2008/11/1
「ローマ銀行そのぼろ儲けの秘密・その1」
このブログで時々パスをかけますのは本名とメアドを頂いた方を優先しております。いずれ永久にパス化する予定です。jameslee@hotmail.co.jp までどうぞ。(どうしてもという方はHNでも構いません)。
初めての方は左の目次に従って最初からお読み下さい。なお本ブログでアンダーラインの箇所はクリックすると別の記事が読めるようになっております。
Ignatius LIEOLA before POPE PaulV in 1540.
↑巨大カルトバチカンとオプス・デイ研究1〜10
そしてローマ銀行はやがて米国の第三の銀行へと姿を変えてゆく
FRBの株主を意図的に破綻させるまえにロスチャイルドはリーマンのサブプライムを売り浴びせていた。本当の地獄はこれから始まる。
それはFEDERAL RESERVE BANKという私物化されたものになる。
どのようにして連邦準備制度は作られたのか。
また世界は確実にNew World Orderに向かっている長い歴史がある。
33位階のグランドマスターであったレオ・ザガミ(37)によると、イルミナティは、戦争、テロ、そして経済的崩壊にかこつけて、2012年までに西側をナチ化し、神を信仰する者たちをすべて迫害する計画をしている。イルミナティとはLUCIFERを崇拝する悪魔主義者のことです。カトリックのDouay Bibleのラテン語訳ではこのLUCIFERが登場する。
DouayーRheims Bible。モルモン教と同様表紙は黒である。
それはデタラメではなくFEMA・CAMPというアウシュビッツを2500倍にした規模で間もなく実行段階に入ろうとしている現実から目を背けてはならない。
併せて拙稿「本当の敵」参照ください。
いかにしてローマ銀行が無から連邦ドルを作りあげたのか連載になります。イグナチオ・デ・ロヨラは1534年8月15日(なぜか日本の終戦日)にイエズス会を創設した初代総長ですがローマ銀行の創設に関わった中心人物であることはあまり知られていない。それが米国FRB創設に繋がってゆくことも。ロヨラに仕えていたフランシスコ・ザビエルは1549年8月15日カトリックの聖被昇天の祝日に来日した。
ロヨラはほぼ破綻寸前のローマ銀行を正式に引き継いだのである。ロヨラがローマに現れた当時ローマ銀行は神という言葉のもと(神は高利貸しを禁じた)数百万の口座から現金が引き出されていた。チャールズ五世の率いる帝国主義者たちは1527年ローマ市に乱入し殆どの富を奪い略奪した。時の枢機卿(ローマ法王の顧問)でさえ拷問し彼らの財宝の隠し場所を聞きだし洗いざらい略奪する始末であった。スペイン人は最も残虐であり,ローマの破壊に当たってはドイツ人は充分過ぎるくらいの悪党で,イタリア人はそれ以上。しかしスペイン人以上の悪党はいなかった。
1527年のチャールズ五世率いる侵略者に対抗するためローマ市はスイス人傭兵で守られ、その結果,正式に銀行を守るよう命じられた。銀行は金銀を1527年のような略奪が起きた場合を想定しスイスに金銀財宝を保管することになる。ローマ法王パウロ三世によってイエズス会が設立されると全てのヨーロッパでローマカトリック大学が解放され,また,イエズス会はローマ法王より白紙の委任状をとり大学の赤字を防ぐべく優れたブレーンをかき集めた。新しく組織されたイエズス会は教育の分野ではやや乱暴であったがロヨラに先導された改革は全ての学校,大学に広く行き渡って行った。
そしてローマ銀行は英国に支店をオープンする。再組織されたこの銀行は間もなくヨーロッパ各所に支店が出されることになる。1587年にベニス,1609年にアムステルダムにWisselBankが,1619年にハンブルグ,1621年にニュールンベルグ,1635年ロッテルダム,そして1694年ついにBank of England(現英国中央銀行)が創設されることになる。エドワード六世(1547〜1553)の時代高利貸は英国議会で非合法化されドアは閉ざされローマ銀行は英国に支店を開くことが出来なかった。英国議会がその犯罪的高利貸しの形態を許さなかったためである。
反高利貸し法が1571年に施行されたにもかかわらず金貸しは続けられていた。当時日の出の勢いであったカルバン主義クリスチャンの間でははっきりとした高利貸しについての聖書の教えはまだ決まっていなかった。これが1694年英国銀行開設の発端となった。英国銀行は1694年7月27日120万ポンドの私設共同持ち株会社として設立された。そして中央銀行としての機能を強化して行くが貸し出し金利は複利式で増えてゆくカラクリで貸し出した金が再度支払われることはなく貸し金業者(英国銀行)は政府と人民を完全にコントロールすることが出来た。
