Column of the History
112.「大東亜戦争」は日本の自衛戦争 ── マッカーサーの爆弾発言 (2003.1.7)

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厚木飛行場に降り立ったマッカーサー 「日清戦争」(1894〜1895)・「日露戦争」(1904〜1905)・「満州事変」(1931)・「日中戦争」(1937〜1945)・「太平洋戦争」(1941〜1945)と言った大日本帝国 ── 明治維新後の日本が戦った戦争は、全て「軍国主義」日本による「侵略戦争」だった・・・とは、左翼・反日日本人が好き好んで主張するフレーズです。確かに終戦直後、開廷した「東京裁判」(極東国際軍事法廷)に於いて、日本は「侵略国家」として断罪され、その後、今に続く事となった「東京裁判史観」(自虐史観)に基づき、教育の場でも、「日本はこんなに悪い事をしてきました・・・」と言った洗脳教育が実践されれば、誰しも、「日本は嘗(かつ)て近隣諸国を侵略し、多大な迷惑を与えたんだな」と納得してしまっても無理からぬ事です。しかし、日本の戦争は「侵略戦争」だったとして「東京裁判」を開廷し、日本を断罪した正に張本人であるマッカーサー元帥 ── 日本軍と実際に戦い、戦後、GHQ(連合国軍装司令部)最高司令官として日本に進駐、「東京裁判」を開廷して日本を断罪した人間が、その後、自身の考えを180度転換、日本の戦争は「自衛戦争」だったと言っているのです。これは、物凄い爆弾発言です。「侵略戦争」だと考えられていたものが、実際には、「自衛戦争」だった訳ですから。しかし、「自虐史観」に染まった日本では、今尚、「日本の戦争は侵略戦争だった」と言った主張が大手を振って罷(まか)り通っているのが実情です。と言う訳で、今回は、マッカーサーの爆弾発言を通して、日本の戦争が「自衛戦争」であった事を論じてみたいと思います。

和26(1951)年5月3日。朝鮮戦争に於ける戦争方針でトルーマン大統領と対立し、GHQ最高司令官を解任されたマッカーサーが、米国上院軍事外交共同委員会の場で、朝鮮戦争に於いて彼が主張した支那海上封鎖戦略についての答弁の際、以下の様な「爆弾発言」をしたのです。曰く、

 では五番目の質問です。赤化支那(中共:共産中国)に対し海と空とから封鎖してしまへといふ貴官マッカーサーの事)の提案は、アメリカが太平洋において日本に対する勝利を収めた際のそれと同じ戦略なのではありませんか。

 
 その通りです。太平洋において我々は彼らを迂回しました。我々は包囲したのです。日本は八千万に近い膨大な人口を抱へ、それが四つの島にひしめいてゐるのだといふことを理解していただかなくてはなりません。その半分近くが農業人口で、あとの半分が工業生産に従事してゐました。
 潜在的に、日本の擁する労働力は量的にも質的にも、私がこれまで接したいづれにも劣らぬ優秀なものです。歴史上のどの時点においてか、日本の労働者は、人間は怠けてゐる時よりも、働き、生産してゐる時の方がより幸福なのだといふこと、つまり労働の尊厳と呼んでもよいやうなものを発見してゐたのです。
 これほど巨大な労働力を持ってゐるといふことは、彼らには何か働くための材料が必要だといふことを意味します。彼らは工場を建設し、労働力を有してゐました。しかし彼らは手を加へるべき原料を得ることができませんでした。
 日本は絹産業以外には、固有の産物はほとんど何も無いのです。彼らは綿が無い、羊毛が無い、石油の産出が無い、錫が無い、ゴムが無い。その他実に多くの原料が欠如してゐる。そしてそれら一切のものがアジアの海域には存在してゐたのです。
 もしこれらの原料の供給を断ち切られたら、一千万から一千二百万の失業者が発生するであらうことを彼ら(日本政府・軍部)は恐れてゐました。したがつて彼らが戦争に飛び込んでいつた動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだつたのです』
(小堀桂一郎編『東京裁判 日本の弁明』より)

