ごあいさつ 参加プロジェクト プロジェクト概要 派遣者リスト
関連文献集 将来に向けて 派遣専門家からの寄稿 メール

 赴任した方々からの寄稿

庵原 俊昭 ガーナとの出会いから
伊藤 正寛 「風に立つライオン」
乾 拓郎 ザンビア赴任に思うこと
荒井祥二朗 わたしとガーナ
鳥越貞義 ガーナの思い出
野村豊樹 ザンビア共和国派遣の思い出
酒徳浩之 アフリカ国際協力について
神谷敏也 野口英世
中野貴司 私にとっての国際医療協力
水谷健一 国際協力におけるもう一つの医師の役割について
竹村統成 今思う。但馬の郷から。
谷口清州 あれもこれもアフリカつながり
堀 浩樹 人づくりのためのアフリカ医療協力
新藤啓司 タンザニア母子保健プロジェクトに参加して
松林信幸 櫻井先生からいただいたもの
一見良司 タンザニア派遣の経験から
足立 基 タンザニアで学んだこと
西森久史 アフリカで魅せられたこと


ガーナとの出会いから   庵原俊昭

 三重大学小児科とガーナとの関わりは 1983 年から始まりました。この年の 4 月に鳥越先生が国際協力事業団(JICA)の野口記念医学研究所(野口研)の長期専門家として派遣され、その後もガーナとのつなかりは長く続いています。この 16 年の間に、私はJICA の短期専門家として 2 回( 1986 年と 1995 年)、調査団団長として 1 回( 1997年 )、合計 3 回ガーナに滞在しました。10 年ひと昔と言いますが、時代の流れはガーナにも確実に及んでいます。
 1980 年代は櫻井先生が教授に就任され、アメリカ留学をする教室員が増え、同時に国際医療協力に本腰を入れた時代でした。この頃は「アフリカとアメリカは一字違いで大違い」とも言われた頃でした。私のガーナ行きは、「アメリカ留学経験者は短期間でもアフリカに行く」というコンセンサスが教室に生まれたことが始まりです。1981年から2年弱の間アメリカ留学を経験してきた私が最初にアフリカに行くことになりました。

 ガーナに旅立ったのは 1986 年の 8 月でした。1 日アムステルダムでゴッホ美術館や国立美術館を見学し、ヨーロッパの空気を十分にすった後、アクラのコトカ国際空港に向かいました。この頃のガーナはアフリカ大飢饉の影響が未だ残っており、着いた飛行場は国際空港とは名ばかりで、真っ暗の中に少数の電球がともっている状態でした。暗闇の中で、当時長期専門家として滞在していた荒井先生の姿を見つけたときは本当にひと安心しました。
 ガーナで最初に住んだところはガーナ大学の職員宿舎エリアの一角にある「ナショナルハウス」でした。この建物は野口研の建設の時に、日本の技術者が住んでいた建物をガーナ大学に寄付したもので、ナショナル住宅のプレハブ住宅です(2 DK と和式の風呂)。 先ず、この家に住んで困ったのは買物です。近くにスーパーがあるわけではなく、市場に行っても値段が表示されていなくて、どこで何をいくらで買っていいのかさっぱりわかりませんでした。荒井先生のアドバイスで車に乗ってアクラのダウンタウンで少しずつ買物をしましたが、店屋に行っても棚だけでめぼしいものがほとんどない状況でした。特に野菜や果物を買うのに本当に困りました。昼食にも困りました。この頃は、野口研にはカフェテリアと行った気の効いたものはなく、弁当を作って持参するという生活でした。毎週士曜日に荒井先生一家とヒンロンヘ中華料理を食べに行き、ホットアンドサワーのスープを味わうのが楽しみになりました。このスープはその後もガーナに行く度に味わっていますが、同じ味が続いているのに感心しています。その後、荒井先生一家が長期休暇でヨーロッパ旅行されると、荒井先生宅の留守番をかねて荒井先生宅にメイド、ドライバー、ウオッチマン付きで住みました。荒井先生宅に居候してからは、メイドのケイトが弁当を含めて3食を作ってくれましたので食事の心配から解放されました。この頃の野口研の疫学ユニットの仕事は、Dr. Binka や Sr. Assoku 女史と一緒にフェテ村でフィールドワーク(予防接種と乳幼児の成長発育調査)を行うことでした。フィールドでの仕事がないときはデスクワークですが、疫学ユニットと関係のある野口研の各ユニットを訪問するのも仕事でした。寄生虫ユニットのアイエテイ博士、細菌学のアボダジ修士、電顕ユニットのアマー修士、ケミカルパソロジーのニヤーコ修士などと友達になりました。ウイルスユニットに長期専門家で派遣されていた吉井先生が交通事故に遭われ、コレブの医学部付属病院に長期入院されていたのを、定期的にお見舞いに行ったことが今では懐かしく思い出されます。また、この頃は電話が十分に通じなく、事故を知ったのは事故後 24 時問以上たってからでした。
 1986 年 l 0 月にガーナを辞去した時には、またガーナを訪れるとは思っていませんでした。1995 年縁があり 2 回目の短期専門家としてチューリッヒ経由でコトカ国際空港に向かいました。飛行場に着いて驚いたことは、飛行場には電気が一杯に輝き明かるかったことでした。さらに驚いたことは、宿舎のゴールデンチューリップホテルに向かう途中に交通渋滞がみられたことでした。1986 年からのこの 9 年間にガーナに滞在した人達に、ガーナの発展を聞いていましたが、これほど変わっているとは思っていませんでした。翌日からの野口研への出勤も、毎日渋滞の中での行き帰りでした。スーパーヘ出かけても物は棚からあふれており、人々は活気で満ち満ちていました。しかし、変わっていなかったのは、ガーナ人のスマイルと夜間のセーフティーでした。9 年前と同じように、夜遅く一人で歩く若い女性の姿をみますと、まだまだガーナは安全だなと感心しました。野口研の方は、この 9 年間にガーナ人の Ph D や MS が増加し、研究意欲が高まっていました。友人のアマーやニヤーコは大阪やフィラデルフィアで PhD をとった後、ガーナに帰国し研究を続けていました。彼らの車もいいものに変わっていました。研究グラントも日本からだけではなく、WHO、デンマーク、イギリスなどから獲得できるようになってきていました。また、研究者達も意欲的にぺ一パーを書き、インパクト・ファクターが話題になるようになってきているのには驚きました。
 1997 年の 3 回目のガーナ訪間は本当に大変でした。調査団の団長がこんなに疲れるとは思っていませんでした。訪問中トラベラーズダイアレアになったのは、この時が始めてでした。ガーナ厚生省訪問、ガーナ大学副学長訪問、厚生省医務系技官との今後の研究打ち合せ、野口研各ユニットヘッドとの研究打ち合わせなど、ストレスフルでした。日本語でディスカッションしてもストレスに満ちている内容を英語でディスカッションするのですから、気疲れしました。副所長の Dr. ニヤーコにはいろいろと助けてもらい感謝しています。帰りの飛行機に乗ったときには本当によく眠れました。
 私がガーナと関係して 14 年目を迎えます。ガーナに 3 回、アメリカに 2 回滞在してわかったことは、「アフリカとアメリカは一字違いでも同じもの」でした。「それぞれの国にはそれぞれの生活がある」が結論です。「日本では」とか「日本人は」とか言っていては国際理解は進みません。「郷に入っては郷に従え」が実践できる人を育てることが、国際協力には大事だと思います。

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「風に立つライオン」   伊藤正寛

 私がザンビアに短期専門家として赴任したのは 1987 年のことでした。記憶はかなり薄れてしまっていますが、帰国後に当時の新鮮な印象を医学部ニユースに”海外での経験”として寄稿しましたので、ここに転載致します。その後の私と国際医療協力との関わりは再び 2 週間の短期専門家としてザンビアを訪れる機会があったこと、教室員に働きかけ国際医療協カに参加する機会を作ることに多少なりとも協力したことくらいでしょうか。また、国際医療協力に携わった方々の中には私と同じ研究グループで研究した人も多く、国際医療協力に関する話題を持つ機会もありました。
 さて、私は三重大学小児科学教室で 16 年間継続した国際医療協カの今後の発展と展開を望みます。今後の教室づくりのなかで国際的視野を持ち、国際舞台で活躍できる小児科医を育てるために国際医療協力の経験は意義があると考えます。若い時代に日本では経験できない臨床例を経験し、保健・医療についてグローバルな視野を養え、また立場や意見の異なる人としぶとく交渉することが自己の向上にもつながり、国際医療協力の経験は日本での臨床、地域医療に十分還元されると確信します。今後、三重大学で若手の研究者を育てることも重要ですが、狭い研究分野で論文業績にのみ血道をあげるような視野狭窄、自己中心的な医師にはなって頂きたくないと思います。今後、国際医療協力プロジェクトの基本理念、目的を明確にし、理念を遂行、実現するにはどうするべきかを討論し意見交換をする開かれた場を作り、教室としてのコンセンサスを持つことが必要だと思います。喜ばしいことに最近の若い医学生、看護学生に国際医療協カに関心をもつ人がたくさんおりますので三重大学小児科が中心になり、情報を発信し広く人材を集めることも大切だと思います。
 私の短い経験の中で国家や大学レベルの矛盾に対する憤り、個人的な感情のもつれなど苦い体験ももちろんありました。このような経験はマイナスではなく将来に生かせるものですし、また時の流れはすこしづつ着実にこれらを風化させてくれます。今、私の心にはアフリカの大自然の美しさと子供達の瞳の輝きが残っています。プライベートなことですが、私の趣味で、今、さだまさしの「風に立つライオン」という曲をレッスン中です(タイトルを無断転用しました)。