チャールス五世
英国はアメリカの植民市の大部分を所有していたが金貸し業者の貪欲さによってすべてを失うことになる。初期の植民者は高利貸しや金貸しを嫌うプロテスタントであった。(注:メイフラワー号に乗ってやってきたピルグリム・ファーザーたち)彼らの大部分は貧しくヨーロッパから持ち出した金はごくわずかであった。金銀の鉱山がないため各植民地は金利のないペーパーノートを発行した。(注:今で言う地域通貨)英国銀行の貪欲な金貸したちは各植民地に目を向けた。彼らアメリカ人を高利貸しで破滅させる試みは1765年であった。それはSTAMP ACTと呼ばれるものである。各種税の支払いのため銀行から高利で金を借りなければならなかった。間もなく彼らは貧しくなり貧困状態から窮乏状態となってゆく。ベンジャミンフランクリンは言った。「戦争はあらゆる戦争がそうであるように金のために戦われ,そして高利とは関係のない彼ら自身の通貨を自由に発行できる権利のために英国銀行から独立した」と
しかし独立戦争の後,1791年に米国初の銀行設立免許を与えるまで強い影響力を留めていた。この免許は20年続き1811年に免許切れとなった。英国議会は免許の再発行を拒み1812年英国銀行によって戦争が宣言された。
英国銀行初代創設者ウイリアム。パターソン(1658〜1719)
Andrew Jacksonは1812年の戦争のヒーローであった。彼は歪んだ金貸したちに勝利した。そして米国の第二銀行法に反対し見事約束を果たしたが1836年不自然な死を遂げた。
そして人々は1861年に南北戦争が始まるまで英国銀行(ローマ銀行)から開放されることになる。
南北戦争(Civil War)の戦費を捻出するため時の大統領アブラハム・リンカーンはロスチャイルドたち高利貸しに接近する。彼らは28%の高利を要求するがリンカーンはこれを拒否。しかし高利貸したちは4.5億ドルの政府保証つき,Greenbackまたは,US NOTEを発行することになる。リンカーンは二度目の支払いを終えると彼ら悪徳高利貸しに対しドアを閉めることになる。1865年4月15日リンカーンは金貸しに雇われたJohn Wikes Boothの凶弾に倒れてしまう結果になる。
このHPを最後まで読めた人は奇人・変人?
南北戦争
左上: ストーンズ川でのローズクランス、テネシー州; 右上: ゲティスバーグでの連合国軍(南軍)の捕虜; 下: ハインドマン砦の戦い、アーカンソー州
戦争:
年月日:1861年4月12日 – 1865年4月9日
場所:主にアメリカ合衆国南部
結果:北部の勝利、レコンストラクション、奴隷開放
交戦勢力
アメリカ合衆国
アメリカ連合国
指揮官
エイブラハム・リンカーン
ユリシーズ・グラント ジェファーソン・デイヴィス
ロバート・E・リー
戦力
220万0,000 106万4,000
損害
戦死 11万0,000
戦病死 36万0,000
戦傷 27万5,200 戦死 9万3,000
戦病死 25万8,000
戦傷 13万7,000以上
青が北部(アメリカ合衆国)諸州、赤が南部(アメリカ連合国)諸州。水色は合衆国に留まった奴隷州。南北戦争(なんぼくせんそう、American Civil War, 1861年-1865年)は、アメリカ合衆国に起こった内戦である。奴隷制存続を主張するアメリカ南部諸州のうち11州が合衆国を脱退、アメリカ連合国を結成し、合衆国にとどまった北部(23州)との間で戦争となった。
なお英語の civil war は「内戦」を意味する語だが、アメリカでは独立後に内戦があったのはこの時だけなので、通常はこれに定冠詞をつけ大文字にして The Civil War と表記する。アメリカ以外の国では自国の内戦と区別するため国名を冠して American Civil War と表記する。
当時、南部と北部との経済・社会・政治的な相違が拡大していた。南部では農業中心のプランテーション経済が盛んで特に綿花をヨーロッパに輸出していた。プランテーション経済は黒人労働奴隷により支えられていた。そして、農園所有者が実質的に南部を支配していた。南部の綿花栽培の急速な発展は、英国綿工業の発展に伴って増大した綿花需要に負うもので、英国を中心とした自由貿易圏に属することが南部の利益だったため、南部は自由貿易を望んでいた。
