見捨てられた密使たち(中)
ハーグ密使事件100周年【5】最終章 ハーグ、最後の20日間
英語・フランス語・ロシア語に精通していた弱冠20歳のイ・ウィジョンは、見事な受け答えと演説で多くの人々を感動させた。彼は閉ざされた会議場前の広場で「1905年の条約(乙巳条約=日本での呼称:日韓保護条約)は何ら効力を持たない」「日本は我々を植民地状態に追い込んでおきながら、口では“独立を尊重する”と言っている」と堂々と主張した。また彼は「あなた方が口にする“法の神”は、幽霊に過ぎない」と述べ、万国平和会議の偽善と虚構を痛烈に批判した。
◆「機関銃の前に平和はない」
ハーグ中央駅から西へ運河を渡ればプリンセス街67番地に出る。そこに残る3階建ての古い建物は、7月9日にイ・ウィジョンが各国の記者らの前で「韓国の訴え(A Plea for Korea)」という演説を行った国際記者クラブだ。「人は機関銃を向けられながら平和でいられるだろうか。独立と自由のために韓国人は死を厭わず日本の残忍かつ非人道的な侵略に対抗している」。イ・ウィジョンの演説が終わると、「韓国の立場に同情する決議案」が満場の拍手により採択された。まさに絶頂の瞬間だった。
ここで思いがけない事態が起きた。ステッドが突然「オランダが韓国の会議出席を拒否したのは正しい」と発言、決議案から日本を非難する部分が削除されたのだ。果たしてこれが彼の真意だったのか、日本のロビー活動の結果なのかは定かではない。ステッドは1912年4月、あの有名なタイタニック号に乗船し、同号と共に海に沈んだため、回顧録もない。
さらに深刻な事態が翌7月10日に起きた。高宗の「分身」同様だったハルバートが、新教徒会議出席を理由にイギリスに向かうため、ハーグでの活動を引き上げたのだ。ハルバートは17日にハーグに戻ったという記録もあるが、これは信じがたい。彼は19日に米ニューヨークに到着し、メディアとのインタビューを行っており、当時大西洋を2日で横断できる交通機関はなかったからだ。
ハーグにあるイ・ジュン烈士記念館のソン・チャンジュ館長は「ハルバートのことが“万国平和会議報”で報じられたのはわずか1回」と語り、その資料を見せてくれた。ハルバートがロンドンに発つ直前、韓国の特使たちと自分との関係を否定する内容だ。すでに特使たちの身元が明らかになっている状況で、彼はなぜそのようなことを言ったのだろうか。もしかしたら当時、退位の圧力を受けていた高宗皇帝を守るため、最後の瞬間に背を向けたのかもしれない。
イ・ジュン一行は最後まで、決してホテルとは言いがたい規模の「ドゥ・ヨン」に宿泊していた。その重要な時期にイ・ウィジョンがしばらくロシアに向かったのは、資金問題に関係があったものとみられている。高宗が下賜したという活動資金20万ウォンはどこに行ったのだろうか。特使たちがその資金を全額受け取ったのか、その一部だけを受け取ったのかは定かでないが、はっきりしていることが1つある。彼らが自分たちの私的な楽しみのためには資金を使わなかったということだ。
兪碩在(ユ・ソクジェ)記者
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