 アフリカの大自然と巡回診療に携わった日本人医師を描いた曲ですが、曲のイメージと個人的体験とがオーバーラップし、好きな曲のひとつです。また、もう一度機会があればアフリカを訪れたいと思っています。

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ザンビア赴任に思うこと  乾 拓郎

 小生に櫻井教授からザンビアヘ国際医療協力のお話があったのは確か昭和 62 年 5 月頃だったと思います。小生の前に竹村先生の赴任が決定しており、羨ましく思っていたのです。もう一人若い医師をと考えてみえたらしく、2、3 の医局員に話をしてみえました。

結局、第一陣の長期専門家としての候補者が見あたらず、小生が行けることになりました。小生は幼少時から病弱であり、医者の世話になっていましたが、それが医者になることを目指すことになったことでもあり、また、シュバイツアー、野口英世などの伝記を読んでたりもし、小生が体に自信さえあれば、無医村での医療を行うことに非常に憧れていました。今でも行きたいと思っています。その頃、小生は大学での研究生活を送っており、非常なストレスで、そこからの脱出が大きな希望でありました。

 7 月からの約 2 ケ月間の妻との束京での研修生活は、我々夫婦にとって最初で最後でしょうが、実にいい勉強になりました。小生の籍は三重病院にあったため、厚生省は長期赴任することに難色を示していました。あの頃、アフリカに対しての知識は乏しく、幼いこどもを引き連れて行くことはもう生きて帰ってこれないのではないか、エイズ、肝炎などに罹るのではないかなど心配したりもしました。成田空港への出発前日、櫻井教授に最後の? 挨拶の折り、”遺言状預かっていただこうかと思っていましたが止めました”と言ったところ、教授はエイズや肝炎になっても仕方がないが、とにかくおまえの仕事は生きて帰ってくることだといわれ、まあそんなものかと簡単に納得した次第でありました。

 パリのシャルルドゴール空港4番ゲートはトンネルで地の底に行ってしまうのかと思うくらい長かったことを覚えています。7時間経過してザンビアの空港に着いた折りは、もう、もとには戻れないんだという不安と日本から全く離れたんだという安堵感?とが錯綜しました(今では電子メールがあるから到底だめですが・・・)。伊藤正寛助教授、竹村統成夫妻の歓迎を受け、”ああ、ここに小さな日本がある”となつかしく思った次第です。日本から持参した荷物は当面の2週間分の食料など大きな段ボール箱 11 個でした。ビデオの入った箱は盗まれていましたが・・・。

 我々は長期専門家としては初陣であり、任務としてはまず、今までの短期専門家が滞在訪問ごとに供与する医療器械などの使用状況の把握をすることにありました。開かずの部屋にあるわあるわ。何年も前から供与されたままになっている器械、部品、消耗品など。これだけではないのではと問いつめると、いくつものコンテナにまだまだ入っていました。このことは日本の国際協力のあり方を象徴しているようでした。今までの短期専門家の中にはビクトリアの滝だけ見物して本国に帰国した人もいたみたいですが、私のもう 1 つの重要な任務は、現地の人たちとの信頼関係を保ちつつ、現地に合った技術供与をすることにありました。病院には毎日 9 時から午後 4 時までは必ずいて、カウンターパートだけでなく、全ての医療スタッフ(当然、掃除婦さん、事務、検査技師、看護婦も含む)と、何にでも首を突っ込み相談相手になり、仲良くなることでした。このように我々は畑を耕すことにあり、後の野村、水谷、渡辺、松林氏らが大輪の花を咲かせてくれました。私は 1 年間だけの外国生活しかできませんでしたが、非常に充実していたと思います。第 2 の人生はぜひ、外国での生活をと密かに思っています。このようなすばらしい思い出を与え、世界観を変えて下さった櫻井教授にはほんとうに感謝いたしております。本当に有難うございました。今後も三重大学小児科の国際協力が継続されるよう祈念いたします。


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わたしとガーナ   荒井祥二朗

 昭和 60 年 11 月 2 日の早朝、櫻井教授、神谷助教授(現三重病院院長)に見送られて津駅を出発、そして、その夜、一人寂しく不安いっぱいのまま成田国際空港を異郷の地に向けて旅発った。その日まで一度も国外へ出たこともないのに突然に 2 日間にもわたる飛行機の旅となった。乗り継ぐ飛行機の関係でアムステルダムで一泊した後、目的地であるアクラ(ガーナ)行きの飛行機に乗り込んだ。空港の待合室で出発の 2 時間前から待っている間に(心配でほとんど一番乗りであった)、これから自分が行くべき場所を実感せずにはいられなかった。というのも、来る人来る人がすべて大きな荷物を抱え込んだ黒人ばかりであったからだ。機内でも周りはすべて黒人で、KLM のスチュワーデスが非常に色白で美人に思えた。飛行機はラゴスを経由し、そこで大量のナイジェリア人を送り出した後、ほぼ定刻通り(ヒジョウニ、珍しい)アクラのコトカ国際空港に到着した。 初めてアフリカの空気に接して感じたのは、やはり「蒸し暑さ」であった。初冬のヨーロッパから一気に赤道直下にやってきたので当然のことかも知れないが、見知らぬ土地に対する不安、緊張感がそれを 5 倍にも 10 倍にも感じさせた。日本出発前に得た予備知識によると、空港の建物に必ず出迎えが来てくれるということだったので安心していたのだが、あに図らんや誰もいず、しばらく棒立ちであった(最初にして最大の不安状態)。それでも気を取り戻し、熱気と黒人にもみ潰されながら、なんとか検疫、入国審査を終え(それだけに一時間以上もかかった)、荷物引き取りの場所へ来ると、ようやく 2 人の日本人の出迎えに会うことができた。そのあとまた 1 時間近くかかって荷物を引きとり、通関後ようやく外へ出られ、そこで見慣れた鳥越先生の顔を見てホットしたことが今でも鮮明に思い出される。自分の荷物を車に載せるまでの間、自分の荷物を盗られないように現地のガーナ人を排除するのが大変のなんの。とにかく、戸惑いと驚きの連続の中、空港から住居まで鳥越先生の運転する車で行った訳だが、午後 8 時すぎ、街灯もなく、闇夜のカラスでなく、闇夜のガーナ人には大変驚かされた。道端を列をなしてただひたすらに歩き、急に道を横断する黒い影にビックリのしっぱなしであった。ガーナは 1983 年をどん底として年々徐々に経済状態が好転しつつあって、少なくとも首都アクラに住んでる限りでは断水、停電は時々みられるが、日常生活を営む上でそれ程問題になる程ではなかった。ガソリン、プロパンガスなどは、ほぼいつでも入手でき備蓄の必要性が全くなく、街に行けばデパートやスーパーマーケットにはあふれる程の食科、衣服、雑貨などがあり、レストランも中華なら 10 軒以上、その他、イタリア、インド、スイス、フランス科理店そして帰国する頃には韓国科理店まででき、サシミ、スシ(もどき)なども食べられるようになった。そして、街には日増しに車、それも新車の数が増え、交通量の増加とともに朝・タの通勤時間帯には、主要交差点にはかなり交通渋滞も起こるようになってきた。しかしながら、このような生活の改善はあくまでも我々外国人にとってであり、現地人の生活状態はまだまだ決して楽なものではなかった。

 ガーナにおける生活であるが、平日は 5 時か遅くても 6 時には仕事を終えて自宅に帰り、夜はたっぷりと時間があったはずであったが、今振り返ってみると反って何もせずに時間が過ぎていったようである。しかし、熱帯地域での生活では昼間の体力の消耗は非常に大きく、充分な休息は健康管理上大切なことである。土・日曜日は休日であり、土曜日の午前中は街へ食料、雑貨類の買い出しに出かけ、午後は他の日本人と一緒にゴルフに出かけることが多かった。日曜日も隔週ぐらいでやはりゴルフに出かけた。これだけ頻回に通えたのは、日本と違ってプレーの代金が年会費の 7,200 セディ(約 8,000 円)だけで、あとは毎回 150 セディ程度のキャディ代を支払うだけであったからである。ただし、これだけ通っても腕の方はあまり上達しなかったが、色々な人達と知り合うことができた。その他の休日の過ごし方としては、近くのビーチへ行ったり(ただし波が高くて、泳ぐことは難しい)郊外にある植物園へ出かけたりすることぐらいであった。また、私の場合は、家族(妻と 3 人の子ども)を半年後に呼ぴ寄せて、その後、一年間ガーナでともに暮らした訳であるが、子どもたちはインターナショナルスクールヘ入学し、色々な国の友達が出来たようであった。また、妻は週3回のテニスクラブへ通うのが楽しみであったようである。一方、私の住居は300坪以上の敷地に5つのベッドルームを持つ大邸宅であり、メイド、2 人のドライバー、2 人のナイトウオッチマンを雇用する「マスター」と呼ばれる富豪的生活を送っていた。

