの座を狙っていたことが事前に判明したのです。
IKO会長を選任する選挙は世界選手権後の世界支部長会議に行われる予定でした。当然、会議は大混乱に陥りました。しかし三瓶は「2人の日本人支部長から強い要請を受けたから仕方なく従った」とシラを切り通しました。結局、実力者の三瓶の首に<鈴>を付けられる者は誰もいず、三瓶は不問扱いになりました。
可哀想なのは三瓶から名指しされた2人の日本人支部長です。如何なる経緯があったかはともかく、彼らが<推薦人>に名前を連ねていたのは事実でした。三瓶を責められない国内支部長たちの不満が彼らに集中したのは言うまでもありません。結局、心労が祟り某支部長は命を落とす事になります。
新極真会の元幹部支部長・柳渡聖人は断言しました。
「新極真会がクリーンなイメージを持って松井に対抗していく為には緑健児を代表として全面に出し続けるしかない」
館長公選制と民主合議制を大義名分に松井章圭を解任し、自らの理想を掲げて発足したはずの新極真会(元・支部長協議会派)の実体がこれです。
「公選制を取るならばいつまでも緑を代表にはしておけないのでは?」
そんな私の質問に、柳渡は平然と答えました。
「政治の世界にもあるじゃないか。談合とか密室での話し合いも時には必要悪になるのよ」
新極真会の解体または滅亡はそう遠くないでしょう。
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あれから既に15年という歳月が過ぎました。この間、松井の極真会館に対抗するように、新極真会、極真連合会、極真館、その他幾つもの中小団体が生まれました。しかし、昨今の<格技不況>と相まって、極真系団体も再び整理・統合の動きが出てきたように思われます。
勿論、それは極真系団体が大山倍達の生前の状態にまとまるという意味ではありません。残念ながら、そんな事態は永遠にこないでしょう。つまり、乱立する極真系団体が潰れ、または他団体に吸収されていくという意味です。
(極真の父・大山倍達)
大山倍達の正統な後継者・松井章圭率いる極真会館は常に国内だけで6万名を下らない会員数を誇ります。
ちなみに以前、私は格技研究家である宮田玲欧氏と共に、大山の生前(1990年前後)における<極真空手人口>(会費を払い定期的に道場に通っている会員数)を調査した事があります。結果を言うならば意外に少なく、15万名弱という数字が出てきました。松井章圭は館長就任直後、「活動している会員は10万人を超える程度」と語っていますので、決して的外れな数字ではないと思います。
生前、大山倍達は「極真空手人口は国内で百万、海外を含めて1千万」と豪語していました。しかし、これもまた、あながち法螺ではない事も判明しました。大山の語った数字は、過去の極真会館入門者の累計として理解すればよいのです。
極真会館ほど会員の出入りが激しい格技スポーツはないでしょう。特に1970年代後半から1980年前後、1日に100名が入門したとするならば、その日に10名が辞め、3日後には30名、1カ月後には最初の100名のうち90名が退会するというのが日常でした。経営的には極めて効率がよかったと言えますが、そんな具合に「極真会館は入門者のうち1年持つのは1%」という言葉が一般化していきました。この数値は、昔よりは随分稽古が楽になった…と言われる現在でもあまり変化はないようです。
ですから、1964年以降の極真会館累計入門者の数が軽く1千万名を超えているのはほぼ間違いありません。大山の生前、総本部事務局には5cm近い厚さの会員名簿が20冊以上並んでいたものです。
閑話休題。
いずれにせよ、現・極真系空手人口の過半数が<本家>である極真会館に集まっているのは会員カード登録者数からも明らかです。
一方、新極真会の存在感が急減に薄くなりつつある事は否めないでしょう。極真会館の<対抗団体>としての存在力がなくなったという事が最大の理由と考えられます。この15年間で多くの実力者が組織を離れていきました。
独立からほどなく、三瓶と並びリーダー格だった西田幸夫が組織を離脱しました。この事実が大きな衝撃を組織に与えた事は想像に難くありません。そして西田を追うように、続々と古参も若手も関係なく多くの支部長が組織を見限っていきました。彼らは、その殆どの理由が三瓶の独裁と、三瓶が起こした破廉恥なスキャンダルにあると語っています。現在の会員数も公称2万名とはいいながら、実質的には1万名前後と予想されます。
新極真会の最大の弱点は、自らの空手を<極真空手>と呼称してはいけないという法的な縛りを受けている点です。2002年当時、松井との商標権を巡る裁判に敗訴した新極真会は、松井との和解案のひとつ、「今後、極真空手とは名乗らず、新極真空手と名乗る事」という条件を受け入れました。
それでも最近まで、そんな事実さえ知らされない支部長が多く、単なる無知さ故に<極真空手>の看板を出し、何の疑問も抱かずに<極真空手>を名乗ってきた道場も少なくありませんでした。しかし、今後はそういう訳にはいかない事態になるでしょう。法を盾にした極真会館の締め付けが強くなると予想されるからです。新極真会が<新極真空手>を名乗る法的義務を負っている事を忘れてはなりません。