と。ちなみに、この「爆弾発言」は彼の証言から三日後の5月6日、『ニューヨーク・タイムズ』紙に全文が掲載され、日本の新聞各紙にも報道されましたが、今日、この事は忘れ去られてしまったのか、或いは、無視されているのか、殆(ほとん)ど問題にされていません。実際、教育の場でも生徒達に教えられる事は、先ず以てありません。もしも、「自虐史観」に固執する左翼・反日日本人が、この「爆弾発言」を知りながら黙殺しているのだとすれば、「意図的」なものを感じざるを得ません。それはさておき、日本の戦争を「侵略戦争」と信じていたマッカーサーが、何故、変心して「自衛戦争」側に鞍替えしたのでしょうか? それは、朝鮮戦争が契機となっていたのです。

後、朝鮮半島は、北緯38度線を境界として、南には米国を後盾に韓国が、北にはソ連を後盾に北朝鮮が並存し、小競り合いを繰り返していたのですが、昭和25(1950)年6月25日、その均衡が遂に破られたのです。この日、北朝鮮軍が電撃的な「南侵」(韓国への軍事侵攻)を開始、総崩れとなった韓国軍は次々と撃破され、韓国各地が北朝鮮軍の手に落ちていきました。所謂「朝鮮戦争」の始まりです。しかし、米国が黙ってはいませんでした。米国は日本に進駐していた米軍(進駐軍)を韓国救援の為、朝鮮半島に急派し、同年7月には更に米軍を「国連軍」として増派したのです。とは言え、北朝鮮軍の勢いは留まる事を知らず、遂には米韓連合軍を釜山(プサン)周辺に迄追い詰めたのです。このままいけば、朝鮮半島は北朝鮮によって「祖国統一」していた事でしょう。しかし、「歴史」はそうなる事を拒みました。同年9月、仁川(インチョン)上陸作戦に成功した米軍が、北朝鮮軍を背後から攻撃した事で、今度は北朝鮮軍が総崩れとなり、勢いに乗じた米韓連合軍は、北朝鮮軍を支那・北朝鮮国境近くに迄追い詰めたのです。これで韓国による「祖国統一」が実現する筈でした。しかし、「歴史」はこれをも拒絶したのです。10月末、今度は、支那が北朝鮮救援を名目に介入、人民解放軍を「義勇軍」として大量に派兵し、北朝鮮軍と共に米韓連合軍を南へと押し戻し、昭和26年春頃から、北緯38度線を境界に戦況は膠着状態に入ったのです。

GHQ最高司令官・マッカーサーは、朝鮮戦争勃発に伴って国連軍司令官をも兼任、米韓連合軍を指揮しました。彼は、朝鮮戦争を契機に、日本を「防共の砦」・「米国の同盟国」として、国家再建に方針転換した事に見られる様に、「反共」を旨としていました。ですから、朝鮮半島の「赤化」(共産化)等以ての外の事であり、北緯38度線以北にソ連・支那を後盾とする北朝鮮が存在する事自体、我慢のならない事でした。そんな彼の事でしたから、仁川上陸作戦後、優位に立った米韓連合軍をして一気に北朝鮮全域を制圧、朝鮮半島を韓国が統一し「防共の砦」とする事が悲願でした。そして、それは北朝鮮軍を支那・北朝鮮国境に迄追い詰めた事で実現する筈でした。それが、支那人民解放軍の参戦で崩れたのです。更に、どんなに北朝鮮・支那連合軍(以下、「共産連合軍」と略)を叩いても、その背後、「満州」(中国東北部)が兵站基地として機能し、更にその後ろにソ連・支那が控えている以上、どんなに攻勢をかけても戦況は遅々として好転しない事に苛立ちを覚えました。そこで、彼は初めて気付いたのです。日本の戦争は「自衛戦争」だったのだと。