 ガーナでの私の仕事に関しては省略するが、現在の私の仕事(保健所長という公衆衛生を専門とする行政医師)は、ガーナでの貴重な経験があってこそ存在しているのだと確信している。

 最後に、私は開発途上国での医療協力を通じて国際協力という貴重な体験をさせて頂いた(未だに何故、私がガーナに行くようになったのか、その理由は解らないが・…)ことに対して感謝するとともに、今後ともこのような協力が進み、病気で苦しむアフリカの子どもたちの 1 人でも多くが助かるように願っている。

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ガーナの思い出   鳥越貞義

 体験談といっても、もう16年前のことなので、あまり覚えていませんが、16年前のことにしては部分的によく覚えていることがあるのでそれだけ印象が強かったということでしょうか。たとえぱ、神谷先生からガーナでの医療協力の話を聞かされ、ガーナ行きを引き受けたのですが、その時の複雑な気持ちやガーナに到着した時に感じた「たいへんな所へやって来たな」という気持ちなどです。


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ザンビア共和国派遣の思い出   野村豊樹

 ザンビア共和国派遣の思い出を書き始めるにあたりまして、二年間の貴重な海外生活を経験する機会を与えていただきました、櫻井教授、神谷三重病院院長ならぴに国際協力事業団に厚く御礼を申し上げます。

 ザンビア共和国へ出発した時から瞬く間に十年の月日が経過してしまいました。ザンビアの首府ルサカにあるザンビア大学教育病院に着任後 3 か月ほどして昭和天皇がお亡くなりになり、家族四人で日本大使館を訪問し、昭和天皇の御写真の掲げられた部屋で黙祷と記帳を行い、”平成”という耳慣れない新しい時代が始まったことを教えていただいたことが懐かしく思い出されます。そして、この文章を書き進めるために十年前のことを思い出そうといたしますと様々な事柄が浮かんでまいりました。派遺前研修中、ソウルオリンピック開会式を研修センターの自室テレビで観戦しながら聖火ランナー孫選手の姿に胸を熱くしたこと、家族四人の大移動のために家内と二人で連日昼間は食品、日用雑貨、衣類などを山ほど買い出し、公務員宿舎の一部屋を一杯にし、夜は明け方まで段ボール箱へ詰め込み、大きな箱が 50 個近くまた別の部屋を一杯にしたこと、おかげで二人とも出発までにげっそりやせてしまったこと、3 才 10 か月児と 1 才 3 か月児を引き連れ、大量の機内持ち込み荷物を抱えながらの長い移動、初めて見た茶色のアフリカの大地、初めてザンビア空港に降り立ったときの凄まじい熱気、多くの出迎えていただいた在ザンビア日本人の方々、在ザンビア 1 日目の明け方に襲ってきた隣家のガードマンが変身した泥棒のこと、また、その捕獲と警察への自分達での運搬のこと、そして、その後の脱走。10 年前の特定の期間の事柄が面白いほどに蘇ってまいりました。ザンビアでの 2 年間の生活は、40 半ぱの私にこのような溢れるほどの思いを与えてくれた貴重な期間でありました。

 今、改めて思い起こしてみますと、夢のような生活がザンビアにはあったのかと錯覚してしまいそうになってまいります。昭和 61 年の秋頃に大学病院の研修室に県下から医局員が集まり、櫻井教授とJICA職員からザンビアプロジェクトの話を伺ったときは雲をつかむような夢のような話でした。夢が現実となり、準備し、現地へ向い、到着し、生活を始めた頃は、”大変なところへ来てしまった”とカルチャーショックに落ち込んだものでした。そして、十年が経過しますとまた夢のように感じられてしまいます。そして、少し残念なことですが帰国後の 8 年間でザンビアは遠いところへ行ってしまいました。現実にもどりますと平成 10 年 12 月に開業し、自宅と診療所を往復する生活が毎日繰り返されています。しかし、この生活はザンビアヘ行った時と同じように自分が希望し始めたものです。この一年間の準備もまたザンビア行きに勝るとも劣らぬ大変なものであったと感じています。10 年後に今の生活をどの様に振り返ることができるか楽しみにしています。夢のようであったと感じられるのがいいのか、今のほうがずーといいと思うのがいいのかわかりませんので(ちなみに 20 年前は小児科医 1 年目として過ごしており、夢は夢でも悪夢のように思い出されますが、そのお陰で今があると感謝しております)、今の仕事をこつこつとやってみたいと考えています。

 終始、国際協力以外の個人的レベルの話になってしまいまして申し訳ありませんでした。


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アフリカ国際協力について   酒徳浩之

 まず初めに、今回、アフリカ国際協力に携わった者たちが、どこかで何かを訴えたいというもやもやとした思いを晴らすチャンスを企画してくれた堀先生、中野先生に感謝します。

 さて、アフリカ行きについて諸先生方からは、”なぜ自分がアフリカに行くことになったのか”或いはそれにまつわる苦労話等について様々な投稿があるものと思いますので、私は今後、若い医局員がアフリカ行きを決断するきっかけの一つとなることを期して、”美味しい話”をすることにします。

 まず、アフリカ派遣が決まると、東京での滞在費が支給され、5 週間の研修生活が始まりますが、それまでの病棟生活とは一変して、朝 9 時から午後 5 時までのサラリーマン生活が始まります。そして、アフター 5 は自由となります。夜の街に出かけるもよし、溜った文献に目を通すもよし。現地に派遣されると、さらに自由な時間があります。今までの人生をゆっくりと振り返る良い機会です。ガーナ派遣中は国内俸と在外手当が支給され、帰国後はかなりの貯金が残ります。

 さて、アフリカに赴任すると健康管理旅行として、1 ケ月間ヨーロッパに滞在するチャンスを与えられます。数々の歴史にふれ、心と体をリフレッシュする絶好の機会です。私がアフリカ行きを決意した一つの理由に、この休暇旅行があります。1 年の任期では赴任後 6 ケ月より、2 年の任期では 9 ケ月目よりその権利を獲得します。ヨーロッパは 6 月から 9 月がベストシーズンなのでそのへんを十分考慮することをお勧めます。冬のヨーロッパは楽しみ半減です。健康管理旅行以外にも任国外旅行として渡欧することもできます。私は虫垂炎の手術をヨーロッパで受けましたが、退院から一週間後の外来受診までの間に市内見物もしっかりと楽しんで、合計 3 回のヨーロッパを満喫することが出来ました。また、ガーナを含めた西アフリカには野生動物はあまりいません。折角、アフリカにやって来たのだからサファリツアーを楽しみたいものです。専門家派遣手引きの規約をもとにケニアの医療機関との共同研究を計画しケニアを訪問しました。共同研究の協議も行ないましたが、もちろん、しっかりとサファリツアーも堪能してまいりました。

  現地で出会った人物は、今は亡き笹川良一氏、元アメリカ大統領 Jimmy Karter 氏、曽野綾子氏(以外と視野の狭いおばちゃんでした)、これまた今は亡きルーマニアの民主革命で暗殺されたシャウエスク元大統領夫妻などなど、日本にいる限り到底会うことの出来ない方達ばかりです。もちろんこの方達とはその後の交流も有りませんが、現地で出来た友人とは今でも親交厚くおつき合いをさせて頂き、皆、私にとって、貴重な財産となっています。

  アフリカ行きの動機が何であれ、まず現地に赴くことです。アフリカ生活を経験したものだけが得ることのできる何かを掴んで来てもらいたいと思います。日本の良いところも悪いところも見えて来ます。それは必ず今後の医療に対する考え方にも、また自分自身の人生にとっても大きな影響を及ぼすものと思います。大学病院でのマンネリ化した生活を克明に思い出すことはありませんが、ガーナに滞在した 2 年間のできごとは、ひとつひとつ鮮明に思い出されます。長い人生においてこんな 2 年があっても良いのではないでしょうか。

  今後、三重大学小児科教室よりアフリカへの国際協力が引き続き行なわれ、ひとりでも多くの医局員がアフリカを体験されることを望んでいます。

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野口英世   神谷敏也

 野口英世のことを初めて知ったのは多分、小学校の国語の教科書か道徳の時間だったと思う。その中では、囲炉裏での火傷による身体障害や貧乏にもかかわらず、不屈の闘志と根性で身体の不自由を勉強で補い、医者になった非常に立派な人。そして、アフリカの病気を研究するためにアフリカに渡り、そこで研究していた病気に感染して亡くなった日本のお医者さんでした。小学校の時の野口英世に対するイメージは伝記に出てくる偉い人で、まじめで、アフリカの人たちに感謝されていると考えていました。野口英世がアフリカに渡ったのは日本からではなくアメリカからで、その遺体がアメリカに運ぱれたなんて知りませんでした。その滞在もわずか半年で、亡くなったのはアメリカへの帰国を目前にしていた時期ということも知りませんでした。医学部に入学してからも、卒業して医者になってからも野口英世に対するイメージは全く変わりませんでした。その間に野口英世についての本を読んだり、映画やドラマを見たことがなかったからです。野口英世に対するイメージが変わったのは大学病院に勤務していて、感染症研究班で研究をしていたときに、研究室に送られきたペンシルベニア大学小児科教授の朝倉稔夫先生の「フィラデルフィアの野口英世」を読んでからでした。自分のために友人や婚約者の家族から金を借りて返しもせず、次から次に借金を繰り返す、お金に関しては非常にだらしない人。偉人というより型破りな熱心な研究者というイメージでした。また野ロ英世の研究業績については具体的には何も知りませんでした。感染症グループとして野口研に派遺されるかもしれないという恐れもあり、野口英世についてはそれ以上の興味を持ちませんでした。

