日本人の2人に1人ががんになる時代を迎え、先月から社会面やくらしナビ面で連載を始めた「がんを生きる」に、読者からたくさんの感想や意見が寄せられた。自身や親しい人のがん体験を織り交ぜ、失ったものや得たものを具体的に記した便りも多かった。身近でありながら人生に大きな影響を与えるがんという病気の素顔が浮かぶ。一部を紹介する。
12月16日に1面、社会面で連載を始めた「がんを生きる-寄り添いびと」は、東京・新宿のNPO法人「東京自殺防止センター」で電話相談に取り組む西原明さん(79)とその仲間を取り上げた。07年暮れに、大腸がんで「余命1年」と告げられた西原さんは、自分の命と向き合いつつ、自殺者を減らす活動に取り組んでいる。
■がん=死ではない
「寄り添いびと」という言葉は西原さんにふさわしいと思いました。「人は他人の死を通して死を学び、自分の死を前にして生を意識する」という言葉は心に響きました。私は22年間介護した90歳の母を10月に肺がんで亡くしました。連載を読み終え、がん=死ではなく、希望を見いだすこともできるというメッセージが伝わってきました。=東京都北区、フリーライター、藤田越子さん(49)
■生と死考えた
祖父母が亡くなった時のことを思い出しました。その時、私は初めて本当の「死」を理解しました。でも、たぶん「生」を意識することってめったにないです。記事を読んで「生と死」について考える機会ができました。とても感慨深い特集でした。=兵庫県明石市、県立明石西高2年、藤原香さん(16)
■命の教育を
現代は「命についての学び」が皆無に近い状態だと思います。年間の自殺者数を掲載しているメディアは数多くありますが、「自殺を防止するための人間教育・心の教育」を打ち出しているメディアはなく、気になっていました。
明氏の活動には言葉では表せない敬意を感じます。だからこそ、「偉いね」「すごいね」と感動・感心させることだけでなく、もっと深い部分、すなわち「教育」としての部分をぜひお作りいただきたいと願うのです。=大阪狭山市、心理カウンセラー、おだみえこさん(39)
■表情の違いに驚き
初回の1面と社会面の西原さんの表情の違いに、相談を受ける大変さを感じます。私はもう20年も不定愁訴が続いており、日替わりでいろいろな症状が起きます。やっと最近「これらの症状も含めてすべてが自分なんだ」と受け入れられるようになりました。
寄り添うというのはとても大変で、夫婦でさえ思うようにいきません。記事に出てきた皆さんが持っている「寄り添う気持ち」と穏やかな心を少しずつでも私の中に染み込ませていただけたらと思います。=横浜市栄区、主婦(63)
■寄り添うとは
私は10年前に主人を「スキルスがん」で亡くしました。医師から「治療方法がない」と言われ、夫は延命を望みましたが、私は何も言えませんでした。
記事を読んでやっとわかりました。寄り添うということは相手の中に入り込まないこと。わかっているようでなかなかできない。気持ちが先に同情に走り、他人の心の中に入り込んでしまう。自分の弱さがはっきりわかりました。=東京都中野区、主婦、嵯峨野あき子さん(69)
■3年前の電話
3年前の冬、自殺防止センターに電話した私に、男性は「あなたは一人ではないですよ。この電話がつながっています」と言いました。その言葉を聞き、夜を乗り越えました。
私は線維筋痛症という全身に激痛が走る難病を抱え、痛み止めのモルヒネを服用しています。
あの日、電話にだれも出なかったらこれを飲もうと、大量の睡眠薬を準備していました。男性と話したのは2時間ぐらいでしょうか。電話を切るころには薬を捨てていました。
記事を見て、あれは西原さんだったと確信しています。=奈良市、作家、早瀬さと子さん(22)
西原明さんは今月13日から、都内にあるホスピス病棟で療養を続けている。
がんの進行に伴い年末から体調はすぐれなかったが、大みそかには東京自殺防止センターの電話当番に入り、10本近い相談を受けた。センター開設以来、妻の由記子さん(74)と続けてきた恒例の「年越し電話相談」だった。
無理がたたったのか、年明けの2日に40度近い発熱や腰の痛みに襲われた。主治医の往診と訪問看護を受けたが衰弱し、相談の上かねて下見をしていたホスピスへの入院を決めた。現在は平熱に戻り、モルヒネで痛みも和らいだ。明さんは「24時間介護付き快適生活」と言っている。
体調が良い時は、病室に持ち込んだパソコンに向かって、東京自殺防止センター10周年史に寄せる文章を執筆中だ。「今回の入院は、がんの状態を改めて自覚する機会になりました。いままで通りの生活や外出は難しくなったけれど、ここでやれることはあります。自分の体調と相談しながら、毎日それをこなしていくことに決めました」。明さんの現在の心境だ。【萩尾信也】