それに比べ、北部では米英戦争(1812~14年)による英国工業製品の途絶でかえって急速な工業化が進展しており、新たな流動的労働力を必要とし奴隷制とは相容れなかった。また、欧州製の工業製品よりも競争力を優位に保つために保護貿易が求められていた。その結果、奴隷制に対する態度と貿易に対する態度の両方で意見を異にしていた北部の自由州と南部の奴隷州の対立が一層激化した。しかもこの対立はアメリカ合衆国が思わぬ方法でその領土を拡張してしまった事からより深刻になってしまう。
それは財政難に陥ったフランス(ナポレオン1世)からルイジアナテリトリーを購入した事とメキシコから「独立」したテキサスとカルフォニアをアメリカ合衆国に加えた事によって[1]今までなんとか上院で保たれていた自由州派(北部)と奴隷州派(南部)の均衡が破られる事となってしまったのだ。
そこで、カリフォルニア州を自由州として、ニューメキシコ、ユタについては州に昇格する際に住民自らが奴隷州か自由州かを決定すること(人民主権)となった。
この協定によって、南部は奴隷州が少数派となること(すなわち上院議員の数が自由州側の方が多くなる)に危機感を抱いた。ちなみに開戦の時点で北部の人口は約2千2百万、南部の人口は約9百万だったとされる。しかも南部のこの人口は約4百万もいた奴隷の人口を含めての数字である。
開戦
1860年11月の大統領選挙では奴隷制が争点のひとつになり、奴隷制の拡大に反対していた共和党のエイブラハム・リンカーンが当選した。この時点では、奴隷は個人の私有財産であることもあり、リンカーン自身は奴隷制廃止を宣言していなかったが、南部では不安が広がった[2]。
1860年12月にはサウスカロライナ州が早くも連邦からの脱退を宣言。翌1861年2月までにミシシッピ州、フロリダ州、アラバマ州、ジョージア州、ルイジアナ州、テキサス州も連邦からの脱退を宣言した。2月4日には7州で参加したアメリカ連合国を設立。ジェファーソン・デイヴィスが暫定大統領に指名された(同年11月に行われた選挙で正式に当選している)。
3月4日にリンカーンが大統領に就任すると、4月12日に南軍が連邦のサムター要塞を砲撃して戦端が開かれた(サムター要塞の戦い)。5月までにバージニア州、アーカンソー州、テネシー州、ノースカロライナ州が連合国に合流した。ただし奴隷州でもデラウェア州、ケンタッキー州、メリーランド州、ミズーリ州、それにバージニア州の西部(後にバージニア州から「独立」してウェストバージニア州となる)は合衆国に残った。合衆国に残ったこれらの奴隷州への対応にリンカーン大統領は非常に苦慮する事となる[3]。
4月19日にはリンカーン大統領が南部海岸線の海上封鎖を宣言した。この封鎖は大西洋岸からメキシコ湾岸まで徐々に広がり、南部経済を締め付けていった。経済学者によっては、海上封鎖はアメリカ海軍の勝利であり、戦争そのもに勝利する主要要因となったとしている[4]。
開戦時の状況
南北戦争が勃発(ぼっぱつ)した時点では北部も南部も戦争の準備は全くできていなかった。合衆国陸軍に所属していた将兵は1万6000人程度であり、武器も米墨戦争時の旧式のものを使用しているだけであった。大半の将兵は合衆国軍に残ったが、士官の内313名が職を辞して南部連合軍に加わってしまった。この中には後に南軍の将軍として有名になるロバート・E・リーやストーンウォール・ジャクソン、ジョセフ・ジョンストン、それにP・G・T・ボーリガードなども加わっており、南北戦争を長引かせるひとつの要因となった[5]。また、合衆国海軍も将兵7,600名と船舶42隻程度しか保有していなかった。しかしそれに対して南部は正規軍と呼べるような兵力は保有しておらず、海軍も存在しなかった。
開戦時に北部が優位であった点:
開戦の時点で北部には既存の政府組織が存在していたのに対して、南部は一から政府組織を作り上げねばならなかった。
南部と比較して中央集権的な政治体制であったため、連邦政府の意思決定がスムーズであった。南部はそれぞれの所属州の発言力が強かったため、南部連合の方針を決める際にディヴィス大統領は非常に苦慮することとなった。
上記のように北部と南部の間には大きな人口差があり、そのため兵役適齢(当初は18歳から35歳とされていた)とされる男性の人口も大きな差があった。北部のそれは約400万前後だったのに対し、南部の兵役適齢者は100万強だった。南部では後にこの枠が17歳から45歳までに拡大され、最終的に上限は50歳まで引き上げられた。しかしそれでも兵の成り手が足りず、敗戦間際には奴隷から志願者を募ろうという案まで提出された。
