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November 12(Wed), 2008
■★「わしズム」は次号で廃刊……。小林よしのりよ、「言論封殺魔」とは、お前自身のことだろう???
http://sankei.jp.msn.com/culture/books/081112/bks0811121834000-n1.htm
雑誌「わしズム」が終刊発表
2008.11.12 18:34
漫画家、小林よしのりさんが責任編集長を務める雑誌「わしズム」(小学館)が、平成21年2月発売の冬号で発行を終えることが12日、分かった。小林さんが同日発売の雑誌「SAPIO」11月26日号の連載漫画のなかで「次号で終了する」と発表した。
わしズムは平成14年4月に幻冬舎が創刊。17年秋号から小学館に版元を変更し、SAPIO別冊として年4回発行していた。
(SAPIO 11月26日号 P61〜62より引用)
わしが『ゴー宣』で批判を始めたら、わしに対してではなく小学館に圧力をかけ、
訴訟を臭わせ、版権引き揚げを口にし、
同じ雑誌内で連載してる者を批判してはならないなどと勝手にルールを押しつけ、
『SAPIO』に反論書けばいいのに、漫画は非対称だから議論にならないと逃げ、
とにかく『ゴー宣』で自分の批判をさせるなと、ねじ込んでしまったのだ!
それ以後、わしはその男の批判を編集部から禁じられてしまった!
ところがその男は、以後、平然と、新聞という『公器』で、わしの批判を何度も行っているのだ!
まったく不思議なのだが、わしが『ゴー宣』の自由な言論を保障しなければ、
『SAPIO』での連載を終了すると言ったらどうなるのだろう?
わしは「自分への批判は封じろ」などとは絶対に言わない。
ただ『ゴー宣』を自由に書かせろと言うだけだ。
元々『SPA!』をやめる時に、小学館なら『ゴー宣』を万全に守ると言われたから、
わしは『SAPIO』で連載する決心をしたのだ。
その約束が反古にされた。
(中略)
相手と自分と、どちらかをとれ、などとは言いはしない。『ゴー宣』の言論の自由を求めているだけだ。
とりあえず『わしズム』は次号で終了することに決めた。
今の段階では他の出版社にも描かねば『ゴー宣』の自由な言論を
保証できないのではないかという不安が生じてしまったからだ。
(欄外)
現在わしの仕事の7割を『わしズム』に傾注している。これをやめなければ他の出版社に描く時間を確保できない。
『わしズム』はわしが責任編集長なのに、「言論封殺魔」は発売されると直ちに「SAPIO」編集部に電話をかけてくる。
こんなデタラメな話が許されるのか?
(引用終わり)
November 05(Wed), 2008
■★雨宮処凛さん等が企画した「麻生邸見学ツアー」で三人が不当逮捕(渋谷)。なんだか、背筋が寒くなるような不穏な空気が……。そして今日、やっと釈放とか。
よくわかりませんが、小泉政権時代に頻発した「情報統制」、「国策捜査」、「国策逮捕」を彷彿とさせますね。現場で指揮している私服の警官が叫んでいる「公防(コーボー)」「公防(コーボー)」って何ですか。「公務執行妨害」のことですかね。いずれにしろ、麻生官邸は、解散・総選挙から逃げまくっているだけの「ヘタレ政権」かと思っていたら、一方では、なにやら、公安警察とつるんで、怪しい謀略と弾圧を駆使した、中国や北朝鮮も顔負けの「恐怖政治」を開始したようですね。これから続々と逮捕者が出るかも……。それにしても、逮捕事件が10/26で、今日釈放ということですから、一週間以上の身柄拘束ということになりますが、これは長いですね。何か、政治的背景があるのでしょうね。
★逮捕の瞬間の映像。
http://jp.youtube.com/watch?v=Rc0Z0Yvde8E
http://jp.youtube.com/watch?v=3Uw701vV15U
http://jp.youtube.com/watch?v=Rc0Z0Yvde8E
★関連ブログ。(麻生でてこい!!リアリティツアー救援会ブログ)
http://asoudetekoiq.blog8.fc2.com/
でてこい3人!でてこい麻生!!麻生邸リアリティーツアーの不当逮捕に抗議する集会
日時:11月6日(木)19時〜
場所:総評会館203号室
(地下鉄東京メトロ千代田線「新御茶ノ水駅」B3出口すぐ。東京メトロ丸ノ内線「淡路町駅」B3出口徒歩5分。都営地下鉄新宿線「小川町駅」B3出口徒歩3分。JR「御茶ノ水駅」聖橋口徒歩5分)
主催:麻生でてこい!! リアリティツアー救援会
10月26日、反戦と抵抗の祭〈フェスタ〉のプレ企画である「リアリティツアー2――62億ってどんなだよ。麻生首相のお宅拝見」において、3名が不当逮捕されました。
世の中に無数に存在するツアーのうち、なぜこのツアーだけが妨害されたのでしょうか。いまわたしたちの身のまわりで生じている「格差」「貧困」は、あきらかに政権与党の政策に原因があります。小泉から安倍、福田にいたるまで、政府は金持ちを優遇する一方で、貧しい人びとを切り捨てる新自由主義政策をすすめてきました。麻生内閣も、従来の政策を変更するきざしはまったくありません。
最近の報道では、土地だけでも62億円といわれる大豪邸に住み、射撃や飲食にいそしんでいる麻生首相の浮世ばなれした暮らしぶりが報じられていました。ツアーは、そんな人物が「格差」「貧困」の問題を解決できるのか、大豪邸をこの目で見て、話をしてみようという趣旨のものでした。
わたしたちは、警察の非道をぜったいに許すことができません。ありもしない罪を着せようとしている警察に断固抗議し、3名をすぐに釈放させるために、ぜひいっしょに声をあげてください。
3人を返せ。「格差」「貧困」を作りあげてきた責任者であり、今回の警察の不始末の責任をとるべき立場にある麻生太郎首相はここへきて応えろ。
でてこい3人! でてこい麻生!!
★SOBAさんのコメントより。
SOBA 『トラックバックが通らないので、。
この写真を見るたびに自分が踏みつけられているような気がする。嗚呼、何と言うこの暴力、何と言うこの理不尽。
http://soba.txt-nifty.com/zatudan/2008/11/post-58f3.html
今日は秋葉原で、アホー太郎のパフォーマンスならぬアホーマンスで、赤ん坊圧死事件が起きるところだった。
http://soba.txt-nifty.com/zatudan/2008/10/post-598a.html
政治系ブロガーは対弾圧用ミラーブログを持つべきです。おおっチョー簡単、タンブラーにコメントとトラックバックを設置出来た。
http://soba.txt-nifty.com/blog/2008/11/post-875b.html』(2008/11/06 21:18)
SOBA
トラックバックが通らないので、。
この写真を見るたびに自分が踏みつけられているような気がする。嗚呼、何と言うこの暴力、何と言うこの理不尽。
http://soba.txt-nifty.com/zatudan/2008/11/post-58f3.html
今日は秋葉原で、アホー太郎のパフォーマンスならぬアホーマンスで、赤ん坊圧死事件が起きるところだった。
http://soba.txt-nifty.com/zatudan/2008/10/post-598a.html
政治系ブロガーは対弾圧用ミラーブログを持つべきです。おおっチョー簡単、タンブラーにコメントとトラックバックを設置出来た。
http://soba.txt-nifty.com/blog/2008/11/post-875b.html
free_jamal
2008-11-06
■負け犬のあ〜そ〜太郎と番犬とも(ゆでたごデカたち)!
政治的な背景(言論の自由弾圧、誰でも逮捕できる)があるからこそ<攻防>、<公務執行妨害>などと言う罪名と条例がありますが、今回のあ〜そ〜太郎宅見学ツアー弾圧の場合はざま〜見ろって事ですよ!!?
