2008.12.12

「あのとき…」苦い青春のひとこま(修正版)

あまりにオマエが優しいから
僕はオマエを、ひとり占めに出来ない
空を見上げて、黙って泣いていた
あのときのオマエは、いまはもういない

あまりにオマエが陽気だから
僕はオマエを、ただ見てるだけ
海を見つめて、遠くに行きたいなんて
ポツリと呟いた、オマエはもういない

あまりにオマエを愛しているから
僕はオマエを、抱きしめられない
ふたりで歩いた、あの道も落ち葉が舞う
寂しい悲しい、季節を待ってるようだ


私が早稲田大学に入学した年…世間知らずの青臭いガキでしたが、精一杯の気持ちで作詞・作曲した、オリジナル楽曲、「あのとき…」の歌詞です。内容は決して創作ではありません。


<彼女>が逝ってから数年間の浪人時代(上智や立教に籍を置いたりしてましたが…)を経て早稲田に合格し、極真会館に入門して一段落ついた頃の事です。私は改めて<彼女>と遊んだ、また<彼女>の葬儀の日に行った鎌倉由比ヶ浜を独りで訪ね、また<彼女>と歩いた池袋東口のサンシャイン通り(当時はまだサンシャイン60もサンシャインシティも建設中の頃でした)を徘徊し、そして<彼女>を想いながら、この楽曲を書き上げました。


「彼女はもういない」…。
高校卒業を目の前に<彼女>は逝きました。中学1年で別々の小学校から一緒のクラスになりました。事件を幾度も起こし、施設を出たり入ったりしていた私は、「ゴミクズみたいな厭なヤツ」というレッテルを貼られ、誰にも相手にされませんでした。
そんな私をいつも庇ったり冗談言ったり、キャピキャピしながらまとわりついて離れなかった<ケンカ相手>が<彼女>でした。<彼女>とは偶然にも3年間、ずっと同じクラスでした。
ところで、私は中学2年からNさんという同学年の女性に片思いをしていました。Nさんへの想いは大学を卒業し、数年後に容子と出会うまで続く事になります。
<彼女>の名は遥子といいます。

私は遥子にこれっぽっちも異性を感じた事はありません。ただ彼女は小学生の時に東京から転校してきたからなのか、田舎臭さがない垢抜けて可愛いショートヘアーの子でした。いつも陽気で笑ってました。
ひょんな事から鎌倉に行きました。最初はグループでいく予定が狂って2人で行きました。北鎌倉から山に登り、降りてから長谷寺に寄り、大仏に合掌してから、由比ヶ浜に向かいました。
気が付くと彼女はポツンと独りで空を見ていました。訊くと、遥子は呟くように言いました。
「あれ鳩かなカモメかな、2羽仲良く飛んでるよ…」
彼女の家庭も複雑で、親が離婚したばかりでした。2羽のカモメと両親が重なって見えたのか、涙を浮かべていました。悲しそうな遥子の顔を目にしたのは初めてでした。
「海ってどこまでも続いてるんだよね」
「当然じゃん。湖や池じゃねえんだぜ」
「遠くの国に行きたいね」
遥子がいうので「どこに行きたいって?」と私が訊くと「アフリカとか行きたい」と彼女は答えました。
「バカか!? せめてハワイくらいにしておけよ」
そんな事を言った記憶があります。江ノ電に乗って鎌倉駅に向かう途中、陽子は突然、真面目な顔で言いました。
「コジちゃんて、何故いつもナイフ持ってるん?」
遥子はいつも私を<コジちゃん>と呼んでいました。あの頃、私は博徒だった父の舎弟で<振り師>の四郎さんから貰った緑のガラスの柄がついたジャックナイフを持ち歩いていました。
「死にたくねえからに決まってるじゃん」
「コジちゃんを殺そうなんて人いないよ。梁川さんがお兄さんなんでしょ」
遥子は私が小学生時代、2度も名字が変わった事を知っていたし、私と梁川○○(当時、地元の不良や暴走族の裏番で、梁川の親父さんは在日愚連隊のbossであり私の父の<義兄弟>でした)が実の兄弟だと思っていたみたいでした。
これが中2が終わる春休みの話です。
あれ以来、私は凶器を携帯するのを止めました。この頃から私は<帰ってきた>お袋のお陰で真面目になっていきました。突然変異のごとくガリ勉に変貌するのです。

中学卒業後、私は越境で隣県のT高校、遥子は県内のS女子高に進学しました。通学の方向も違うし、中学卒業以来、遥子とは1度も逢っていません。つまり、私にとっての遥子はいつまでも中学3年生のままです。
T高は授業が厳しい県でもトップクラスの進学校でした。しかし校風は極めて自由でした。学生服着てパチンコ屋でタバコをふかしながら遊んでいても怒られないほどの学校でした。
私の初恋で片思いだったNさんはT高の姉妹高であるT女子高に進学していました。T高もT女子高も同じT市にありました。ですから、登下校時や図書館で見かける事が少なくありませんでした。1度も話した事がない相手でしたが、Nさんへの想いは募るばかりでした。
こうして、私は遥子の事を次第に忘れていきました…。