2007年の世界選手権では極真会館に見劣りしない盛況さを見せ付けた新極真会ですが、その運営の実態は酷いものでした。全国の少年部の保護者に対し、<入場料無料・弁当付き>というサービスを条件に観戦を半強制的に要請するという、なりふり構わない動員計画は関係者から大きな顰蹙を買ったものです。
大会後にも、一般会員やファンが知らない大騒動がありました。これも中心人物は三瓶でした。国内の幹部支部長たちには内密に、三瓶は海外支部長たちとコンタクトを図り、当時空席状態にあった(便宜上、緑が兼任となっていた)、IKO会長つまり新極真会世界組織のトップの座を狙っていたことが事前に判明したのです。
IKO会長を選任する選挙は世界選手権後の世界支部長会議に行われる予定でした。当然、会議は大混乱に陥りました。しかし三瓶は「2人の日本人支部長から強い要請を受けたから仕方なく従った」とシラを切り通しました。結局、実力者の三瓶の首に<鈴>を付けられる者は誰もいず、三瓶は不問扱いになりました。
可哀想なのは三瓶から名指しされた2人の日本人支部長です。如何なる経緯があったかはともかく、彼らが<推薦人>に名前を連ねていたのは事実でした。三瓶を責められない国内支部長たちの不満が彼らに集中したのは言うまでもありません。結局、心労が祟り某支部長は命を落とす事になります。
新極真会の元幹部支部長・柳渡聖人は断言しました。
「新極真会がクリーンなイメージを持って松井に対抗していく為には緑健児を代表として全面に出し続けるしかない」
館長公選制と民主合議制を大義名分に松井章圭を解任し、自らの理想を掲げて発足したはずの新極真会(元・支部長協議会派)の実体がこれです。
「公選制を取るならばいつまでも緑を代表にはしておけないのでは?」
そんな私の質問に、柳渡は平然と答えました。
「政治の世界にもあるじゃないか。談合とか密室での話し合いも時には必要悪になるのよ」
新極真会の解体または滅亡はそう遠くないでしょう。
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半世紀からの挑戦…ハングリーには銭も歳も関係ねえ!(改訂版)
考えてみれば、何もかも「大山倍達正伝」の発売が最大の契機だったと言えるだろう。超メジャーの新潮社から刊行された事実と、2500円弱という一般書としては破格の価格にも拘わらず、5万部以上を売り切ったという事実は、私の予想を越えて周辺の環境を一変させた。
過去、20冊近い著書を出してきた私だが、<本当に親しい友人>以外から「オマエの本を読んだよ」なんて連絡は一切なかった。
そうなのだ、約2年前の「大山倍達正伝」(T・YOSHIKOとの共著)から何もかも変わったのだ。
その最たるものが、<古い親友親友>と名乗る連中の急増である。念を押しておくが、その95%が<自称>である。書店の陳列棚で私の著書を見付けたか、新聞・雑誌の広告で私の名前を見たヤツらだろう。中にはNetを覗き、私の悪評を知って好奇心を抱いたバカもいるかもしれない。
だが、そんなヤツらに限って私の著書など「銭が勿体ない」と買いもしないし、興味もないから読んでなどいないのだ。それでも30年以上も音信不通だった癖に馴れ馴れしく私に電話をしてくる。ヤツらは決まって私の実家に電話をし、「息子さんの古い友人です」と言って親から私の携帯番号を訊き出す。
はっきり言っておくが、私には小・中学校時代の<友人>など1匹もいない。高校・大学時代の友人ならば何人もいる。特にゼミの仲間は今でもかけがえのない大切な友人だ。もっとも皆この不況の中、なかなか会う機会がないのだが…。
とにかくだ。2年前頃から自称・昔の親友なる人間からやたらと電話がくるようになった。相手のペースに乗って愛想よく「久し振り!」なんて答えていると、ヤツらに「俺はアイツの親友でさ…」などと更に吹聴されかねない。だから私はウンザリしながらも、暫くは相手の話を黙って聞いている。するとヤツらは調子に乗る。そして必ずのようにヤツらは言う。さも<親友>のように…。
「もういい歳なんだから無理するなよ。会社経営も大変だろうし、作家先生も大変だろうけど、程々にな。今度こっちに帰る時は教えてくれ。故郷がいちばんの癒しだぜ」
先日はこんなヤツもいた。中学時代、私を常に脇目で見ながら冷笑を浮かべていたガリ勉野郎だ。その癖、1度たりともテスト・模擬試験で私を越えた事はなかった。
「キミが立派な作家になったのは知っていたけど、極真空手って暴力団と通じてるんだって? それにキミは今じゃ東京では大物ヤクザっていうの、フロントなんだって? そんな噂を聞いたよ。まあ、そうじゃないと格闘技の事なんか怖くて書けないよね。そこで頼みがあるんだ。実は今度、川崎からY市(地元)に戻って小さなレストランを開店するんだけど、キミはYでも梁川組の梁川さんと<兄弟>だよね。不良とかこないようにキミから梁川さんに頼んでもらえないかな。もう私もいい歳だし、キミみたいなコワモテじゃない善良な一般市民だから地元でのんびり生活したいんだ。余生っていうの? その為に会社を早期退職したのよ」