以下にはフリーター労組の本日の報告です。あっと的な署名賛同の力と抗議の広がりによって逮捕者全員の釈放が実現しました。おめでとうございます。嬉しい限りです。但し、闘いはまだ終わっていないと思います。二度と同じ事をさせないためにはあ〜そ〜太郎とゆでたごデカ連中、を謝罪させるべきです!拷問、人権侵害とマスゴミのでたらめ報道の問題もまだ残っていますが、重要な問題なので決して諦めず、引き続き追及を行う運動に移すべきです!これは私の望みです。
三名の釈放で労働者の団結は偉大である事は証明されたのではないでしょうか!
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
http://asoudetekoiq.blog8.fc2.com/
November 02(Sun), 2008
■★平川祐弘の「大江批判」を笑う。
ちょっと古い記事だが、「大江健三郎報道」をめぐる記事の中で、「平川祐弘」に関するこんな記事を見つけた(以下に引用)。日本の論壇やジャーナリズムには、大江健三郎が左翼的言動をする作家だからという理由からか、大江健三郎という作家の作品や才能・資質までを、物知らずというか、無教養と言うか、単純素朴に否定し、批判・罵倒する人が少なくないが、大江健三郎の文学をまったく理解できないらしい、この「平川祐弘」というのは、未だに生きているか死んでいるかわからないが、元東大教授で、比較文学かなんかの専門家だった人だろう。昔から、その名前はよく知っているが、もちろん本も何冊か持っているが、それにしても文学の専門家が、裏でこんなことを平然と言っているとは!!! ついでに「クライン孝子のお友達」で有名な小堀桂一郎という世間知らずの比較文学者を加えれば、いいお笑いコンビとなるわけだが、それにしても小堀とか平川とか、まったく政治思想や政治的発言などとは無縁な、貧相な二流学者の一人だと、三島由紀夫や江藤淳が活躍していた当時は思っていたものだが、ひそかにこんなことを考えていたのか、と思うと感慨無量というわけだ。そして、三島由紀夫や江藤淳がいなくなった今、鬼のいぬまの何とやらで、右翼・保守派の重鎮面して(笑)、東京裁判史観批判だかなんだか知らないが、突然、右翼的・保守派的な政治的発言を繰り返すようになり、ついでにほぼ同世代の大江や大江文学を、半ば嫉妬と羨望からとはいえ、批判・罵倒しし、『裸の王様―大江健三郎』という論文……」まで書いていたとは、いやはや、まことに結構なことで、是非とも、その全文を読んでみたいものだが、むろん、「論文」などではあるまい。くだらない雑文に決まっている。大江健三郎や大江文学を、文芸誌などで、正面から堂々と批判し、文壇や論壇を賑わわせたのは江藤淳だが、それ故に逆に江藤淳は、文壇の良識派(?)から激しく批判・罵倒されたわけだが、小堀桂一郎や平川祐弘等に、文芸誌でも、同じ内容で、堂々と書く勇気があったら、少しは見直してもいいが、小堀桂一郎や平川祐弘は、とてもそんなタマじゃないだろう。保守論壇や保守系ジャーナリズムの片隅で、コソコソと動き回り、自分の気に入らない物書きを見つけると、ジャーナリズムから追放しようと企んで、密かに雑誌の編集者達に圧力をかけ、「アイツは戦後の日教組教育の悪い影響を受けているからダメだ……」とかなんとか、妄想100パーセントのイチャモンをつけて回る小心翼々たる「ヘタレ保守」「ヘタレ右翼」の部類だろう。むろん、左翼作家の大江健三郎を、政治的に、また思想的に批判・罵倒するのが悪いと言いたいわけではない。ただ、そんなネット右翼レベルの知的レベルで、ノーベル賞まで受賞している、我が国の文学を代表する「世界的文豪」への批判・罵倒を可能だと思っているらしいことが、まさしく、思想的にも、文学的にも、愚鈍で、低レベルだと言いたいだけである。大江健三郎批判や大江文学批判をやるなら徹底してやってみろ、と言いたいが、それだけの勇気も根性も、そして才能も資質もないだろう。いやしくもノーベル賞を受賞した作家やその作品を、凡庸な「政治イデオロギー」でしか批判できない平川って、東大教授か比較文学者か知らないが、いったい、今まで、何でメシを食って来たというのか。文学は政治の下僕か。陰口しかたたけないヘタレ保守のくせに……。ともあれ、三島由紀夫や江藤淳が活躍した時代の「右翼」や「保守」の思想的レベルや文学的レベルを知っている小生のような者には、昨今の右翼・保守陣営の思想的劣化、文学的劣化は、見るも無残なものであり、哀れとしか言いようがない。自称「右翼論客」、自称「保守思想家」の小生が(笑)、左翼作家の大江健三郎を応援したくなる理由もお分かりだろう。政治思想や政治的立場はどうであれ、文学的に、そして思想的に、あるいは学問的に、大江健三郎を読んでいる方が、はるかに勉強になるのだ。僕が、無能を絵に描いたような小堀桂一郎や平川祐弘等のテクストを無視して、文学的才能と資質に恵まれた大江健三郎のテクストと真剣に向き合うのは、いわゆる「日教組教育」(笑)なんかのせいではない。
『テーミス』 2007年6月号
<社会・文化> 大江健三郎の「傲り」にいま批判噴出!
沖縄戦の集団自決は日本軍の命令ではなかった――という高校教科書の検定結果が出たが、このことでノーベル賞作家・大江健三郎に対する批判が高まっている。大江の『沖縄ノート』はすでに51刷を数え、現在も記述を変更しないが、これが許されるのか!?大江を野放しにする出版社もおかしい。
http://www.e-themis.net/new/index_0706.php
文芸評論家で元東大教授の平川祐弘氏はかつて「裸の王様―大江健三郎」という論文を書いたことがある。氏が講演を終えたあと、講演を熱心に聞いていた聴衆のひとりが「私は大江を何度も読んだが、全くわからない。無知なのでしょうか」と真面目に聞きにきたという。平川氏は「大江の読者はそれをいいたがらないが、あなたの感想は正しい」と断言したという。
TIDA
11月13,14の琉球新報文化面で山崎先生の論評「大江岩波訴訟 高裁判決に思う」拝読しました。一部保守陣営が、思想的対決や言論闘争を通してではなく、裁判という「邪悪な謀略」を通じて大江氏を貶めようとしていることに、ブログでの論評にも増して鋭く斬り込んだ、痛快無比の読み応えでした。それに比べて地元ジャーナリズム、ぬるま湯につかっているようなたるみ具合ではないか、とすら思えました。曽野綾子を論破した太田氏の名誉回復を、という先生の主張にも強く頷きました。
「沖縄に米軍基地を封じ込めて繁栄を続けている事実に無知のまま、沖縄を旧植民地を見るような「上から目線」で「観光の島」や「癒しの島」としか見ようとしない「本土の日本人」の無知と無神経を許してはならない。」
この一文には敬服するばかりです。沖縄人自身が本土の日本人に阿りがちな心性を克服する努力が必要だ、と痛感しました。
戦後民主主義・東京裁判史観を批判する右派は、戦後60年間、日本の戦争犯罪の人身御供となって戦後処理を担ってきた沖縄に対する総括をし、現状の膨大な基地と基地被害の存在をどう認識するのか明らかにした上で、そのような批判を展開してもらいたいものだと思います。東京裁判史観批判をする右派ほど、沖縄の基地強化推進派であり、対米依存肯定派なのは何ともシュールです。・・・と横道にそれましたが、
今後も山崎先生のますます鋭く痛快な論壇への喝を期待しております。
僭越な書き込み、失礼いたしました。
November 01(Sat), 2008
キー坊
上映を楽しみにしていたのですが、その時間帯に先約をしていた事を思い出し行けなかったです。失態でした。小生にとしては集団自決だけでなく、38年前の本島近隣の離党の雰囲気を見てみたかったのですが…。
阪神さん。
また上映情報があれば、お知らせください。
山崎さん。
