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 さよなら名古屋タイムズ 夕刊紙休刊 ネットもお別れ
    

【中日新聞のコラム】 やはり寂しい。…幼なじみを見送るようで切ない。ニューヨーク・タイムズの洗練、ロンドンタイムズ(タイムズ)の重厚はなかった。けれども、大衆感覚はどこにも負けなかった。飄々(ひょうひょう)として洒脱(しゃだつ)で、どんなときでも泥臭さがついて回った。名古屋を愛し、力いっぱいドラゴンズを応援し、常にナゴヤ人の側にあった名古屋タイムズ。いつか復刊する日を待っている。「引く浪の音はかへらず秋の暮」渡辺水巴(すいは)。さらば「名タイ」。(11月1日付夕刊「夕歩道」)

【長い長い「犬」の歩み一旦停止、いつかまた!=名古屋タイムズ最後のコラム】 …このコラムは社会部の記者たちが書いてきた。記者が入社したころは「逆噴射」という題名。若い人には「何、それ?」だろうが、当時起きた信じられないような航空機事故原因から付けられた。
 続いて「回転灯」と名を替えた。数年前まで本紙のあるビルの屋上に航空灯があったことから命名された。「歩けば棒」は「犬も歩けば棒に当たる」から付けられた。%E5%90%8D%E3%82%BF%E3%82%A4%EF%BC%92.jpg
 初めは当時の編集局長が「歩けば犬」でどうだ?―と候補を挙げたが「おれたちは犬か?」と若手記者の反発で没になったとか。記者は「棒」より「犬」の方が気に入っていた。27年の名タイ記者生活は犬のように地べたを嗅ぎ回る取材を理想とした。「犬」で結構。別の媒体でコラムを書く機会があれば題名を「歩けば犬」とする。その日まで、さらば―。(英)
【写真】名古屋タイムズ休刊のお知らせを貼る伊藤さん=31日午前、名鉄金山駅
(2008年10月31日更新)

◆名古屋タイムズは10月31日を最後に休刊した。夕刊だけ発行する夕刊紙として1946年(昭和21年)5月に発足、「名タイ」の愛称で親しまれ、最盛期には約50万部を数えた。しかし、部数減少や広告収入の落ち込みで62年間の幕を閉じざるを得なかった。私たち47NEWSにも参加し、社会の裏側をえぐる記事に多くのアクセスがあった。「名残惜しい」。最後の夕刊が出た後、東京から電話を入れてお別れを言った。「もっと書きたい。取材を続けたい。そういう仕事ができる職をあしたから探します…」。“店じまい”のざわめきを背に電話に出てくれた社会部の人たちと、ちょっと長電話になってしまった。(10月31日夜 47NEWS 憲)→ 休刊を報じる共同通信の記事はこちら①

【竜チーム1の愛読者マサ 本紙に別れの言葉】%E5%90%8D%E3%82%BF%E3%82%A4%EF%BC%93.jpg
【写真】「新聞はいろんな人の評価を知ることができたり、ファンに僕たちのことを知ってもらう意味で大事な存在」と語る山本昌

 31日をもって休刊する名古屋タイムズに竜の200勝投手からメッセージが届いた。中日ドラゴンズ一筋25年の山本昌投手(43)にとって、名タイはプロ入り直後からの愛読紙だった。自身の通算200勝達成を報じた紙面を手に別れを惜しんでくれた。(聞き手=高柳隆、カメラ=枡川忠嗣)
■プロ入り直後から親しむ
 プロに入ってからすぐ、寮生だったころから読ませてもらっていました。ドラゴンズの記事が必ず載っていましたからね。合宿所が新聞を取っていて、配達されてきたのを覚えています。名タイといえば夕方には必ずある新聞でしたね。
 寮を出てからも自分で買っていました。特に自分が白星を挙げた翌日は「どんなことが書いてあるのかな」と思って読んでました。朝刊とは違った切り口というか、それが楽しみだった。ずっと愛読紙でしたよ。ドラゴンズで僕が一番たくさん買っているんじゃないかな。
■後で読んで参考に
 新聞は必ず買って読むようにしているんです。自分の記事があれば取っておくこともできる。後で読んで参考にするというか、その時に自分がどんな話をし、考えを持ってやっていたのか思い出せますしね。記事をインターネットで読むだけだと後に残らないじゃないですか。
 名タイといえば評論家を務められていた平光(清)=元セ・リーグ審判員=さんとの思い出もありますね。いいボールを投げれば、ちゃんとストライクをとってくれた。僕にとっては、いい審判でしたね。相性が良くて、たくさん勝たせていただいたような気がします。
 新聞はいろんな人の評価を知ることができたり、ファンに僕たちのことを知ってもらう意味で大事な存在。休刊は本当に残念ですね。
 僕自身は少しでも長く現役を続けられるように頑張りたい。チームとして頂点、日本一を目指す。それに貢献できるようにしたいです。小さなころから野球を続けてきて、あと何年できるかって考えると、より一生懸命やらなければいけないと思っています。(中日ドラゴンズ投手)
 山本昌広(やまもと・まさひろ) 65年8月11日生まれ。神奈川県出身。日大藤沢高から83年のドラフト5位で入団。88年のシーズン途中に野球留学していた米国から帰国し、プロ初勝利を含む5勝を挙げた。93年に17勝(5敗)で最多勝、2・05で最優秀防御率のタイトルを獲得。19勝(8敗)を挙げた94年は最多勝に加えて沢村賞にも輝いた。06年にノーヒットノーラン、08年に通算200勝を達成。今季までの通算成績は204勝155敗。左投げ左打ち。身長186センチ、体重87キロ。
(2008年10月31日更新)