ヤツがこんなに長話を、それも馴れ馴れしく私にするのを聞いたのは<初めて>だった。中学時代は1度もロクに口もきいた事がない。私は呆れて言葉も出なかった。
そんな事を私に依頼したいのならば、まずは礼儀というものがあるだろう。言葉遣いも気を付けるべきではないか。何の確証もない噂を信じ込み、私を作家と言いながら著書の感想ひとつもない。挙げ句に私をヤクザと決めつけた。厚顔無恥にも程度があるだろう。
梁川は確かにガキの頃からの<兄貴分>ではある。地元では遥か昔から公然の事実だが、何故、私があんなヤツの為に骨を折らねばならないのだ! 何が<早期退職>だ。リストラされただけだろうが…。
大体、こんな自称・親友なんてヤツらに限って決まったように同じ事を口にする。
「お互い歳なんだから…」
「年齢相応に丸くなろうよ」
「やっぱり老後は故郷がいちばんだよ」
「織田信長も言ってただろうよ、人間50年って。後は煩い女房の愚痴でも聞いて余生を送ろうよ」
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過去、20冊近い著書を出してきた私だが、<本当に親しい友人>以外から「オマエの本を読んだよ」なんて連絡は一切なかった。
そうなのだ、約2年前の「大山倍達正伝」(T・YOSHIKOとの共著)から何もかも変わったのだ。
その最たるものが、<古い親友親友>と名乗る連中の急増である。念を押しておくが、その95%が<自称>である。書店の陳列棚で私の著書を見付けたか、新聞・雑誌の広告で私の名前を見たヤツらだろう。中にはNetを覗き、私の悪評を知って好奇心を抱いたバカもいるかもしれない。
だが、そんなヤツらに限って私の著書など「銭が勿体ない」と買いもしないし、興味もないから読んでなどいないのだ。それでも30年以上も音信不通だった癖に馴れ馴れしく私に電話をしてくる。ヤツらは決まって私の実家に電話をし、「息子さんの古い友人です」と言って親から私の携帯番号を訊き出す。
はっきり言っておくが、私には小・中学校時代の<友人>など1匹もいない。高校・大学時代の友人ならば何人もいる。特にゼミの仲間は今でもかけがえのない大切な友人だ。もっとも皆この不況の中、なかなか会う機会がないのだが…。
とにかくだ。2年前頃から自称・昔の親友なる人間からやたらと電話がくるようになった。相手のペースに乗って愛想よく「久し振り!」なんて答えていると、ヤツらに「俺はアイツの親友でさ…」などと更に吹聴されかねない。だから私はウンザリしながらも、暫くは相手の話を黙って聞いている。するとヤツらは調子に乗る。そして必ずのようにヤツらは言う。さも<親友>のように…。
「もういい歳なんだから無理するなよ。会社経営も大変だろうし、作家先生も大変だろうけど、程々にな。今度こっちに帰る時は教えてくれ。故郷がいちばんの癒しだぜ」
先日はこんなヤツもいた。中学時代、私を常に脇目で見ながら冷笑を浮かべていたガリ勉野郎だ。その癖、1度たりともテスト・模擬試験で私を越えた事はなかった。
「キミが立派な作家になったのは知っていたけど、極真空手って暴力団と通じてるんだって? それにキミは今じゃ東京では大物ヤクザっていうの、フロントなんだって? そんな噂を聞いたよ。まあ、そうじゃないと格闘技の事なんか怖くて書けないよね。そこで頼みがあるんだ。実は今度、川崎からY市(地元)に戻って小さなレストランを開店するんだけど、キミはYでも梁川組の梁川さんと<兄弟>だよね。不良とかこないようにキミから梁川さんに頼んでもらえないかな。もう私もいい歳だし、キミみたいなコワモテじゃない善良な一般市民だから地元でのんびり生活したいんだ。余生っていうの? その為に会社を早期退職したのよ」
ヤツがこんなに長話を、それも馴れ馴れしく私にするのを聞いたのは<初めて>だった。中学時代は1度もロクに口もきいた事がない。私は呆れて言葉も出なかった。
そんな事を私に依頼したいのならば、まずは礼儀というものがあるだろう。言葉遣いも気を付けるべきではないか。何の確証もない噂を信じ込み、私を作家と言いながら著書の感想ひとつもない。挙げ句に私をヤクザと決めつけた。厚顔無恥にも程度があるだろう。
梁川は確かにガキの頃からの<兄貴分>ではある。地元では遥か昔から公然の事実だが、何故、私があんなヤツの為に骨を折らねばならないのだ! 何が<早期退職>だ。リストラされただけだろうが…。
大体、こんな自称・親友なんてヤツらに限って決まったように同じ事を口にする。
「お互い歳なんだから…」
「年齢相応に丸くなろうよ」
「やっぱり老後は故郷がいちばんだよ」
「織田信長も言ってただろうよ、人間50年って。後は煩い女房の愚痴でも聞いて余生を送ろうよ」
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2009.01.19
親父が倅に完敗した日…倅と極真空手(最終完全版)
もうグロッキーです!!