千葉県栄町立栄中学校(大久保雅従校長)の2年3組の皆さんから「寄り添いびと」を読んだ感想文を送っていただいた。西原さんの活動に驚いたり、生きる素晴らしさを感じたりしたことなどが素直につづられている。
担任の片桐由美子教諭によると、感想文は先月、連載直後の道徳の時間を使い、30人の生徒のうち欠席を除く28人が初回と3回目の記事を読んで書いた。
篠田千晶さんは「最近のテレビや新聞では、殺人のニュースや自殺のニュースが多くて、命の大切さが薄れているなと思いました。病気であと少ししか生きられなくても、生き方がとても大事なんだと知ることができました」と書いた。
佐藤良樹さんは「(西原さんは)余命が1年と告げられて、その1年でやりたいことが今までやってきた自殺防止センターでの電話(相談)だったので驚きました。『孫と一緒に遊びたい』などということかと思っていました。僕もやりたいことを貫き通すことを大切にしたい」と生きがいについて思いを巡らせた。
「人の命のことを真剣に考えられるってすごいなあと思います」と書いたのは青木明穂さん。「私たちは口が悪く、相手にひどいことを言ってしまう時があります。でも、それじゃいけない、ダメなんだ、そう思いました。当たり前のように過ごしている生活を大事にしなければいけないなと思いました」
葛生貴紀さんは「『日本人の2人に1人ががんになり、3人に1人ががんで死ぬ』というのは衝撃的でした。あと3万人もの人々が自ら命を絶つなんて驚きました。いつ死ぬかなんてだれにもわからないことです。だから、今のうちにやりたいことをやらなければ後悔してしまいます」と決意を込めた。
前田すみれさんは生きるのに何が必要か考えた。「笑顔や頑張ったことを認めることが必要だし、何より痛みに寄り添うことが必要だと思った」という。
五十嵐萌さんは西原夫妻の笑顔を切り取った写真が印象に残った。「人の命はいつか消えてしまう。それは一番生きていてつらいことであり、受け入れたくない事実です。西原さんも強いですが、奥さんの由記子さんも強いと思います。夫の死が近いことを受け入れて笑って話しかけている。私は弱気なので、もっと自分に自信を持たなくちゃ」
片桐教諭は授業について「私が何かを言って聞かせるより、記事を読ませた方が生徒の心に響くと思いました。普段、生や死について真剣に考える機会が少ない現代の子どもたちが、懸命に書いてくれました」と語った。
くらしナビ面で12月23日から連載した「がんを生きる-いのちの時間」は、56歳で悪性リンパ腫と診断され、11年目の今も治療を続ける佐藤昂(あきら)さん(66)らを取り上げ、がん告知を受けた患者のさまざまな思いや医師への告知教育などを描いた。
■医師への不信
07年5月、父(当時62歳)のせきが止まらず、関西の県立がんセンターで検査を受けました。「食道がんです。大きいので手術では取れません」。40代ぐらいの医師は、父の前で突然告知を始めました。事前の相談もなく、事務的な冷たい告知でした。父は入院を待つ間に容体が悪化し、2週間後に亡くなりました。
医師の仕事の過酷さは理解できますが、患者や家族の気持ちをもっと分かってほしい。「一緒に頑張りましょう」の一言があれば救われたのに。医学部で「人間教育」のカリキュラムを作る必要があると思います。=横浜市青葉区、主婦(37)
■うそがつらくなり告知
昨年5月、母(79)が突然胸苦しさを訴え、末期の左肺腺がんと分かりました。本人には肺炎と伝えましたが、うそがつらくなり、1カ月後に告知しました。母は体を震わせ、医師の説明を聞きましたが、最後は「頑張ってみる」と言ってくれました。告知を受け、がんと向き合う覚悟を決めたようでした。「越年は無理」と言われましたが、抗がん剤治療を受け元気に過ごしています。
看護師として30年間働き、多くのがん患者と接しましたが、医師や看護師のサポートがいかに大切かを痛感しました。今後は患者を母と思い、支えたいと思っています。=大阪府、看護師、女性(52)
■大切な「告知後」
昨年10月、肺がんの手術をしました。5年生存率は25%と厳しい状況ですが、告知を受けて病気を正しく知り、生き方を見直せました。
きっかけは昨春受けた人間ドック。都内の病院で「肺がんの疑い」と言われました。パソコンのデータを見たまま淡々と入院や検査の日程を告げられ、「この先生とは長くつき合えない」と感じ、セカンドオピニオンを受けた大学病院で手術しました。担当医は勤務先が変わっても、暇をみて病室を訪ねてくれました。
大切なのは告知後のサポート。患者は厳しい精神状態にあります。医師らにいつでも相談できるカウンセリング体制の整備が不可欠と思います。=東京都、会社員、女性(48)
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「がんを生きる」は2月から新シリーズを連載します。がんを巡る在宅医療をテーマに、患者と患者を支える人々のドラマを描きます。
毎日新聞 2009年1月22日 東京朝刊