「よし、いいぞ」
小さなスタジオに男性の声が響き渡る。
その瞬間、今まで張り詰めていた空気や気持ちや緊張が一気に緩み、それまでそこにあるようでないような曖昧な存在でしかなかった
椅子や壁や時計やらが急に現実味を帯び始める。
ゆっくりと目を開けるように、ぼやけていた視界が徐々にクリアになり、その目を通して次々とまわりの意識が頭の中に飛び込んでくる。

 歌の世界から現実に引き戻される瞬間――

初めてマスターにOKを貰ったときからずっと、何度経験してもこの感覚だけは変わることがない。
ふう、と小さく息をついてゆっくりとヘッドフォンを外す俺に声の主―マスターが声を掛ける。

「いい調子だな、カイト。声質も良くなってきたし、歌い方にも個性が出てきたな」
「あっありがとうございますっ」

思いがけない言葉に思わず背筋が伸びる。
俺達ボーカロイドにとってマスターに褒められるということは何事にも変え難い悦びだ。
そういうことにあまり慣れていない俺はこんな時どういう反応を返せばいいか分からない。
何か言おうとぱくぱく口を動かしてみたけれど、気のきいた言葉が出てくることはなかった。

「何か良いことでもあったのか」

きめるべきかボケるべきか
続く言葉を考えあぐねていた俺は、マスターの何気ない一言に思わずうぐっと息を詰まらせた。

「なっ何にもっ!何にもないで、す…

―怪しい
怪しいことこの上ないと自分でも思う。
俺なら絶対何事かツッコミを入れているはずだ。
(むしろ今自分で入れてやった)
けれど、先ほどから何やらかちかちとフォルダを漁っている様子のマスターはそちらに気が向いているようで
俺の怪しい返答に特にツッコミを返すことはなかった。


  隠し通すことは不可能だし、そもそもそんなつもりもない





じとり、と
背中に嫌な汗が流れる。
落ち着こうとする意志とは裏腹にドキドキと鼓動を早める心臓の音が煩わしい。
(き、気分悪い…)
真剣に胃が痛くなってきた。

(いかん)
咄嗟とはいえ「何でもない」と答えてしまった手前、ここで変に動揺を見せるわけにはいかない。
(マスターが聞いていたかどうかは分からないけど)
努めて平静を装って(俺はすぐに顔に出るらしいので)マスターからの指示を待つ。

「あったあった。カイト、少し早いが次の曲だ」

「え?」
曲?
思ってもみなかった言葉に驚いて顔を上げると、マスターはハハハと笑って
「今回はソロじゃなくてミクとのデュエットだ。実はもうミクには楽譜を渡してある。
お前に渡すまで内緒にしておくよう言っておいたんだが、その様子だと本当に知らなかったようだな」

ミク、の言葉にどきんと胸が鳴る。
胸の奥で緑がふわりと笑ったような気がして、全身が穏やかな熱に包まれる。
顔が赤くなるのを自覚した。
…意識しすぎだ。
そういえば 新しい曲を貰ったと嬉しそうに言っていたっけ
この曲のことだったのだろうか。

(デュエット…か)
気を散りなおして、渡された楽譜に目を通してみて

「……」

絶句した。

「…あの、マスター」
「なんだ」
「これ 今回もマスターが作詞作曲されたんですよね」
「そうだ、良い曲だろう。テーマは『恋する女の子』だ」
「はあ」

アップテンポでころころと弾むような曲調が堪らなくキュートだ。
赤いハートが飛び出してきそうで、成程「恋する女の子」というのも頷ける。

が、問題はその歌詞だ。

可愛らしい曲調からはとても想像がつかない。
(大胆というかストレートと言うか…)
かなりきわどい言葉が躍る。
直接的な表現ではない分却って想像力を掻き立てられ、
これをミクが歌うのかと思うと
「…」
否、そうじゃない。