思い起こせば倅と一緒に<親子稽古>を始めたのが15年前。幼稚園児の倅が極真会館に入門した時からでした。通う道場は遠く、稽古に出られるのは週に2回が限度。
そこで平日に1回、日曜日は朝からみっちり2時間、基本からsparringまで、毎週欠かさず続けたものです。sparringでは、ヘッドガードからボディプロテクター、そして拳から肘、膝、スネ、足の甲までサポーターで完全装備、まるでロボットのような倅を私は容赦なく打ちすえました。
勿論、この<親子稽古>が効を博して後に、城西内の少年大会3連覇、全日本少年大会で準優勝が出来たなどとは思っていません。
ところで倅は小学校入学と同時に浅草道場から城西国分寺道場に移籍しました。自宅を引っ越したが為に浅草に通うのに極めて交通の便が悪くなってしまったというのが最大の理由です。
また当時、総本部(大山総裁の空手観)の影響が強かった浅草道場では、少年部の稽古で殆ど組手的な稽古を行っていませんでした。一方、黒澤浩樹や小笠原和彦、川本英児など多くの友人が在籍していた城西支部は少年や女子の部内大会を開くなど、少年部の稽古でも一般部同様に組手に直結する合理的な練習を導入していました。
城西支部を<チャンピオン製造工場>と呼ばれるまでの最強集団に育て上げた名伯楽・山田雅稔支部長とも懇意にさせて頂いていた事もあり、彼のアドバイスに従って江口分支部長が率いる国分寺道場に移る事にしたのです。
江口は面倒見が良く、また奥様の美幸さんも選手志向が強かった関係で、国分寺道場には多くの少年部の生徒が通い、<受け返し>や<約束組手>など実戦に直結した稽古が合理的に行われていました。
倅は江口の下で急激に実力をつけていきました。浅草道場時代、たまに行う組手ではいつも泣きべそをかき、パンチひとつまともに出せなかった倅が、たった数カ月の間にまるで別人の如く自信に溢れた表情を浮かべるようになりました。倅に試合・大会への出場を奨めてくれたのも江口であり、結果的に倅が好成績を残せたのも江口夫婦の指導の賜物である事は言うまでもありません。
更に今でも江口に感謝しているのは、少年部の試合ルールに沿った技術だけではなく、あくまで一般部に進んでからも通用するオーソドックスな<城西スタイル>とも言えるローキック、中段回し蹴りとパンチを重視し、サイドにステップして攻撃する技術を徹底的に仕込んでくれた事です。
少年部の試合はヘッドガードを着用し、特に上段回し蹴りが頭部にヒットしさえすれば「技あり」という、ポイントルールに近いものです。ですから試合に勝とうと思えば、何よりも上段を蹴る練習が中心になり、中には<掛け逃げ>といって、反撃を怖れるが故に蹴ると同時に倒れ込むといった、本来の実戦空手とは矛盾する卑怯な技術を積極的にやらせる指導者が(特に他流派)少なからずいたものです。もし、そんな技術を駆使して少年大会で好成績を修められたとしても、一般部では全く通用しない事は自明です。その点、倅の得意技は下段蹴りでした。
これについては黒澤浩樹の存在が倅に大きな影響を与えたのは間違いありません。黒澤も江口同様、城西所属だった縁から、暇を見つけては度々倅に稽古をつけてくれました。大会では黒澤が倅のセコンドについた程です。黒澤に憧れ抜いていた倅は、稽古のsparringでも試合でも、<黒澤浩樹の子供版>とも言える戦いをしては周囲を沸かせたものでした。
(少年部時代の倅)
閑話休題。
私が<親子稽古>で行うメニューは基本的に道場で指導される練習の復習が主でした。道場で指導しない事は教えない! 空手の稽古の主体はあくまで道場であり、<親子稽古>はそれを補足するものだと私は自分に言い聞かせていました。これを大前提に、基礎体力の養成やsparringのイロハ(江口や黒澤の教えに則った戦法)を繰り返し体に覚えこませるというのが、当時の私の指導でした。
それでも倅にとって<親子稽古>は実に厳しかったはずです。倅は毎回のように悔し涙を堪えながら、それでも1度でさえ稽古から逃げたり挫けたりする事はありませんでした。
ところで、私は倅がまだ小学校に入る前から中学は私立と決めていました。機会あるごとに書いているように、私は公立小・中学校の教師を一切信用していません。また可能ならば中・高・大の一貫したエスカレータ式の学校に入れようと考えていました。
公立中学に入ると半強制的に部活動に入れられ、また高校受験が控えています。その為、殆どの少年部の生徒は中学生になると道場から離れていくのが現状です。その傾向は高校に入ってからも変わりません。私は、高校や大学の受験勉強に煩わされず、また部活動で貴重な時間を割かれる事もなく、倅にはずっと極真空手(格技)を続けさせたいという思いがありました。
