ロシアの力を利用して清と日本を牽制した李範晋
ハーグ密使事件100周年【3】
サンクトペテルブルクの有名な観光地の1つ「夏宮殿」からポンタンカ運河を渡ると、ペステリャ通りが現れる。この通りの南側5番地に100年前のふり建物がそのまま残されている。現在はロシアの新興富裕層らのマンションに変貌したこの建物の1階壁面には、意外にもハングルで書かれた看板が懸けられている。
「この建物には1901年から05年まで、李範晋(イ・ボムジン)ロシア駐在大韓帝国初代常駐公使が執務していました」
この看板は、韓国政府が旧ソ連との国交正常化後に製作したもので、この建物の3階6号室と7号室に、李範晋とイ・ウィジョン親子の執務室兼住居があったことを示している。
ハーグで「3人目の密使」を務めたイ・ウィジョンの父・李範晋(1852‐1911年)は、韓末期の代表的な親露派政治家として知られている。1896年、日本の干渉を避けるため、高宗(コジョン)皇帝をロシア公使館に移した「俄館播遷」の主役もまさに李範晋だった。しかし、彼を単なる「親露派」と判断しては、大きな誤解を招くことになる。「親露」とは、どこまでもロシアの力を利用して清や日本を牽制し、国権を回復しようとするための手段だったからだ。1900年、駐ロシア公使に任命された後、ロシアが韓国の龍岩浦を租借しようとした際、それを受け入れようとした本国政府からの公文書をロシア政府に渡さず握りつぶし、一時罷免される事件を起こしたことからも、彼の「親露」の性格を理解することができる。、
そして、高宗皇帝が当初1906年に予定していた万国平和会議に派遣する特使として念頭に置いていた人物は、側近であり、親露派の政治家イ・ヨンイクとイ・サンソルだった。イ・ヨンイクは1906年、サンクトペテルブルクに滞在しながら李範晋と接触していた。しかし、一方で李範晋本人が特使として任命されたことを暗示する記録も存在する。オランダ・ハーグの国立文書保管所の韓国関連文書担当者のイリス・ハイデブリンク氏は、最近本紙の記者に、「イ・ウィジョン氏は、イ・ジュン烈士が亡くなってから2カ月後の1907年9月にハーグに戻り、“もともと特使はわたしではなく父だった”と言ったという記録がある」と伝えた。
- 駐ロシア公使館・李範晋親子の執務室があったロシア・サンクトペテルブルクのペステリャ通り5番地の建物
サンクトペテルブルク=兪碩在(ユ・ソクジェ)記者
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