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「夢の超特急」0系ラストラン 元運転士「ありがとう」(1/2ページ)

2008年11月30日10時5分

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写真新幹線0系と山本徳雄さん=87年2月、東京都品川区、山本さん提供

写真高校卒業まで住んでいたJR上熊本駅周辺では、高架の建設が進む。「0系の後輩たちが来る。夢を運んでもらいたいですね」=熊本市花園1丁目

 初代新幹線0系が30日で44年間の定期運行を終える。21年前まで0系の運転士だった熊本市の会社員、山本徳雄さん(58)は当時を思い出す。「ありがとう。お前のことは忘れんばい」と役目を終える「友」に感謝している。

 東京五輪に沸いた64年の秋。中学3年だった山本さんは新聞で0系の写真を見た。「これだ。絶対、新幹線の運転士になる」。高校は鉄道系の学校に進んだ。

 国鉄の試験を受けたが不合格。臨時職員の道を選び、川崎市の新鶴見操車場で、食事の用意や掃除に追われた。約1年で正職員になり、新幹線や在来線の整備を担当。その間、新幹線運転士らを養成する国鉄の中央鉄道学園(東京都国分寺市)の入学試験を何度も受けた。79年、29歳でようやく合格した。

 80年5月ごろ、訓練で教官に教わりながら、初めて0系を運転した。東京発新大阪行き。あこがれの操縦席に、緊張でガチガチになった。独り立ちしてからは、冬の関ケ原の峠越えで大雪に悩まされるときもあったが、日々姿を変える富士山が好きだった。

 37歳の時、国鉄の分割民営化でJR東海に採用が決まった。だが、採用問題で職場の雰囲気は悪化、新幹線の運転士として熊本に錦を飾りたいという夢もかなわない。悩んだ末、退職を決めた。

 最後の運転で名古屋から東京に向かう車中、0系との思い出、国鉄の仲間や両親、妻のことなど色んな思い出がよみがえってきた。「0系のおかげで夢を持つ大切さを知った」。熊本に帰って保険会社員に転身した今も、0系の運転士だったことが誇りだ。

 0系の営業運転終了を知ったときは寂しくなった。同時に感謝の気持ちがわき上がった。0系の詩を作って元同僚や鉄道博物館(さいたま市)の館長に贈った。詩にはこうつづった。

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