1899年の大韓全図の鬱陵島の地図を見ていて、ふと疑問に思いました。
なぜ、南側に4つも小島が有るのだろうか・・・・・
N.W N N.E
N S.W S S.E ↑
韓国人は、この小さい島がLiancourt Rkと苦し紛れに主張しているのをどこかで見たのですが、どうも納得できません。
李奎遠『啓本草』5月9日条の部分には、次のような記述があります。
「
又有一浦 名船板邱尾 南邊洋中 有二小島 形如臥牛 而左右回旋 勢若相抱 一曰竹島 一曰島項 只有叢竹而已 日暮 下陸」
「”船板邱尾 という浜があり、
(本来は、島の東の洋上に有る二島ですが、)
牛が伏せた形をした小島である島項(観音島)と、竹が茂る竹島(Jukdo)が
”南”の洋上に有る」
という記述はやはりおかしい。
1882年の李の
鬱陵島外図を見てみると、この地図では、
船板邱尾の東側にこの二つの島がかかれております。(船板邱尾は下の図の、東(右下)の方向の、赤い印っぽい岩の左の付近・拡大して見て下さい。)
この地図を、前述の『啓本草』5月9日条の条の記述に当て嵌めて、(二島が南に有るという前提で)
「鬱陵島外図」を右方向に90度反転させてみると、
↑
S.W(N.W)
West(N)
N.W(N.E)
↑N:(→N) S.W(S.E)
South(East)
S.E(N.E)
上:赤字は90°回転させた時の方位。括弧内(黒)は本当の方位
なんと、1899年の大韓全図の変な鬱陵島の地図とほぼ同じ構図になります。
(或いは、大韓全図を左方向に90°向きを変えてみるとわかりやすい。)
間違った地図の構図では、実際の東側が南に当たるのですが、
船板邱尾 の南の位置に”島項(観音島)と竹島(Jukdo)があります。
大韓全図は、方位が正しく記載されている李の「鬱陵島外図」ではなく、『啓本草』5月9日条の間違った方位の記述を重視して作られたと思われます。
之に加え、1899年の『初等大韓地誌』における于山島の記述
『于山嶋X其東南X在』是も、『啓本草』5月9日条の間違った方位の記述と同様の地図の見方で方位を間違って書いてしまいました。(実際は于山島=Jukdoは北東)
要するに、この東南に在る島がLiancourt Rocksだと苦し紛れに言うのが唯一の逃げ道でしたが、
しかし、前述の通り、この東南に在る于山嶋は、JUKDOであることがわかりました。この事は、大韓帝国の東端が 東経130度35分であり、その東端が竹島Jukdoであるという、大韓地誌の記述と、なんら矛盾しません!
逆に大韓全図の図を左に90°向きを変えてみると
李の鬱陵島外図の正しい方位(上が北)および小島の位置が一致する・・・
要するに、大韓帝国は、ろくに方位も把握できず、
Liancourt Rocksどころか、鬱陵島の地図でさえ正確に描けなかったのです。
UsandoがLiancourt Rocksで無いというのは、Mr.Gerryの”所謂于山島” ”海長竹”の地図、
及び、外務省通商局編纂 通商彙纂 (1902年)
・付録 韓国鬱陵島事情における、「ヲツセミ島ハ臥達里ノ前洋ニ在リ本邦人之ヲ竹島と俗称ス周回三拾丁余「タブ」女竹繁スト雖トモ飲料水ナキヲ以テ移住スルモノナシト云フ」で、とうに実証されておりますが、
それと同様に、この大韓全図でも、于山島がLiancourt Rocksだという苦し紛れの言い訳は、破綻しました。しかし、其の後 1903年頃から本格的に日本人が再び鬱陵島にやってきた事により、水産技術、造船技術に加え、鬱陵島の地形も正しく認識できるようになりました。
その結果、
1907年の『大韓新地誌』の鬱陵島の拡大図では鬱陵島とJukdoの地形と位置が正しく書かれ、そのうえ、
朝鮮側の地図から于山島の名前は消滅します。*1907年の大韓新地誌の大韓全図の全図の鬱陵島拡大図は以下から引用。ここにもLiancourt Rk.は記載されておりません。http://ameblo.jp/nidanosuke/theme-10003268652.html
既出でしたらすみません。
ちなみに、航海士でもない限り、洋上で方位を誤解する事はたまにある事です。
わたしは以前Thailandの最南端の小島の地図を趣味で描いていたことがあります。そのとき方位を間違えてボートの燃料が尽きて、Andaman seaの上を一晩、潮流に任せるがままに漂流して半泣き状態だった経験があります。