【名タイが先に引退するとは…】
 〔元ドラ番が語る最後のホットコーナー〕

 元デスクT(一昨年定年退職) いよいよ最後の紙面か。おまえとは長い付き合いだったな。
 元ドラ番Y 別れは出会いの始まり、名タイ「ビッグバン」ですよ。久しぶりに電話で話すのだから、面白い昔話とかで明るくいきましょうよ。
 T 中日キャンプ取材で何度も沖縄へ行ったが米軍普天間基地の移転問題が注目された時、業務命令でキャンプ取材を放り出して移転先候補の辺野古(名護市)取材をしたことがあったな。
 Y そのころ球場に姿を見せない日が何度かあり、二日酔いだと思っていましたが…。当時Tさんに言われるがまま、飲み過ぎて、翌朝の飛行機に乗り遅れたこともあったほどですからね。
 T 沖縄で飲む酒はうまかったが、北海道で飲む酒もうまかったな。(旭川市営)スタルヒン球場での巨人戦前、トイレで用を足していると原(現巨人監督)と中畑(現野球評論家)に挟まれた時があった。頭越しに「元気ないな」(中畑)「風邪気味で」(原)の会話。結果、翌日おれが風邪に。
 Y 酒は強いが基本的に虚弱体質ですよね。アンチ巨人なのに情けない。その原さんがワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の監督です。
 T 少し複雑だな。おれたちは1990年代の中日取材が中心だったが、当時の主力選手が指導者になる時代なんだよな。
 Y でも山本昌、立浪らはまだ現役選手。すごいですよ。名タイが先に「引退」するとは思っていなかった。来季以降も力が続く限り、竜の日本一を目指してファンに夢と感動を与えてほしい!
(2008年10月31日更新)

【最後の10日間、47NEWS上の地方紙記事アクセストップを続けた深刻なニュース】
▼少女を縛るリンチと売春--
少女ギャング団「羅実阿」二つの地獄

 西尾市を拠点に活動していた10代の少女らで構成するギャンググループ「羅美阿(ラミア)」解散から約3カ月。グループ脱退を示唆した高校1年生のA子=当時(15)=を集団リンチしたとして西尾署などは7月、15―17歳の少女ら10人を傷害容疑で逮捕、グループを解体した。少女らのほとんどは無職。彼女らの供述から売春で稼いだ金をグループの会費に充てていたとみられている―。(弥)
■解体から3カ月、実態に迫る
%E5%90%8D%E3%82%BF%E3%82%A4.jpg【写真】集団リンチが行われた愛知県吉良町の恵比寿海水浴場。夏は家族連れなどでにぎわう

 「何だ、その髪は? そんな格好したかったらチームに入れ!」
 西尾市内の駅前などで茶髪の少女を見つけては因縁をつける。これが羅美阿の「勧誘方法」だ。4月上旬、A子も同様にグループに入ることを強要された。しかし入団後すぐに組織のルールに嫌気が差した。月会費3000円の支払い、毎週土曜日の定例会参加の義務…。「脱退したい」との思いがA子の頭をよぎった。が決して簡単ではないことがすぐに分かった。
 「1回入ったら最後。退団するためには「けじめ」という制裁を受けなければいけない」
 グループのおきてで脱退するには18歳になるか、警察に捕まるか、妊娠するか。それ以外の方法はメンバー全員から集団リンチを受け、これに耐えることだった。
 「全員でヤキを入れる」。脱退を示唆したA子に対し、頭である西尾市の17歳の少女は「組織ががたがたになるのでルールを守らないといけない」とほかのメンバーに集団リンチを指示。A子は6月6日午後9時ごろ、愛知県吉良町の恵比寿海水浴場に呼び出され、少女12人によって一方的に浜辺で次から次へ頭や顔などを殴るけるなどの暴行を受け、顔面挫傷など約2週間のけがを負った。メンバーには中学2年生の少女=当時(13)=も含まれていた。
 A子は報復を恐れ、当初被害届を出すのをためらった。が、グループの内実はA子にとって意外なものだった。警察関係者によると、逮捕された少女らの大半は「これでやっとギャンググループをやめられる」と安堵(あんど)の笑みを浮かべて話したという。「(逮捕された少女らは)グループから脱退したかったが、今まで恐怖心から実現できなかったのではないか」と警察関係者。
■メンバーの大半は安堵
 退団したかったのはA子だけではなく「ギャンググループに入るのは簡単だが、いったん入れば地獄」の思いはメンバーに共通していたようだ。
 一方、警察は逮捕された少女らの供述に注目した。事件の新たな背景が見え始めたためだ。グループのメンバーだった刈谷市在住の少女(16)の話から、西尾市の暴力団組員の男(20)が18歳未満と知りながら、少女にみだらの行為をしたとして10月9日に逮捕された。
■身を売ってグループ会費に?
 今後の捜査が注目されるが、少女らが売春行為を行いグループへの会費を支払っていた可能性があるという。事実とすれば少女たちはリンチと売春の「二つの地獄」を背負わされながら団で活動してきたことになる。羅美阿の全容解明が待たれる。
(2008年10月20日更新)