「裁判官や弁護士に「歴史の真実」を語る資格はない。」と言われることに同感です。判事の判断に頼り過ぎると、最高裁で逆転判決が出た場合にショックが大きいと思います。ただ、この裁判は原告の動機が透けて見えるという事で、どんな判事も原告の訴えを退ける以外に無いと思いますね。
阪神 キー坊さん、映画は赤松の音声と映像、知念副官の声も聞けました。また島の歴史で最後になるブタをつぶす貴重なシーンがありました。またヒージャーを枯れ木で焼くシーンもありました。軍が来て総業停止させられた鰹節工場跡もありました。70年当時の島の青年は人口減少に悩んでいること(1000人余り)、これからは観光産業を振興していきたいと語っていました。間宮監督によるとこの映画は撮影後1,2年は学生運動が盛んであった大学を中心に上映されていたそうです。その後は倉庫で眠っていて去年から再び上映されるようになったとのこと。恐らく、今後もどこかで上映されるでしょうから情報が入ったらお知らせします。ドキュメンタリードリームショーだけあって入場者は芸術関係の若い人(院生?)中心でした。撮影されたのが70年9月から11月にかけてですから曽野がいた頃です。質疑応答で間宮監督に曽野を見かけたかどうか聞いておけばよかったと今になって気がつき、後悔しています。
和田
ここに書くと続き具合はおかしいのですが、
陣中日誌に記載された2,3人の防衛隊の自殺と関連してnio615さんのサイトに以下の記載がある。(1968.4.8琉球新報)
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/991.html
「―集団自決は命令したのか。
絶対に命令したものではない。自決のあったあとで報告を受けた。しかし、防衛隊員二人が発狂して目の前で自決したことはある。当時の住民感情から、死んで部隊の足手まといにならぬよう―という気持ちだったと思う。村長が機関銃を貸してくれ、自分が全部殺すというのを押しとどめたほどだ。」
防衛隊員二人が発狂して目の前で自決したことはある。
この部分の通常の読み方では防衛隊員二人が(命令でもないのに勝手に)隊長のすぐ近くで自決したということになる。
しかし、米軍に比べて戦力が格段に劣る赤松隊が傘下の防衛隊の自決に対して、手をこまねいて傍観することは考えにくい。 加えて、防衛隊員が家族共々自殺したという伝聞記事でさえ、陣中日誌に記載されているのなら、隊長の目の前で自決した防衛隊員の記事は記載されていないとおかしい。
はたして、そのような記事が陣中日誌に記載されているのかそのことが問題になる。
赤松のこのような主張にかかる事実関係は3つの可能性がある。
赤松のいうとおり、命令もないのに目の前で防衛隊員が自決したのが事実である可能性がひとつ。
一番大きな可能性としては、赤松がスパイ嫌疑や任務懈怠で処刑した防衛隊員のことを実際には「自決しなければ斬殺する」と脅して自決させているにもかかわらず、防衛隊員が勝手に自決したのだと語っている可能性だ。 そうであれば、赤松は自分が実質的に自決命令を出している相手に、「あいつは勝手に自決したのだ」というような人物であるということになる。
最後にまったく事実を反映していないのであれば、赤松も曽野綾子と同じく嘘の巨塊ということになる。
October 27(Mon), 2008
■[小林よしのり・佐藤優論争]★「小林よしのり・佐藤優論争」を、「チャンネル桜」のコラム「高森アイズ」でもとりあげているようです。
http://zoome.jp/atatata/diary/805/
↑
後半にあります。それにしても「チャンネル桜」における「宮平秀幸新証言」キャンペーン報道のその後の検証作業はどうなったのでしょうね。
熊川ビジョン
失礼致します。政治ブログ『熊川ビジョン』です。
現在、当ブログでは衆院選の先送りを受け、管理人の地元・福岡県から選出された麻生太郎内閣総理大臣に対し 「麻生首相に改めて直接物申す!!」なる特別企画を実施しております。
リーマン・ブラザーズ破綻、世界的金融危機。
北朝鮮のテロ支援国指定解除。
来るべきアメリカ大統領選挙と同盟国・日本。
与野党どちらの支持者の方でも、無党派層の方でも結構ですので、首相・麻生太郎自民党総裁への提言や意見、直訴などを政治ブログを運営されている皆様方にお寄せ頂きたい、そして次期総選挙への有権者の関心を高めたいと願っています。(記名・匿名・ペンネーム問いません)
頂いたご意見は、管理人が直接、福岡8区の麻生太郎事務所(福岡県飯塚市)まで持参致します。
近況は随時ご報告致しますので、忌憚なきご意見お待ちしております。
(なお、この書き込みが不適当であると判断なさった管理人様はお手数ですが削除お願い申し上げます)
http://blue.ap.teacup.com/kumagawanaotaka/
October 24(Fri), 2008
■[曽野綾子と『ある神話の背景』]●コメント欄の書き込みは、承認制もやめ、完全に元に戻しました。(from-山崎行太郎)
阪神
79年8月末発行の新沖縄文学42(沖縄タイムス社)に曽野綾子が「沖縄との出会い」と題して4頁ほど寄稿しています。内容は「生贄の島」「ある神話の背景」の要約が中心です。彼女が始めて沖縄を訪問したのは61年で、文藝春秋社の講演の為との事です。また、「生贄の島」はリーダーズダイジェスト社が全面協力するから書いて欲しいと依頼されたそうですが、米軍の残虐行為を書いたら切られると思い辞退したそうです。私が気になったのは「1970年の3月に、赤松大尉と・・略・・マスコミは火がついたように事件を書きたて始めたので、私は暫く情勢がおさまるのを待つことにした。私のようなものが書くのは、新聞や週刊誌が取り上げつくした後がいいのである。1971年の8月、私はこの問題に関する直接取材のために沖縄を訪ねたが、・・・」とありましたが、1971年は1970年の間違いだと思います。彼女が勘違いしたか誤植でしょう。そういえば、富山真順氏の証言では「曽野綾子氏が渡嘉敷島を調査した1969年当時、・・・」とありますが、これも1970年の間違いではないかと思います。
この集団自決については曽野でなく澤地久枝さんが取材していたならば、もっと精細に調査されていただろうに、赤松擁護ありきではなかったろうにと悔やまれます。澤地さんのデビューが遅かったのが残念です。
阪神 この新沖縄文学42で曽野綾子は「次第にその主人公の赤松大尉という名前に興味を覚えるようになった。自分たちの生命を保つために島民に自決命令を出した人なのだ、という説明もあり、そのように書かれた書物もあった。それまでに、私は二十年近く小説を書いて来ていたが、その折聞かされた赤松大尉ほどの悪人にはまだ会ったことがなかった。私は次第に無責任な興味を覚えるようになり、沖縄の方が示唆して下さったように、その事件をそのうちに調べてみたいと思うようになった。」と書いています。沖縄ノートについては触れていませんでしたが、「罪の巨魁」と誤読した結果、「赤松ほどの悪人」と思うようになったのでしょう。曽野は誤読した事を素直に認めるべきです。
和田
曽野綾子と富山氏が会ったのが1969年なのか、1970年なのかは微妙な問題です。
「ある神話の背景」で手掛かりを探すと一つは曽野が第1玉砕場を訪れる場面。
1969年6月米軍引きあげのことは書かれているが、国立沖縄青年の家の建設計画に触れていない。もっとも「ある神話の背景」の連載は1971年10月から。
もうひとつの手掛かりは、「ある神話の背景」で1969年4月3日付けの沖縄タイムスに掲載された星雅彦氏のエッセイにやや詳しく触れていること。
当時東京でもかなりの規模の図書館でないと沖縄タイムスを読むことができなかったのではないか。 曽野が後日星氏の論説を探したことも考えられるとはいえ、1969年当時から
曽野綾子が集団自決を独自に調査していた可能性を捨てきれない。