北部では上記のように工業面が南部より発達していた。鉄道の長さは南部の2倍以上あった。この鉄道を利用し、北部は食料や武器を兵たちに受け渡すことができた。
開戦時に南部が優位であった点:
人的資源の量では劣っていたが、多くの優秀な指揮官が合衆国軍を去って南部連合に合流した。そのため北部では将軍に任命するに足る人物が不足することとなった。
奴隷制を維持し「南部の生き方」を守る、侵攻してくる北軍から郷土を守るといった明確な目的があるため士気が高かった。一方で北部の目標は「合衆国を守る(=南部を連邦に連れ戻す)」という曖昧(あいまい)なものであり、南部と比較して戦争に対する温度差も大きかった(「放っておけばそのうち戻ってくる」と思っている者や「離反したいならさせておけば良い」と思っている者が少なからず居た)。
東部戦線
ゲティスバーグの戦い詳細は東部戦線 (南北戦争)を参照
当初リンカーン大統領が動員した戦力は7万5000人、兵役期間は3か月と短期間で、早期に決着がつくと考えていたと言われている。しかし1861年7月の北軍のバージニアへの侵攻は、第一次ブルランの戦い(第一次マナサスの戦い, 7月21日)での南軍の頑強な抵抗の前に頓挫(とんざ)させられ、戦争の長期化は避けられない情勢となった。
1862年3月、ジョージ・マクレラン率いるポトマック軍がリッチモンドの南東に上陸し、5月にはリッチモンドに肉薄するところまで侵攻した。しかし七日間の戦い(6月25日-7月1日)で、南軍のロバート・E・リー率いる北バージニア軍に大損害を与えたものの、現有戦力での攻略は無理と見て退却した。連動してジョン・ポープ率いるバージニア軍[6]もバージニアへ侵攻するが、第二次ブルランの戦い(8月28日-8月30日)でリーに敗北した。戦勝の勢いでリーはメリーランドへの侵攻を試みるが、アンティータムの戦い(9月17日)の結果、後退を強いられた。
戦局がもちなおしたのを見た大統領リンカーンは1862年9月、奴隷解放宣言を発した(本宣言は翌年1月)。このころからリンカーンは奴隷制に対する戦いを大義名分として前面に押し出すようになり、その成果もあって連合国がイギリスやフランスから援助を受けようとする努力は失敗に終わった。
1863年、リーは再度の北部侵攻に出たが、ゲティスバーグの戦い(7月1日-7月3日)の末、再び後退を強いられた。この戦いでの戦没者のための国立墓地献納式典においてリンカーン大統領が行った演説がゲティスバーグ演説として知られる有名な演説である。
西部戦線
西部戦線では北軍が優勢に戦いを進めた。北軍はミシシッピ川沿いに南下し、1862年5月18日には南部最大の都市ニューオーリンズを陥落させた。南軍のケンタッキー州侵攻作戦はペリービルの戦い(10月8日)とストーンズリバーの戦い(12月31日-1863年1月2日)によって失敗した。
西部戦線で重要な役割を果たしたのがテネシー軍を率いた北軍のユリシーズ・グラントであった。グラントはヴィックスバーグの戦い(5月18日-7月4日)で同要塞を攻略してミシシッピ川の支配権を確保し、チャタヌーガの戦い(11月23日-11月25日)の勝利で南部の中心地帯への侵攻路を開いた。
戦争の終結
1864年3月、グラントが北軍総司令官に就任した。南軍の一部隊はこの夏には連邦首都ワシントンD.C.にまで迫ったが、戦争が長期化するにつれて、装備、人口、工業力など総合力に優れた北軍が優勢に立つようになっていた。またグラントは今までの将軍とは違い会戦で敗北しても引き上げるような事はせず、そのまま敵地にとどまって北バージニア軍と戦い続けた。さらに、西部からはウィリアム・シャーマンが大西洋に向かって海への進軍を開始し、9月にはアトランタを陥落させた。
1865年4月3日には南部の首都リッチモンドが陥落した。9日にはリーが降伏し、南北戦争は事実上終了した。
お互いにあらゆる国力を投入したことからこの南北戦争は世界で最初の総力戦のひとつだった。最終的な動員兵力は北軍が156万人、南軍が90万人[7]に達した。両軍合わせて62万人の死者を出し、国土を荒廃させることとなった。