受験勉強も追い込みという3年の夏休みのある日。
何故か、突然遥子の事を思い出しました。夢も何度も見るのですが、みな不吉な夢です。そのうち、どうしても遥子に逢いたい気持ちが募ってくるのです。決して恋愛感情はありませんでした。少なくとも自分はそう思っていました。ただ、理由もなく遥子の事が気になって仕方がないのです。
ある日、内田という中学の同級生に会いました。
「●●遥子、今どうしてる?」
内田は簡単に答えました。田舎町ですから情報も早いのでしょう。
「遥子なら駅の南口の前のほら、三角屋根のって喫茶店でバイトやってるよ。俺、昨日も行ったよ。オマエの話をしてたよ。行ってみれば」
しかし、内田がいう喫茶店はガラが悪い連中の溜まり場で、私が梁川の舎弟とはいえ、何となく行きにく、いつか…と思いながらも、とうとう足を運びませんでした。
夏休みが終わると受験勉強は厳しさを更に増しました。また遥子の事は忘れしまいました。12月半ば過ぎ、冬休みに入った私はまた図書館通いを始めました。
ある日、中学・高校と遥子の親友だった梨香という子が図書館に私を訪ねてきました。下の喫茶室で話をし始めると、彼女はおもむろに「こじちゃんて遥子をどう思っていたの?」と訊いてきました。正直、面倒だなと思いました。第一、私には精神的な余裕など全くなく、それに異性といえばNさんしか頭にありませんでした。
「遥子はね、ずっと前からこじちゃんを好きだったのよ。今、遥子は、ほらあのM君に告白されて迷ってるの。こじちゃん、遥子がM君と付き合っちゃってもいいの?」
私は終始気のない返事を続け、「Mはいい奴じゃん。いいんじゃねえの」と言い残して席を立ちました。Mは小学校からの知り合いですが、ヌボーッとして気のいいヤツでした。
しかし、その後また私は嫌な夢を何度も見るようになります。みな遥子の夢ですが、何もかも不吉な夢です。遥子の事が頭から離れなくなりました。思い切って三角屋根の喫茶店に行こうかと思いましたが、結局そのまま年を越し、受験に突入していく事になります。

最初の合格発表は慶応でした。前日、突然聞き慣れない声の人間から電話がありました。中学時代、学級委員だった田中でした。
「●●遥子知ってる?」
「うん」
「遥子、自殺して死んだよ。今朝だって。先生と相談したけど今夜の通夜は遠慮して明日の葬式にはみんなで参列しようってことになったから…」
私はその後の言葉を覚えていません。

私は最初から葬儀に出るつもりはありませんでした。慶応の発表も不合格確実でしたから行かない事に決めていました。でも翌日、親には発表を見てくると言い残し、真っ直ぐ鎌倉に向かいました。北鎌倉から「あのとき」と同じように源氏山、紫陽花寺を抜けて長谷寺に向かい、大仏に「遥子を天国にお願いします」と拝み、2人で歩いた由比ヶ浜で日暮れまで流木の上に佇んでいました。空を見上げると、あのときのようにカモメが弧を描きながら飛んでいました。

私はその後、補欠で入った上智を3カ月で中退し予備校に通いました。しかし翌年も早稲田に落ちて立教に入学。秋から再び受験勉強を再開し、幸運にも3度目の挑戦で早稲田の第一文学部と商学部に合格しました。そして極真会館に入門するのです。
5月の強化合宿を乗り切り、晴れて空手着を着ることが出来ました。初の組手ではT先輩の1発の蹴りでKOされるという洗礼を受けながらも、何とか頑張っていける自信が付いた頃です。
片思いのNさんへの熱い想いは不変でしたが、またもや遥子の事が気になり始めました。もし自分が遥子と付き合っていたら彼女は死ななかった。これだけは事実に思えました。
そして夏前、梅雨の時期でした。私はまた鎌倉を訪ね、同じコースを回りました。由比ヶ浜で、私は涙が止まらなくなりました。嗚咽を上げて泣きました。
雨が降っていました。
このとき、遥子に捧げる唄を作ろうと思いました。それが冒頭の楽曲です。

私はずっとずっとNさんが好きでした。どうしようもないくらい好きでした。しかし今になれば、私には遥子を好きになった時期が確実にあったと思うのです。
男は生来<獣>であり同時に何人かの女性を愛することができる…ゼミで専攻した社会学で学びました。私は倫理的にはそれを絶対否定します。
しかし…私はNさんを想いながらも、同時に遥子を好きだったのです。

もう遥か昔の未熟な思い出話です。ただ、あの唄を歌えば、今でも当時のことが鮮やかに甦ってきます。苦いけれど、少しだけ甘い青春のひとこまです。
そして…半世紀近く生きた現在、私は人生最後の<恋>をしています。遠い遠い回り道をしながらも、全ては今の<彼女>と出逢うための神様の導きだったのかもしれません。

(了)




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