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ロシア皇帝に裏切られた大韓帝国(中)

ハーグ密使事件100周年【3】

◆ついに3人集まったが…

 駅には2人の人物が待っていた。李範晋(イ・ボムジン)=55=とイ・ウィジョン(20)の親子だ。駐ロシア公使だった李範晋は、1905年の乙巳条約で大韓帝国の外交権が失われたことにより召還命令を受けていたが、それを拒否して引き続きこの地に止まっていた。尚洞教会を中心とする愛国者たちが1907年に3人の密使を選ぶ際、最後に選ばれたのがイ・ウィジョンだった。彼が7カ国語に精通していたからだ。

 彼らがかつて出会ったサンクトペテルブルクの「モスクワ駅」は、今では新築され当時の面影はない。荷物を持って行きかう旅行客にまぎれてついに全員が集まった瞬間、感激で互いに抱き合ったに違いない。彼らは前の駐朝鮮ロシア公使・ウェーバーに皇帝への謁見を要請し、数日後ペテルホフでそれが実現した。

 滝の階段を上り大宮殿の中に入った彼らは、再び驚きに包まれたことだろう。椅子、シャンデリア、窓枠、ろうそく台、鏡までもがすべて黄金の光に包まれ、その華麗な宮殿の威容に圧倒されたのは間違いない。しかしその栄華はわずか10年後、ロシア革命により燃え去ってしまう。1905年の日露戦争敗戦直後、二月革命での血の日曜日事件と戦艦ポチョムキン号の水平の反乱を経て、ロシア帝国はすでに転落への道を突き進んでいた。

 「陛下が入るようにおっしゃっています」。柔和な表情でニコライ2世が彼らの前に座っていた。彼らは高宗皇帝の親書を手渡した。「陛下におかれましては韓国がいわれのない災いに遭っている実情を考慮して下さり、朕の使節に対して韓国の実情をその会議で説明できるようにしていただき…そうなれば真に朕と韓国の民衆は感激し、陛下の御恩を忘れないでしょう」。続いて密使たちは自らが万国平和会議に参加し、日本の違法な侵奪行為を世界の政府や世論に訴えることができるようにしてほしいと切実に訴えた。皇帝は落ち着いた口調で彼らの苦労をねぎらい、支援すると語ったが、それは徹底した外交的言辞に過ぎなかった。

1907年6月、3人の密使がロシア皇帝のニコライ2世に謁見したサンクトペテルブルク郊外の夏の宮殿ペテルホフ/兪碩在(ユ・ソクジェ)記者

サンクトペテルブルク=兪碩在(ユ・ソクジェ)記者

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版

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