【名タイ、62年余の歴史に幕】

 大都市圏のユニークな夕刊単独紙、名古屋タイムズの発行最終日となった31日、名古屋市の名古屋駅や栄駅、金山総合駅などの新聞即売店などでは従業員らが新聞の配置準備などに追われた。
 この日午前、名鉄金山駅の中央改札口を入った場所での新聞、雑誌販売店は「(名タイの)62年間のご愛読ありがとうございました。店主・従業員一同」と書かれた張り紙を掲出、読者に感謝した。
 経営する伊藤義夫さん(61)は長年、名タイとともに人生を歩んできた。この日も午後11時50分ごろの最終電車が同駅を出発するまで店頭に立ち、客を見送るという。
 「数年前から終電で帰る男性が必ず名タイを買ってくれるんです。いつもその最後の客が帰ってから店を閉めているので今夜もそうするつもりですよ」と伊藤さん。
 同店の女性従業員は「名タイしか買わないファンもいるんです。明日からどう対応したらいいんでしょう」とぽつり。
 伊藤さんの思い入れが深いのは単に商品の夕刊紙が店から消えるからだけではなく、名タイの歴史と自身の人生がオーバーラップするからという。
 「わたしの人生は名タイとともにあった気がします。20年ほど前には名タイは1日1600部が売れてね。お客さんの顔を見る暇がないくらいで『ありがとう』と言いながら毎日、汗だくで売っていましたよ。休刊はやっぱり寂しいなあ」。名タイ最終日の慌ただしさの中で伊藤さんはしみじみとした口調で話した。

【名古屋 夕刊復活の日--
終戦翌年5月21日、名タイ産声】

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 名古屋タイムズは10月末で休刊する。本紙が名古屋の地に産声を上げたのは1946(昭和21)年5月21日。太平洋戦争敗戦の翌年のことだった。本欄最終回は「名タイ誕生」の物語―。(英)
 1946年2月のある日、東京千駄ケ谷のとある邸宅で2人の紳士が囲碁に興じていた。中部日本新聞(現中日新聞)相談役の勝田重太朗氏と後の中日新聞会長大島一郎氏。

 ■社会の公器 大島氏が黒石の碁けをかき混ぜながらぽつりとつぶやいた。「名古屋で夕刊をつくったら面白いだろうな」。勝田氏が応じた。「わたしもねえ、終戦直後に言論が解放された時から考えていました」。喜んだ大島氏。頭の中にはすでに新しい夕刊の名前が浮かんでいた。「君が責任者になって一肌脱いでくれ。ロンドンにはロンドンタイムズ、ニューヨークにはニューヨークタイムズがある。名古屋タイムズでいいんじゃないか」
 初代名古屋タイムズ社長を引き受けた勝田氏にも腹案があった。「新聞は社会の公器。いかなる権力にも左右されないことが必要。営利主義の株式会社にすると資本によって圧迫されるおそれがある。社団法人がいい。これなら出資した社員の1人1人が『自分が新聞を作るのだ』と責任を持つことができる」
 善は急げ。物資不足の当時、新聞用紙は政府に割り当て申請する必要があった。勝田氏は早速、杉山虎之助中部日本新聞社長(当時)に連絡を取った。「すぐにこちらで新聞用紙の割り当てを申請するがどうか」。「中日で全面的にバックアップしますからぜひやってください」と杉山社長は約束した。

 ■市民とともに 初代編集局長に白羽の矢が立てられたのは柴田儀雄氏だった。柴田氏は南方戦線に出兵しシンガポールから帰国したばかり。ふらふらになりながら「名古屋タイムズ」のテスト版制作に取り掛かかった。問題は紙面のコンセプトだった。
 名古屋のローカル紙として地元記事で埋めなくてはならない。しかし名古屋には中部日本新聞という地元紙がある。中部日本新聞にも報道されない特徴のあるローカル記事をどう取材したらいいのか。読者の中心をどのあたりに置いたらいいのか。
 考えた揚げ句、出した結論は「ローカル夕刊紙として肩が凝らず、しかもしっかりと市民生活に結び付いた新聞。紙面をできるだけ大衆的なものにすること」だった。市民の生活に根差した事柄を、1ひねり2ひねりし、ぐっと読みやすいものに―。こうして同年4月1日にテスト版が完成した。ところがこれに意外なけちがついた。

