安竜福が言うところの「子山島(于山島)」って鬱陵島近傍のchukdoのことだよねぇ(再掲) | 178|共感0
1652515| JAPANelseorand | 2007.08.30 14:02:00
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竹嶋紀事
1693年(元禄六年)四月の安龍福の対馬での供述
この度参候島(鬱陵島)より北東に大きなる嶋これあり候。
かの地逗留の内ようやく二度これを見申候。
彼島を存じたるもの申候は于山島と申し候通り申し開き候。
終に参りたる事はこれ無く候。
大方路法一日路これ有るべく候
。」

(訳:今回やってきた鬱陵島の北東に大きな島があった。鬱陵島に来てから、やっと2回見ることができた。

その島を知っている人が言うには「于山島」ということだ。結局、行ったことは無かった。距離は大体1日分の距離であろう。)

 

行ったことがないために距離感に関してはおかしいが、海岸で漁をしていた安竜福には竹島(獨島)が見えることはないから、上記地図の通り鬱陵島の北東にあるchukdoを安竜福は「于山島」と認識。

(ちなみに、鬱陵島から竹島(獨島)が見えると主張した韓国でも、鬱陵島の山頂からが必須で、しかも天候などの条件が大変に良い状況と極めて厳しい限定状況でしか、見えることを主張できていない)


邊例集要 巻17 鬱陵島 甲戌
甲戌 (一六九四) 正月 竹島被捉罪人蔚山居朴於屯·安龍福處發問目推問則朴於屯招内癸酉三月租二十五石·銀子九兩三錢等物載持貿魚次自蔚珍向三陟之際漂風到泊於所謂而竹島至於伯耆州遠近事段矣身留駐本島第三日倭人七八名不意中乘船來到執捉矣身仍自其島發船經三晝四夜之後始達伯耆州爲白乎■(方+尓)竹島大小周回段其大較之於釜山前洋絶影島則二倍有餘是白遣周回則不能詳知而所見極廣濶是白乎■(方+尓)山形段山有三峯高峻接天是白遣其餘多是平廣之地而川水流出於海是白乎■(方+尓)樹木·芦竹·禽獸等物段有柯重木·柄子木·香木又有冬栢木是白遣有大竹其節甚長其圍甚大而直聳叅天是白遣又有箭竹是乎■(方+尓)島中人戸居住事段即今雖無居住之人戸而相連而空基多有是白乎■(方+尓)本島去伯耆州水路里數事段矣身被捉入去之時得水疾僵臥船中只記其三晝四夜之後得達不能詳知是白乎■(方+尓)此島前後更無他島云云安龍福招内山形草木等辭一樣而末端良中矣身被捉入去之時經一夜翌日晩食後見一島在海中比竹島頗大云云縁由馳啓

 

初回に日本に連れて行かれたとき、半島人二人が見た島とは「鬱陵島よりも大変に大きい島」である連行先の隠岐。(片方は船酔いで伏せっていたから、論外だが)

「安竜福の言うところの于山島」がchukdoであるしかないよね。


粛宗実録 巻三〇 二十二年九月戊寅
備辺司推問安龍福等龍福以為渠本居東莱為省母至蔚山適逢僧雷憲等備説頃年往来欝陵島事且言本島海物之豊富雷憲等心利之遂同乗船與寧海蒿工劉日夫等倶発到本島主山三峰高於三角自南至北為二日程自東至西亦然山多雑木鷹鳥猫倭船亦来泊船人皆恐渠倡言欝島本我境倭人何敢越境侵犯汝等可共縛之仍進船頭大喝倭言吾等本住松島偶因漁採出来今当還往本所松島即子山島此亦我國地汝敢住此耶遂拾良翌暁沱舟入子山島倭等方列釜煮魚膏渠以杖撞破大言叱之倭等収聚載船挙帆回去渠仍乗船追趁埣偶狂飆漂到玉隠岐島主問入来之故渠言頃年吾入来此処以鬱陵子山島等定以朝鮮地界至有関白書契而本国不有定式今又侵犯我境是何道理云爾則謂当転報伯耆州而久不聞消息渠不勝憤椀乗船直向伯耆州仮称欝陵子山兩島監税将使人通告本島送人馬迎之渠服青帖裏着黒布笠穿及鞋乗轎諸人並乗馬進往本州渠興島主対坐廳上諸人並下坐中階島主問何以入来答曰前日以兩島事受出書契不啻明白而対馬島主奪取書契中間偽造数遣差倭非法横侵吾将上疏関白歴陳罪状島主許之遂使李仁成構疏呈納島主之父来懇伯耆州曰若登此疏吾子必重得罪死請勿捧入故不得禀定於関白而前日犯境倭十五人摘発行罰仍謂渠曰兩島既属爾国之後或有更為犯越者島主如或横侵並作国書定譯官入送則当為重処仍給糧定差倭護送渠以帯去有幣辞之云雷憲等諸人供辞略同備辺司啓請姑待後日登対禀処允之

