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2008.11.17

「幾松」の評価を再検討すべきと知る

11/16(日)

 京都龍馬会の創立15周年紀念イベントが京都ホテルオークラで行われた。晴れがましいことに、紀念講演をいたした。

 龍馬殺害論について。薩摩黒幕説がなりがたいことを申し上げる。時間オーバーしたが、誰も文句いわず聴いてくださる。

 それを記した拙著『京都の江戸時代をあるく』を文理閣の山田ちさ子さんが売りに来てくださった。20冊も売れた由、ありがとうこざいます。のぞまれてサインもたくさんした。

 終了後はパーティ。楽しかった。

 講演前、理事長赤尾博章さんのご紹介で、中京区木屋町御池上ルの「幾松」の若女将と専務からご挨拶をいただいた。分厚いお手紙も頂戴した。

 パーティ終了後、そのお手紙を拝見した。

 ながく僕はブログなどで、「幾松」の入り口に建てられた「桂小五郎幾松寓居趾」標石に史料根拠はない、幕末に桂小五郎や幾松が「幾松」の敷地や建物に居住した可能性はかなり低いと述べてきた。それに対する批判であった。

 週刊ポストの本年10月10号などで「幾松」は、「観光偽装」と断じられている。「幾松」はそれに具体的反論をしなかった。

 が、それに対して今回僕には批判をなさった。しかし驚いたことに、僕を信用してくださるようで、「幾松」側が収集した、正当性を示す資料をみせたい、その上で研究者として適切に判断せよという申し出だった。 

 その姿勢は驚くほどまっすぐで感銘を受けた。近年、こんなに真正面から、礼を失することなく抗議を受けた記憶がない。

 さっそく折り返しご連絡し、すぐにお目にかかることにした。

 赤尾理事長も同席されて、2時間ほど、「幾松」で若女将や専務のお話をうかがった。多数の調査資料も拝見した。週刊ポストの記事以後、若女将の義妹さんなども協力されての成果という。

 結論を申し上げると、調査成果は妥当と判断した。すなわち、「幾松」は「観光偽装」とはいいがたいということである。

 基本的な意見はかえるつもりはない。「桂小五郎幾松寓居趾」の可能性は低いといまも思っている。

 が、見落としがあった。桂小五郎が木戸孝允になったのち、すなわち明治以後はどうかという意識が欠落していた。

 開き直るつもりはない。これは恥ずかしいことだと思う。

 維新後、「桂小五郎幾松」が「木戸孝允と松子夫妻」になったのちの居住地だった可能性が高いと思えた。

 木戸孝允が竹屋町土手町の住居で亡くなったことは有名である。それに目をうばわれて、その他の住居のある可能性を想定していなかった。

 孝允の没後、木戸松子のついのすみか、すなわち終焉地がここである可能性がある。

 ちかい将来、どういう形になるかわからないが、その根拠は必ず公表したいと思う。若女将が資料提供を約束してくれている。

 くどいが、幕末に桂小五郎と幾松の住居だったことは今でも否定的である。だからよく紹介される、この場所でここの長持ちに桂小五郎が入り、幾松の機転で近藤勇の追捕から免れたというエピソードは信じていない。

 が、それを「観光偽装」というのはあたらないだろう。

 維新後の木戸孝允や妻松子の住居であったなら、ここまでの件は「誤解」の範囲として許されていいはずだ。

 明治以後の「事実」が、いつの頃か幕末期のはなしに転じ(これは「幾松」開業以前であることは確実)、それを信じた「幾松」が御客にわかりやすく伝えたいというリップサービスから、誤って事実でない可能性の高いことを述べてきたと理解している。

 少なくとも営利のため、まったくなかった話を「幾松」が創出したというのは事実無根だということははっきり申し上げておきたい。

 寺田屋や幾松を攻撃対象にしている個人などがあるようだが、どのような立場で発言しておられるのだろうか。

 世の中には、研究者が学術行為によって否定したにもかかわらず、いまだ「古くからの伝承ですから」といい、事実ではない由緒を語りつづけている寺社・旧蹟がそこらじゅうにある。

 たとえば二条城。徳川家康が征夷大将軍に宣下された場所と書かれた解説板がある。とんでもない。伏見城である。

 この誤解は、江戸初期の政治史における「首都」の重要性にかかわるので無視できない。

 高台寺もそうだ。北政所(高台院)のついのつみかということになっているが、おそらくちがう。現在の仙洞御所の地の邸宅の可能性が高い。

 北政所(高台院)の当時の政治的、地理的な位置をしることは、江戸初期の豊臣・徳川の政治史を考えるうえで重要である。

 2006年のNHK大河ドラマ「功名が辻」の主人公、山内一豊の妻見性院(ドラマでは千代)が、夫の死後、一周忌をまたず、わずか数カ月で高知を出て、上洛し、「桑原町」の屋敷に入った。

 なぜか、それは「桑原町」屋敷の位置をしればわかる。柳馬場丸太町である。

 北政所邸の至近なのだ。江戸初期、豊臣家の京都の拠点のそばで、政治的情報をキャッチしようとしたにちがいない。

 高台寺に住んでいたと思っていては、この大事なことに気づかずにいてしまう。それゆえ研究対象の地理的位置の解明はとても大事なことなのだ。

(拙著『京都の江戸時代をあるく―秀吉の城から龍馬の寺田屋伝説まで』文理閣、200810)

 だから二条城や高台寺が語る由緒を問題視している。

 寺田屋や幾松への批判が私的な怨恨によってなされてはならない。配慮はあるべきだが、学術行為だからこそ許される部分があると思っている。

 そうでなければ、生活権の侵害となるおそれがある。営業妨害や地域いじめの問題である。

 寺田屋や幾松への批判を「正義」だとされるなら、有力な寺社・旧蹟の由緒の誤解は見落としてはならないことになる。

 だからといってそれをすべきだとはいわない。

 かりにされるにしても、その場合も学術行為でなくてはならない。

 なんのために批判するのか、どういう研究目的なのかを明確にしない者は語る資格はない、とさえいえるだろう。

 そうでないと、ただのいじめ、暴力でしかない。心してほしい。

 もちろん「桂小五郎幾松寓居趾」標石の処置も含めて、今後の案内の仕方には、改めるべきところがあるとは思う。

 僕は、「石碑の与えた影響そのものが文化」だという立場であるので、その撤去はのぞみたくない。

 その意味では、「桂小五郎幾松寓居趾」標石は、単体ですでに広義の「文化財」だとさえいえる。

 その位置に置いたまま、そばに「木戸孝允・松子夫妻居所参考地」というような新碑をたて、経緯を記した解説板をおく、というのが理想的だろう。

 若女将と専務に、「幾松」へのこれまでの失礼を謝し、実証的な「幾松」の顕彰にご協力することを申し上げて辞去した。こちらの反省点は多いが、すがすがしい気持ちがつよかった。

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