 ■ふんどし騒動 新聞用紙割り当ては商工省(現経産省)内の委員会で運営されていた。新聞・出版社、中立委員らから成る委員会をくどいたのは中根乾業務局長(後の2代社長)だった。
 「東京にも大阪にも夕刊ができた。今、名古屋の人たちは名古屋にも夕刊紙ができないかと待ちこがれている。名古屋は大都市。夕刊専門誌がないのはおかしい。委員会が駄目だというなら名古屋に帰って早速、市民大会を開いて訴える」
 勢いに圧倒された委員会は「とにかくテスト版を見てみよう」となった。取り寄せたテスト版を見た女性委員がサトウハチロー氏の随筆「ふんどしの話」にかみついた。「何ですか!この低級な記事は」。題名は「ふんどしの話」だが内容は決して低級ではなかったが女性委員は畳み掛けた。「テスト版でさえ、ふんどしの話が出るくらいだから、本刷りになったら、ふんどしどころかふんどしを外した話が出るんでしょう」
 むっとした中根氏だったが、ぐっとこらえてテスト版の作り直しを約束。柴田氏は1回目のテスト版よりやや調子を高くして表現だけは小学校6年卒業の学力があれば読める条件は崩さず再編集して提出。結局1カ月以上たった5月15日に割り当て許可が決まった。

 ■夕刊の鈴は鳴る 創刊は21日。編集はともかく販売、広告はてんやわんやとなった。海の物とも山の物とも知れない新夕刊紙。当時、合販制だった販売店は「売れるか売れないか分からない新聞なんて」と引き受けてくれない。「それなら名古屋タイムズ自身の手で市民に宣伝しよう」と名古屋市内オール立ち売り制とした。
 広告も苦戦した。テスト版を持ってスポンサーを回ったが、品不足の当時、造って売ればすぐに売れるとあって「うちは宣伝の必要がない」と門前払い。広告担当者たちは「新聞が売れればスポンサーの目も開けるのだ。それまで頑張ろう」と毎日歩き回った。
 創刊の日、勝田社長は全社員を前に訓示した。 「人間一生のうちに新聞の創刊号を作り、販売するという機会はめったにない。諸君は幸福だ。焼け野原になったとはいえ名古屋は日本の大都市。やがて復興し発展する。名古屋タイムズも歩調を合わせて成長しよう。今日のめでたい創刊号販売には編集局員以外は全員街角に立って街頭売りに当たってほしい」
 その日の午後、名古屋駅前、栄など市内23カ所に一斉に鈴の音が響いた。台の上に刷り上がったばかりの名古屋タイムズ。鈴を鳴らしているのは「名古屋タイムズ」と染め抜かれた白い鉢巻きを締めた社員たち。
 国民服、軍服、もんぺ姿の行き交う焼け跡の盛り場。鈴を鳴らしながら社員たちは不安だった。「売れるだろうか」。しかし不安は1分もたたずに消し飛んだ。アリが甘い物に群がるように市民が殺到した。長い行列ができた。栄などは5、6分で売り切れ。長い所でも30分とかからなかった。
 戦争のためという理由で新聞が強制的に統制され、用紙が減らされ、名古屋の街から夕刊が姿を消したのは1944年3月4日。それから2年2カ月。さっそうとした夕刊のデビューだった。名古屋タイムズ15年史「読者とともに15年」(1961年発行)はその時の様子をこうつづっている。
 「混乱した世相の中で、誰もが1条の希望の光を見つけたいとあがいていた。そういう人々にとって名古屋タイムズの発刊はまさに希望の光であった。とにかく、何が何でも読まなければ…」。
【写真】上=1948年9月、第1回新聞週間にちなんで、中区で行った本社「街頭編集局」の1こま。局次長、社会部長、外勤記者らが日常業務を公開。市民の質問に答え「報道の自由」などを説明。中=1960年1月、校閲で訂正されたゲラ刷りを見ながら、大組みを最終チェックする作業。鉛の活字をピンセットで引き抜きながら、別の活字と入れ替える細かな作業だ。下=1952年当時の本社社会部。エアコンはなく暑い中、シャツ1枚
(2008年10月8日更新)

【「名古屋の歴史の証人だった」--
名タイOB惜別ざっくばらん対談】
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【写真】二村氏(右)と舟橋氏