 
「日本人が、本来は松島に住んでいる」誰が嘘つきかは分からないが、これは松島=竹島(獨島)という仮定では明らかにおかしい。
何せ、現実の竹島(獨島)はこれ。恒常的な居住など不可能。
 

 
さて、この写真を掲示したことから、「安竜福が次の日の日の出に行った于山島」を竹島(獨島)とする仮定は実に無理があるとわかる。何せ上記の写真の通り、「火を起こして魚膏(アシカの油)を煮炊きする場所」なんて無いから。
また

 
鬱陵島~竹島(獨島)間が、約90kmあることを考えると、「次の日の日の出の時間に行く」というのには、厳しい距離。
 
つか、今回のどの史料を通しても「安竜福の言うところの于山島」=chukdoを示すだけだよね。
さて、自分で反証もしてみる
元禄九丙子年朝鮮舟着岸一巻之覚書にて「竹島と朝鮮之間三十里 竹島と松島之間五十里」と1696年に安竜福は日本の本土で供述しているわけだが、半島と鬱陵島の距離が約130kmで、鬱陵島と隠岐の距離が約230km。そして、鬱陵島と竹島(獨島)の距離は約90km。
この発言からすると、「松島=隠岐」と安竜福は認識しているのだろう。
 
とすると、粛宗實録に登場する「松島即子山島」という発言が問題になってくる。
だが、この時の状況(2回目の日本から帰ってきた後で、朝鮮政府の取り調べを受けている状況)を考えてみればこれは例の「口からでまかせ」という奴であろう、何せ命の危険があったため何らかの手柄を主張する必要があった。
 
蓋しこうではないか?と思う安竜福の認識についての流れを纏めていくと
  1. 1693年に鬱陵島に来ていて「于山島=chukdo」の認識であった。(1693年竹嶋紀事より)
  2. 連行される途中で見た島は「鬱陵島よりずっと大きい島」(隠岐のこと)と邊例集要の1694年に残る
  3. 日本で「松島」という島の名前を得る。
  4. 朝鮮に送還される
  5. 1696年に再び日本に訴訟のためにやってくる。(半島での党争の結果、安竜福は自由を得る。)
  6. 本土に到着した後に「竹島と朝鮮之間三十里 竹島と松島之間五十里」と供述し松島=隠岐の認識を残す。
  7. 日本は無視して追放。(安竜福の願いは日本では記録もされず無視されたが、粛宗実録からすると鬱陵島やchukdoを朝鮮の領土であると主張したかったようだ。何せ、この時点では日本が鬱陵島への渡海を禁止したことを、半島には伝えていない。もし、この時、日本に居る間に安竜福が「日本政府は、日本人が鬱陵島に渡るのを禁止した」と知ったら、安竜福が鬱陵島やchukdoに関して手柄を立てることは不可能になり、勝手に日本に行ったという罪だけが残る。この仮定が正しいのなら、粛宗実録で実に苦し紛れの嘘をついたことも、納得がいくのだが・・・
  8. 安竜福は朝鮮政府の取り調べの際に粛宗実録に残っている「倭言吾等本住松島偶因漁採出来今当還往本所松島即子山島此亦我國地」と供述

こうしてみると、「安竜福が、「日本人は松島に本来住んでいる」と発言したこと」は、安竜福の認識が松島=隠岐という条件の下では、成立する。

つまり、「松島即子山島」のみが危機を脱するための安竜福の虚偽である。それは「日本人が住んでいる島」である隠岐(安竜福は松島という名前であると誤認)を、于山島という朝鮮で知られた島であると捏造し、そこから日本人を追い出したと手柄を捏造したわけである。

 
ということで、安竜福の「松島」からも「于山島」からも、現在の竹島(獨島)とは結びつけるのは歴史的に不可能と言える。

 
その他、日本に残っている安竜福の供述に、「朝鮮半島の江原道から日本の島根にくる途中に、竹島と松島がある」と証言しているが、これだと2つの島しかなく、朝鮮半島と日本の島根の間にある「鬱陵島、竹島(獨島)、隠岐」の3つには数が足りない。しかし安竜福の上陸・認知が確定しているのが、鬱陵島と隠岐の二つのみということから、「松島とは隠岐である」と安竜福が認識していたことの補強にはなると思う。
 
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