2008.12.15

[NEW]『空手バカ一代』の呪縛と真実の大山倍達&芦原英幸

極真空手を語る際、「空手バカ一代」の呪縛から解放されないと何にも見えてきません。
大山倍達の物語も芦原英幸の逸話も、彼らの人格から何もかも全てを完全に否定してからでないと、「生身」の大山倍達、芦原英幸は見えてきません。彼らはある意味でとんでもない人たちでした。彼らに「人格者」とか「武道家」といった理想像を求めてはいけないのです。
私が松井章圭を好きな理由のひとつは、(少なくとも私や塚本の前では)自らを「もぐろふくぞう」と笑い飛ばすような悪人(偽善者)だからです。私が最も嫌いなのは、いわゆる「正義の味方」、高潔そうな「武道家」を演じる偽善者です。「空手バカ一代」は、その90%がフィクションだから当然としても、大山倍達を「GODーHAND」、まさに神のごとき文武両道の達人として描き、芦原英幸を「ケンカ十段」、ピュアな正義漢としてヒーローに仕立て上げてしまった点が最大の罪といえるでしょう。それはあまりにも現実離れした英雄潭でした。大山倍達も芦原英幸も普通の、もし空手と出会っていなかったならば決して世間に知られず、身近な人たちに「ケンカ好きの危ない人」と噂されて一生を終えたに違いありません。

「力なき正義は無能なり…」
しかし、「力」は時に悪にもなり不正にもなり得ます。つまり、「力なき正義は無能なり」という言葉には、「綺麗事だけ並べた口先だけで、正義を貫く事など不可能てある」という真理を意味しているわけです。
だから、大山倍達や芦原英幸に「幻想」を抱いてはいけません。人間としては、まさに「クセもアクも強い、悪人」に過ぎませんでした。10のうち9までは「悪」または「非常識」な人間でした。
ただ残りの1が太陽のように眩しく、神々しいほどの光を放っていました。これだけは否定できません。また、これだけを以て彼らを「天才」と呼んでも間違いではないかもしれませんが…。

このように、ある面覚めた視線で見た時、初めて大山倍達や芦原英幸の偉大さや凄さが実感できるのです。そんな彼らの「裸の姿」を描いたのが拙書『大山倍達正伝』であり『芦原英幸伝』(ともに新潮社)だと、私は自負しています。


(了)

samurai_mugen at 19:20 │clip!