   1994 年春、桑名市民病院に勤務しているとき、少年マガジンでむつ利之の「Dr. Noguchi」の連載が始まりました。そして、そのすぐ後に私の野口研派遺が内定しました。そのため、毎週展開される「Dr. Noguchi」を非常に興味深く読みました。派遣が決まってからも野口研、野口英世について何も調べたりしたことはなく、何も知らないでガーナに渡ったようなものでした(前任者から先入観を持たず、現場に行ってから考えたほうが良いとの示唆もあり)。ガーナで野口研に従事するようになって知ったことは、野口研は野口英世が研究をしていたコレブ病院と何も縁のない所に建てられ、コレブ病院から随分離れた所にあることでした。野口研のリーダー室には歴代のリーダーが残した野口記念会の野口英世についての資料、コレブ病院の 50 周年記念誌、ガーナの協力隊隊員の書いた本などがあり、それを読んで野口英世に対する興味がわいてきました。そんな時にペンシルベニア大学小児科の朝倉稔夫先生が国際鎌状赤血球症シンポジウムでガーナを訪問すると野口研のスタッフに電話があり、スタッフに日本人から電話がかかっているから出てくれ言われ、偶然話をすることができました。そして朝倉先生が野口英世の助手をしていた Mr. ウイリアムスにインタピューできる様にアレンジしたり、コレブ病院の野口の研究室に案内し、Dr. ヤングが記載した野口英世の解剖を記録したノートを見せたりしました。野ロフリークの朝倉先生と野口英世の話をしてますます野口英世に興味を持つようになりました。日本人短期専門家が持ってきた渡辺淳一の「遠き落日」をガーナで初めて読みました。コレブ病院 50 周年記念誌を読んで野口英世の名前が記載されている部分を探しました。わずか 6 か月の滞在なのに野口英世のことを鮮明に覚えていて、記念誌に彼のことを記載している人がいることに驚きました。それほど野口英世の存在は有名だったのでしょう。阪大微研の東堤短期専門家が元所長の加藤四郎先生からコレブ病院に野口英世の肝臓があるかもしれないとの話を聞いてきたとのことで、コレブ病院の病理学教室の教授に野口の肝臓を探してもらう様に頼みに行きました。結局は見つかりませんでしたが、きっとどこかに保存されているでしよう。1997 年 5 月 21 日の野口英世の 70 回忌には、JlCA 関係者、野口研スタッフ、コレブ病院のスタッフでコレブ病院にある野日英世の胸像の前に集まり追悼式をしました。野口英世の病理解剖記録が記載されているノートがぼろぼろになって朽ち果てそうになっているという記事が朝日新間に載せられ、野口記念会とノートの保存について連絡し合ったりしました。そのノートは今年になって改修保存されることになりました。

 野口英世が生きた時代背景を考えると、その当時に中国、北米、ヨーロッパ、南米、アフリカに渡って活躍した日本人は彼以外いないのではないでしょうか。そして彼を支援しなけれぱならないと思わせる魅力もあったのでしょう。

 野口英世が研究していた研究室は今もコレブ病院にあり、その横にはニームの大木があり、きっと 70 年前に野口英世がコレブ病院にいた頃にも在ったと思います。研究の合間に野口英世がこの木の下で本を読んだりしていたのではと想像を駆け巡らせていました。70 年前に亡くなっている人ですが、興味が尽きない人です。

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私にとっての国際医療協力   中野貴司

 私が 2 年間派遣の予定でガーナ共和国野口記念医学研究所プロジェクトヘ出発したのは、昭和 62 年 2 月、医者になって 3 年半ほどが経過した 28 歳の冬でした。「途上国の子どもたちにとってどんな病気が重荷となっているのか、自分の眼で確かめてみたい」という漠然とした好奇心と、「一風変わった長期の海外旅行をしてみたい」という不純な動機が混在していたような気がします。

 一般小児科研修さえ十分に修了していない時点での海外長期滞在でしたが、”early exposure”は私にとって大きな成果があったと思っています。2 年間のアフリカ大陸での暮らしは、医療のみならず、地球という星の上での生活そのものを身をもって味わった実感がありました。チョコレートの枕詞程度にしか思っていなかったガーナは、それ以来私にとって地球儀の中でひときわ大きな意味をもつ国となりました。

 ”国際医療協力”とは何か?これは、答えるにはなかなか難しい質問です。自分の学生時代は、災害緊急援助がその仕事の大部分であると思っていた頃もありました。途上国における Morbidity & Mortality の多くは感染症によって占められていますが、他の課題も山積みされています。”協力”と名前は付いていますが、他人の生活にある意味では干渉することにもなりますから、文化人類学や社会学のセンスは不可欠です。外国へ出かけることだけがその活動ではなく、日本に居ながらにこそ出来うる協力もあります。中国に l 年間単身赴任しポリオ対策に携わりましたが、アフリカ大陸とは一風変わった経験をすることが出来ました。というわけで、一口に国際協力といってもその内容は様々です。

 ただひとつはっきりしていることは、国際医療協力の分野では、小児科医が日常行っていることがそのまま活用できます。小児科医であるということは、スタート時点で既に他人を遥かにリードしています。私たち小児科医がやらずして、誰がこの分野における日本の先駆けと成り得ることが出来るでしょうか。

 12 年前に世界に触れることがなかったら、今の自分は無かったと思います。様々な議論はあるかもしれませんが、私自信はこの道から足を洗うつもりは全くありません。 平和に慣れ、バブルに染まり、いつしか安定ばかりを求め、すっかり受け身の姿勢になってしまった日本人、その一員である私を覚醒してくれる国際医療協力はこれからも私のメインテーマです。

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国際協力におけるもう一つの医師の役割について   水谷健一

 櫻井教授が借しまれつつも教授を退官されるとのことで、長い間有り難うございました。三重大学小児科のもう一つのカラーとしての国際協力を、多くの批判をものともせず長期にわたり、多くの医局員を派遣し続けて継続された功績は計り知れないものがあり、ザンビアでの叙勲など内外でたいへん高い評価を受けていることは申すまでもありません。長い間、ご苦労さまでした。そして櫻井教授の退宮を記念してこのたび三重大学のガーナ、ザンビア、タンザニアでの医療協力の集大成を作成するとのことで、私も新生児、小児外科ブロジェクト、感染症ブロジェクトに参加し、2 年間ザンビアに赴任しましたので、ザンビアでの思い出話を書かせて頂きたいと思います。

 私が妻と長男を連れ、パリ経由でザンビアに向かったのは遥か 10 年前の夏であり、飛行機の中で風邪でぐったりして誕生日を迎えたことは記憶していますがやはりずいぶん前のことで、そのときの自分の気持ちはどのようであったのか、そして、その後の 2 年間は何をしていたのかはずいぶん記憶が薄れております。赴任してから走り書きのように書いていた日記があったのを思い出し、本棚の奥にしまってあったものをひっぱりだして読み返して見ました。そうしますと一昔前の遥か彼方のアフリカでの生活が、私の脳裏にありありとよみがえってきました。

 あちらでの本業についてはいろいろ発表したりする機会がありましたので今回は触れず、副業について触れたいと思います。われわれ医師が発展途上国に赴任する際に期待されるもう一つの仕事として、在留邦人の医療があります。言うまでもなくザンビアでは日本のような医療サービスを望むことはとうていできず、現地に滞在する JICA、JOCV (海外青年協力隊)、商社、大使館の職員とその家族の邦人関係者は、自分たちの健康管理に関して我々医師の医療行為を期待します。長期で赴任された先生方は皆さん経験されたことと思いますが、一般的な内科疾患、縫合が必要な外科疾患、マラリアやプチフライなと現地でしか見られないような病気の治療、交通事故やコレラなどの流行時の予防接種や日本でし損なった予防接種、妊娠の判定と胎児の観察、エイズ相談、さらにはその人達の使用人(現地人)の治療や健康診断などありとあらゆる病気の治療や相談やに乗らなくてはなりません。このため本業がおろそかになることもまれではありませんでした。その中で最も印象に残っていることがあり、今でも忘れられないことがあります。

