旧日本海軍の山本五十六・連合艦隊司令長官(1884‐1943)が自ら記し、その遺書ともみなされている「述志(じゅっし)」が、海軍兵学校時代からの親友で大分県杵築市出身の堀悌吉中将(1883‐1959)の遺品の中から見つかった。日独伊三国軍事同盟や対米英戦争に反対していたとされる山本の立場を裏付ける貴重な資料という。
大分県立先哲史料館が1日、発表した。堀の遺族から同館に寄託された約1300点の資料群の中にあった。
「述志」は、3国軍事同盟の賛否をめぐり海軍内の対立が激化していた1939(昭和14)年5月31日付と、対米英戦争開戦日の41(同16)年12月8日付の2通。
5月31日付では、同盟賛成派から命を狙われていた山本が「此(この)身滅(ほろぼ)すべし、此志奪う可(べ)からず」と信念を貫く覚悟を記している。12月8日付には、「私心ありてはとても此大任は成し遂げ得まじ」とあり、同館は「連合艦隊司令長官として自らの考えと異なる行動をとる苦悩がにじむ」と解説する。
このほか、堀が戦後、戦争に反対した山本のことを後世に紹介するために書いた「五峯録」の原本や、山本が提案した真珠湾攻撃の原案となる「戦備訓練作戦方針等ノ件覚(おぼえ)」の直筆なども発見された。同史料館によると、これらの資料は、堀が「開戦の責任を山本に押しつけられる可能性もある」として公開せず、幻となっていた。
五峯録の原資料となった述志や書簡などが多数見つかったことに、昭和史研究者で作家の半藤一利氏は「原資料がないためにその記述を疑う研究者もあったが、出典となったほぼすべての史料がまとまって確認され、そのような見解を一蹴(いっしゅう)することになるだろう」と指摘。「大正や昭和戦前期の海軍研究が飛躍的に進んでいくと期待される」とコメントしている。
同史料館は6日から14日まで、述志や五峯録、山本が堀に充てた書簡などを展示する。
=2008/12/02付 西日本新聞朝刊=