■郷土本専門店主/舟橋武志氏
 七ツ寺共同スタジオ代表/二村利之氏
 名古屋タイムズは31日をもって休刊する。焼け跡の残る1946(昭和21)年5月に創刊以来、62年余。名古屋を中心に社会、世相、文化などを伝えてきた。多くの人材も輩出し、少なからず名古屋の文化に影響を与えてきた。休刊を前に郷土史本専門店「ブックショップマイタウン」店主で、名古屋物の書物を多数執筆し続ける舟橋武志氏(65)と名古屋のアングラ劇場の草分け「七ツ寺共同スタジオ」代表の二村利之氏(63)の名タイOB2人に本紙が果たしてきた役割など、ざっくばらんに語ってもらった。(司会・社会部記者長坂英生=80年入社)
【名タイの青春】
 ―お2人が名タイに在籍した1960年代後半から70年代前半は名タイが創刊して20年前後の「青年期」。名古屋の街に定着した時代でした。入社したいきさつからお話しください。
 舟橋 僕は大学卒業後、なかなか就職が決まらなくて3月末になってしまったんだけど名タイが募集していた。試験に行くと80人ぐらいが来ていた。早稲田大とか慶応大とか優秀な大学の人がいてこれは駄目だなと思ったけど、入社試験に僕の苦手な英語や数学はなくて一般常識問題。名古屋の地名にルビを振ったり「プロレス技を10手書け」とか(笑い)いう問題だった。早大、慶応出ても分からん問題。それで何とか受かったけど、合格者は8人ぐらい。優秀な大学の人は皆落ちていた。
 二村 僕は高校に4年行って、大学を4年半で卒業。大学を何とか出たが仕事がなくて、ある人の運転手をしていたが縁あって入社できた。
 ―どんな仕事でしたか? 
 舟橋 初めは校閲部で字を覚えさせられた。「完璧(ぺき)」の「璧」が書けなくてね。下を「玉」でなく「土」を書いてしまい「おまえ、玉が付いとるだろう! 漢字を知らんやつが入ってきたぞ」と怒られた。それから遊軍、警察署回り(担当)、市政。当時の人気テレビ番組「事件記者」で記者にあこがれていたから警察署回りは面白かったですね。特オチもしたけど自分の書いた記事がその日の夕刊に載るということに感動した。「ここ(名タイ)はマスコミ大学。ここにおるなら(給料が安いので)養子先を探した方がいい」(笑い)と先輩に言われたけど仕事は面白かった。
 二村 芸能記者志望だったんで文化部に配属された。芸能記者には同年配や先輩に優秀な記者がたくさんいたので、すぐに自分は駄目だなと。で文化部遊軍の「何でも屋さん」になって家庭欄や旅や趣味の取材もした。
【記者群像】
 ―わたしは入社した日に丸卓といわれる遊軍記者がたくさん座っている円形の机に配属されたんですが、その日にわたしを挟んで座っていた先輩記者2人が電話の受話器を投げ合うけんかに遭遇しました。目の前を受話器がぴゅーと飛んでいって、やはり新聞社は血の気が多いなと思いました。お2人の時代はもっと個性的な記者が多かったのでは?
 舟橋 デスクが「瞬間湯沸かし器」といわれた人で「こんなもん、あほらしいで読めるか!」と何度原稿を破られたことか。社会部長はそれ以上に熱い人であだ名が「ダイナマイトの○○」。編集局長は「マムシの○○」。この人は文章がうまくてあこがれました。会社の役員の車はベンツでね。でも下っ端の僕らは会社の車はなかなか乗れなかった。ベンツなんてもちろん乗れない。ある時、同僚が出先から自動車部に電話して車を回すように頼んだら役員用のベンツが到着して驚いた。実はその同僚の名前が当時の社長の名前と同じで自動車部が社長と勘違いしてベンツを差し向けたわけ。運転手は同僚の顔を見て「何だ。おまえか」と怒っていた(笑い)。
 二村 文化部にはひょうひょうとしていい観劇記事を書いた芸能記者や同人誌など地元文化を細かくフォローするデスクらユニークな人が多かったですね。
 ―わたしも実感していますが、記事のねたや表現が一般紙よりも記者に自由に書かせてくれる会社ですよね。名タイの社是は「自由 真実 友愛」ですが、社風も自由さがありますね。
 舟橋 そう。自由に書けたし、自由な雰囲気があった。給料を除けば本当にいい会社(笑い)。金がなくなると酒店でみそをなめながら酒を飲んでたぐらい(笑い)。
 二村 夜勤がないので円頓寺や名古屋駅前でよく飲みましたね。デスクに「おまえ、あんまり遊ぶなよ」と言われたことはあるが、会社の規範を押し付けることはなかった。
 ―お2人は退社してそれぞれの夢に向かって歩み始めるわけですが。
 二村 広く浅く知らないといけない新聞記者という仕事に自分の能力の限界を感じて会社に居るころから水俣病問題や自主上映会などに首を突っ込んだ。ある劇団の名古屋公演に名タイの名を使ってしまい、さすがに「公私混同するな」となった。在職2年で退職したが、今日あるのは名タイでの記者修業のおかげ。落第生でしたが、ある文化人の取材をした記事で部長賞をもらった。辞めた後、その文化人から人脈を広げていった。それが今の仕事に役立っている。
 舟橋 市政担当になって夏休みを取って四国に自転車旅行。届けの10日を過ぎたがまだ旅をしたくて2日の休日延長を電報で申し出た。旅を終えて会社に行くと気まずくなって(笑い)。「おまえがいなくても新聞できたなあ」と。当時、記者としての限界を感じていたのと雑誌を作りたかったので辞めた。当時に「話の特集」という人気雑誌があってその名古屋バージョンを作りたかった。入社4年で退社した。でも名タイは自分にとって「大学以上の大学」だった。漢字から原稿の書き方、人との付き合い方を学んで一人前にしてもらった。名タイに入っていなかったら別の人生を歩んでいただろう。