「奴隷解放宣言」により南部の州で奴隷の扱いを受けていた黒人は解放された。しかし南部における黒人に対する差別や偏見はその後も潜在的に残り、KKKなどの活動を生み出す土壌となった。ちなみに南部では今でも南北戦争は「北部による侵略戦争」(The War of Northern Agression:アメリカにおける南北戦争の別名)であったと主張する者もいる。
南北戦争の意味
南北戦争については次のような対立軸が考えられる。
奴隷制を否定する北部 vs. 奴隷制を肯定する南部
保護貿易を求める北部 vs. 自由貿易を求める南部
このように、南北は体制や経済構造において別の国とも言えるほどに違う状況にあった。この対立軸は、19世紀におけるイギリスを中心とした世界経済体制形成の過程で起きた一連の政変・戦争の一環である。この戦争の直前には日本へ黒船を派遣しており、欧州から始まった産業革命の波は東西から東アジアに達していた。農業国としてイギリスから独立して100年が経ち、工業経済化を進める北部と原料供給地としての農業経済を継続したい南部が一国としてまとまることが難しくなったために戦争が起きた。
なお、当初北部はまともな戦い方で戦争で南部に勝てるはずがないと見込んでいた。接近戦となると武器に優れ、強靭な肉体を持つ黒人奴隷と戦うことを想定すると勝てる見込みはないとしていたのである。そこで北部はしきりに奴隷解放を謳い上げ、黒人の戦争の不参加を促すことに成功した。
南部は独立を求めた。その理由は、奴隷制の維持である。独立しないと、奴隷制廃止の州がどんどん増えて、奴隷制が消滅してしまう。モンロー主義を掲げ、欧州による経済支配を恐れた北部は、強い主権国家を標榜しており、南部の独立は認めがたかった。また、当時のアラスカはロシア領であり、数年前にクリミア戦争で南下政策が食い止められたばかりであった。合衆国としての強い基盤を築くためには独立を求める南部と対立することが避けられない情勢となった。サムター要塞の戦いをきっかけとして、先鋭化した対立環境は火を噴くこととなった。
結果的に北部が勝利し、合衆国は国民国家として発展を続けることになる。終戦後にアラスカは買収され、北アメリカ大陸は世界的にも安定した情勢を保つことになり移民流入の増大も国力を伸張させた。列強の一つとなった合衆国は、欧州に対する相対的な国力増大を背景に中南米や東アジアにおいて国際的な活動を展開することとなった。
脚注
^ 米墨戦争の結果アメリカ合衆国はメキシコ割譲地と呼ばれる広大な領土を収得した。
^ リンカーンは新たに合衆国に加わる州に奴隷制を広めるのに反対だったため、南部は徐々に自由州が増えて議会でのバランスが崩れる事によって最終的に奴隷制が廃止される事を怖れたのだろう。
^ 合衆国の首都であるワシントンD.C.はちょうどバージニア州とメリーランド州の間にあるため、メリーランド州が南部連合国に加わった場合は首都が北部州から完全に切り離される危険性があった。
^ Elekund, R.B., Jackson J.D., and Thornton M., "The 'Unintended Consequences' of Confederate Trade Legislation." Eastern Economic Journal, Spring 2004
^ 北部に残った士官より南部に去った士官たちの方が全体的に質が高かったと言われている。
^ 軍の名称としては南軍の北バージニア軍と大変似ていて紛らわしいのでこの戦いの後に廃止されている。ただしさらに紛らわしいテネシー軍の呼称はなぜか両軍で使われ続けた。ちなみに英語で書いた場合北部のはArmy of the Tennesseeで南部のはArmy of Tennesseeとなる。北部のテネシー軍はテネシー川にちなんで名づけられており、正確に言えばテネシー川(流域)軍となる。南軍の場合はテネシー州にちなんだネーミングになっており、正確にはテネシー州(の)軍、となる。
^ 上記のように南部で徴兵適齢期に達していた市民は約100万人だった。つまり南部は動員可能な兵力をほとんど全て徴集したと言う事が分かる。<Wikiより>
大学で英文学を学んだ人でなくても南北戦争の背後に今で言う「国際金融資本家」が戦争で金儲けをする構図が理解できるのではないでしょうか。その構図は今でも全く変っていないのです。
アメリカ合衆国の国歌。原文は英語であり、下記は非公式訳。
O say, can you see, by the dawn's early light,
What so proudly we hailed at the twilight's last gleaming?