 ある日、わたしはザンビア JICA 事務所長に呼ぱれ、『医師でないとできないから』とある仕事を依頼されました。その仕事とはザンビアの北部の町に派遣された JOCV の女性検査技師がマラリアにかかり、その病院にいたキューバ人の医師に治療を受けたが、残念なことに突然に死亡したので本当にマラリアで死亡したのかどうか調べてもらいたいとのことでした。ちょうどそのときは野村先生が健康管理旅行中であったため、本業は中止して私一人で行くように頼まれました。JOCVの関係ですが、法医学か監察医みたいな仕事だなと思いながらもJlCA事務所の依頼でしたから、すぐに小さなセスナ機に乗って現地に向かいました。

 現地についたあと、休む間もなく同じ病院に赴任しているJOCVに病院に案内され、さっそく状況の聞き取り調査と遣体の検案を行いました。治療をしたのはキューバから来たばかりの医師で英語が通じないため、英語がわかるキューバ人が通訳となり状況の聞き取りを何とか不十分でしたが行いました。ザンビアは医師がたいへん不足しているため準医師を即席で大量に作り地方での医療を行っていますが、それでも足りないため、同じ社会主義の同盟国であるキューバから多くの医師を受け入れており、地方の病院で働かせています。ただ、その質は非常に悪く、ザンビアでも不評でした。祖国では医師として働けないものが、ザンビアでは医師免許を与えられ働いているとのうわさも聞きました。結局、最終的にはどうもマラリアという診断はあやしく(何でも熱を出すとマラリアと診断をするようです)、ただの風邪のようで、治療としてキニーネを 1 バイアル全部静脈注射したらしいのですが、そのバイアルをよく見てみると、なんとインド製のキニーネで l バイアル 10 人用だったのです。そのためキニーネの血中濃度をはかるため心腔穿刺をして血液サンプルを採取して持ち返りました。

 現地の病院で葬式をしたあと遺体をセスナに積んでルサカに戻りましたが、その帰りはあいにく雨期のため雷をともなったものすごい嵐となりました。小さなセスナ機は上下左右に大きくふらつきながら雷雲の中をかとんぼのように私と遺体をのせて飛び続けました。パイロットも汗だくで操縦していましたがいつ墜落してもおかしくない状況でした。

 私は今までで最大の恐怖を味わい、そのとき遣体の横でなんと自分の死を意識しました。まったく生きた心地がせず恐怖に耐えながら、何とか墜落せずにルサカに着きました。そして遣体を JICA 事務所に届け、調査結果を報告してサンプルを検査に出す段取りをしました。残念なことに検体は溶血がびどくその後の保存も悪くて腐敗してしまい、うまく検査ができず、結局、確定的な証拠はありませんが、医療事故による死亡となりました。その後、遣体は現地で荼毘に付され、遣骨として日本からみえた家族に渡されました。そのとき焼ききれていない遺骨が壷に入りきらないため、入るようにつぶしながら、これも国際協力のなかの一面であり、この人にとって無言の帰国は何と無念なことであろう、また、祖国で帰りを待つ家族や友人達の悲しみは計り知れないものだろう、また、この遺骨となった姿は国際協力に関わるすべての人達、ひょっとしたら私や私の家族の姿であったのかもしれない、今後もその可能性は 0 ではないと思いました。使用人に襲われて大怪我をする人、マラリアにかかって死の一歩手前までいった人、交通事故で危うく死にかけた人、飼い犬にかまれ骨まで砕かれる大怪我をした人、HIV に感染した人、ノイローゼになった人などいろんな邦人の方にかかわりました。皆さん多くのリスクを抱えながら国際協力を行っています。

 国際協力は結局は単なるおせっかいであり、長期的にはその国のためにはならないとか、日本の国際協力は金は出すが人は出さないとか、また、日本の国際協力は日本の行政と商社と人を送る組織の上層部の利益が絡んだ、日本のための日本による国際協カであるとの批判も少なからずあります。が、私が赴任した当時のザンピアでも 200 人余の邦人が、そのようなリスクと不便さに耐えながらがんばってみえました。在留邦人の方の一番の不安事項は、自分と家族の健康でした。全世界では邦人は相当な数になると思います。三重大学関係でも肝炎やマラリアなどにやられたり、またプロジェクト関係者が射殺された事件もありました。発展途上国へ行き、そこで長期に生活をすることの意義とリスクおよびメリットは実際行った人でしかわかりません。櫻井教授が退官されたあと人的派遣が続けられるのかどうかはわかりませんが、私としてはぜひ継続していただき、若い人と定年退職されたベテランの先生方にぜび国際協力に参加して頂きたいと思います。

 そして、国際協力という本業とともに在留邦人の健康と安心のためにも活躍していただきたいと思います。さらに、いうまでもなくご自分の健康と安全にも万全の体制をとられ、皆さん全員が何事もなく任期を全うされて帰国されることを願います。

 現在、残念なことにザンビアのプロジェクトのみ参加を中止して、他大学によって進行されていますが、プロジェクトに途中参加して、また、新しく始めたプロジェクトは途中で中止という中途半端な関わりであり、我々ザンビアグループは他の国に比べ我々が派遣された意義が不明確になっているように思います。タンザニアは是非このようにならないように切望いたします。また、私は現在は開業医となりましたが、微力ながら何らかの形で国際貢献できる様に努カいたしたいと思います。最後に 16 年の長期にわたり国際協力に参加された先生方に感謝の意を、そしてこれから参加される先生方にエールを送りたいと思います。


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今思う。但馬の郷から。   竹村統成

  それは、突然の話だった。「大事な話があるから」と櫻井先生と神谷先生から連絡を頂いた。「大事な話?さては人事か?」私は胸の鼓動を感じながら櫻井先生の前に座った。「ザンビアに行ってくれへんか。上の先生はまだ決まっとらんが、、。」それこそ突然だった。頭の中は「ザンビア??、何のこっちゃ??」当時、私は入局してからちょうど 3 年目だった。わけが分からなかった。国際協力と言う認織も、小児科医として将来どんな医者になりたいかも明確なイメージを持っていなかった。素直と言えぱ素直だが、櫻井先生、神谷先生の方針となれば「無条件に聞くべきもの」。そんな体質が私にはあった。それでも「何をしにいくのですか?どうして私が行くのですか?」。咽をカラカラにしながらお聞きするのが関の山だった。「お前だったら外へ出しても悪いことはせんやろ。それに英語を使えるという話は聞いとるで」。私の自尊心をくすぐる御返事だった。心は決まった。行こうザンビアへ。発展途上国をこの眼で見てやろう。

  ザンビアへ行って良かったかどうか? 良かった。今、心底そう思う。アフリカで何ができたと言うわけではない。考え方が変わった。日本は狭いと思った。現在、少子高齢化が叫ばれ、小児科医は徐々に肩身の狭い思いを強いられている。その度つぶやく。「日本だけじや。小児科医を大切にしないのは。」ちょっと眼を世界に向ければ、小児科医として働くべきフィールドは広大にある。この感覚は実際に発展途上国で、日本とは全く異質な医療に接した者しかわかるまい。これを歪曲された優越感と誰も言うことはできない。

 山陰但馬もきびしい。「三重に帰りたい」と思うことがしばしばある。個人的なお家の事情もあって、そう簡単にこの地を離れるわけにはいかない。だとしても、但馬における私自身のやるべき事が終われば、いずれ三重に帰ろうと考えている。勿論、国際協力も視野に入っている。

  美人の Dr. Ngoma さんはどうしているか? 検査技師で大の仲良しだった Mr.Massona はどうしているのか? 案外とずるい Dr. Mubita はどうしているのか? 私と家内を必死に守ってくれたけなげで可愛い犬達はもうこの世にはいないだろう。しかし、彼ら犬達は私の中で生きている。地球の裏側に心を寄せる人達、犬達が居ると思えること自体素敵なことだと思う。「あせらず。あきらめず。あなどらず。」 3A 主義で、今日も私は生きている。


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あれもこれもアフリカつながり   谷口清州

  先週仕事をしていたら、リケッチア・クラミジア室の萩原先生が Dr.Akpedonu を連れてきた。知っている人は知っているが、ガーナ大学野口記念医学研究所細菌ユニットのヘッドである。新たに性感染症プロジェクトが始まるので、クラミジアにかかわる研修のために来日したとのことで、約 5 年ぶりの再会である。その前の週には寄生虫ユニットの Dr. Wilson が突然来て、これもまた来日中のウイルスユニットの Dr. Brandful らと一緒に酒を飲んだ。昨年は昨年で疫学ユニットの Dr. Koram が来たし、ウイルスの Mr. Barnor もここで研修していた。もとより感染症研究所には多数のガーナ経験者がいる。みんなガーナつながりである。こちらにきてから、国際協力事業団の派遣前研修の講師をやっている。これもガーナつながりである。先週、獣医疫学会にて講演をさせていただく機会があったが、そこでの座長がザンビアの獣医学プロジェクトの関係者であった。私もガーナ時代に三国協力でザンビアには行ったことがあり、アフリカつながりである。

