記者の目

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記者の目:「分からない」に向き合おう=元村有希子

 日本はいい国だ。安全で便利でテクノロジーが発達している。

 昨年夏まで1年間滞在した英国で、いろんな人からこんな言葉で日本をほめられた。私もそう思う。一方で私は、日本の便利さとテクノロジーが、日本人を変えつつあると感じている。

 折に触れて読み返してきた本がある。「大衆の反逆」(ちくま学芸文庫)。スペインの哲学者オルテガが約80年前に著した文明論だ。オルテガは1920年代の欧州で、科学技術の急速な発展の中に生きる人々を批判的に見つめた。健康で文化的な生活を享受しながら、背後にある科学の原理のように難しいことには関心を払わず、考えても分からないことには目をつぶって自分の世界にひきこもる。こんな振る舞いを彼は「文明という舞台にひょっこりと姿を現した野蛮人」と評した。

 今の日本を彼は的確に表現しているように思う。戦後の驚異的な経済発展は科学技術の進歩に負うところが大きい。ライフラインや医療など、私たちは科学技術の成果に全面的に依存し、それがない生活を思い浮かべることもない。しかし人を幸せにしてきたはずの技術が、逆に人を追い立て、人間同士を遠ざけ、人を孤独にしていないか。

 1863年、世界で最初に開通したロンドンの地下鉄は設備が古く、ホームから改札口までの間に必ず階段がある。ベビーカーを押す母親がいれば、居合わせた人がさりげなく手を貸す。私も重いスーツケースを持て余し、見知らぬ人たちに何度か手伝ってもらった。日本は逆だ。都心の多くの駅にはエレベーターがあるが、本来使う必要のない人たちが先に乗り込み、親子が取り残される。日本のエレベーターに必ずある「閉」のボタンは、世界では特殊であることも、外国に暮らして知った。

 英国でロボット技術のセミナーに参加した時、研究者が先進国の例として日本の家庭用留守番ロボットを紹介した。独りでいる子どもの遊び相手をし、外出先から親が携帯電話をかければカメラに変身して子どもの様子を携帯電話の液晶画面に映し出す。私の隣の参加者が「機械に子守をさせるなんて」と顔をしかめるのを見てはっとした。

 この技術は独り暮らしの高齢者の安否確認にも使われる。病気などの非常時は誰かに連絡がいく。しかし機械だから故障もある。そもそも異常が起きなければ誰も訪ねて来ない状態が幸せだろうか。科学技術は万能と思いこみ、陰の部分を見ない私たちの生き方を、オルテガは「文明社会の野蛮人」と呼んだのだ。

 科学技術の進歩は歓迎すべきだし、社会病理の責任を科学技術にだけ押しつけるつもりはない。ただ、何もかも専門家に任せ、思考停止する怖さは意識していたいと私は思う。ことは科学技術に限らないからだ。

 筑波大教授で科学技術政策を研究する小林信一さん(52)は80年代末、日本で進む理科離れや科学技術への無関心を、「文明社会の野蛮人」を使って考察した。小林さんは今、「政治も経済も社会もますます複雑化し専門性が高まっていく。だからこそ専門家に白紙委任するのは限界」と警告する。科学者、技術者、政治家、法曹人、企業家、これら多くの専門家は、専門を一歩出れば「文明社会の野蛮人」の一人だと小林さんは考えている。

 専門家に任せて安心ではないことを、私たちは相次ぐ食品偽装や年金不正を通して学んだ。たとえ彼らが善意で臨んでも想定外の事態は起きうる。

 精神科医の香山リカさん(48)がこんな話をしてくれた。治療を「長すぎる」と嫌がる患者が最近増えている。症状がなぜ起きるのか、精神科医は面接しながら根気強く探っていくのだが、精神科医を占師やスピリチュアルカウンセラーと混同している患者がいるらしい。

 「分からない」状態は居心地が悪い。誰かに早く解決してもらいたい。自分の生きづらさや不全感といった「分からないもの」を、「あなたではなく、あなたの前世が悪い」と説明してくれるスピリチュアルの世界がブームになっているのは、その意味で納得できる。しかし自分の人生まで白紙委任するほど日本人の精神は鈍麻しているのかと危機感も感じる。

 日本では、政権は統率力を失い、優良企業は赤字に転落し、不合理な理由で人が殺されている。既存の秩序が漂流し始めた今は「危機」だが、変革の好機でもある。「分からなさ」に辛抱強く向き合い、自分の頭で考え始めるきっかけと考えたい。(東京科学環境部)

毎日新聞 2009年1月6日 0時13分

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