曽野綾子が1969年から集団自決に少なからぬ興味を示したとすると、赤松と曽野の癒着が赤松の1970年渡嘉敷訪問計画当時に始まっていた蓋然性も無碍に捨てきれなくなる。
それはともかく、やはり高裁も同じ結果。最高裁では勝てる条件が限られ本件は該当しないと思われる。
藤岡の宮平秀幸の言動を村長等が監視していたという主張だが、宮平氏は毎日新聞・専修大学・ジャーナリスト・宿泊客などに饒舌に語っていて、とても他人が口止めできる状態にはなかったようだ。ビデオの時など特定された時間帯で口止めしても自由に話せる空間と時間があった。村長が梅沢に会う話しは宮平氏が2001年にもしている。
http://www.bes.ne.jp/forum/bingoohrai/robouta/old/135/index.html
宮平氏は口止めできるような人ではない。ただ状況に流されやすい人であろう。 藤岡の主張は夢物語に過ぎない。
阪神
和田さん、1969年に曽野が渡嘉敷を訪問した証拠はまだ見つかりません。ただ、陸軍嘱託歯科医の沖縄戦(平良進)の「序にかえて」では曽野綾子が「昭和44年に、私は週刊現代に「生贄の島」を発表したが、平良進先生にお会いしたのはその時である。」と書いています。平良先生に南部戦跡を案内してもらったと書いています。沖縄本島にはいた事は間違いないのですが、渡嘉敷に行った事を証明する事は今の所、残念ながら出来ません。もし69年に渡嘉敷に行っていた事が証明されれば大スクープだと思います。
それはさておき、11月2日18時10分よりポレポレ東中野で「それは島─集団自決の一つの考察」が上映されます。曽野綾子が渡嘉敷を訪問していた1970年の渡嘉敷の取材映像が見れます。高裁で敗訴した腹いせにバカ連中が押しかけて来て「軍命はなかったじゃないか」と上映後のトーク(間宮則夫×仲里効)で騒ぎ出しそうなのが気掛かりですが・・・
ni0615
>>阪神さん
曽野綾子は「生贄の島」取材顛末記を確か文庫本あとがきに書いていましたっけ。私の記憶では1968年暮に熟練の週刊誌ライターをチーフとする取材チームとともに沖縄に送り込まれ、かれらの取材記録を「生贄の島」連載69.4〜7月にまとめたとありましたっけ。
また「生贄の島」初版は70年3月ですから69年にフォローアップの為に沖縄に行った可能性は十分あると愚考します。
渡嘉敷島赤松大尉への興味は、70年3月の渡航阻止騒動が無くても、「鉄の暴風」を読んでいた曽野だったらとっくのとうに興味をもっていたはずです。
私は星雅彦さんに曽野からのコンタクトを聞けばお悩みの件のヒントぐらいは得られるのではないかと思っています。
阪神
ni0615さん、承知しました。機会があれば星さんに伺ってみようと思います。
あと、映画「それは島」の紹介の仕方があやふやでした。映画には曽野は一切かかわっておりません。曽野が渡嘉敷に滞在していた頃とさほど違わない時期に撮影されたドキュメンタリー映画です。
和田
曽野綾子の「ある神話の背景」に記載された赤松隊の陣中日誌の中に次のような記述がある。
「3月28日。・・・・夜明けと共に昨夜出した各部隊は帰って来た。・・・・帰って来た部隊が道案内の現地防衛召集兵(島民であり、正規兵であった)の一部が、支給してあった手榴弾で家族と共に自殺した、という報告を持って来た。「本朝二、三件の模様なり」」
同じく曽野綾子の「切りとられた時間」にはフィクションの体裁をとっているとはいえ、石川という防衛隊が単独で家族と自殺した話しにかなりのウェイトを持たせて記述している。
ところが、私の捜し方が足らないのか、私が勘違いしているのか渡嘉敷島の住民にそのような事実があるという証言などを見いだせないでいる。
私が理解する二、三件の自殺は集団死とは区別される。
27日夜は大雨。偵察隊は28日未明頃出発の可能性が高い。その頃村民は本部陣地に集まっているか集まりつつあったはずである。集合した村民の一部が集団死の前兆のように自殺したなら数多くの証言が残っているはずである。次に述べるように偵察隊が朝、赤松に報告したのであれば集団死の時間帯で自殺したとはいえない。
28日朝二、三件の自殺があったとすることへの疑問
第1玉砕場での集団死についての証言は早いもので、午前10時遅いもので午後3時。
前夜、本部壕近く(北山)に移動命令が出て住民の多くは、28日朝その北の西山盆地に再移動しているか移動中と考えられる。
偵察ルートは多くとも5まで。実際、「ある神話の背景」が語る27日の偵察ルートは多くない。1ルートに道案内3人は船頭が多すぎよう。道案内は多くて10人程度。その中の二三人が本部壕や持ち場に帰ることなく、家族の元へ行くことが可能だったのか、また偵察隊は、そこで家族もろとも自殺したことをどうやって確認したのか。
村民の証言から老人の中には、足がいうことをきかない、生まれ育った住みかで死にたいという理由で移動命令に従うことを渋った者がいたことが伺われる。 しかし、移動命令が出たことを知っているはずの道案内をした防衛隊員は家族が村落等に残っているか、本部壕に移動したのか偵察中に察知できるのだろうか。
1件の自殺なら米軍上陸が引き金になったといっても、家族の特殊事情を下敷きにした偶発的事件なのかもしれない。しかし、道案内の二三家族の集団死が事実なら、その後の集団死の先駆けとの見方もできる。
この件で陣中日誌の真偽を検証し、事実がなかったとなると、住民が自発的に集団死したという印象を与えるための創作ということになるがどうだろうか。
October 23(Thu), 2008
■[小林よしのり・佐藤優論争]★「小林よしのり・佐藤優論争」が、ついに本格的な戦争に……。また逃げるのかな、お涙頂戴のギャグ漫画家・小林よしのり君。
「沖縄集団自決論争」「パール論争」等において各方面から激しい攻撃に晒され、今や敗戦必死の負け戦となりつつある「沖縄集団自決論争」と「パール論争」における小林よしのりだが、はたしてこの絶体絶命の状況にどう対応するのか、なかなかの見物だなー、と期待半分で観察していたのだが、なんと、驚くなかれ、今や、恥も外聞もなく「逃げる」しかないというわけで、突如、「アイヌ問題」を持ち出して、「アイヌ部落」に逃げ込もうとしている小林よしのりというわけなのだが、ついに佐藤優が、「スパ」における「小林よしのり」(大林わるのり?)への抱腹絶倒のパロディ攻撃で終わらせるのかと思っていたら、逆に「待ってました!」とばかりに、今度は「月刊サイゾー」のインタビューで、小林よしのりへの攻撃を再開し、追撃を開始したようで、これは、まるでグルジアのサーカジビリ大統領の火事場泥棒的進軍に対して、ここぞとばかりに世界戦争なみの猛爆撃で対応したプーチンみたいだが、おそらく、ここまでメタメタに攻め込まれたら、負け犬の遠吠えが得意技の小林よしのりといえども逃げてばかりはいられないはずで、ここまで来て、まだ逃げてばかりいたら、惨敗必死の調査結果にすっかり怯えて、解散・総選挙を逃げまくっている「弱虫太郎」、こと麻生太郎同様に、逃げ足ばかり早い小心のヘタレ・ギャグ漫画家、別名「弱虫よしのり」ということになろう。われわれは、小林よしのりの日頃の勇ましい言論マンガ活動をよく知っているが故に、その行く末を、今こそ、期待を込めて注視しなければなるまい。小林よしのりよ、逃げるなかれ。かくなるうえは、特攻隊兵士達の名を汚さないような、名誉ある華々しい玉砕戦法の戦果を期待しているぞ。
●月刊(日刊)「サイゾー」記事
http://www.cyzo.com/2008/10/post_1092.html
http://www.cyzo.com/2008/10/post_1093.html
http://www.cyzo.com/2008/10/post_1094.html
社会
「小林よしのり vs 佐藤優」──論争ではなく"戦争"が勃発!?