 二村 確かに「大学」だった。少し底が抜けていたけど(笑い)。給料の安さを大学の授業料と思えばいいか(笑い)。
【度量の広さ】
 ―その後も本紙とかかわりを持ち続けました。客観的に名タイを見てきたわけですが。
 舟橋 退職後にタウン誌を出すなど泥沼の時代を経て今日に至るわけですが、40代の時に声を掛けていただいて名タイで名古屋物を連載させてもらい、その後もたびたび書かせていただいた。
 二村 退職して半年後の1972年9月に七ツ寺共同スタジオを立ち上げる時は設立資金がなかったので奉加帳を持って名タイに行きました(笑い)。こけら落としの劇団がアナーキーで警察がマークしていたようなんですが、それを承知で名タイは書いてくれた。アナーキーなものを受け入れる名タイの度量に感謝した。
 舟橋 雑誌を作って難しいなと思いましたが、新聞は毎日のことなのでもっと難しいということを名タイを辞めて分かった。ローカル紙の存在は大きい。なくなった後のことを考えると「名タイがあったらこれを載せたんでは」と思うんじゃないか。事件でも文化でもね。地元密着で全国紙や中日新聞が取り上げない細かい地元のことを取り上げてくれるし、扱いも大きいし。
 二村 舟橋さんは名古屋のミニコミ界の先駆けだった人ですが、確かに新聞は雑誌以上のすごい勢いで記事を載せていく。しかも特定できない大衆に向かって発信していくわけだから大変な世界。自分がかかわっている演劇は実は反社会的でセンセーショナルなものが多い。名タイがきわどいところを取材して社会の別の面を見せてくれる魅力は辞めてから再認識した。
 舟橋 物事を斜めに見る視点は面白いですね。これまで名タイが取り上げてきたものはたくさんある。名タイの休刊はこの地方にとって痛手、損失です。連載、企画物でも名古屋文化を掘り起こしてきた。「名古屋の歴史の証人」として貴重な存在。最近、ある人が円頓寺商店街の昔のことを調べたところ、かつて名タイが円頓寺商店街のプレーマップを掲載していたことが分かった。商店街のどこにどんな店があったかしっかり書かれてあるので当時の街の様子が分かったと。円頓寺に限らず、名タイは多くの商店街や繁華街のプレーマップを作成、掲載。このようなことは一般紙ではなかなかやらないので歴史を調べるときには一級の資料になる。ルポ記事もたくさん掲載していて、わたしが在籍していた当時では再開発前の名古屋駅西のルポが秀逸。当時は白昼でも危ない場所でしたが、記者が潜入して闇社会を巻き込んだ利権争いの実態を書いていた。これも歴史資料として一級品。
 二村 名古屋のレベルの高い趣味人の世界を名タイはずっとフォローしてきた。執筆してきた外部の人たちもそういう世界の一群の人々だった。古き良き名古屋の文人が名タイの周りに集まって紙面作りに貢献した。一方で名タイが彼らを育て、彼らの集まりを密なものにした。そういう相関関係にあった。歴史遺産という面ではわたしは古書店もやっていますが最近、古い写真が見直されている。名タイが伝えてきた名古屋の庶民生活や文化を取り上げた写真は貴重ですね。
【活字文化の必要性】 ―名タイの休刊は活字文化の置かれている状況をある面、象徴していると思います。こうした社会についてアナログの世界で生きているお2人はどう感じていますか?
 舟橋 新聞はどこも厳しいようですね。読者離れというより、そもそも新聞を必要としない人が増えてきた。広告も減少し、用紙代も上がっている。新聞にとっては三重苦、試練の時代ですね。ただインターネットは安直で簡単。信用できるのかという面がある。新聞がなくなってはいけないですよ。
 ―新聞だけでなく広い意味での活字文化の危機ではないかと思います。舟橋さんが名タイで字を覚えたということが象徴的だと思いますが、今はパソコンや携帯電話のワープロ機能で音を打てば難しい漢字が出てくる。これで漢字は覚えることができるのかと。もっと若い人は本や新聞を読む必要があるのではないか。
 舟橋 そうそう。最近は学校で「読書の時間」があるところもあるようだが僕は「新聞を読む時間」があっていいと思う。それで癖を付けさせないと。今、学生寮では新聞を取っているのが珍しい。僕らの時代、学生は新聞を取っていましたが今の学生は取りませんもの。もう一度、新聞を食事やおやつのように必需品にしないと。
 二村 演劇の世界ではほとんどの劇団がホームページを持っていて魅力をアピールしている。ところがその連中が、良いチラシを作っているかというとそうでもない。紙や活字で自分たちをアピールすることをぞんざいにしている。文の力をないがしろにしているのではないか。
 舟橋 ベースは紙の媒体。それがあってウェブの世界がある。
 二村 両方あるべきですね。
 舟橋 若い人たちがいきなりインターネット関連の仕事をしても通用しない。まずは書く能力がないとその世界でも大成しない。メディアの世界で活字、文章力は芸術の世界のデッサン力に当たる。基礎です。
 二村 名タイは人間の欲望をリードする新聞だった。そういういい意味での「るつぼ」がなくなるのは寂しいですね。
 舟橋 名タイは復活しないかなあ。
 二村 それを願っています。
 (協力・居酒屋「大寿喜」=名古屋市中区大須)
(2008年10月14日更新)