ザンビアでの 1 週間の滞在については短かったにもかかわらず非常によく覚えている。というのは、入局以来、櫻井先生にじっくりお話をうかがったのはこのときが初めてだったからである。それまでいろいろ公私にわたりお世話になっていたにもかかわらず、ゆっくりお話をうかがうという機会はなかったように思う。星降るリビングストンの夜、ホテルのバーの片隅で、ビクトリア瀑布の水音を背景に、酒を飲みながらお話を伺って、初めて櫻井先生の人柄にふれられたような気がした。アフリカに行って非常に得をしたことのひとつであろうと思う。そう言えば、神谷先生もアフリカにみえているときには、日本でお会いするときとは違い、非常にリラックスされており、アフリカにおいての方が親しみやすく感じた記憶がある。ちなみにそれ以前に日本でお世話になっている頃は、櫻井先生、神谷先生ともなんとなくかなり雲の上の存在で、ずいぶんとおそれ多い存在であると感じていたのである。これもアフリカの効用の一つかもしれない。

  アフリカつながりの発端となったガーナ派遣は、行くことにさほど抵抗はなかった。すでに同級生の竹村先生がザンビアに行って帰国していたし、前任者がやはり同級生の堀先生であった。また、中野先生、庵原先生など身近にガーナ経験者は多く、前もっての情報収集にはことかかず、なんとなく楽しそうなものに思えた。かなりいろんなことがあったが、過ぎてしまうと思い出は美化されて、苦しかったことも楽しかったこともすべて楽しかった方に入ってしまうので、ここにだらだらと書いても仕方ないので書かない。心細かったことはないでもない。日本にいると少なくとも櫻井教授をはじめとして医局としての多くの援護があり、どんな窮地に立たされようとも心細いと思ったことはなかった。しかしながら、地球の裏側にいると、さすがにほとんどのことは自分で決定していかねばならず不安を感じたことは幾度もあった。本当に困ったときはさすがに日本に FAX で相談したが、いずれの場合でも速やかに櫻井先生、神谷先生をはじめ医局の先生方から暖かい支援をしていただいた。離れてみて、医局のあたたかさを再確認したのもガーナにおける収穫であった。これもアフリカにいたからこそできた医局とのアフリカつながりである。これらの人とのつながり以外で得たものは、世の中結構なんとかなるものだという特に根拠のない楽観的な自信と、小さなことにくよくよしてもはじまらないという開き直りであったが、これらは突然勝手の分からない基礎研究所にきて、PhD 優位のどまん中で、MD でなければできない仕事をてがけるという、なにかとストレスの多い毎日にもなんとかつぶれずに持ちこたえていることに結構役立っている。そういえば、私がここ感染症研究所にきたのもガーナの縁である。ガーナプロジェクトでは主に神谷先生にご指導いただいていたのであるが、国内委員長は当時の国立予防衛生研究所長の山崎先生であった。別段取り入ろうとしたことはないが、帰国後学会でお会いするたびに予研に来ませんかと雑談混じりで言われていた。山崎先生はどんな知り合いに会っても必ずなんらかのほめ言葉を会話に入れることが礼儀であると考えている方だということを聞いていたので、まさか本気で勧誘されているとは思わず、非常に光栄なことですとかなんとか答えていたように思う。ところがある日突然それが本当になって、東京に出ることになってしまった。非常に不思議なものだと思う。実は静岡にいるときに個人的な悩みをかかえていて、櫻井先生にいろいろご相談に伺っていたのだが、いろいろ援助していただいて、いっぺんアフリカに行って来ればよいと言われて、アフリカに行って、悩みもなくなって、アフリカに行ったことによって、公衆衛生的なことに興味を持って、神谷先生や山崎先生と縁ができて、そこから現在につながっているのである。

  申し上げたいことは、アフリカに限らず、一度は医局の勢力範囲外にでてみることである。外に出ればそれだけ視野は広がるし、外から医局を眺めてみると、医局の先生方を含めた医局のことがよりよく理解できるし、医局のあたたかさもよくわかる。もちろん三重県の地域医療をしっかりやることはもっとも大事なことであるが、大切な子には旅をさせることが、本人にとっても医局にとっても、とてもよいことであると思う。直接関係ないが、自分があまり元気がない頃、よく櫻井先生に元気がないときには肉を食えと言われた。現在も仕事が立て込んで疲れてくると、その言葉を思い出して焼き肉を食べに行く。これも皆様にお勧めしたいことの一つである。

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人づくりのためのアフリカ医療協力   堀 浩樹

 私がアフリカに赴いたのは 8 年前のことであり、記憶も情熱も薄れつつあるが、自分達のやってきたことを無駄にしてはいけないという気持ちはまだ強く残っている。

 ”自分は何のために、何をしにアフリカに行くのか”を十分に説明もされず、また、理解もせずにアフリカに行き、そして、”何か大切な経験をし、得難い人生の一時期を送った”気分で帰国した。この気持ちは、満足感、達成感と云うものではないだろうと思う。任地では仕事の遅さに苛立ち、日本の ODA の矛盾に慣慨したりしているのだから。むしろ、無事、帰国できたという安堵感に支えられた”他人の知らない世界を見てきた優越感”とでもいったものかも知れない。しかしながら、この他人からみたら勝手な自信は、少々のことでは物怖じをしない「こころの余裕」とでも云うべきものを自分に与えてくれた。これは日本で小児科医をやっていく上でも、外国人を相手に自分の意見を主張するときでも、不条理な組織で生きていく上でも自分にとって重要な支えとなっている。目先のことに動じないということは、ものごとの大局をみる上でとても大切なことである。

  日本では、私達は何事にも相対的な判断基準を持ちながら日々を生きている。アフリカのような厳しい状況のなかで必死で生きてみることは、自分達の価値親を一度崩すことに大いに役立つ。フレキシブルな考え、絶対的な価値観を持つことは、自由な人生を生きるために、自分自身を進歩させるために必要なことである。アフリカには日本では学ぶことのできない多くのことがある。

  以上のような理由で、若い同門にはアフリカ医療協力の経験をさせてやりたいと思う。そのような人達の中から有為な人材も育ってくると思う。この 1 冊は、若い人達の飛躍へのモチベーションとなってくれることを期待して編集した。また、これが医局員全体の理解への一助になってくれることも期待している。


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タンザニア母子保健プロジェクトに参加して   新藤啓司

 私は現在三重大学医学部附属病院で NICU に勤務しておりますが、当たり前の様に医療機材に囲まれた生活を送っています。しかし、この文章を書くに当たって当時を思い出すとほんの 2 年前には東アフリカのタンザニアで停電・断水・通信不通を日常とした世界に身を置いていたわけで、この環境の違いが赴任前と後で私の行動・思考に大きく影響を及ぼしている事を感じずにはおれません。

 私は 1995 年 2 月、阪神淡路大震災の直後に赴任し、1997 年 5 月までの 2 年余りをアフリカの地で暮らしました。我が三重大学小児科はアフリカでの医療協力の歴史があるのですが、タンザニアは初めての土地であり非常に情報が少なかったために赴任前は非常に不安感が強かった事を覚えております。行ってからも毎日が初めての出来事の連続で、赴任前に櫻井教授よりいただいた唯一の指令‘無事に帰ってこい!’を達成する事が果たして出来るのか疑問に思った日々もありました。プロジェクトの仕事どころではなく、日々の生活を送る事がこんなに大変な事なのかと実感したもので、阪神淡路大震災の直後に赴任した事を皮肉に思ったものです。ただ、持って生まれた“ずぼらな性格’が役に立ち“ポレポレ=ゆっくり”を日々実践しているうちに何となく物事が形となって動いていきました。我々日本人は確かによく働きます。つぼにはまった時には集団の力を遺憾なく発揮して大きな成果を挙げる事が特徴のように思います。当初タンザニア人は”動かない!やる気がない!”ダメなやつと思った事もありました。でも、それは日本の物差しで計った場合の見方であって、現地で暮らす困難さを思ううちに動かないのも仕事の内で、大事なチャンスを迎えた時に確実にものにする事が実はここでは一番大切なのではないかと思う様になりました。それも私の仕事は政治的な側面が強くて日常診療に追われていた日本とは全く状況が違っていましたし、政治的決定が及ぼす影響の大きさと決定に際し“前例踏襲がナンセンス”との印象が私の体に強烈に残っています。それと、彼等は各人が自分の所属する集団を強烈に意識している事、お互いが違うバックグラウンドを持っている事を体で知っている事、それゆえ人間は差別する存在であることを身に染みて生きている事、これらを実感した事がアフリカでの大きな財産だと思っています。国際医療協力としては私自身何をしたのか、何が私の成果なのか人様に披露出来るものはありません。ただ、日本人のよさ、日本人の問題点、日本という国について今まで以上に真剣に考える様になりました。国際貢献をするためにまず私達がなすべき事は自分の国・仲間・社会についてよく考える事だと思います。これは何も特別な事ではなく、日常の仕事の中で常に何が今一番大事なのかを考え行動する事、これを繰り返していくうちに自分なりの考えが芽生えてくると思います。いきなり国際関係について考察する事は得策ではありません。身の回りの矛盾点を解決する事がひいては国・世界に目を開かせる事に繋がると思います。将来、日本での地道な修行生活を送った後、チャンスがあればまたアフリカの大舞台に立ちたいと思っています。


