切符を買うお金もなかったハーグ密使(中)
ハーグ密使事件100周年【4】
親日反民族行為者財産調査委員会のチョン・スンギョ博士は、最近開催されたイ・ジュン烈士殉国100周年記念学術大会で、「イ・ヨンイクが1907年2月24日に急逝すると、李範晋と同義会がその後を継いだ」と述べた。同義会とはウラジオストクに住む韓人たちの団体であり、義兵団体でもあった。後に安重根(アン・ジュングン)による伊藤博文暗殺を推し進めたのも彼らだった。さらに高宗から特使派遣の密命を受けた後は、北間島で民族教育を行っていたイ・サンソル、そしてソウルの尚洞青年会を中心に再び特使派遣が話し合われた際に自ら志願したイ・ジュンが手を握ったのだ。そして彼らが実際に出会った場所がウラジオストクだった。
◆2万ウォン集めた同胞たち
ウラジオストクのスパルチブナヤ海岸は、夏になると一日中多くの人たちでにぎわう有名なリゾート地だ。また、ここから少し離れたパグラチナヤ通りは、沿海州で韓国人最初の定着地となった開拓村があった場所だ。1893年からウラジオストクに移住した韓国人たちは、まず海沿いの漁村だったこの地に定着した。3階建ての低い建物が今もまだいくつか残るこの地では、窓に韓国製のエアコンが付いているだけで、韓国人たちの昔の面影を見ることはできなかった。当時の韓国人たちは皆、スターリンにより中央アジアへと強制的に移住させられたからだ。イ・ジュンは、この地で韓国人富豪キム・ハクミンの家に滞在していた。
ハーグ密使の長い旅程で1つ腑に落ちない点がある。それは、沿海州での滞在期間があまりにも長かったという点だ。あれほど急いで釜山を発ったイ・ジュンは4月26日にウラジオストクに到着したにもかかわらず、1カ月近く経ってから列車に乗り込んだからだ。北間島にいたイ・サンソルが到着したはるか後のことだ。
その理由は何か。彼らが現地の韓国人同胞たちから義援金を集めたという事実から、その事情を伺い知ることができる。彼らには汽車に乗る切符を買うお金がなかったのだ。高宗皇帝はイ・ジュン、イ・サンソル、イ・ウィジョンに活動資金として20万ウォン(当時、コメ8万俵の価格)を与えたとされている。しかし、少なくともこの時点ではその資金は彼らに渡っていなかったようだ。
ウラジオストク=兪碩在(ユ・ソクジェ)記者
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