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発端となった『ゴー宣』によると、佐藤氏は「琉球
の責任を真摯に受け止める論陣を張る人たちを
「いい人」とし、一方、「沖縄は全体主義の島であ
る」という有識者は「いい人でない人」と書いてい
るという。そして、後者について「名指ししていない
が、もちろんわしのことだ」と断言する。
(「SAPIO」8月20日・9月3日合併号より)
よしりんこと、漫画家の小林よしのり氏が、論壇の寵児・佐藤優氏にケンカを売った。「SAPIO」(8月20日・9月3日合併号/小学館)掲載の『ゴーマニズム宣言』において、佐藤氏批判を3ページにわたって繰り広げたのだ。
ここでよしりんは、自身の重要テーマである沖縄論に佐藤氏が噛み付いてきたと捉え、激高している。いわく<佐藤優が琉球新報(7月12日)にデタラメな記事を書いている><要するにこう言いたいわけだ。「小林よしのりって奴は、沖縄のことを本気で考えて行なっているのではなく、金と虚栄心を目的にやってる悪い人だぜ!」呆れた話だ。「国策捜査」で罪をでっち上げられたと言ってる奴が、人に濡れ衣を着せている!>などなど。
しかし、「SAPIO」といえば、よしりんだけではなく、当の佐藤氏も長期連載を持つ媒体。そこで佐藤氏を猛攻撃するとは、穏やかではない。
対して、佐藤氏は「週刊SPA!」(9月23日号/扶桑社)で反撃を開始。同誌での佐藤氏の連載の特別編「佐藤優のインテリジェンス職業相談」が舞台だった。この記事はあくまで「フィクション」という位置づけで、漫画家から誹謗中傷されたという「ラスプーチン」さんと、作品の売り上げ低下に悩む漫画家「大林わるのり」さんからの相談に佐藤氏が答えるというもの。
satoumasarushimen.jpg
佐藤氏は「SPA!」の連載で3ページに
わたり反撃。よしりん(とは書いていな
いが)の攻撃を「人格的な誹謗中傷と
しか思えない」としている。
しかし、その内容は<読者に対する説明責任をどう考えているのか、編集長に釈明を求めるといいでしょう><あくまでも事実関係で相手をぎりぎり締め上げることです><わるのりさんが、現在の影響力を維持することは不可能です><漫画界と論壇界をコウモリのように渡り歩かれることをお勧めします>など、よしりんや「SAPIO」編集部への皮肉とも批判とも取れるものだった。渦中の佐藤氏を直撃した。
「私は今回の件を『論戦』とは意識していません。論戦には2つの条件があります。ひとつは論点を明示していること。それから、相手に対する最低限の礼儀があること。どちらも小林さんには欠けている。たとえば小林さんは『佐藤は、ただただ、自分を「いい人」、わしを「悪い人」と印象操作したいだけなのだ』と言っている。どこで私がそんなことを言っているのか。私の発言を要約しているにしても、これでは不適当。さらに、マンガの欄外では『わしが沖縄を論じる目的が「金と地位」と佐藤は言うが、生憎わしはその両方とも現状に不満はない』と言っているが、私はそんな発言はしていない。問題は、こうした的外れの言いがかりを論争であるかの如き扱いで掲載した『SAPIO』編集部です。何ゆえにこんな記事を掲載する価値があると考えたのか。長期連載をしている人が、他の長期連載者をデタラメだと攻撃する。そのことを『SAPIO』編集部はどう考えているのか。論者が書いたことをただ読者の判断に委ねるというのでは、2ちゃんねると一緒で編集権が不在ということになってしまいます」
佐藤氏の口ぶりは冷静だが、これは論戦などではなく、礼儀や論理など無用のケンカだと言っているようにも取れる。
「最初に撃ってきたのは向こう。西部劇の世界と一緒で、最初に撃ってきた側に、その要因となる事実関係の検証責任があるのです。さらに、私の言論に対して、小林さんはマンガという非対称な形で撃ってきた。ですから、こちらも『フィクション』という非対称な切り返しをしたわけです。そのほうが読者にとってもおもしろいでしょ?」(佐藤氏)
なお「SAPIO」編集部は、今回の件に関してノーコメント。よしりんの秘書に「反論記事を載せる予定は?」と聞くと、「詳しい対応方法はお話しできない」としつつも「文章なり作品なりで議論していくのが本筋。『SAPIO』でどうやっていくかを考えるのが、小林の取るべき方法だと思います」と、『ゴー宣』でさらなる佐藤氏批判を展開することを匂わせている。
売れっ子同士のバトル、元気のない論壇・出版界にとっては福音では? と言うのは不謹慎か。
(荒井香織/「サイゾー」11月号より/佐藤優氏、ロングインタビューにつづく)
TIDA
先週末、沖縄で佐藤優氏とよしりんの講演会がなんともなタイミングで行われました。残念ながら私はどちらにもいけませんでしたが、琉球新報の記事によると、
佐藤優氏
『「全体主義の島」に意義を』浦添地区労働組合協議会など主催の講演界が開かれ、佐藤優氏が「沖縄から見た現代日本」をテーマに講演した。
佐藤氏は、
『本土マスコミを中心に沖縄は全体主義の島だとするキャンペーンが行われており、あたかも、沖縄が言いたいことをいえない社会であるかのように言われている。有識者やマスコミ以外の県民代表も交えた討論会を開く必要がある、県民は主張すべきところは主張すべきだ』と、県民の生の声で討論しよう、と強調した。(主催者発表で200人)
かたや、よしりん、
『保守とサヨクが談合』「沖縄」で小林さん講演
日本青年会議所沖縄地区協議会主催のフォーラムが那覇市内のホテルであり、漫画家の小林さんは
「左翼と保守派の経済界や財界で談合ができあがって、沖縄を犠牲者の島ということにされてしまっている」と分析した。県外からの視点で、「沖縄は常に自分達が犠牲者だといい募っている人に見えてしまう。」「日本軍こそが県民の命を奪って裏切ったんだということだけを言い立てる。人間弱いからやっているんだろう。本来は言い立てても仕方がない。戦争では何が起こるかわからない。」「沖縄では国旗も国家も教えられないそうで、海外にでても自分の国の国家を歌えないと知性がたりないと思われかねず、沖縄の教育界はまだまだだ」と批判した。このあと、宮城能彦沖縄大教授らとの討論会もあった。(主催者発表720人)。
・・・・・
左翼と保守派が談合??
人間弱いからやったんで言い立ててもしょうがない??
何をか言わんやですね。
よしりんもいよいよ来ることろまできたようです。
(よしりんついに、沖縄の経済界・保守派はサヨクだ!!といい始めたのか・・・。なお、沖縄の学校では凄腕教育長によって国家国旗の実施率は100%を達成、たしか石原東京都より上。)
琉球新報は別の意味で意義のある記事だという判断で掲載したのか?