鮮戦争が膠着する中、マッカーサーが立案した事は、「満州爆撃作戦」でした。前述の様に、満州は共産連合軍の兵站基地として機能していた訳で、ここを拠点として共産連合軍に次々と軍需物資が届けられていたのです。これではいくら米韓連合軍が攻勢をかけても、共産連合軍が降参する訳がありません。早い話が、支那事変の際、ビルマ(現・ミャンマー)等の「援蒋ルート」を通って、米英から蒋介石政権に軍需物資が届けられた事で、戦況が膠着状態に陥ったのと同じ事が起こった訳です。それを打開する為に立案されたのが、満州爆撃作戦だった訳ですが、マッカーサーは彼自身がこの作戦を立案した事で、「日本の立場」が初めて理解出来たのです。つまり、日本にとって、朝鮮半島とその延長線上にある満州は「国家の生命線」であり、ここが日本と敵対する国家・勢力によって支配されると言う事は、取りも直さず「皇国の興廃」 ── 国家存亡の危機に直面する緊急事態である、と言う事に気付いたのです。現に、日本は、かつて高麗を属国化した(モンゴル)によって、高麗を拠点に侵攻された経験があります。(元寇:蒙古襲来) だからこそ、日本は、清国李氏朝鮮に対する干渉を排除する為に「日清戦争」を、ロシア帝国が満州から朝鮮半島を窺(うかが)うや「日露戦争」を戦かった訳です。清国・ロシア帝国共に当時の「超大国」であり、「新興国」日本にとっては「侵略戦争」どころか、それこそ正に「皇国の興廃」を賭けた一大戦争だったのです。この日本の朝鮮観・満州観と、日本人の勤勉且つ労働を尊ぶ国民性を知ったからこそ、マッカーサーは考えを改め、米国上院軍事外交共同委員会の場で、敢えて日本を擁護する様な「爆弾発言」をした訳です。

後に、前掲『東京裁判 日本の弁明』(小堀桂一郎編)の文中

「したがつて彼らが戦争に飛び込んでいつた動機は、大部分が安全保障の必要に迫られてのことだつたのです」

に登場した「安全保障の必要」について若干補足してみたいと思います。この部分は、マッカーサー発言では元々「セキュリティー」(security)でした。邦訳の際に、「安全保障の必要」とされたのですが、この部分 ── 「セキュリティー」は、「生存権の確保」と解しても良いのでは無いかと思います。それを如実に物語っているのが、昭和16(1941)年9月6日に開催された御前会議に於ける永野修身(おさみ)・海軍大将の発言です。彼は、米国が日本に突き付けてきた事実上の最後通牒『ハル-ノート』を甘受、米国に屈服し戦争を回避するか、はたまた、何もせずに時勢が好転するのをじっと待つか、或いは、対米開戦に踏み切って戦争の中に活路を見い出すかについて、こう発言しています。

「戦わざれば、亡国と、政府は判断された。戦うもまた亡国であるかも知れぬ。戦わざる亡国は魂まで失った亡国であり、最後の一兵まで戦うことによってのみ死中に活を見いだしうるであろう。戦ってよし、勝たずとも、護国に徹した日本精神さえ残れば、我らの子孫は再起、三起するであろう」

永野大将は遠回しに、米英との戦争は端から「勝ち目」の無い「負け戦」である、と言っているのです。決して言われている様な「侵略戦争」をしよう等とは露共思ってはいないのです。進むも亡国(敗戦)、退くも亡国、同じ亡国なら「皇国の興廃」を賭けて戦い、せめて、日本人の「民族としての誇り」(日本精神・日本人の気概)だけでも後世に残そうではないか、と言っているのです。これの一体何処が「侵略戦争」なのでしょうか? 矢張り、日本の戦争は、マッカーサーが認める迄も無く「自衛戦争」だったのです。


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