【名タイ通し「垣間見た大人の世界」 
鈴木敏夫スタジオジブリ代表取締役プロデューサー】

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【写真】「街が子どもの居場所を奪った。大人の責任は大きい」子どもの目線を大切にする鈴木敏夫さん

 名古屋タイムズは10月31日、62年5カ月の歴史の幕を閉じる。「新聞力」低下が指摘されて久しい。若い世代の活字離れやインターネットの席巻により「紙の新聞はやがて姿を消す」と予言する学者もいる。客観性の名の下での匿名主観記事、説教型記事への反発や疑問、テレビを含めた閉鎖的な記者クラブ制度への批判も数十年、繰り返されている。それでも新聞が果たす役割や世の中に与えている影響の大きさは疑う余地がない。名古屋タイムズも戦後の半世紀以上を、読者と泣き笑いを共にしながら新聞界の一翼を担ってきた。新聞が本来持っていた力はどこへ行ったのか、本当に新聞の未来はないのか、情報社会は進歩したのか退化しているのか。本紙と縁のあった人に取材、ロングインタビューを通して新聞の力や限界をあらためて考えた。これだけは伝えたい「さよなら」の前のいわば最後の『新聞メッセージ』をシリーズで届けたい。名タイを長年愛読し、取材に快く応じてくれた数え切れない多くの人々に心から感謝しながら。


 ■高校生まで名古屋育ち
 高校生まで名古屋で育った。やんちゃな子ども時代はチャレンジングな資質がうかがえる。生活環境や体験はそのままアニメの主人公になりそう。


 名古屋市内を転々としているんです。生まれは山崎川に近い昭和区で2歳まで。4歳までは車道、小学6年までは大曽根、中高生時代が黒川です。数年前におやじが死に、実は昔住んでいた場所を順番に歩いたんです。あまりの近さに驚きました。 おやじは会社勤めを辞めて独立、既製服の製造販売をしていました。人を使っていたので工場のスペースを広げるための引っ越しだったようです。
 反物に囲まれて僕は物心着いた時から働いていましたね。既製服をかごに乗せて運び、型に合わせた裁断を手伝いました。書き入れ時の夏休みは「何で自分だけ遊べないのか」と思いました。
 運搬用の車があり、マツダの360でした。運転手が運転を教えてくれた。時効だから話すと僕は小学5年で車を運転して街を走り、電柱にぶつけて初めて事故を起こしたんです。おやじに「2度と運転するな」としかられましたよ、もちろん。


 ■石原慎太郎の連載小説「青春とはなんだ」全部読んだ
 なぜか自宅には名古屋タイムズがあった。父親が購読していた3紙の中の一つ。新聞は大きな娯楽で、父譲りの趣味の世界を楽しんだという。


 名古屋タイムズのほかは中日、中日スポーツ。両親共に映画好きで、テレビも早く入ったが、おやじの趣味は野球と将棋。中日ドラゴンズファン「ドラキチ」で試合をテレビで見て朝刊で確認し、夕刊でもう一度楽しんでいましたね。気が付いたら僕にも直結、同じ趣味を楽しんでいたんですが。
 当時は高度成長前で新聞はたぶん、大きな娯楽だった。僕も毎朝、ドラゴンズの成績、打撃10傑の打数、安打数、ホームラン数などを新聞で覚えた。将棋もやった。ささやかな娯楽でしたね。
 名古屋タイムズは今思うと、大人の世界がかいま見られましたね。テレビドラマになった石原慎太郎の小説「青春とは何だ」(63、64年)が記憶に残っていますね。後で調べたら他の地方紙でも同時掲載されていましたが、僕はタイムズで最初から最後まで丸ごと読みました。青春へのあこがれからその後、単行本も買った。


 新聞力が低下。鈴木さんは大卒後の約3年間、週刊誌記者として活躍した。取材、記事執筆の経験が仕事の原点という。新聞の現状をどうみるか。


 会社に入って最初の仕事が週刊誌記者。事件取材が多かったが、全国の新聞50紙ほどを読んで、べた記事から4ページ特集になりそうなねたを探しましたね。
 新聞力は難しいなあ。新聞というと言論機関で表現の自由を建前にものを言っていくイメージですが、多くの庶民にとってはやはり娯楽だったと思う。政治や社会であれ、芸能、スポーツであれ、分かりやすく伝えてくれた。僕が60年間新聞に接してきてひしひし感じるのは難しいことをやさしく伝える(新聞の)姿勢が変わってきたこと。昔は「床屋政談」って言ったでしょ。首相がどうしたと新聞で読んだねたを理容師と客が話す。今は新聞記事が専門的になり過ぎた。金融でも一般の人が分からないことを平気で(記者が)書いている。分かりにくくなったのは経済記事が増えた時と重なるような気がするね。


 ■専門的になりすぎた新聞
 鈴木さんはアニメの宮崎駿監督と出会って30年余、映画を一緒に作り続けて四半世紀になる。2人は毎日のように話をする。仕事だけでなく新聞ねたに至るまで。まるで「床屋政談」という。


 8月に2人で2週間ほど欧州に旅行。ホテルで配られる衛星版で日本の全国紙2紙を読み比べました。ロシアのグルジア侵攻にY紙は「新冷戦の時代に突入」とあったが、A紙は翌日の文章で同じ言葉を使っていた。宮崎と「早くて分かりやすいのはいいがちゃんと事実が伝わっていない」などと話し合った。民主党を離脱した国会議員の報道もY紙は1面トップでA紙は中面で小さな扱い。両者の中間くらいがちょうどいいと思いましたよ。