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櫻井先生からいただいたもの   松林信幸

  私は 1990 年 10 月から 1994 年 4 月まで、ザンビア感染症プロジェクト、1997 年 4 月から 1999 年 11 月現在、タンザニア母子保健プロジェクトに派遣中の身である。アフリカでの経験は通算 5 年半に渡っており、三重大小児科医局員中最も長い派遣であると思われる。従って現在 12 歳になった娘は今までの彼女の人生の半分をアフリカで過ごしたことになる。

  櫻井先生は三重大が国際医療協力に携わって以来、20 回以上にも及ぶアフリカ訪問をされている。私がタンザニアに派遣されてまもなくのころ、先生は調査団の一員として来られた。プロジェクトは臨床検査室のたち上げを一つの目標にしていたので、検査技師の知識と技術の底上げは、当面の課題であった。一般にはそのためにセミナーを催したり、講義をしたり、また検査室内で機器の取り扱い方の訓練をしたりする。われわれも概ねそのような方法を踏襲していた。しかし表面をなぞる、そのような方法は必ずしも十分効果的とはいえず、我々も良い方法を探しているところであった。特に臨床検査のマインドとでもいったものを育てることに壁を感じていた。先生はそのとき臨床検査技師の M さんを促して、小児科病棟の回診に連れ出した。おせじにも清潔とはいえない衣服をまとった母子であふれている病棟を、縫うようにして、一例ずつ患児を見てゆく。櫻井先生はこの子はこういう病状なので、このような検査が必要なんだ、と説得するように M さんに説明してゆく。実はMさんは日頃から余り仕事熱心とはいえない様子であった。しかし、さすがに患者を前にすると検査室にいる普段と勝手が違うせいもあってか、やや緊張した面もちで一生懸命説明を聞いていた。

 「すべては患者を診るところから始まる。」このときの櫻井先生の教えはこうであったと思う。それは医師に限らず、臨床検査技師でも同じことなのだという、当たり前だが忘がちな指摘であった。また日本でもタンザニアでも、どの国にあっても全く同じことなのだということを行動で示していただいた教えであった。臨床に結びつかないものは意昧がないということでもある。

  私が小児科に入局しようと決めたのは、いま思い返せば、特段アフリカに派遣されようともくろんだわけではなく、櫻井先生の外来での診察が気に入ったからだと思う。それは常に患者を向いている姿勢に貫かれていた。

  国際医療協力の現場は毎日が戦いの日々である。種々雑多な習慣・制度・主義・主張が入り乱れる中で、自分の身から生まれでた主張を武器として、一方でタンザニアの民衆・プロジェクト仲間、また管理者に、他方で日本の納税者と官僚に訴え、同意を勝ち取っていかなければならない。現在、途上国の保健・医療政策分野では医療より保健、個人より集団のケアという傾向にある。したがって住民参加型の保健政策のプロポーザルが花盛りである。もちろん限られた予算で成果を上げようとしたとき、そのような政策に傾いてゆくのは無理からぬところがある。また、私自身も最初ザンビアに派遣されたときは、その貧弱な医療を目のあたりにして、保健こそが最優先ではないかと考えた。 しかし、保健が重要であることは間違いではないにしても、はたして医療より先に来るのかどうかは今は疑問に思っている。2 年 3 年とアフリカでの生活が地に着いてくると、基本はやはり一対一の医療にあるのだと思うようになってきた。貧しい国の病める人は富める国の病める人と同じように苦しんでいるのであって、それぞれのレベルに応じた一対一の医療が最も基本として存在する。それをこそプライマリーヘルスケアと呼ぶのである。

  一方、今をときめく住民参加型保健政策には注意すべき点がある。一般には住民参加型の地域での活動は、対費用効果や維持の面でよいように思われているが、実際はそう簡単ではない。特に南・東アフリカ地域では困難である。それはいたずらに保健政策を啓蒙してまわるにおわり、大きな財源を砂地に吸い込ませ、終了後、維持できない場合がままある。ただ財源の消え方が物の残骸として残らないので、維持できなかったという印象を与えることが薄いという陥穽があり、気づかれにくい。地域住民参加型保健活動というのは、患者になったことのない人、患者を実際看る立場にない人には理解されやすいが、内実を伴うプランは、私の見てきた範囲では多くはない。また社会運動のようになったときは、全体主義的なきな臭さがにおうこともある。

  私が現在タンザニアのような東アフリカの途上国で、実行かつ維持可能と考える援助の活動形態は、その国の経済レベルに見合った「医療」の形態を見いだし、適正な規模でシステム化することである。タンザニアで言えば、ディスペンサリーレベルでのマラリアと細菌感染のより正確で廉価な鑑別診断と治療であり、それを適正な料金体系で回転できるように組み上げることである。そして、この構想に至った原風景とでも言うべきは、櫻井先生の外来診療であり、臨床検査技師を連れて回った病棟回診であった。


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タンザニア派遣の経験から   一見良司

  私が小児科入局を希望した理由の一つは、三重大学医学部で当時唯一小児科だけが途上国へ人を派遣しており、自分も途上国での暮らしを体験してみたいという、途上国援助に携わっている方々からはお叱りを受けそうな不純な動機でした。しかし、卒業前の小児科のポリクリでは櫻井教授自らがアフリカ視察をされたときのアルバム写真を見せてくださり、日本では体験できないさまざまな事を経験できる、という誘い文句があのころの小児科のキャッチフレーズの1つだった様に覚えています。とすれば、世の中のことを何も知らない温室育ち(?)の医学生が、前述のような不純な動機を抱いたとしても無理なからぬことであったと言えるのではないでしようか。

  そうして小児科に入局し、約 7 年後に待望のアフリカに派遣していただけることとなりました。すでにアフリカに行かれた先輩の先生方にいろいろお話を伺い、家庭内の問題(決して“不和”と言うわけではない)もなんとかクリアーできました。ただ、三重大小児科のタンザニア援助の目標と現状、そこにある問題点、将来の見通しについてはっきりと確認を取ることなく出発準備に気をとられていました。

  出発前に、東京にある国際協力事業団で研修をうけ、途上国援助における日本の姿勢を学びましたが、今から思えば少なくとも医療分野においてはその半分以上は机上の空論に近いものであったと思います。わずか 5 年間の援助期間で、被援助国の自主独立による医療改善を達成する、とは到底できる事ではありません。先進国でさえ医療は赤字分野であり、税収があるからこそどうにかこうにか持ちこたえていますが、きちんとした税管理システムが整っておらず国家予算の7割から8割を世銀や他国に頼っている国でどうして自主独立が可能でしょうか。

  そうしたことなど深く考えもせず、タンザニアに着き、憤れるまでのあわただしさが過ぎ去ると、単身で行った事もあって考え事をする時間はたっぷりとありました。この派遺で自分はなにを成せぱ良いのだろうか、援助・被援助国間の取り決め事項とは何なのか、それを達成するためにはどういうプランが必要だろうか、などが常にその中心でした(二国間の取り決めは向こうに着いてから初めて教わりました)。納得のいく答えはなかなか見つからず、プロジェクトの日本人スタッフ間でもたびたび話し合いを持ちました。結局、最初から達成できそうもない二国間の取り決め目標が良くなかったんだ、という言い訳に逃げ場を求めていたような気がします。

  日本を出発する前に、”途上国と言えどもそこにある文化、そこで暮らす人間を変えることは一朝一夕にできることではない。”と教えられて来ていましたが、いざ仕事として取り組むとなると、何かを成さなければいけない、という観念にとらわれてなかなか開き直ることができず、最後まで不完全燃焼で、いくつかの不満を持ったまま帰国することになりました。派遣期間が短かったためなのか、まだまだ物事を達観できるような境地には到っておらず、未熟な自分が情けなくなりますが、その反面でこういった心理状態は誰もが通過する状況で正常の反応なのだ、といいきかせています。

 派遣前の研修で、『異文化交流』なるタイトルの講習があり、そこで講師の先生がおっしゃった言葉が今も強く記憶に残っています。“援助と言っても、あなた方は何かを教えに行くのではない。日本人の生き様(いきざま)を見せればそれで良い。彼らがそこから学びとる。”


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タンザニアで学んだこと   足立 基

  当教室が国際協力を行っていることは、入局前から知っていましたが、自分がそれに参加することになろうとは、想像もしておりませんでした。学部学生の時に医動物の松岡裕之先生(現自冶医科大学)がマラリアを研究されていましたが、当時はどうしてそれが日本で必要なのか、良く理解できませんでした。

  入局後 3 年間、新生児を勉強させて頂いた後、突如、「タンザニアに行かないか」と櫻井先生に言われましたが、最後の最後まで冗談だと思っていました。今でもどこまで冗談なのか本気なのか、理解に苦しむことがあります。「いい人生経験だから行ってこい」とおっしゃったと記憶していますが、何がどういうふうにいい経験になるのかという示唆はもちろんありませんでした。そして、1995 年から 96 年にかけて 1 年 2 カ月、東アフリカ、タンザニアのダルエスサラームヘチームリーダーの新藤先生の下に派遺されました。実際にマラリアや栄養失調の子ども達を目の当たりにすると、そのインパクトは大変なものでした。新生児病棟では大した設備もなく、一つのコットに 2、3 人も寝かされ、運良く退院できても家庭での栄養状態が悪いために亡くなってしまうという話を聞いたり、薬も酸素もない無い中で、日本での自分たちと同様、身を削って働くドクターの姿を見るにつけ、医療技術や機材だけを供与しても根本的な解決にはならないことを実感しました。