そんな訳で、倅は一旦小学5年生で道場を休会し、私立中学受験に向けて猛勉強を開始しました。ただ、それでも週に2回の<親子稽古>だけは欠かしませんでした。少しでも空手の勘が鈍るのを防ぎたいと思ったからです。また、この頃になると、<親子稽古>は私と倅の大切なコミュニケーションの場にもなっていました。
結局、倅との<親子稽古>は中学受験の約半年前まで続く事になります。
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思い起こせば倅と一緒に<親子稽古>を始めたのが15年前。幼稚園児の倅が極真会館に入門した時からでした。通う道場は遠く、稽古に出られるのは週に2回が限度。
そこで平日に1回、日曜日は朝からみっちり2時間、基本からsparringまで、毎週欠かさず続けたものです。sparringでは、ヘッドガードからボディプロテクター、そして拳から肘、膝、スネ、足の甲までサポーターで完全装備、まるでロボットのような倅を私は容赦なく打ちすえました。
勿論、この<親子稽古>が効を博して後に、城西内の少年大会3連覇、全日本少年大会で準優勝が出来たなどとは思っていません。
ところで倅は小学校入学と同時に浅草道場から城西国分寺道場に移籍しました。自宅を引っ越したが為に浅草に通うのに極めて交通の便が悪くなってしまったというのが最大の理由です。
また当時、総本部(大山総裁の空手観)の影響が強かった浅草道場では、少年部の稽古で殆ど組手的な稽古を行っていませんでした。一方、黒澤浩樹や小笠原和彦、川本英児など多くの友人が在籍していた城西支部は少年や女子の部内大会を開くなど、少年部の稽古でも一般部同様に組手に直結する合理的な練習を導入していました。
城西支部を<チャンピオン製造工場>と呼ばれるまでの最強集団に育て上げた名伯楽・山田雅稔支部長とも懇意にさせて頂いていた事もあり、彼のアドバイスに従って江口分支部長が率いる国分寺道場に移る事にしたのです。
江口は面倒見が良く、また奥様の美幸さんも選手志向が強かった関係で、国分寺道場には多くの少年部の生徒が通い、<受け返し>や<約束組手>など実戦に直結した稽古が合理的に行われていました。
倅は江口の下で急激に実力をつけていきました。浅草道場時代、たまに行う組手ではいつも泣きべそをかき、パンチひとつまともに出せなかった倅が、たった数カ月の間にまるで別人の如く自信に溢れた表情を浮かべるようになりました。倅に試合・大会への出場を奨めてくれたのも江口であり、結果的に倅が好成績を残せたのも江口夫婦の指導の賜物である事は言うまでもありません。
更に今でも江口に感謝しているのは、少年部の試合ルールに沿った技術だけではなく、あくまで一般部に進んでからも通用するオーソドックスな<城西スタイル>とも言えるローキック、中段回し蹴りとパンチを重視し、サイドにステップして攻撃する技術を徹底的に仕込んでくれた事です。
少年部の試合はヘッドガードを着用し、特に上段回し蹴りが頭部にヒットしさえすれば「技あり」という、ポイントルールに近いものです。ですから試合に勝とうと思えば、何よりも上段を蹴る練習が中心になり、中には<掛け逃げ>といって、反撃を怖れるが故に蹴ると同時に倒れ込むといった、本来の実戦空手とは矛盾する卑怯な技術を積極的にやらせる指導者が(特に他流派)少なからずいたものです。もし、そんな技術を駆使して少年大会で好成績を修められたとしても、一般部では全く通用しない事は自明です。その点、倅の得意技は下段蹴りでした。
これについては黒澤浩樹の存在が倅に大きな影響を与えたのは間違いありません。黒澤も江口同様、城西所属だった縁から、暇を見つけては度々倅に稽古をつけてくれました。大会では黒澤が倅のセコンドについた程です。黒澤に憧れ抜いていた倅は、稽古のsparringでも試合でも、<黒澤浩樹の子供版>とも言える戦いをしては周囲を沸かせたものでした。
(少年部時代の倅)
閑話休題。
私が<親子稽古>で行うメニューは基本的に道場で指導される練習の復習が主でした。道場で指導しない事は教えない! 空手の稽古の主体はあくまで道場であり、<親子稽古>はそれを補足するものだと私は自分に言い聞かせていました。これを大前提に、基礎体力の養成やsparringのイロハ(江口や黒澤の教えに則った戦法)を繰り返し体に覚えこませるというのが、当時の私の指導でした。
それでも倅にとって<親子稽古>は実に厳しかったはずです。倅は毎回のように悔し涙を堪えながら、それでも1度でさえ稽古から逃げたり挫けたりする事はありませんでした。
ところで、私は倅がまだ小学校に入る前から中学は私立と決めていました。機会あるごとに書いているように、私は公立小・中学校の教師を一切信用していません。また可能ならば中・高・大の一貫したエスカレータ式の学校に入れようと考えていました。