「これ、歌うんですか?俺とミクが」
「文句あるのか」
「いっいえっそういうわけでは」
低い声で返されて慌てて首を横に振る。
曲についてはこれ以上触れないほうがよさそうだ。

「あの、それでミクは何て」
「お前とのデュエットだと言ったら喜んでいたぞ」
歌詞の意味を分かってるんでしょうか」
「さあなぁ」

そのとき、マスターがちらりと俺を見て笑った
―ような気がした。

冷静に考えれば、マスターが俺達のことを知らないはずがない。

だけどそのときの俺は
もしかしたら知らないかも
もしかしたら気づいてないかも
などという希望的観測みたいなものを抱いていた…ように思う。
むしろ抱いていたかった。

たっぷりと意味深な後味を残してマスターが言う。
それに気づかないほど俺も馬鹿じゃない。


「知らないならお前が教えてやればいいじゃないか。カイトお に い ちゃ ん


ああ やっぱり

希望的観測は脆くも崩れ去った。
やっぱりマスターは全部知ってるんだ
俺と、ミクのこと
知ってて俺の反応を試してるんだ

(うう…)
きりきりと音を立てる胃を抱え、マスターの生暖かい視線に見送られてスタジオを後にした。





スタジオからフォルダに戻るまでいろんなことを考えた。
考えて考えて、そもそも何を考えていたのか分からなくなりかけた頃、ふと我に返った俺はフォルダの前まで戻ってきていた。
あさってな考えに全神経を傾けている間も帰省本能だけは立派に機能していたということか
我ながら感心する。
ひとしきり感心しているところに、フォルダの入り口あたりでぴょこりと緑が揺れるのが見えた。

「あ…」

ミクだ。
ミクは俺に気づくと、おにーちゃーん、と笑顔で手を振る。
つられて少し手を上げた。
ぱたぱた、と駆け寄ってくるミクに
「どうしたんだ、こんなところで」
「お兄ちゃんを待ってたんだよ」
「ん…ああ、そうか」
ただいま、と告げると白い頬にふわりと赤みがさした。
そして、はにかんだように小さく笑う。

「おかえりなさい、お兄ちゃん」


 ―ミクの笑顔が好きだ


笑った顔だけじゃない
泣き顔も 怒った顔も 拗ねた顔も
小さなしぐさひとつひとつを とても愛おしく思う

守ってやりたい

大好きな歌を いつまでも歌わせてやりたい

いつの頃からだろう こんな風に考えるようになったのは

「ね、お兄ちゃん」
俺の袖を引っ張りながらミクが見上げてくる。
きらきらと、大きな瞳いっぱいに込められた期待
何が言いたいのかはすぐに分かった。

そうだ、俺も 君に言わなければならないことがあるんだ

「マスターから聞いたよ、新曲のこと。頑張ろうな ミク」

それは、ある意味賭けだった。
ミクの気持ちを確かめたくて、わざとなんでもないそぶりを装って、言った。

―ミクは
ミクは、大きな瞳を目いっぱい細めて
「うん!」
と嬉しそうに笑った。

「……」
やっぱり
その瞬間、俺はほんの少しだけため息をついた。
この様子だと
やっぱり意味まではわかってない、か

けれど

いくら考えたところで 答えなど最初から決まっている。
何より、こんなに楽しみにしている様子のミクをがっかりさせたくなかった。

俺の することは

するべきことは


ミクを

「お兄ちゃん」
ミクが俺を呼ぶ。
先ほどより甘さの含まれた声。
今度は俺の指に自分の指を絡めて、蒼の瞳に微熱をこめて、誘うように見上げてくる。
腰を屈めてやると、安心したように笑ってミクが目を閉じる。
俺はそのままゆっくりと顔を近づけた。
二つの影が近づき、重なるのを横目で確認して
俺も目を閉じる。


 彼女は ミク


人気絶頂のバーチャルアイドルであり 俺の妹であり
そして 俺達は

 ―そういう関係 デス






to be continued...