狼魔人も佐藤氏の講演会のほうに行ったそうで、さっそく佐藤氏への当てこすり記事をアップしていました。10月31日の狼魔人の記事はさて・・・。
TIDA
訂正 『「全体主義の島」に意義を』→
『「全体主義の島」に異議を』、でした。
キー坊
「沖縄では国旗も国家も教えられないそうで、…」
これは20数年も前に、曽野綾子が言ってたことですね。
今は、国家国旗の実施率は100%…、彼女の言説が大きくモノを言ったのですね。今や沖縄は、日本の国家権力の支配する所でしかないです。
「全体主義」などとの右翼キャンペーンは、沖縄人の骨を完全に抜き取ろうとする企てでしょうか。
TIDA キー坊さん、現在、文科省の圧力も強く学校の国旗国歌実施率100%ですが、ご存知のとおり、その保守系である現教育長も教科書検定撤回に動きました。国家権力の支配が国家の思うようにいかないからこそ、知的劣化の進む媚米隷米の右派達が沖縄を服従させようと必死なんでしょう。これだけババを押し付けられてまだホイホイ言うことを聞く奴隷がどれだけいるのやら。しかし漫画家を利用したキャンペーンとは、つくづくバカにされたもんだと思います。小林効果は私の周りを見る限りまったく見られません。日本青年会議関係の750人については否定しませんが、狼魔人の書き込みによると、よしりん、主催者を慌てさせるKY発言もしていたようです。主催者の同調圧力に屈しなかったってことで(笑)。もとより佐藤氏とは比べる対象などではありません。月刊サイゾー記事で一時佐藤氏がよしりんを評価していたこともあったと知って意外でしたが、よしりん、沖縄から米軍撤退をなどと反米を騙っていたからでしょうか。奴は反米を騙りつつ沖縄を利用し蔑視し植民化を試みる文化的侵略者でしかありません。
和田
Sapio最新号で小林よしのりは、アイヌは「人間」という意味だから民族とはみなしがたいという驚くべき見解を主張していた。
中学生で世界地理に詳しい者にはイヌイット(アラスカ先住民)・アボリジニ(オーストラリア先住民)・ヤマノミ(アマゾン先住民の一部)などいずれも自分たちのことを「人間」と称していることを知っている。
18c・19cまで石器時代の痕跡を残していた人間にとって異族は禽獣に近く自分たちが完全な人間と思っている。アジア的段階になると中国中華思想、ユダヤの選民など文化的意味に転換されることが多いけれども人間と称する部族が民族ではないとの主張は同化を当然と主張する前提でしょうか。
小林よしのりに多量の書籍を読み込む時間はないはずで実際にはチーム小林よしのりが上申したものを小林が決済するのであろう。しかし、トッキーなど煽りは優れていても知性が少ないスタッフに囲まれているせいかとんでもない主張を平気でしている。
宗教や政治思想には、時代性・地域性(民族性)・普遍性が不均等に含まれている。
日本のそれは、地域性を過度に強調するものが多いけれども、実際には幕末の平田篤胤さえヨーロッパ思想の影響を受けている。 民族性だけでは、影響力に欠ける。従って近未来指向か復古指向かにかかわらず如何ほどかは民族性を離れた普遍性を忍ばせるものなのだ。 儒教や仏教が誕生の地を離れて周辺地域に浸透したのはアニミズムとシャーマニズムを様式化したにすぎない神道に比べればなにがしかの普遍性を持っていたからである。 たとえば儒教の五輪五常のほとんどは血縁的道徳を説くものであり、時代の制約を免れていないが地域を超えたある普遍性を備えていた。 その普遍性を時代の要請により読み替えようとすることは一種の復古である。 その場合、時代が進んだ思想の普遍性を密輸入するか、雑炊のように習合させるかどちらかである。
既にいろんな人が語っていることであるが、小林よしのりも例外ではない。
西尾によれば、八木秀次派は神道勢力をバックにしている。私もそう思う。
藤岡・小林・西尾らは、近代的又は普遍的概念を恣意的に後背化させ日本以外では通用しない議論を行っているといえる。
pulin
小林よしのり氏のアイヌ論は、小林氏の持つ「日本人であることの喜び」を「日本国民になる(される)ことの喜び」として、他者に無原則に適応しようとしてきた、台湾論や沖縄論で企ててきた延長にあるものなのでしょう。
突き詰めればやがて満州論や朝鮮論にまで踏み込まざるをえなくなるでしょう。どうなることでしょうか。
October 20(Mon), 2008
■★このコメント掲示板は、アラシ行為でない限り、本質的に、ご自由に使って戴いて構いません。
特に、当コメント掲示板の投稿記事の中の、沖縄関連の情報や分析、解釈などは、少なからぬ人が注目していると思われます。それらの投稿記事類は、「沖縄集団自決裁判」、あるいは「大江裁判」関連のそれぞれの弁護団、応援団の主張や解釈、分析よりも、はるかに学問的にも優れていると思います。したがって、内容が内容だけに、投稿者同士の意見の対立や解釈の違い、あるいは投稿者間の論争のようなものに発展することがあったとしても、それはそれで仕方がないわけで、原則として、私は(管理人・山崎行太郎)、それらの記事内容に一切介入せずに放置し、投稿記事内容もそのまま残していくつもりです。ただし、削除依頼がある場合は、削除します。そのような場合は、「何日の、どの投稿記事を削除して欲しい……」かを明記の上、メールで、ココまで、ご連絡ください。ところで、話は変わりますが、私も、「山崎行太郎ブログ」で、ここの、コメント投稿記事の資料や情報、分析などをも参考にしながら、「曽野綾子と沖縄集団自決事件」として、近々、連載を再開していく予定です。
●追記。>>★★
★★さん、いつも貴重な情報提供、分析、解釈をありがとうございます。貴投稿(10/21)のご趣旨、よくわかりました。雑誌「青い海」情報の件、引用元を付記しました。これ以上、貴兄とは係わり合いになりたくありませんので、貴ブログのリンク類は、拙ブログからは削除しました。また貴兄の投稿(10/21)も削除しました。ついでに申し上げますが、ネット上の「著作権」類、あるいはネット・リテラシー等に関する認識と原則においては、貴兄と私の認識と原則はちょつと違うかもしれません。情報収集や電子化・文字化などの苦労はわかりますが、また、いろいろ議論はあるかもしれませんが、私は、ネツト上に公開した時点で、実質的に著作権類は消滅するか、あるいは論理的にに、引用やコピペなどは、閲覧者の「自由」になると考えています。むしろそこに、ネットにおける情報力の速度と深度が発生すると考えます。新聞社が、ネット上で公開した新聞記事などに関して、「著作権」を主張している場合もありますが、それはむしろ自分で自分の首を絞めるだけであり、それ故に、引用・コピペは、今のところ、ほぼ野放しであり、私はそれが、むしろ自然な形態だと思います。たとえば雑誌「青い海」の記事、あるいは同誌掲載写真の「著作権」類に関しても、厳密に、論理的に考えれば、いわゆる「著作権」類は、それをネットに公開した人ではなく、雑誌「青い海」の編集・発行者、あるいは手記筆者、及び写真撮影者(カメラマン)にあるわけですが、たとえば「赤松手記」は赤松秀次本人、あるいはその著作権譲渡を受けた人、あるいは編集発行人……にあると思われますが、赤松本人やその他が、「著作権」を主張するとは思えません。むしろ、情報や資料をその原著者や執筆者に、「無断」(???)で、善意からとはいえ、ネットに、そっくりそのまま全文を文字化し、公開している者こそ、厳密に考えれば、原著者や執筆者の「著作権」を侵害している可能性が高いと言うべきでしょう。しかし、いずれにせよ、そこまで「著作権」類にこだわることは、むしろ多様な言論活動、学問思想活動、あるいは情報公開による思想表現活動の障害や妨害になるだけのように見えます。それは、雑誌発行者や編集者、あるいは著者・筆者の望むところでもないはずです。他の人たちが、どう考えているかはわかりませんが、少なくとも私は、以上のように考え、情報源、あるいはソースなどの明記も、煩雑にならない程度に、最小限にとどめています。情報や資料を独占し、情報や資料の拡散と伝播を恐れる人は、その情報や資料を公衆の面前に、特にネットに公開すべきではありません。ともあれ、ネットと著作権……という問題も、よく考えてみるべき課題ですね。★追記……「和田」様、これに懲りず、ますますのご活躍を祈ります。これまで、いろいろヒントをいただき感謝しています。(山崎行太郎)
