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つむぎ唄:春よ、来い 赤ひげ診療譚/4 市川先生の決断 /長野

 ◇父の古里で恩返し

 「僕が行こうか」という市川俊夫医師の思いがけない返答に、東京民医連事務局次長=当時=の前沢淑子さんは言葉をのみこんだ。栄村が無医村になるかもしれない緊急事態だったが「いくら何でも高齢の先生を山村で働かせられない」。いったん、診療所を後にした。

 07年11月、高橋彦芳村長は市川医師に会うために上京、JR品川駅前のホテルラウンジで対面した。前沢さんの計らいだった。同年代の2人は、亡き父の話題などですっかり意気投合。「ピンチヒッターならやってもいい」。市川医師は快諾した。80歳を前にして1年間の単身赴任が決まった。

  ◇  ◇  ◇

 同じころ、村出身で、現在は東京・世田谷で暮らす元教え子、古川栄子さん(74)の耳にも恩師の帰郷話が入ってきた。

 10代後半に「封建的な村を飛び出したい」との一心で上京した。看護学校を卒業して、市川医師と同じ医療法人に入会、同じ病院で約30年間勤務した。労働者のために設けた日曜・夜間の検査日や、ベッドの差額代を取らないなど「誰にも平等で、精いっぱいの医療を施していた。先生の背中を見て育った」と振り返る。

 しかし、古里が無医村の危機に直面しているとはいえ、高血圧や不整脈の持病を抱える老医師の身を案じた。

 そんなある日、市川医師の妻春江さん(80)が、先行きを憂える古川さんに言った。「どこにいたって、倒れるものは倒れる。市川はそれを覚悟で、栄村へ行くのではないかしら。きっと本望だと思っている」。妻は55年間寄り添った夫の決断を冷静に受け止めていた。

 「命の続く限り、医療の中で生きていく人なんだわ」。古川さんも納得した。

 今年3月、品川のホテルで、医療法人OB会主催で「市川先生の新たな挑戦を激励する会」が開かれた。約80人が集まり、誰もが老医師の80歳の門出を祝った。

 「父の古里への恩返し」--。栄行きを決めた理由はこの一点だった。周囲がどう止めようと、意志は固かった。

 市川医師は「医療人生の最後の締めくくり、という気持ちだねえ」と淡々と語る。

 08年4月、白髪の紳士がJR東京駅にいた。新幹線がゆっくりとホームを離れると、林立する高層ビルが後方へ流れた。車窓を眺めながら「一番驚いているのはおやじだろうなあ」と思うと、不思議にわくわくした。

 80歳で巡ってきた不思議な縁(えにし)。一路、北信濃へ。60年ぶりに故郷での生活が始まろうとしていた。=つづく

毎日新聞 2008年12月5日 地方版

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