Whose broad stripes and bright stars, through the perilous fight,
O'er the ramparts we watched, were so gallantly streaming!
And the rockets' red glare, the bombs bursting in air,
Gave proof through the night that our flag was still there:
O say, does that star-spangled banner yet wave
O'er the land of the free and the home of the brave?
On the shore, dimly seen through the mists of the deep,
Where the foe's haughty host in dread silence reposes,
What is that which the breeze, o'er the towering steep,
As it fitfully blows, half conceals, half discloses?
Now it catches the gleam of the morning's first beam,
In full glory reflected now shines on the stream:
'Tis the star-spangled banner! O long may it wave
O'er the land of the free and the home of the brave!
And where is that band who so vauntingly swore
That the havoc of war and the battle's confusion
A home and a country should leave us no more?
Their blood has washed out their foul footsteps' pollution.
No refuge could save the hireling and slave
From the terror of flight, or the gloom of the grave:
And the star-spangled banner in triumph doth wave
O'er the land of the free and the home of the brave!
O thus be it ever, when freemen shall stand
Between their loved home and the war's desolation!
Blest with victory and peace, may the Heaven-rescued land
Praise the Power that hath made and preserved us a nation.
Then conquer we must, when our cause it is just,
And this be our motto: “In God is our trust.”
And the star-spangled banner in triumph shall wave
O'er the land of the free and the home of the brave!
1.
おお、見ゆるや 夜明けの淡き光を受け
先の夕暮れ 陽が落ちる時 我等が歓呼しもの
其は太き縞と輝く星なり 危き戦の間
塁壁の上に見たり 勇壮に翻りし 彼の旗/
狼煙の赤き炎立ち 砲音宙に轟く中
耐え抜き 旗は猶其処に在り
おお、星散りばめたる旗は 今猶棚引くや
自由なる大地 勇者の故郷に
2.
岸辺の霧 其の濃く深き帷の中
傲慢なる敵の軍勢 畏れ息潜めたる
彼は何ぞ 断崖聳ゆる向かう
時折吹く微風に 隠れ 見ゆるもの/
今正に 朝の新しき光を一筋受け
大いに輝き 風を受けはためく
其は星散りばめたる旗よ 永久に棚引け
自由なる大地 勇者の故郷に
3.
そして斯も得意げに宣誓せし彼の一塊は何処ぞ
戦いの浪費と戦争の乱雑が
故郷も国家も我等に最早残さじと/
彼らの血は彼らの汚れし跡の穢れを洗注しき
小屋は彼らの雇員と奴隷制度を助けまじき
潰走の恐れと死の暗がりから
其は星散りばめたる旗よ 永久に棚引け
自由なる大地 勇者の故郷に
4.
おお、斯く不断にあらん事を
自由世界が彼らの愛情される家と戦ひの
浪費の間に立たう時/
勝ちと泰平で恩恵され 天に助されし地所が
我等に状態を創り擁護したる力を
誉めん事を
我等は破るべし
其が正に我等の原理なる時は
そして此が我等の金言ならん事を
「造物主通り我等の信任あり」
其は星散りばめたる旗よ 永久に棚引け
自由なる大地 勇者の故郷に
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