雪で閉ざされた山あいの村にも、芽吹きの季節がやってきた。真っ白い山々から雪解け水がわき出し、カタクリの紫色の花が春の胎動を感じさせる。4月4日。村に一校しかない中学校の門を、ひとりの老人がくぐった。ゆっくりとした足取りながら、しゃんと伸びた背筋はとても80歳には見えない。「花が開いてきたねえ」。桜の木を愛(いと)おしそうに眺め、学校検診へ向かった。市川俊夫医師(80)。無医村になりかけた栄村の診療所に赴任した「赤ひげ先生」は、最初の仕事に取りかかった。
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県内最北端の寒村。新潟県との県境に位置し、270平方キロの広大な面積を有する、9割が山林原野という自然豊かな土地だ。45(昭和20)年には、観測史上最高の7メートル85の積雪を記録するなど全国有数の豪雪地として知られる。人口2300人余り。高齢化率44・5%は県内で5番目に高い(07年末現在・県調べ)。高齢者にとって、村に一つしかない村営診療所は命綱だ。
全国的な医師不足は、長野県も例外ではない。81市町村のうち、2村は無医村、13村は医師が1人のみ(06年末現在・厚生労働省調べ)。大病院でも慢性的な医師不足に陥り、産科などの閉鎖が相次ぐ。
しかし、信州には農村医療の先駆者、故若月俊一氏=県厚生連佐久総合病院名誉総長=が「平等な医療」を掲げ、農村医療に尽力し、全国モデルとなった歴史がある。今も若月氏の理念を慕う若手医師らが集う。
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市川医師は28(昭和3)年、御代田に生まれた。栄出身で教員だった父の転勤に伴い、少年時代は東信地方を転々とした。
悲しい思い出がある。6歳のころ、三つ違いの妹を亡くした。盲腸を患い、腹膜炎を併発したのだ。はっきり覚えているのは小さな棺桶(かんおけ)と、おいおいと泣く母親の姿。小諸の病院へ亡きがらを引き取りに行った帰り、父が飯屋でビールを頼んだ。「こんな時に飲むなんて」。母が父を強くなじった。
「盲腸は今ならすぐに治せる病気だが……。思い出せば残念な気持ちでいっぱい」。医師を志した理由の一つに、この出来事が影響している。
旧制上田中を4年で、旧制金沢医大へ進んだ。太平洋戦争末期、軍医が大量に必要とされた時代だった。京大生の兄は学徒出陣した。「自分もいずれ軍医になるのだ」。そう思って勉学に励むうちに、終戦を迎えた。
「中学の先生をやってくれないか」。戦後民主主義花盛りの48年、旧水内村(現栄村)から声が掛かった。人手が足りないという村の頼みに、市川青年は村行きを決めた。医大に籍を残し、旧水内中白鳥(しろとり)分校に代用教員として赴任。父の故郷での暮らしが始まった。
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小さな農村に着任した老医師と村民との触れ合いを通して、地域の絆(きずな)と、地域医療の今を描く。=つづく
毎日新聞 2008年12月2日 地方版