公立中学に入ると半強制的に部活動に入れられ、また高校受験が控えています。その為、殆どの少年部の生徒は中学生になると道場から離れていくのが現状です。その傾向は高校に入ってからも変わりません。私は、高校や大学の受験勉強に煩わされず、また部活動で貴重な時間を割かれる事もなく、倅にはずっと極真空手(格技)を続けさせたいという思いがありました。
そんな訳で、倅は一旦小学5年生で道場を休会し、私立中学受験に向けて猛勉強を開始しました。ただ、それでも週に2回の<親子稽古>だけは欠かしませんでした。少しでも空手の勘が鈍るのを防ぎたいと思ったからです。また、この頃になると、<親子稽古>は私と倅の大切なコミュニケーションの場にもなっていました。
結局、倅との<親子稽古>は中学受験の約半年前まで続く事になります。
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2009.01.18
2009.01.16
2009.01.01
[改訂新版]教訓・趣味的アプローチと学習的アプローチ
私は自分が好きな音楽や映画、小説など趣味嗜好を強引に他人に勧めることが大嫌いです。
だから私は絶対に矢沢永吉さんの楽曲を「聴け!」とは如何に親しい友人にもいいません。「矢沢さんは最高なんよ」とはいいますが…。
ただし例外はあります。
例えば仕事絡みならば好き嫌いの問題ではなく、「仕事に必要だから○○を読め!」のひとことのみ。勿論、絶対命令です。
また、例えばその人がロックミュージックが好きで海外のものなど色々なミュージシャンの楽曲をある程度は聴き込んでいることを知っている場合。私から見て、その彼がどうも「浅いな」と思ったら、私は「これを聴いてみたら」と勧めます。
文学・小説も同様です。日本の低レベルな推理小説ではあっても、それなりに数を読んでいる人には「海外にはこんな素晴らしい小説があるから読んだらいいよ」といいます。
一般に「教養」を身に付ける為の方法論には2つのアプローチがあると私は思っています。
1つは「趣味的アプローチ」。
楽しみながら、つまみ食いのように浅く広く接する、誰もが無意識のうちに日常的に行っている方法論です。
もう1つは「学習的アプローチ」。
文字通り勉強のつもりで体系的に学ぶ、少々面倒な方法論といえるでしょう。
決して後者の方が上ということではありませんが、本当に「教養」を得ようと思うならば「学習的アプローチ」なくしては有り得ません。
例えばboxingを見るのが好きだという人の場合。単に「趣味的アプローチ」のみで、話題の世界戦くらいしか見ないのならば、現在のK-1(格闘ショー)ファンと何も変わりません。単なるストレス解消が目的になっているだけでしょう。だからKOシーンだけを期待するような浅薄さしかないのです。
しかし「学習的アプローチ」によってboxingの歴史やテクニックの発展過程、いろんな選手の戦い方を学び、可能な限り「選手の意識」に近づこうとするならば、自然とboxingが本来持っている格技スポーツとしての素晴らしさや、逆に問題点などが理解できてくるに違いありません。
もちろん「趣味的アプローチ」あってこそ、様々なことに興味を持てるのは事実です。「趣味的アプローチ」を否定してはいけない理由もそこにあります。「面白い」という感情的な興味を抱かずに、最初に「学習的アプローチ」をするほど苦痛なことはありません。
本来ならば「面白い」かもしれない数学や化学などに私たちが拒否感を抱くのも、学校で「授業」として接することを強いられたことの影響だと私は思っています。もし、数学を最初に「パズルだよ」なんて感じで勧められたならば、きっと数学に対する認識も変わったでしょう。
ただ、最近の日本の若者は何に対しても「趣味的アプローチ」しかできない連中が多すぎるような気がしてなりません。これは極めて問題だと私は思っています。
だから日本の音楽界も企業の広告塔、業界の消耗品に成り下がってしまいました。海外のメディアからは「現在、日本ほど音楽のレベルが低い国はない、過半数のポップスはパクリだ」と揶揄され軽蔑される状況に陥ってしまったのです。
小説などの文学も、まずメディアによる話題性ありきという現象が当たり前になってしまいました。「メディアミックス」といわれる企業とのタイアップあってこそ売れる現実。作家がいつしかタレントになってTVで茶番を演じる国は日本ぐらいでしょう。
私はコメンテーターなどと持て囃されてTVによく顔を出している物書きやジャーナリストに対して否定的です。勿論、櫻井よしこさんのようなしっかりとした主義主張を明言される人もいることは否定しませんが(私は櫻井さんを尊敬しています)。
