2008-12-21 17:22:49

12月21日・・・「移植」

テーマ:移植・医療

「移植」



最初、

日本での臓器移植法案の問題は、小児の移植が行えない事だと思いました。


しかし、

日本では容認されている大人であっても、11年間で76例の脳死臓器提供(心臓移植件数は60例)しかない事を知りました。

(ロマリンダでの今年の心臓移植件数は、小児で約20件、大人を含めると合計約70件の移植が行われ、小児に関しては例年よりも少ない件数だそうです。他の大学病院では更に移植件数が多いところもあるそうです。)


それが何故なのか、

私が感じのは、脳死の問題でした。


日本では、移植すべてが行えないわけではありません。

生体肝移植・腎移植に骨髄移植、心臓死からの腎臓や角膜提供など、脳死提供以外で進んできた分野もあります。


では、脳死での移植件数が伸び悩む背景は何なのか・・・。

それは、脳死が心臓死と同じ「人の死」であると日本では認められていないからです。


いまの法制度の下では、

家族の同意をとる前に、まず本人が書面で脳死判定と臓器提供の意思表示をしている場合のみ、脳死が死となります。その上で、家族が脳死判定と臓器提供に拒否しないで初めて、法的脳死判定が行われて、死亡となります。


これが、実際にはどのような事か・・・

心臓死の場合、医療の現場ではどんなに家族が受け入れ難くとも死を医師から宣告されます。

しかし、脳死の場合、臓器提供をするのならば「死」を認める。では、臓器提供を決めるのは誰か。

最後は家族の判断です。


家族が提供を決めたら脳死判定がされ治療が中止されるということは、

家族にとっては2重の苦しみになります。

家族が提供を決める事が死を宣告させることになるからです。

それは家族に多大なる精神的負担を強いる事になります。

提供しなければ、脳死の状態であっても治療が続けられ、一緒に過ごす時間があるからです。


私は、日本では脳死の受け入れが出来ないのは、

常日頃から脳死について考える機会が少ないからではないかと思っていました。

ドナーカードの普及や教育などです。

しかし、今回アメリカで医師に質問して驚きました。


アメリカでは、東海岸より西海岸側の方が移植に対しての受け入れがスムーズだそうです。

その西海岸でも、脳死を理解されていない方がとても多いそうです。

脳死となった時に、心臓が動いているのにおかしいじゃないか。ということを家族から言われるそうです。


その時に、日本と異なるのは

脳死は人の死だと法律で定められているので、治療を行う事ができない。ということです。

逆に、脳死の状態の方に治療を続けた場合、医師が法律で罰せられるそうです。

法律の下で医師は心臓死と変わらない「人の死」を宣告します。

それは、宗教や思想、人種、臓器提供の是非に関わらずにです。

(脳死判定に関しては、各国で基準があるそうですが、

日本の脳死判定基準は世界の中でも厳しい基準が設けられているそうです。)



日本での骨髄移植や心臓死や生体間での移植が行われているということは、

ドナーになりたくない・させたくないという方ばかりではないのだと思います。


最後に最愛の家族を看取るときに、その先にまだ臓器提供を介しても

生きていて欲しいと思う人もいるのです。

私たちは、聡太郎を看取ったときにも、心から生きて欲しいと思いました。

だからこそ、心臓の弁が無理でも、角膜だけでも提供をしたかったのです。

そして、場所は違っても同じ空を見て、聡太郎が誰かの役に立ち、

一緒に生きているということを感じたかったのです。


また、脳死の問題は移植の是非と対になっていてはいけないと思います。


現在の臓器移植法案は、「脳死の問題」と

「15歳以下の小児の脳死臓器提供を選択する権利(受ける権利も)が与えられていない」という

二つの問題からなっているということを考えて頂けたらと思います。

まずは、法律で脳死が心臓死と同じ人の死であることが認められることから

始めなければ変わらないのではないでしょうか?

医師の責任の下、(それは法律と言う国の責任の下)で行われなければいけないと思います。


脳死判定についても様々な議論や意見があるのは分かります。

そのような議論や意見が蔑ろにされることがあってはいけません。

また、私は全てを知っている訳ではありませんし、専門家でもありません。

それでも、私は家族としてドナーからの臓器提供がなければ・・・移植ができなければ・・・

自分の子どもを救えない立場でした。


聡太郎のために集まった募金を次の方々へと伝えていく事は、根本的な解決にはなりません。

しかし、願わずにはいられないのです。

どうか、助かる命を日本でも助けて頂きたいと。

どうしたら、聡太郎が助かっていたのかは分かりません。

でも、聡太郎の生きた意味、この拡張型心筋症という病気を持った意味、

そして何よりも・・・

聡太郎を失ってしまった意味。

それらを考えずにはいられないのです。


どの国でも移植の問題、つまりは、命の倫理的問題があるのは事実です。

しかし、一番危惧する事は、アメリカやドイツでの受け入れがされなくなった時に、

日本の救える子ども達の命をどうしていくのか・・・。


聡太郎を失ったときに、

「なぜ、日本の場合、患者さんをもっと早くに連れて来てもらうことが出来ないのですか?」

「もっと早ければ助けられたかもと思うと、本当に残念で悔しいです。」と、

二人の方から同じことを言われました。

その言葉が忘れられないのと同時に、お二人の悲しいような、悔しいような表情も忘れられません。

アメリカの医師や看護師、ソーシャルワーカーなど、多くの医療従事者が

日本の子どもを救えなかった事に涙を流してくれるのです。

同時に、ノウハウも技術もある日本で移植が出来ないことが、大変おかしな事だと思っているのです。

それでも、救えなかった事に涙してくれることに、日本の在り方を考えなくてはならないと思います。


一緒に考えて頂けたらと思います。


まだまだ私の知らないこと、理解が及んでいないことも多くあるかと思います。

私なりに時間をかけてでも知る努力をしていきますので、ご理解頂けますようお願い申し上げます。


ここに書かせて頂きました内容に関しましては、

私個人が感じ・考えたことであることをご理解頂けますようお願い申し上げます。

日本で様々な経験をされた方々から読まれた場合、不快な表現がありましたら申し訳ありません。

また、全ての方が移植と脳死について同じ考えではない事も理解したいと思います。

また、誤記や表現方法に問題がありましたら、訂正させて頂くこともあります、ご了承ください。

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