●しばらく「コメント欄」は閉鎖します。悪しからず。過去のコメント投稿は、共有財産ですから、そのまま残しておきます。そのうち、機会を見て、また再開しますので、今後ともよろしくお願いします。(山崎行太郎)
October 06(Mon), 2008
キー坊
いえ、どうも、山崎さん。
宮城母娘のビデオ映像が17〜20年前に既に在ったというのが貴重と思い、送りました。またマルレ(陸軍特攻艇)が、生還を期しての特攻兵器であった事が、既にテレビで報道されていた事は意外に思いました。それでも、当時の慶良間の戦況では生還の可能性はほとんど無かった訳ですね。
ni0615
現存する赤松嘉次のもっとも古い手記です。
赤松資料:「戦史資料 昭和二十一年一月九日調整」
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/5.html
これは1945年8月米軍に投稿した赤松元第三戦隊長が沖縄の石川収容所に収容された後、同年12月末複員船で出港。翌1月はじめ、神奈川県浦賀に到着。そのとき復員局に提出したものです。
キー坊
ni0615さん。
赤松資料のテキスト化有難うございます。同時に、知る人ぞ知る「ある神話の背景」研究家の、伊敷清太郎氏の論文も掲載されてるのは意外です。
伊敷氏は1950年沖縄生まれ、地元高校を卒業、大阪の大学を出て、一時帰郷後上阪し、大手前高校に30年以上奉職して数年前に退職、現在中国に滞在中、というのが伊敷氏を知っている人からの情報です。
ご掲載の「様相と概要の異同」という論文は、曽野綾子が「ある神話の背景」の中で、隊長命令が明記されてない「様相」の方が、「概要』より後に書かれたとの結論を、二つの記録書を丹念に逐文検討して、それを否定した論文ですね。
伊敷氏は文学専攻の人で、s60年代初めから、「ある神話の背景」への綿密なテクストクリークを行っています。
だが、何故かメディアに出ることを好まず、発表した論文は5編で、うち4つは高校の校内紀要に発表し、唯一メディアに載せたのは、1985・8.19〜8.23の5回、沖縄タイムスに載せたコラムでの『「ある神話の背景」への疑念』という論考だけのようです。
阪神
ni0615さん、テキスト化大変お疲れ様でした。
「戦史資料 昭和二十一年一月九日調整」では渡嘉敷島住民について何も言及がない点についてですが、赤松は住民の死に関しては記録するほどのものではないと考えていたのではないでしょうか。当時の日本兵は住民をスパイ視虐殺した事に対しては、「命令だからやった」位の意識であったのだろうと思われます。というのは、「沖縄戦に生き残る」(宮本正男)では屋嘉、楚辺の捕虜収容所では「渡嘉敷島の住民虐殺については捕虜時代の全期間を通じて一度も聞いた事がなかった」と書いてあるからです。屋嘉捕虜収容所にて、梅澤隊長は斬り込みせずに逃げ帰った兵や食料を盗み食いした兵を処刑したかどで兵隊の怒りを買い袋叩きに会い(前に書き込み済)、野田隊長は酷使した朝鮮人軍夫らに呼び出され殴られ(血塗られた珊瑚礁(関根清))、赤松隊長は米を盗んだ兵隊を銃殺したかどで兵隊の怒りを買い、9月15日夜に暴行され骨折しました(沖縄戦に生きて(山中義中))。これら慶良間の将校らが兵隊の怒りを買い暴行された理由は「兵隊を虐待、虐殺した」からであって、住民の犠牲があったから怒りを買っているわけではありません。下級兵士でさえこれですから赤松は住民の死を記録しておこうなどと考える事は無かったのではないでしょうか。
ni0615
キー坊さん
有り難うございます。弊「掲示板」に返事を書きましたのでお読みください。
阪神さん
貴重な関連事実有り難うございます。当該ページにもコメント欄設置いたしましたので、そちらにも書き込んでいただけると幸いです。
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1406.html#id_44fa95fe
なお、
ご指摘の
>野田隊長は酷使した朝鮮人軍夫らに呼び出され殴られ(血塗られた珊瑚礁(関根清))
このシーンの儀間比呂志さんの版画が、偶然ですが昨日図書館で借りた本のなかにありました。
ni0615
なお、赤松氏らは石川収容所と記載していますが、石川収容所は民間人専門で捕虜は「屋嘉捕虜収容所」ではないかとの指摘もあります。
http://www.okinawa-senjoh.com/ishikawa.htm
和田
キー坊さん7月25日付書き込み
>和田 さん。
古波蔵元村長は、1989・1・13に死去されたそうです。叙勲の話は断っていたそうです。
一方
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1421.html
上記から引用
「迫手門学院大手前中・高等学校 紀要第五号 1986年3月30日
『渡嘉敷島における戦争の様相』と『慶良間列島渡嘉敷島の戦闘概要』の異同 井敷 清太郎」
(概要より引用)「当時村長古波蔵惟好氏、役所吏員防衛隊長屋比久孟祥(現生存者)等の記憶を辿って其の概要を纒めたものでありますが」
そうすると、井敷氏は「様相」と「概要」の新旧を確定させるために存命していた古波藏元村長に尋ねるという方法があったように思います。
たぶん井敷氏はその方法で確定することが出来なかったのだと思われます。
だとしたら、何故出来なかったのかそれが問題です。
当たっていない可能性もあるが、古波藏氏は赤松曽野サイドから渡嘉敷の元防衛隊員などを通じ(年金をもらうべきでなかった−砲爆撃で死亡した−人物までもらっている)などの脅しで渡嘉敷1945/03/28について沈黙を強いられたのではないか。
古波藏氏なら「ある神話の背景」の数々の嘘を指摘できたはずです。
「ある神話の背景」でさえ、赤松に対する反論も予定したように書かれている。
しかし現実には「ある神話の背景」連載から古波藏氏の沈黙が始まる。
ni0615
和田さん
どうか憶測ばかりで突っ走らないでください。踏んでも確実な石と浮石とはきちんと区別してください。
キー坊
和田さん。
>そうすると、井敷氏は「様相」と「概要」の新旧を確定させるために存命していた古波藏元村長に尋ねるという方法があったように思います。
言われてみれば、おっしゃるとおりですね。
9.9に大阪で入手した2編はまだ十分に読み込んでいませんが、屋比久孟祥と比嘉喜順には会ったとの記述が在ったような気がします。読み込んでから報告します。
ni0615
捕虜収容された赤松隊のことですが、
赤松は、引き上げ援護局提出文書には、すぐに「石川収容所」に送られたように書いてます。
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昭和20年8月23日 武装解除調印式
昭和20年8月24日 武装解除 夜間行進(解読不能)移動
昭和20年8月25日 沖縄本島石川収容所に移動部隊は編成を解き将校 下士官 兵別に収容さる
昭和20年12月30日 帰還の為乗船
昭和20年1月3日 沖縄出発
昭和20年1月7日 浦賀上陸
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しかし1970年製「陣中日誌」では、
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***八月二十六日