「吉田拓郎の声が嫌い」だから吉田拓郎さんの歌は聴かないという人の気持ちは分かります。漫画も、漫画家のタッチが嫌いという理由だけで、読まないことの十分な理由になるでしょう。
しかし、私は矢沢永吉さんを「嫌い!」と私の前で公言する人間には食い下がります。声が嫌い、ファッションが嫌い、偉そうなところが嫌い…。
「なるほどね」
そういった主張ならば受け入れますし、それ以上、私は突っ込みません。しかし矢沢さんの「音楽性」自体を批判するならば、私が納得する説明を要求します。論理的に説明できず、最終的に感情論で終わってしまうならば、論理破綻ということで謝罪を要求します。
また、そういう面倒が厭なので、私は矢沢さんの歌を聴けと他人には勧めないのです。
最近の若者の多くは実に浅薄な感情だけでものの好き嫌いを口にする傾向があります。器量が狭く、何事も<感情>という自分の殻の中だけで解決してしまうのが短所のような気がします。
ものの好き嫌いを主張するのは大切なことだと思います。しかし、その理由が単なる感情や噂、ある有名人の言葉のみに依ってしまうのは極めて危険なことです。ただ外見やイメージだけで好き嫌いを判断すると、とんでもない陥穽にはまってしまいます。それを「偏見」というのです。
「K・KOJIMA」という人間を直接知ることもなく、私の著書も文章も満足に読んだことのない人が、根拠のない噂やイメージだけであることないこと悪口をいう…Netの世界では、その傾向が特に高いように感じます。
もちろん、Net愛好家の全てがそうだとは思いません。Netによって私を知り、今では親しい付き合いをしている人もたくさんいます。
もう20年以上も昔の話です。
私は私なりに音楽に対して一家言を持っていました。しかし友人に散々「オマエの聴いてるのは商業ロックなんだよ。そんなの聴いているから耳が腐るんだ」などと罵倒されました。でも私は怒りませんでした。彼が私以上に音楽に通暁していることを知っていたからです。逆に、私は彼の言葉から音楽の在り方を学んだと思っています。
昔々のガールフレンドからも、「私は矢沢永吉の〜が正統派ロックからはみ出しているし、彼の〜という点に疑問があるから好きじゃない」と正面から否定されました。
しかし、彼女なりの理屈が通っているので私は反論をしませんでした。第一、彼女がそこまで論理的に矢沢批判ができるのは相当、矢沢さんの楽曲を聴き込んでなければいえないことが分かっていたからです。
正直いえば、感情の部分で彼女の主張を何もかも受け入れられた訳ではありません。それでも、音楽に対する「学習的アプローチ」という意味においてはとても勉強になった記憶があります。
音楽も、文学もスポーツ(見る側としての)も、最初は「趣味的アプローチ」で一向に構いません。しかし、それだけで楽してる人間には、絶対に本物は理解できません。
「学習的アプローチ」ができない人間には、ものの本質を把握できないし、本当の楽しみ方もできない…それが私の信念です。
(了)
だから私は絶対に矢沢永吉さんの楽曲を「聴け!」とは如何に親しい友人にもいいません。「矢沢さんは最高なんよ」とはいいますが…。
ただし例外はあります。
例えば仕事絡みならば好き嫌いの問題ではなく、「仕事に必要だから○○を読め!」のひとことのみ。勿論、絶対命令です。
また、例えばその人がロックミュージックが好きで海外のものなど色々なミュージシャンの楽曲をある程度は聴き込んでいることを知っている場合。私から見て、その彼がどうも「浅いな」と思ったら、私は「これを聴いてみたら」と勧めます。
文学・小説も同様です。日本の低レベルな推理小説ではあっても、それなりに数を読んでいる人には「海外にはこんな素晴らしい小説があるから読んだらいいよ」といいます。
一般に「教養」を身に付ける為の方法論には2つのアプローチがあると私は思っています。
1つは「趣味的アプローチ」。
楽しみながら、つまみ食いのように浅く広く接する、誰もが無意識のうちに日常的に行っている方法論です。
もう1つは「学習的アプローチ」。
文字通り勉強のつもりで体系的に学ぶ、少々面倒な方法論といえるでしょう。
決して後者の方が上ということではありませんが、本当に「教養」を得ようと思うならば「学習的アプローチ」なくしては有り得ません。
例えばboxingを見るのが好きだという人の場合。単に「趣味的アプローチ」のみで、話題の世界戦くらいしか見ないのならば、現在のK-1(格闘ショー)ファンと何も変わりません。単なるストレス解消が目的になっているだけでしょう。だからKOシーンだけを期待するような浅薄さしかないのです。