  また、ポリオワクチン接種に携わる中で公衆街生の影響力を見る機会も与えられました。それまで途上国の惨状について漠然とした知繊やイメージは持っていましたが、実際に現地に身を置くことにより、途上国への協力の必要性を実感を伴って理解するようになりました。途上国医療において最も必要なのは一分野の協力だけではなく全般的な政策であり、公衆衛生が果たす役割が大きいことを知り、公衆衛生について勉強したいと思うようになりました。帰国後、医動物学教室で先天性マラリアのティーテルアルバイトをさせて頂くうち、櫻井先生が武見フェローを紹介して下さり、現在、ハーバード大学公衆街生大学院で本格的に公衆衛生を勉強させていただいております。

  櫻井先生は私をタンザニアに派遺することで、アフリカの子ども達も日本の子ども達と同様な扱いを受けるべきという視点を与えて下さいました。櫻井先生はいつも確信部分について多くを語らず、「まずやってみろ」とおっしゃいます。若造には時に理解できないこともありましたが、今考えると先生は最初から大局を見据えて道を示しておられたと思います。櫻井先生は自分の進路ついて多大な影響を与えて下さいました。まだ自分自身模索中ではありますが、先生が目指されていた理想に少しでも近づいて行けるように努カしていきたいと思います。


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アフリカで魅せられたこと   西森久史

 入局以来、ことあるごとに(ほとんど酒の席でしたが)「一人前になったら、アフリカに行かせて下さい。」と、櫻井先生には申してきておりました。そんな私が 96 年の夏、いまだ半人前、いや 4 分の 1 人前かそれ以下の分際で、タンザニア母子保健プロジェクトに派遣させて頂くことができました。高校時代から憧れていたアフリカで習ったこと、アフリカに教えられたことがたくさんあります。それをすべて書くことは出来ませんが、私なりに「ああ、アフリカらしいなあ。」と思えたエピソードをいくつか紹介します。

 日本では最近「物乞い」を見なくなりました。私でも小さい頃は、ちょっとした街へ出ると、道ばたで物乞いをする人がいるのを見たことがあります。途上国と言えば、ストリートに物乞いの子供たちがあふれ、白人、日本人をみるとワッと集まって来る、というイメージがありませんか? タンザニアは東南アジア諸国とくらべると、物乞いをする人たちは少ない、と知人から聞いたことがあります。ですが、一歩街へ出ると交差点では、すぐに何人かの物乞いの少年達がやって来ます。たいていは「働こうともしないような連中に、恵んでもしょうがない。癖になるだけだ。」といって 1 シリング(タンザニアの通貨で 5 シリング= 1 円ぐらい)も出さない方が多いようです。また、日本を出る前から、「使用人から金を貸してくれとしょっちゅう言われて困る。」「貸した金をいつまでたっても返してくれない。」という話をよく聞いていました。実際には、使用人だけでなく、一見、生活にあまり困っていなさそうな友人まで、「金を貸してくれ。」といった旨のことをよく言ってきました。彼等の話すスワヒリ語を直訳すると「お前の助けが欲しい」と言っているのですが、、、。ある日、プロジェクトの現地人スタッフと車で街へ買い物に行ったときのことです。交差点で信号待ちをしていると、彼が坐っている席の窓越しに少年が歩み寄ってきます。何日も洗っていないであろうボロボロのシャツに、裸足という格好は、誰が見ても物乞いの少年です。「お腹が空いているんだ。」とジェスチャーまじりに訴えかけてきます。現地スタッフの彼は、手あかで汚れた小さな財布をポケットから取り出し、小銭何枚かをその少年に手渡しました。「いくら渡したの?」「自分の昼飯代と帰りのバス代とちょっとを残して、財布の中にあった端数をあげた。」きっと、財布の中には、私たちの感覚でいうと 500 円玉、100 円玉、10 円玉が 2-3 枚、あとはスーパーのおつりでもらった 5 円玉と 1 円玉がパラパラ入っているようなものでしょう。そのなかから 10 円玉以下を渡した程度です。一方こっちの財布には、小銭の他にあと 1 万円札が 1 枚、1,000 円札が数枚入っていたようなものでしたが、そこから 1 円玉でも渡せたでしょうか? その少年は、数 10 円をポケットに入れ歩道で次の赤信号を待っていました。

 私と新生児の頭部エコーを行っていた現地医師がいましたが、休暇中にメッカまで巡礼に行ってくるぐらいの敬けんなモスリムです。もちろん、敬けんなモスリムということだけではメッカまではいけませんので、多少は経済的に余裕があるようです。その証拠に、10 年以上経った物でしたが、日本車の中古に乗っており、二人の子供達は午前は公立の学校、午後はイスラム系の私立の学校へ通う、一般の人から見れば十二分にお金持ちの家庭の主です。その彼とエコーをしていると、日にちを間違えたのでしょう、心エコーの患者さんが来ました。地方から検査のためにやって来たようで、「今日は心臓の日じゃないですよ。」と教えれば、これからまだ心電図を受けるように言われ、しかもよその病院で 5,000 円かかると言われたそうです。もちろんそんな額の所持金があるはずもなく、しかも、モスリムの彼いわく、どうもだまされているようでした。医療スタッフのだれかが、高い額を言っておき、浮いた分をくすねるつもりだったのでしょう。そして、次の心エコーは来週まで待たなくてはならず、その人に、来週までダルエスサラームで過ごすお金があるはずもなく、もしくは一度家に帰ってまた来るなど、長距離バスをもう 1 往復乗る余裕もないはずです。きっと、受診するために近所の人や親類から、少なからず援助をしてもらっているはずです。そこでモスリムの彼は、「その検査にそんなにかかるはずがない、そこの病院でよく値段を聞いたほうが良い。今の僕にはこれしかできないけど。」と言って、財布から 5,000 円を渡すのでした。そのときに私にできることは? と考え、とりあえず心エコーをしました。

 週末によく家に遊びに行く、看護士をしている友だちがいます。彼は家に兄弟 6 人とくらしており、みな各々職をもっていますが、ある時、彼のお兄さんの一人がイギリスに出稼ぎに行きたいと話していました。イギリスのビザを取るために、まず往復の航空券が必要で、そのためにはあと 2,000 ドル必要だということでした。しばらくして、近所の人が 800 ドル出してくれたと言うので、親戚でもないのによくそんな大金を出すものだと、どんな人かとその人を訪ねてみました。彼等の家から歩いて 2-3 分のところにあり、商売がうまくいっているためか、5LDK ぐらいの大きな平家をかまえ、20 年以上は経っていると思われるプジョーを大事に乗っていました。部屋には 25 型はありそうな大きなテレビとビデオデッキがありかなり羽振りが良いようで、「友だちが、成功してくれたら嬉しいじゃないか。」と、融資の理由を簡単に語ってくれました。

 友だちのお母さんが倒れたため、私の車で病院へおくったり、そのあと皆を送ったりで、一日中ダルエスサラームの街を走り回った日がありました。夜になって別れ際に「もう燃料がなくて家に帰れないよ。」とこちらが言ったところ、「じゃあこれで家に帰るだけの燃料代にはなるか?」といって、皆でお金を出し合って1,000 円渡してくれたことがありました。皆から見れば、こっちは現地で新車を買った、日本人の金持ちです。それでも困っているとなれば、できる範囲で助けてくれるのです。

 目の前に困っている人がいたら、その時に自分ができるだけの手助けはする。そして、その見返りはまったく望まない。だから、お金を「貸す」のではなく、「使ってもらう」という感覚なのでしょう。そして自分が困った時も周囲の人たちが力をあわせて助けてくれる。少しずつ貯蓄をしていけばよさそうなものなのに、おそらく「守銭奴」に成り下がってしまうことを本能的に拒否しているのでしょうか? 確かに財布の中の小銭の端数は、なくなってもまったく困りませんし、酒を飲む、美味しいものを食べる、気に入った服を買う、ちょっとかっこのいい小物を買う、などの余裕は他人の役には全く立っていない出費です。そのちょっとの余裕を、人の役に立てるためにスッと出せるなんて、格好いいとは思いませんか。

 保険制度、社会保障制度がない国での昔からの自然な知恵、「返した」「返してない」で人間関係にひびが入ったりすることもなく、「保険がたったこれだけしかおりなかった」という愚痴のない世界。貧困、難民、途上国、マラリア、エイズが蔓延している大地など、世間ではネガティブなイメージのアフリカは、実は太っ腹な人たちの大地であることが胸に刻み付けられました。これからも、この懐の大きなアフリカに、まだまだ小さな自分ではありますが、色々な角度で関わっていきたい、医者という職業、技能だけにとらわれずに何かできないかと、いまでも考えています。

 最後に、私のような若輩ものをタンザニアに派遣して下さった櫻井先生はじめ、三重大学小児科学教室に深く感謝致します。

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