本部及び各隊敵陣営に入るため西山陣地を出発、渡嘉敷米軍陣地に入り武装解除を受く。全員座間味島収容所に入る。本二十六日を以て三月三十日より一六○日余の戦闘は終り、幾十幾百の戦友を此の渡嘉敷に、水漬き草むし或は大空に飛び散りて悠久の大義に生き、其の魂醜故郷の山河に帰り父母に或は妻子に抱かれん事を祈り吾等又祖国の復興を決意し敵軍門に降り俘虜収容所に入る。
***十二月三十日
座間味島収容所を出発、渡嘉志久前面より留利加波沖を経て沖縄本島に向かう。
午後沖縄本島石川収容所に入る。
***昭和二十一年一月三日
石川収容所を出発、那覇港より乗船。
***一月七日
浦賀港に到着、浦賀引揚掩護局に到着、同地にて復員手続きを実施。
***一月十日
引揚掩護局に於いて復員業務完了、解散。
各自出身地に帰郷す。
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とあり、食い違っています。
キー坊
和田 さん。
伊敷氏が、渡嘉敷の実体験者と面会したのは、「『ある神話の背景』への疑念」にある次の3名だけのようです。
いずれもイニシャルですが、実名は容易く検討つきます。
1、「『私がある神話の背景』を調べていると聞いて、K(金城武徳)氏は、あれに書いてあるものが一番真実に近いよ、と言った。」
2、「Y(屋比久孟祥)氏…は、『概要』『様相』にその名を記した人である。… 赤松氏はもう亡くなったから言うが、命令は下していない。私は隊長のそばにずっといたから、命令を出していればわかる。…」
3、「H(比嘉喜順)氏との会見では、あまり得るものがなく、『ある神話の背景』おける証言と同じ内容であった。応接室には、曽野氏の写真が二葉額に入れて飾られてあり…」
赤松隊長の自決命令を否定している者ばかりです。米田(古波蔵)維好元村長の事は書いてないですが、米田氏には断られたのだと思います。やはり曽野の言うとおり、村長は隊長命令を確認しなかった、というが当たっているのかもしれません。
屋比久氏に訊けば『概要』『様相』の成立順序が判明しそうですが、その事への言及が無いのが解せないです。
ni0615
キー坊さん
>屋比久氏に訊けば『概要』『様相』の成立順序が判明しそうですが、その事への言及が無いのが解せないです。
伊敷氏の詳細な分析の結果=『様相』が先で『概要』はその文章を練り直したもの、という成立順序は、関係者証言以上の説得力をもっているといえましょう。伊敷論文を書き起こしてみたら十分に納得がいきました。
伊敷氏と屋比久氏の面談内容はとても興味がありますが、40年たって村執行部(玉井村長)が赤松歓迎を定着させた渡嘉敷について、島を離れて久しかったかもしれない屋比久氏や米田氏があまり語りたくなかったことも十分推察できます。
また、『様相』『概要』は赤松氏を糾弾していますが、屋比久氏、米田氏とも、かつての村と防衛隊の指導者として、赤松協力(=集団自決)責任の矛先がいつ自分に向うかわからない立場です。(健康状態などの要因も可能性あり)
なお、現在島における赤松隊代理人のように皆本元中尉から言われてる金城武徳氏ですが、氏の渡嘉敷村史への証言は、私にはむしろ「様相」や「概要」を裏付ける内容ではないかとも読めます。
(先ほどアップしました。http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/1442.html)
和田
「戦闘の様相」の発行時期の推定をしたジャーナリスト等について年代順に(時期がはっきりするよう西暦に統一)記載すると
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/?cmd=word&word=%E6%88%A6%E4%BA%89%E3%81%AE%E6%A7%98%E7%9B%B8&type=normal&page=%E8%B5%A4%E6%9D%BE%E6%B0%8F%E3%83%87%E3%83%93%E3%83%A5%E3%83%BC1968.4.6%E9%80%B1%E5%88%8A%E6%96%B0%E6%BD%AE
1968/4/6 週刊新潮
沖縄戦史上、まだ完全に解明されていない、その"軍・民、恩讐の記録"は、正しくは、『渡嘉敷島における戦争の実相』 (正しくは『渡嘉敷島における戦争の 様相 』) と表題される。島民の記憶を集めて、昭和25年にまとめられた (※) 、島民自身の戦史である。
「ある神話の背景」より
1969年4月3日付 沖縄タイムスに星雅彦氏のエッセイが掲載される。
また、過去の本掲示板に記載のとおり、曽野は最近になってこのエッセイで星氏が「戦争の様相が戦闘概要より古い時期に書かれていた」と記載されていたことを明らかにしている。
1971年10月以後「ある神話の背景」連載の早い段階で曽野は「戦争概要が戦争の様相より古い時期に書かれていた」と主張する。
その後、初出がはっきりしないので(キー坊さん「伊敷氏は文学専攻の人で、s60年代初めから、「ある神話の背景」への綿密なテクストクリークを行っています。」)1980年代とぼかしますが伊敷氏が曽野の「ある神話の背景」での「戦争概要が戦争の様相より古い時期に書かれていた」との主張を批判し逆の結論を導いた。
「戦闘の様相」の発行時期についてもっとも早い時期に書かれた週刊新潮は、理由を付記せず、推定的な文体ではなく断定的な文体で「昭和25年にまとめられた」と結論づけている。
「戦闘の様相」は「ある神話の背景」でも渡嘉敷村・座間味村共編と記されているので関係者が多数いたことは確実。
週刊新潮からある神話の背景まで約3年半。この間に何故発行時期が不明のような状態になったのか、週刊新潮の取材結果は推定にすぎなかつたのか、等「戦闘の様相」について1年前に抱いた疑問は消えない。
なお、少し前に書き込んだ古波藏氏のことは「戦闘概要」についてであって、必ずしも「戦闘の様相」に当てはまるとは断定できないことがわかりました。 お詫びします。
和田 2008/11/14 10:21 続き具合はおかしいのですが、
陣中日誌に記載された2,3人の防衛隊の自殺と関連してnio615さんのサイトに以下の記載がある。(1968.4.8琉球新報)
http://www16.atwiki.jp/pipopipo555jp/pages/991.html
「―集団自決は命令したのか。
絶対に命令したものではない。自決のあったあとで報告を受けた。しかし、防衛隊員二人が発狂して目の前で自決したことはある。当時の住民感情から、死んで部隊の足手まといにならぬよう―という気持ちだったと思う。村長が機関銃を貸してくれ、自分が全部殺すというのを押しとどめたほどだ。」
防衛隊員二人が発狂して目の前で自決したことはある。
この部分の通常の読み方では防衛隊員二人が(命令でもないのに勝手に)隊長のすぐ近くで自決したということになる。
しかし、米軍に比べて戦力が格段に劣る赤松隊が傘下の防衛隊の自決に対して、手をこまねいて傍観することは考えにくい。 加えて、防衛隊員が家族共々自殺したという伝聞記事でさえ、陣中日誌に記載されているのなら、隊長の目の前で自決した防衛隊員の記事は記載されていないとおかしい。
はたして、そのような記事が陣中日誌に記載されているのかそのことが問題になる。
赤松の主張にかかる事実関係は3つの可能性がある。
赤松のいうとおり、命令もないのに目の前で防衛隊員が自決したという可能性がひとつ。
一番大きな可能性としては、赤松がスパイ嫌疑や任務懈怠で処刑した防衛隊員のことを実際には「自決しなければ斬殺する」と脅して自決させているにもかかわらず、防衛隊員が勝手に自決したのだと語っている可能性だ。 そうであれば、赤松は自分が実質的に自決命令を出している相手に、「あいつは勝手に自決したのだ」というような人物であるということになる。
最後にまったく事実を反映していないのであれば、赤松も曽野綾子と同じく嘘の巨塊ということになる。