しかし「学習的アプローチ」によってboxingの歴史やテクニックの発展過程、いろんな選手の戦い方を学び、可能な限り「選手の意識」に近づこうとするならば、自然とboxingが本来持っている格技スポーツとしての素晴らしさや、逆に問題点などが理解できてくるに違いありません。
もちろん「趣味的アプローチ」あってこそ、様々なことに興味を持てるのは事実です。「趣味的アプローチ」を否定してはいけない理由もそこにあります。「面白い」という感情的な興味を抱かずに、最初に「学習的アプローチ」をするほど苦痛なことはありません。
本来ならば「面白い」かもしれない数学や化学などに私たちが拒否感を抱くのも、学校で「授業」として接することを強いられたことの影響だと私は思っています。もし、数学を最初に「パズルだよ」なんて感じで勧められたならば、きっと数学に対する認識も変わったでしょう。
ただ、最近の日本の若者は何に対しても「趣味的アプローチ」しかできない連中が多すぎるような気がしてなりません。これは極めて問題だと私は思っています。
だから日本の音楽界も企業の広告塔、業界の消耗品に成り下がってしまいました。海外のメディアからは「現在、日本ほど音楽のレベルが低い国はない、過半数のポップスはパクリだ」と揶揄され軽蔑される状況に陥ってしまったのです。
小説などの文学も、まずメディアによる話題性ありきという現象が当たり前になってしまいました。「メディアミックス」といわれる企業とのタイアップあってこそ売れる現実。作家がいつしかタレントになってTVで茶番を演じる国は日本ぐらいでしょう。
私はコメンテーターなどと持て囃されてTVによく顔を出している物書きやジャーナリストに対して否定的です。勿論、櫻井よしこさんのようなしっかりとした主義主張を明言される人もいることは否定しませんが(私は櫻井さんを尊敬しています)。
「吉田拓郎の声が嫌い」だから吉田拓郎さんの歌は聴かないという人の気持ちは分かります。漫画も、漫画家のタッチが嫌いという理由だけで、読まないことの十分な理由になるでしょう。
しかし、私は矢沢永吉さんを「嫌い!」と私の前で公言する人間には食い下がります。声が嫌い、ファッションが嫌い、偉そうなところが嫌い…。
「なるほどね」
そういった主張ならば受け入れますし、それ以上、私は突っ込みません。しかし矢沢さんの「音楽性」自体を批判するならば、私が納得する説明を要求します。論理的に説明できず、最終的に感情論で終わってしまうならば、論理破綻ということで謝罪を要求します。
また、そういう面倒が厭なので、私は矢沢さんの歌を聴けと他人には勧めないのです。
最近の若者の多くは実に浅薄な感情だけでものの好き嫌いを口にする傾向があります。器量が狭く、何事も<感情>という自分の殻の中だけで解決してしまうのが短所のような気がします。
ものの好き嫌いを主張するのは大切なことだと思います。しかし、その理由が単なる感情や噂、ある有名人の言葉のみに依ってしまうのは極めて危険なことです。ただ外見やイメージだけで好き嫌いを判断すると、とんでもない陥穽にはまってしまいます。それを「偏見」というのです。
「K・KOJIMA」という人間を直接知ることもなく、私の著書も文章も満足に読んだことのない人が、根拠のない噂やイメージだけであることないこと悪口をいう…Netの世界では、その傾向が特に高いように感じます。
もちろん、Net愛好家の全てがそうだとは思いません。Netによって私を知り、今では親しい付き合いをしている人もたくさんいます。
もう20年以上も昔の話です。
私は私なりに音楽に対して一家言を持っていました。しかし友人に散々「オマエの聴いてるのは商業ロックなんだよ。そんなの聴いているから耳が腐るんだ」などと罵倒されました。でも私は怒りませんでした。彼が私以上に音楽に通暁していることを知っていたからです。逆に、私は彼の言葉から音楽の在り方を学んだと思っています。
昔々のガールフレンドからも、「私は矢沢永吉の〜が正統派ロックからはみ出しているし、彼の〜という点に疑問があるから好きじゃない」と正面から否定されました。
しかし、彼女なりの理屈が通っているので私は反論をしませんでした。第一、彼女がそこまで論理的に矢沢批判ができるのは相当、矢沢さんの楽曲を聴き込んでなければいえないことが分かっていたからです。
正直いえば、感情の部分で彼女の主張を何もかも受け入れられた訳ではありません。それでも、音楽に対する「学習的アプローチ」という意味においてはとても勉強になった記憶があります。
音楽も、文学もスポーツ(見る側としての)も、最初は「趣味的アプローチ」で一向に構いません。しかし、それだけで楽してる人間には、絶対に本物は理解できません。
「学習的アプローチ」ができない人間には、ものの本質を把握できないし、本当の楽しみ方もできない…それが私の信念です。
(了)