 経済記事が増え、記事が難しくなったとの見方は当たっているかもしれない。金もうけの話は大人向けで、子どもを気遣う必要がないと新聞が考えたのではないか。


 米国リーマン・ブラザーズ証券会社の破たん、負債総額64兆円余といわれても原因、背景、額の大きさがぴんと来ない。日本の国家予算(一般会計)に近いとか日本の国と地方に負債の1/10などと言ってくれると分かるのに。
 週刊誌記者時代、中学3年生に分かる記事を書けと言われたが、大事な発想。新聞は事実の報道に加えて勇み足でもいいから論評をしてほしい。久米宏さんはニュースステーションである時、中学生の教科書を持ち出して三権分立を説明。政官界の動きが教科書に反していると言い切った。面白かったですよ。久米さんはニュースを読み、間髪を入れず自分の意見を言った。それが正しいか正しくないかを考えることで視聴者は物事の意味を理解していたんですね。


 ■子どもにエール送る作品を
 アニメの世界の魅力、映画作りの基本は何か。作品群は完ぺきなまでに子どもの世界を表現。製作者の研ぎ澄まされた感性は疑う余地がない。宮崎監督との二人三脚で走ってきた鈴木さんの宮崎評も聞きたかった。


 映画製作時に僕は「管理社会がどんどん進化する中で時代の犠牲者はいつも子どもだ。だとすれば子どもの側に立って子どもにエールを送る作品を作ろう」とまじめに書いた覚えがあります。
 作品の原点はこれ。子どもが楽しむ作品ができ、見た子どもが笑ったり、泣いたりして喜怒哀楽を表現してくれるのがうれしいですね、やっぱり。
 ただ作品は子どもにとって功罪があると思っています。同じ作品を何回も見てくれた話を聞くと、もっとちゃちに作れば良かったのではないかなどと考えます。バーチャルリアリティーの問題もある。
 感性は渇望しているときに育つもの。これは事実ですね。宮崎を見ていて感心するのは毎日の昼食。奥さんが作った弁当を30年間変わらず食べている。粗末といえば失礼だが、おかずはサケのしっぽやきんぴらゴボウなど。腹が減るから食べるのでおいしさは追求しない。ごちそうは年1、2回食べるが、その時は「これおいしいよ」と狂喜乱舞ですよ。日常があって非日常がある。感性はこうして育ちます。毎日のようにごちそうを食べていたら舌が鈍るに決まっているじゃないですか。


 日本アニメ界で頂点に立った。読者の心に届く記事への思い、新聞への期待を聞いた。


 やはり発行人、編集者の考えが反映された記事がいい。特徴があれば読者は選びやすい。きちんと取材をした記事を読みたい。僕も偉そうなことは言えませんが、新聞は面白くてためになる記事を書いてほしいんですよ。
 観戦した一昨年の日本シリーズは印象的でした。日本ハム―中日ドラゴンズ戦。日ハムのダルビッシュ投手は相当な自信があったんでしょう。相手をばかにした。まじめに投げたのは中日の福留選手に対してだけ。ダルビッシュは相手をなめたばかりに負けたが、翌日の新聞の見出しは「ダルビッシュ不調」。手を抜いたのを(記者も)見てたでしょうと言いたかったね。「


 鈴木さんはどこかに子どもへの目線を大切に持っている人だ。読者へのメッセージを聞くと、即座に名古屋の子どもへの強い思いがあふれた。


 名古屋タイムズの休刊はやっぱり寂しいですね。僕が子どものころ、徳川園(名古屋市東区)はみんなの遊び場だった。団塊世代で子どもがいっぱいいましたよ。この間、行ったらきれいに整備されて入場料も取る。子どもはすべて追い出されて奥さん方ばかりに。(彼女たちに)言いたいですよ。「きれいにすることが必ずしもいいわけではない。あなた方は子どもから何を奪ったか分かっているんですか」と。
 親の目を盗んで寄り道できた僕たちは幸せだったね。今の子どもは寄り道をしない。学校と自宅、塾を往復。目印はコンビニ、スーパーぐらい。途中のマンションは目印にならないから覚えていない。街が子どもの居場所を奪った。大人の責任は大きいですよ。


 プロフィル 鈴木敏夫(すずき・としお)48年名古屋市生まれ。72年慶応大学文学部を卒業して徳間書店に入社。週刊アサヒ芸能記者を経て78年に「アニメージュ」の創刊に携わり、副編集長を務める。84年「風の谷のナウシカ」の製作を担当。85年スタジオジブリの設立に参加、89年からスタジオジブリ専従。公開中の「崖の上のポニョ」まで一連のジブリ作品のプロデュースを手掛ける。(聞き手:中原道文、カメラ:枡川忠嗣)
(2008年10月15日更新)

【休刊のお知らせ】

 平素のご愛読、大変ありがとうございます。
 本紙「名古屋タイムズ」は1946年5月21日創刊以来、日本新聞協会加盟の都市型夕刊単独紙として発行を続けてきましたが、31日付発行の第20834号をもって62年余にわたる歴史を閉じることになりました。
 ご承知の通り、昨今の新聞、とりわけ夕刊紙を取り巻く環境は非常に厳しく、経営状況の回復に取り組んできましたが力及ばず、残念ながら休刊のやむなきに至りました。
 ご愛読いただいた皆さまには、誠に申し訳なくおわび申し上げるとともに、これまでのご厚情に深謝し、休刊のごあいさつとします。
 なお、31日まで本紙に縁のある方々の座談会や著名人へのインタビューなど、特集紙面を掲載していきますので、変わらぬご支援をお願い致します。名古屋タイムズ社

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